鬼ケ城(おにがじょう)
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鬼ケ城の概要《鬼ケ城の概要》 鬼ヶ城山・ 『丹哥府志』は「茨木童子といふもの爰に住居す、蓋大江酒顛童子の一類なりといふ、されども 実説慥ならず、一説に、平将門の子丹後に遁る、恐らくは此人ならんか、後に赤井悪右衛門又内藤尾張守の一族城塁を構へしと語り伝ふ」とある。酒呑童子伝説をもつ山でもあった。 明治中期には山麓に 南山村地内では古くから採鉱が行われていたとみえ、土目録の南山村の項に「高八石六斗九升 同村銀堀跡」とある。 《交通》 鬼が棲んでいたから、こんな名があるのだろうが、高校生時代に一度登ったことがあるのだが、たぶん印内から登ったと思うのだ、もうその記憶もほとんど失わて何も思い出せない。醍醐寺や観音寺からも登れる(ようである)。頂上は360度の眺望がある。1時間ほどで家族ずれのハイキングの気分で登れる(はずです)。地元の高校生が「鬼ヶ島」と呼んでいた、桃太郎でもあるまいし、地元でも意外と知られてないのかも、と思った記憶がある。 鬼ケ城の主な歴史記録《丹後国加佐郡旧語集》 〈 丹後丹波ノ境也。山ハ丹後田辺藩也。古城ハ内藤備前前ト南山ノ者云伝赤井悪右衛門ト一戦シ兵糧攻ニテ落城ト云。岩穴口二間廻リ程有奥程狭シ本堂ヨリ二十丁斗山上也。右不残本書ノ文写也。又予聞伝事左ニ記ス。是磯田俊次ノ事也。 鬼ヶ城之事穴ノ内へ入見タル人ノ直咄ヲ聞 窟ノ口ヨリ七八尺余奥へ行当り右ノ方一尺斗高ク横ニ幅狭キ穴道有 身ヲ横ニシテ四尺斗奥へ這入幅五尺斗ノ所ニ至リ立テ頭モツカヘス行当リ一尺斗潜リ通ル程ノ穴有リ 四尺斗奥へ入五尺ニ左右一間半程ノ所ニ至リ左右ニ棚ノ如ク切レテ一段高キ所有 高サ一尺斗程右ノ方ニ又奥へ入ル穴有リ入口ヲ一尺程宛ノ石ニテ詰テ口ヲ塞キ入事ナラス 其棚ノ如ク少シ高キ所ニ藤ノ八九寸廻リ程ノ藤瘤三シ三方ニ並へ有人ノ住ヘキ様子ニテ無シ藤コブ枯スシテ有之近キ比置タル様子ニ見ユル不思儀ハ是斗ノ由 穴ノ内モシメラスカワキタル由 以上書付之写 〉 《丹哥府志》 〈 【鬼ケ城】(出図) 観音寺より坤の方に当りて山に登る凡十丁余丹波の境なり、此處に鬼の岩窟といふものあり、口の広サ五尺斗り、縦七八尺、昔茨木童子といふもの爰に住居す蓋大江山酒顛童子の一類なりといふ、されども其説慥ならず、一説に、平将門の子丹後に遁る恐らくは此人ならんか、後に赤井悪右衛門又内藤尾張守の一族城塁を構へし語り伝ふ。旧語集曰。鬼ケ城にある岩窟へ入りたる人の話に、穴の口より八尺斗り奥へ匍ふていたれば、広サ五六尺斗りの處に至る、其處は立て頭もつかへず、其奥に二尺斗りの穴あり、四尺斗り又奥へ入れば、横五六尺、高サ丈余の處に至る、其處に左右棚の如く一段高き處あり、其上に藤瘤の周八九寸斗りもあるもの三方に並べてあり、抑人の住むべき處とは思はれず、されども藤瘤の今切りたる如きは不思議に思へりといふ。 〉 《大日本地名辞書》 〈 【鬼箇城山】庵我村大字猪崎の北峰にして、和知川の洪流其下を?る、山頂北方は丹後国加佐郡に属す、古来要害と為したる所なり。丹波志云、鬼城は又鬼洞と曰ふ(岩洞ありて諺に鬼神の栖所と為す)織田氏の将明智光秀入国の時、久下長沢等の郷士此に篭城したることあり、猪崎の民家に塩見氏の古文書あり、神三郎常見、藤三郎、筑後守等の数名へあてたる者にして、細川管領常桓(高国入道)道永(晴国入道)より「土師の手白山(愛宕山)合戦に仁木赤井の輩を破り生野の波伯部盛国の手に属して働きてるを」賞賛したり。陰徳太平記云、天正十年、丹波国住人赤井刑部少輔幸家、吉川元春へ使者を馳て申けるは、愛宕山へ攀躋り京都を目の下に見下して、諸所に手遣仕候はんに、必勝の術計、京都の合戦だに利を得候はば、逃るる敵の労に乗て、安土山まで押入、織田の一族根を断ち枝を枯し候はん事、何の難き事か候べきと勧め申けり、元春頓て鞆の公方義昭公へ此義を言上ありければ、公方何分にも元春能被計候へと台命有ける間、赤井等は元春既に領諾し給ふと聞きて大に悦び、丹波国鬼が城を取誘、元春の本陣とすべしとて、犇々経営し不日に成就せしかば、元春出張を今や遅しと待居たり。 宮津府志云、大江山の鬼の洞と云ふは福知山の領内なり、丹後与謝郡の千丈岳は、彼大江山の凶賊酒呑童子の出じろにて、一族茨木童子住めりといへり。史学雑誌云、丹波丹後の境に又鬼城岳と云へる山ありて、一名大江山と称す、宮津街道より東方に当れり、謡曲花月に花月が天狗に捕れて諸国の山岳を経過することを述る中に「丹後丹波の境なる鬼が城と聞きしは、天狗よりも恐ろしや」とあり、又国尽し文にも「丹波丹後の境なる、鬼もやはらぐ敷島や」とあるも、此山を謂ふならん、丹波は山国なれば、作り物語に鬼の名所となすも、普通人情には相応の事なり。 なま臭き風音すなり山ざくら、 …略… 〉 《何鹿郡誌》 〈 …大江山脈一帯より派出せる閃緑岩帯ありて、丹波額田・佐治の間より福知山の北部・鬼ヶ城を経て二條に分れ遂に日本海に達す。本脈中に属する鬼ヶ城、烏ヶ獄一帯よりは大戦当時好況時代に於て金、銀、銅、鉛、亜鉛、硫化鉄等を産出し、山上より石原駅に鉱物運搬用索道を附け等せしも、経済界の不況と共に昔の面影を存せず、山の口等は旧幕時代に銀を出せし事あり。此等の鉱産物は噴出岩中及其の接触部に接触変質行はれ鉱脈を生ぜらものなる可し。 閃緑岩帯の良く表はるゝは吉美村、西八田、東八田一帯に亙れり、…。 ○噴出岩 鬼ヶ城附近、以久田の東部より吉美全村に亙り、西八田を経て東八田に至る一帯に閃緑岩の露出を 認む。 本脈は丹波額田。佐治の間より鬼ケ城を経て東々北走し、日本海に達するものにて、性質は部分に依り多少変化ありて。精確に之を云へば、其の内には正式の閃緑岩の外に、 石英閃緑岩、斑糲閃緑岩、輝閃緑岩、斑糲岩、橄欖斑糲岩.蛇紋岩等ありと雖も、是等は互に漸々徐々に相移動し、精密に其の境界を割する能はざるなり、而して斑糲岩の大部は変化して蛇紋岩類となる。 此等の噴出岩は古生層、中生層を貫通せるものにて其の中には有用鉱物を含み採掘せるは鬼ヶ城を中心として四周、河東村の南山、佐賀村の山ノロ、庵我村猪崎の宮垣銅山等、金、銀、銅、鉛、亜鉛、硫化鉄等を採掘せしことあれ共現今は経済界の不況と同一歩調を取り不況にて鉱石運搬用の索道も空しく手を拱いて存するのみ、山ノロの如きは旧幕時代に銀鉱を採掘せし事ありき。 佐賀村字山野口小字若松山、大切山、石山に於て鉄鉱を発見し、(発見時代不詳〉已に貞享、元禄の頃盛に採掘せしもの、如く又「鉱山奉行所あり、地頭の代官所あり、其他山師、金掘師、商業人等諸国より入込み居住せし者幾千人、家屋も従って増加し繁栄日に盛なりき」とは従来口碑に伝ふる所なるも、何等文献の徴すぺきなし。今其の跡を探るに金屑と思しきもの積んで山をなし、坑門は到る所に崩壊し、古墳墓亦散乱して転た往古の盛時を偲ばしむるものあり。 其後一時衰退せしが、宝永年間に至りて再び探鉱を企てしも効なくして遂に明治に及べりと。 筆者は、之に関する古文書、佐賀村東田徳治氏方にありと聞き、就て借用を請ひ通覧せしに、天正十六年閏五月十一日本多中務少輔の手になれる金銀山定法式山例之事てふ鉱山法及び鉱山師の保護法の写にて、之に依て推測するに、恐らくは此鉱山にも該鉱山法と、鉱山師保護法の適用せられたらものなるべく、一時は相当殷盛を極めしもの、如し。 東田氏方古父書の写を左に録して参考に資せん 諸国金銀山定法式山例之事 山例五十三ヶ條之儀は於駿州日陰澤ニ、従東照宮君家康公被仰出候御定法之儀者山師金掘師ハ野武士 輿被仰付候諸国御関所ニ而茂見石斗御改御通被成候 一、山師金掘師何国ニ而も見立山仕候共国主被仰出候勿論村役人山先相添其砌不限昼夜早速可申達事 右 一、家康公大阪御陣以来褒美艸判紙其場所ヨリ四十八町四歩山師金掘師え被下し置候事 一・御定判有之候得とも御公儀ニ而御預り被爲成御定法ニ而可相斗者 金 銀 山 格 合 一、一日売高五貫文ヨリニ十貫文迄御運上差上不申候事 一、一日二十貫文ヨリ百貫丈迄者売高拾分一御運上指上申候。残り九拾貫文迄十分一通指引残金元ノ 徳外也 … 佐賀村の鉄鉱 嘗て一時隆盛を極めし山野口鉱山は宝永以来一向振はざりしが明治九年に及び石川県士族山原冨久借区願済開坑に従事し、更に又兵庫県川辺郡肝川村西久保光藏及本郡中上林村川北勇等探鉱を企てたるもいづれも遂に其効を奏せずして終れり。然るに大正七年頃に至り日本鋼管株式会社なるもの諸谷鉱山採掘権を得て附近の田畠を高値に買収し、石原駅迄高架索道を架して極めて大規模なる経営振を見せたるも其の事業は期年ならずして中止し、高架索道のみ獨り空しく空に横はり居たりしが、今は之も取毀たれて複た手を出す者なき状態にあり。 〉 《大江町誌》 〈 鬼ケ城 鬼ケ城山とも呼ばれる。大江町字南山西部に属し、標高五四四メートルの整然とした姿の美しい山で、大江町と福知山市の境にそびえ鬼ヶ城の名で広く親しまれている。この鬼ヶ城の東南に肩をならべているのが烏ヶ岳(五三六メートル)である。 鬼ヶ城の頂上は平坦で草地であるため、山頂からの展望は雄大そのものである。福知山盆地全域及び由良川の流れを眼下にして、はるかに大江山連峰や丹波・但馬の山波を一望にすることができる。 ここ鬼ヶ城には、酒顛童子の一類である茨木童子がこもっていた(「丹哥府志」)という伝承もあり、大江山鬼退治伝説の一翼をになっている。またこの山頂は、戦国武将が城塞を設けたところでその遺構が認められる。(別項参照) 文久二年製版の丹波丹後地図には室尾谷から鬼ヶ城を越えて里村に通じる峠道があり、田辺藩絵図には猪崎に至る峠道が示されている。すなわち鬼ヶ城峠である。「猪崎より丹後国南山村迄壱里廿一町三十間、牛馬不通但鬼ヶ城峠国境迄三十四丁四十間」とは、「丹波志」に記すところである。中世までは、由良川右岸には福知山から丹後に通じる道がなかった(「丹波志」)ので、この道が主要路であったと考えられる。幕府の巡検使一行もたびたびこの峠を越えて丹後入りをしている。急峻で牛馬も通わない峠ではあったが、歩行の時代にあっては利用度の高い道であったのである。この峠道は今鬼ヶ城の登山道となっている。 鬼ケ城の鬼洞については、「西北紀行」・「丹波考」・「丹後旧語集」などの古書にも見え、丹波志には、鬼ヶ城には鬼洞がありこの山を鬼洞とも呼んだと書かれている。「丹波考」では、「思うに、ここ(鬼洞)は、いにしえの鉱坑なるべし」と推定している。 「丹後旧語集」は、 「岩穴口は二間廻り程奥狭」 「穴の内を見たる人の物語に云、七八尺餘奥え行富り右之万一尺斗りは高横に幅狭き穴道有身を横にして四尺斗奥へ入幅五尺斗の所に至て此處文字難見つからず行富中程一丈斗高くぐり有程之穴有四尺斗奥へ入五尺に左右一間半程之所に至左右に棚の止り切右之方又奥え入穴有一尺斗づつに石を以口を詰有入事不叶不思議成事は其棚の如く分高く切たる所へ廻り八九寸程の藤瘤三つ棚三方に並べ有人々可住所ならず也ふしぎのことは近年置きたように見ゆる也」と、記述は詳細であるが、聞き書きである。 伝承の鬼洞は頂上から東北に面した急斜面を約五・六百メートル下った岩場にある。この位置は「丹波考」の記述 「一の嶺を越えてまた登り山の七八分の所より師谷(もろだに)の方に出れば一の窟あり。窟は東北の向にして自然石四方にあり」(「福知山市史」)と、ほぼ一致する。鬼洞と伝える岩穴の現状は、入口から奥へ七メートルほどの間に大量の土砂が堆積しているので、探索にはまずこれを取り除かなければならない。 鬼ヶ城周辺には鉱床があり、室尾谷・山ノ口・川北などでは、古くから銀や銅などの採鉱がなされた。室尾谷の鉱山については別項で述べる。 〉 《伝説の研究−金工史の視点から−》(若尾五雄) 〈 岐阜県吉城郡神岡町、神岡鉱山 この鉱山は、最近では公害を起こすので有名になっているが、そのもとの起りは、この地に鬼ヶ城という山があり、この山を越中の方から越して来た鉱山師が、この鬼ヶ城から銀鉱が出ることを発見したのが、神岡鉱山のはじまりであると伝えている。つまり鬼ヶ城と鉱山の関係を如実に示しているものであって、最初に述べた吉備津神社の鬼ヶ城と同一の関係である.鬼ヶ城という地名は鬼城(陸中)、鬼城(因幡)、鬼城(豊前)、鬼城山(安芸)、鬼城山(伊予)、鬼箇城山(丹波)、鬼城(高天原)などが吉田東伍の『日本地名辞典』にあげられており、これらはすべて鉱石の出る所である。鬼ヶ城という地名はこのほかに諸国に沢山あり、だいたい鉱石と関連性をもっている。ただし紀州の新宮に近い鬼ヶ城のように、海水によって出来た洞穴で、鉱石と関係ないものもあるが、鬼ということは鉱山に関連があり、『和名抄』の隠(オニ)とあるように、本質的には鉱山の坑穴が隠(オニ)であることから出来たもののようである。 〉 室尾谷山観音寺の案内板 〈 鬼ケ城 鬼ケ城山とも呼ばれるが鬼ケ城の名で広く親しまれている山である。大江町南山西部に属し標高(五四四米)の山で、大江町と福知山市の境にそびえる整然とした姿の美しい山である。 この鬼ケ城の尾根続き東南にテレビ塔がたっている所は、烏ケ應(五三六米)である。鬼ケ城の頂上は平坦で草地のため展望がきき、自然の景観は雄大である。 福知山盆地全域及び由良川の流れを眼下にはるかに大江山連峰や丹波但馬の山並を一望することができる。 ここ鬼ケ城には、酒顛童子の一類である茨木童子がこもっていた(丹哥府志)という伝承もあり大江山鬼退治伝説の一翼を担っている。 またこの山頂は戦国武将が城塞を設け定ところでその遺構が認められる。 頂上まで山あいに登山道があるが昔『鬼ケ城峠』としてこの道が主要路であった「丹波誌」と考えられる。鬼ケ城の「家中屋敷」「鬼洞」「城ノ池」等について古い記録に書き残されているがその山中にその跡と思われるところがある。 当地より鬼ケ城まで徒歩で四十分がら一時間程で登山することができる。 〉 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『大江町誌』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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