丹後の地名

大波(おおば)
舞鶴市大波上・大波下


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京都府舞鶴市大波上・大波下

京都府加佐郡朝来村大波上・大波下

大波(上・下)の地誌




《大波上・大波下の概要》
大波下の板硝子工場群(坂根正喜氏の航空写真)
大波上・大波下は大浦半島の付け根部分の日本板硝子の大工場が建ち並ぶ付近である。朝来谷の一番の浜よりに位置する。
大波上・大波下は元々は一つの村で、享保年中に分村した。
昭和16年、海軍第三火薬廠建設地用地となった。その跡地に現在の工場群がある。
木辺久左衛門という海賊が住んでいたという伝承がある。

大波上《人口》170《世帯数》55
大波下《人口》453《世帯数》160

《主な社寺》

北野神社・稲荷神社。

大波古墳群・奥原古墳群
大波古墳7号墳、石室内(今は蝙蝠の寝床)

大波下の山腹山裾の斜面に、奥原谷に大波(おおば)古墳群(59基)、すぐ東隣に奥原(おくはら)古墳群(19基)がある。終末期の古墳群(6世紀後半から7世紀中葉)で丹後ではこの時期最大数の古墳群。山を越えた北麓には干田古墳群(河辺中・20基ほど)同時代の古墳群があり、一般に古墳の少ない舞鶴ではきわめて特異なスポットである。何も記録はなく神社も寺院もない。忽然と現れ、忽然と去ったような集団のようにも見える。場所は一番上の写真の右手下の右手へ続く小さな谷。
何の資料もないが、これらは丹後というよりは若狭側からの開発集団ではなかろうか。青郷や大飯神社、野尻銅山あたりの古墳群とたぶん同じ集団、多氏の一族かも知れない。オオバ、オオウラという地名もそれを示しているかも。。オケヲケ、飯豊青皇女由縁の古墳群かも。大飯郡側では大飯神社・野尻銅山あたりくらいしかこれほどの数の集中はない、当地のオオ族はかなり強力な大集団であったかも。製塩、製鉄かも。。
大波古墳2号墳(横穴だけれども後世に石材が取られていて原形がない)
→20.9.13郷土資料館の「探索講座」の様子。石材は誰が持ち去ったのかほとんどなくなっていて、あわれな残骸のみの状態。
↑石は花崗岩のようである、この周辺にはない、角がとれている自然石だから、海岸にあったものと思われるが、あるとしたら大浦半島の日本海側に面した海岸だろうと思われる。そのあたりから運んだかも知れない。

これらの古墳群に接するように小扇状地の平らな場所には大波上遺跡がある。これが古墳群を作った人々の集落ではないかとも言われるし、最近発掘された大波上の、谷の向かい側の山裾に田畔(たぐろ)遺跡(飛鳥〜平安)もある。「堂山の車塚」「木部久左衛門」も同地点と思われるが、国家権力発生期になにがしかそれらとの結びつきがある集団とも思われ、幻の三宅郷はこのあたりかとも私は想像する−。下の「道しるべ」の地図によれば、このあたりは「小村」と書かれている。ここは久原口というバス停があり、古墳群は奥原古墳群である。(オ)クハラは大村(クフル)、コホリのことでないのかと考えていたのだが、あるいは当たっているかも、地名からは渡来系の人々だとも思われる。
田畔遺跡・発掘現場
熊野神社・稲荷神社・金峰神社・日吉神社。
禅宗田井村海臨寺末海潮寺
『加佐郡誌』
 〈 梵音山海潮庵、臨済宗、文安三年創立、朝来村  〉 

『丹哥府志』
 〈 【梵音山海潮庵】  〉 

『朝来村史』
 〈 楚音山 海潮寺  字 大波下
開基 延宝元年
本尊 聖観世音菩薩
開山 三明元禅師
縁起
夫れ当寺は今を去二百四十八年前即延宝元年の創立にして三明元禅師の開基也。
本尊は聖観世音菩薩にして霊威赫奕たれば崇信すろもの夥し。
 当時の田辺湾に湾瑞?ち拆け江海瀰漫して潮音恒に松門に響く故に観音道場と境地の適するを以て焚音山海潮庵と名づ
くと言ふ。
 延宝八年当村吉左衛門両親菩提の爲念仏石を建つ今尚存在す。
 延宝八年より大正九年まで二百四十一年宝永五年四月二世古岩和尚大工平野町の住人藤原儀左衛門に命じて本尊の須彌壇を造らしむ。
 爾来星霜百六十有餘を経て第八世蘭谷和尚に至る中間大自然は部落の南西の端より陸地をして舞鶴と相続せしむ之が爲寺門の風致を失ひ和尚痛く之を憂ふ折柄壇頭六左衛岡城の段の麓海山形勝の地を選び自ら喜捨して寺の移転を謀る忽ち天保八年秋此地に移る(天保八年より大正九年まで八十四年)第九世庭洲和尚安政二年寺門に石垣を造る六十六年前第十世朴翁和尚前面に練塀を築き屋根の棟瓦を造る第十一世即宗和尚の代に於て中本寺を離れ大本山直末となり寺斑四等を稟承田八反二十五歩 (其他略)
    大正十四年七月本山へ届出の計数
   大正九年秋 楚音山喬海潮禅庵
一、当寺歴世の座主
  第二世  上来諷誦大悲

 現住職高峰宗訓師は大正九年九月丹波南桑田郡大井村願成寺より前住荻野泰岳師の後を襲ぎ当山の座主たり。
 當寺の沿革は前記の縁起に悉くされありて別に禿筆を弄するの要はない。只當山の重宝懸佛に就いては特に詳脱すべき
必要がある。幸ひ高峰住持の示されたる昭和五年三月二十日印刷京都府史蹟名勝天然紀念物調査報告第十一冊中加佐郡の項に此れに関する詳細なる記事、及此れも当山の誇りとして有名なる薬師如来像のことも併せて報告されてあるから該調査報告を其儘左に抄録する。
参考
海潮庵 調査委員京都帝国大学教授 西田直二郎
 海潮庵は舞鶴東湾の東なる朝来村大波下小字奥原にある唯一の寺院なり梵音山と号し文安二年三月の創立と傳えられ曇翁和尚の開基なり海臨寺末にして今臨済宗東福寺派に属す此庵の沿革につきて何等記する處なし。当庵本尊は歓喜大士なれども別に薬師如来像あり此像は木彫座像にして丈二尺二寸面丈七寸五分ありて右手に宝珠を以てり像は後世塗抹したるを以て原色を明確に認め難きも先づ室町時代の作として佳なり此像はもと丸八江字丸田にありしを後世海潮庵に遷したるものなりと言ふ。とにかく禅宗寺院には本来在らざりしものなり。
 なほ当庵には懸佛六個を蔵す最も大なる一個は直径五寸にして次に大なるは直径四寸七分のもの三個四寸二分のもの一個あり最小なる一個は直径二寸八分なり此等の構造は通常の遺物の如く木版に銅の薄板をかぶせたるものなり但し直径四寸七分の中の一個は銅版を二枚合せて作られたりさて表面に佛像の今尚遺れるは僅に二個にして其他は矢はれたり何れも室町時代の様式を備ふ裏面の墨書銘のあるものは直径四寸七分の一個にして次の如き銘文あり。
  願主 乙亥歳
 三所大権現大明神 御宝前
  文明十四年八月吉日
此銘文は書体より見れば後世書かれしものなり文明十八年は丙午の歳にして乙亥にあらず。
    以上
右の報告は現今我国考古鑑定の第一人者西田博士の実地調査により成されたるもので、実に准国宝とも申べき大切のもの、斯かる宝物を蔵する当寺の尊厳は言ふまでもなく又大波下の大なる誇りと申べきである。
 尚本年八十九歳の森下たかさんの物語りによると、現在の寺屋敷の石垣を作くる時には、当時の青年が労力奉仕を以て
かくれ谷と謂うところから全部の石材を肩で運搬したものであり、尚其際には毎夜毎夜寺の上の山に「よいやせえよいやせえ」と謂う声が絶えなかった。村人は狐狸の類が此の熱心なる若い衆の骨折に声援したものであらうと噂しあったそうである。
薬師堂
 仏道が盛んに行はれ寺院が各字に設けられつゝあった程であるから薬師堂も又多かった。大波下、大波上、朝来中、岡安、長内等に建設され、毎年六月八日に夜祭りを行ひきたってゐる。大波下、岡内、長内のは相當建物も大きく、中にも岡安の夫れ実に立派な薬師如来像がまつられ、脇立には准国宝とも申さるゝ有名な持佛があり、各方面から覗察拝観するものが尠くない。此薬師堂は昭和十六年に字白屋に移転し、長内のも又廃堂になった。  〉 

臨済宗東福寺派安養山青蓮寺
『加佐郡誌』
 〈 安応山青蓮寺、臨済宗、正慶二年創立、朝来村  〉 

『朝来村史』
 〈 安応山 青蓮寺
開基 正慶二年
本尊 薬師如来
開山 谷翁道空大神師
縁起 成文未調査
 臨済宗東福寺派に属し、寺格二等地山門である。由来開基六百余年に及ぶ古刹、不動産所有は与保呂宝庵に次ぐ舊加佐郡寺院中の第二位と称せられた。開山谷翁道空騨師は一世の碩徳、田井海臨寺の開山和尚の先輩なりしと申傳へらる。…  〉 


《交通》


《産業》
農業



大波の主な歴史記録

《丹後風土記残欠》


《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 大波村
青蓮寺本寺京東福寺。是より海の渡り二十町中田村船着まで。  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 大波村 高五百六拾四石九斗七升三合
    内七石七升九合八勺 万定引
    八拾五石御用捨高
青達寺 安慈山 京 東福寺末
熊野権現 氏神 鍵取 孫助
天神
薬師堂  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎大波村(中村の次、初て海浜へ出る、是より盗人阪を越えて河辺谷へ出る)
【稲荷大明神】
【梵音山海潮庵】
【安養山青蓮寺】(臨済宗)
 【付録】(天神社、熊野権現、牛頭天王、稲荷社、辻堂、大小神祇、地蔵堂、薬師堂)  〉 

《朝来村史》
 〈 大波上
 旧時は単に大波村と称し戸数八十九軒の村落であったが享保年中上、下の二村に分かれ即當部落は上大波村となって後更に、明治二十二年町村制施行の際字大波上と改称するに至った。大波村時代の舊高は五百六十四石九斗七升三合で、八ツ一歩の定免を納めた。而して下大波村と分かれてからでも其内に森ケ谷村、殿村と区別を存し、役人も双方に配置せられてゐた事実がある。現に此の両者の間に山論にて大訴訟を起し年久しきに亙り抗争を続けたる書類沢山あり。元文二丁己年八月二十二日弥々和解落着、代官二名、大庄屋、森ヶ谷、殿村両庄屋年寄、総百姓連署覚書を作成ぜしもの今日に傳はって居る。
 田黒は明治の初期相次で四軒移住したのであるが其内一軒は間も無く親村に帰し、三軒は昭和十六年まで在住し来った。
 大波村は元文・覚保の頃以後一時裕幅なる生活状態続いたのであるが天明時代衰兆をきたし、元来田畑所得にのみ依存する此村の経済は天保の飢饉に再曾し、一層の窮況に陥るのやむなきに到った事歴を有する。文化七庚午年二月村中連印悲愴なる倹約申合せを作り規約の実行を誓ってゐる。但し朝来中村の如く血判はしてゐない、併し其内容に至っては一層深刻なる規約になってゐるのである。
 大体此の村の経済状態の久しく良好でないと謂うについては尚他に大なる原因がある。夫れは外ではない全く朝来川の洪水による惨害の為に村の財政が根本から破壊されるからである。抑々「大波の土居切れ(堤防欠潰の方言)」の災厄は実に江戸時仕上期以降継続して住民を悩ますことの甚しきるのであって此の長い聞に自然に河床が高くなり従て両側の堤塘が式第に低くなって排水機能が衰え.灌漑用水は砂礫の下を潜ぐって田を養ってくれない。一朝豪雨の来るあらんか立どころに河水は堤防を溢れて氾濫し各所に欠潰を生ずのである。大波上が一と度び此災害に遭う時は忽ちにして数千円の復旧工事費と、砂礫の爲に埋没したる稲田の損害が附近の地主を泣かしむる。斯の如き事を繰返へし、二・三百年を経過し来つたのであるが時は大正七年八月盂蘭盆中に大洪水あり惨憺たる災害を蒙り更に其年秋へかけ二回の大出水を見た。此の前後三回の暴れの為に大波の朝来川堤防は欠潰、半潰十数箇所を生じ全然修理回復の見込立たざるまでに徹底的水禍を受けたのである。此の悲惨なる光景を目のあたりしたる大波上四十有餘の農民は一人残らす決然奮起した。郷土治水千載の計を樹つべし。朝来川の根本的改修を断行すべし、肺腑を絞る悲愴の叫びと共に衆議忽ち一決し朝来中、大波下の二字と共に直ちに府知事の認許を乞ひ翌大正八年六月工を起し、即朝来中古清水以西六百間、田圃の中央を流るゝ朝来川を南方山麓に沿ひ八田の下、ムカ、田黒を通じ愛宕坂尻の海に流下する如く河身の大改修を行ひ三年の歳月を以て漸く竣成したのである。此の治水事業の完遂によって多年悩みぬきたる大波上の一大禍根は茲に始めて除き得られたのであるが併しながら此改修工事により新たに此部落は互萬の負債を生じ、年夜勧業銀行に対する年賦償還の爲に住民の困難筆紙に尽くし難く寺院は荒廃に近かく、神社の祭祀等も型ばかり、文化の施設は元より子弟の教育さへ衣食住ともに甚しく不自由を忍び続けた。昭和十五年八月債務完済まで実に満二十ヶ年、あらゆる節約と勤努を以て此の難関を突破したものである。
 斯くの如くにして大波上は其固有の生産資源たる田畑耕作の安全を確保し茲に漸く新曙光を認め爾後洋々たる発展を期待し得るに至り初めて甦生の途上に多望の一歩を踏出し得たのであるが要するに此部落の過去二百年中の大部命は所謂桎梏の時代であった。
昔の大波村の家名の存せるもの
参考
元禄十三庚辰年田口神社寄進帳(二百四十三年前)
 木辺久左衛門 柴原 小左衛門 奥宿 久原 小右衛門 久兵衛 久二郎 次左衛門 清左衛門 六左衛門 與左衛門 次郎左衛門 作右衛門 五郎右衛門

参考
宝暦十四甲申年のもの(百八十年諭)
 荒木柴原 同利左術門 吉田奥宿 同與兵衛 藤村彦右衛門 六郎兵衛 徳助 利右衛門 次左衛門 久助 久原 長兵衛 喜左衛門 佐右衛門 長右衛門 長助 弥左衛門 太郎兵衛 久七 藤兵衛 彦左衛門 市右衛門 八兵衛 佐兵衛 長四郎 太郎左衛門 久三郎 吉左衛門 吉兵衛 清左衛門 長五郎 兵助 嘉平 九兵衛 七兵衛 忠左衛門 長七 四郎右衛門 吉郎兵衛 九郎右衛門 久兵衛 道幸 五郎助
 大波にはいろいろの古跡が沢山ある。従来考古家の杖を曳くるの尠くない。其中にも奥原の塚穴、堂山の車塚等世に知られ森ヶ谷には武士谷と謂うがありて天神の酉に豪族の屋敷跡、馬駈場、大門、小門の跡がある。又殿村の奥にも何かの旧蹟らしきがありて山上の経塚よりは先年経文、鉄燈籠等発掘した事がある。このあたり専門的に研究すべく新舞鶴の山本文顕氏等先年調査せられた事もあったが当時の丹州時報に記載せられてゐるものにも確かなる纏まりがついてゐないやうである。大波上の事蹟は大略書き終った。ところで前に天保の飢饉謂うことを記したについて食糧に関する参考の為左に当時の記録を抄出する。
 (参考)

天保の飢饉    (荒木家所蔵)
  飢饉の荒増食物の次第覚(原文の儘)




大波下
 享保六年大波村を分割したことにより下大波村が生れ戸数四十三、舊高二百三十九石三斗○一合、此れが今日の字大波下である。当時の家の名を列記すると
 六左衛門 五郎左衛門 與惣兵衛 仁兵衛 長左衛門 小左衛門 孫三郎 新右衛門 五郎右衛門 與四郎 久右衛門 久次郎 三郎兵衛 七右衛門 太兵衛 孫八 彦太夫 吉兵衛 八兵衛 久八 左治兵衛 庄右衛門 孫次郎 七助 五郎三郎 半次郎 件右衛門 惣左衛門 小三郎 吉助 庄七 長六 長次郎 甚助 三助 長五郎 久左衛門 六右衛門 甚左衛門 利右衛門  兵左衛門 金次郎 次郎左衛門
 右の門今日の家名と異ってゐるのが大分あり例へば森下文造氏の彦次郎家が茲には彦太夫となってゐる如きである。
 此の字は朝来村唯一の臨海部落であって冬は暖く夏は爽々たる涼風が肌を洗うと謂う頗る気候の好い土地である。夫れのみならす明治時代までの交通不便の当時にありては舞鶴や市場の街へ往復するのに舟楫の便があり、又河辺谷や大浦方面と南方の志楽倉梯などを往返する陸上行人の是非とも通過せねばならぬ枢要の土地であり更に又封建時代藩庁へ貢納する朝来谷九ヶ村より搬出の大量の米穀其他の物資は船積みすべく必ず一旦此浜に集積したのであるから兎に角朝来谷全体にとっては実に大切の湊でもあった。
 明治時代の金納制になってからお年貢米の積出しが無くなった代りに朝来十ヶ村の農産物の米、麦、豆、綿、麻、芋及桐実、櫨実、楮、三マタ、雁皮等多量の物資は年中船にて買込に来る舞鶴商人の手に渡すべく悉く此地に浜出ししたものである。道路拓け、軍港が出現するに及び海港としての必要性は革はったけれども給料生活を為すには軍港へ近いので他の何字よりも便宜が多い爲此部落の人々は最も早くから奉職するやうになり要するに古来暮し向は楽であったと見られてゐる。
 木辺久左衛門の事

略 

《加佐郡誌》
 〈 大波上及大波下は昔(徳川氏の中頃までは)一村であって大波村といはれていた。  〉 



大波の小字


大波上 東奥 東畑 天神ノ下 中道 天ケ下 定子ン 野家 村中 村奥 下芝 西ノ脇 寺ノ下 久原口 奥原 岡ノ空 溝越 八田ノ下 ムカ 田中 田黒 アワラ 丁田 島田 滝ケ浦 浜田 前田 見月 早迫 エグリ谷 藤木谷 オワシ谷 奥山 西谷 西谷口 権右衛門奥 コモリ 天神ノ奥 上山 又次郎 堂山 佐尾坊 狐畑 愛宕山 クシノフ 樋ノ口

大波下 森ケ谷 見月 八田下 寺ノ下 奥原 天神下 溝越 田畔 阿原 町田 島田 滝ケ浦 平曽根 浜田 東坪 村中 下川 前田 村上 西下川 屋長谷 赤崎 盗人谷 丸山 宮奥 奥美 袋谷 屋敷上 杉谷 渡所 開坂 元屋敷 岩鼻 奥山 長谷 狼谷 上山 新笠 向山 長刀 履掛 愛宕山 広畑 盗人 舞島 坂尻 山鼻 ハニハ 河原

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『まいづる田辺 道しるべ』より
大波付近(明治時代)『まいづる田辺 道しるべ』より



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