大川(おおかわ)
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
京都府舞鶴市大川 京都府加佐郡加佐町大川 |
大川の地誌《大川の概要》 大川は舞鶴市の西部。由良川下流左岸に位置する。由良川に架かる大川橋のたもと、南側の集落で、裏山・ 大川村は、江戸期〜明治22年の村名。大川は明治22年〜現在の大字名。はじめは岡田下村、昭和30年加佐町、同32年からは舞鶴市の大字となる。 なお、由良川下流域一帯に位置する当村をはじめ神崎・和江・丸田・八田・志高・富室・八戸地・長谷・上漆原・下漆原・河原・下見谷・西方寺・岡田由里・大俣・地頭・小俣・滝ケ宇呂・栃葉・桑飼上・桑飼下・久田美・真壁・三日市・上東・下東・中山・水間・蒲江・油江の31か村と三河村・高津屋村(現大江町)および由良村・石蒲村(現宮津市)の計35か村は江戸期には大川庄と総称されていた。長谷村以南の地を岡田庄とも称した(丹哥府志)。 《人口》77《世帯数》33。 《主な社寺など》 由良川筋一帯の総鎮守として信仰される式内大社・大川神社 日之宮神社 由良川畔に野々宮神社 徹光山丘陵腹に8基の群集墳 三日市との間の川底に縄文土器出土の大川遺跡 志高との境に突出する丘陵上に小津田遺跡(経塚)。 《交通》 国道175号線 《産業》 大川の主な歴史記録《丹後国加佐郡寺社町在旧起》〈 岡田庄大川村 天一位大川大明神 神主 高田出雲 神子 荒木式部 顕宗天皇の御宇鎮座まします野の宮、日の宮、加持の宮、荒神薬師堂なり、野の宮は祭礼の府志御輿渡りたまう旅所なり、間だ二年を隔て発地の郷民踊を懸け傘鉾を捧げ奉る この村の者鮭を喰う事かなわず 〉 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 定免七ツ七分 大川村 高弐百五拾八石六斗五升 内拾壱石三斗壱升壱合六勺 万定引 弐拾五石御用捨高 本書之文 丹後五社ノ内也 日光月光春日顕宗天皇御宇河ニ出現三月三日野々四郎ニ負レテ九月廿八日遷座 重盛公造営ト有リ 神主出雲伝来 天一大川五社大明神 神職 高田 巫 与平次妻 末社 野々宮社 日宮社 香惟宮 加持宮社 荒神社 幸神トモ 薬師社 稲荷社 縁記 夫人王二十三代顕宗皇帝元年乙丑嘉月二十日有丹州由良湊野々四郎ト云常ニ業於釣魚 或夜至三更有一道光螢宛モ如昼見怪人乗鮭魚勧請之翌年正月廿三日達天聴勅許天一大川大明神 同九月廿八日移徙祭礼被寄附岡田之荘旨綸旨掲焉 承保元年甲寅中秋 旭翁謹言 大川老民ノ伝来 当社女体神性昔鮭ノ魚ニ乗川ニ出現野々ト云人ノ背ニ負レテ山上ニ行キ于時野々ニ告給フ様戻リニ跡ヲ不可見卜示給フ 野々川端ニ至リ後ヲ見返ル忽死タリ則其所ニ社ヲ立野々宮ト号ス 明神ヲ拝セハ先野々宮ヲ可拝ト神託之由 正月廿八日 祭 三月廿三日 年ニ三度祭日 九月廿八日 玖津見日向守従五位下直覚之説大川者五行ノ神也 左之通 豊斟淳尊 罔象女命 二神中殿水神也 軻偶突知命 左ノ殿火神也 木々乃智命 右ノ殿木神也 埴安命 左ニノ殿土神也 金山彦命 右ニノ殿金神也 大巳貴命 保食神 合殿 右五穀成就五行ノ神也 年ニ三度祭之覚 正月社参斗 三月廿二日ヨリ氏子事業ヲ止遊 廿三日野々宮ヲ御旅トシテ御輿出座神事有リ 九月廿八日氏子村々ヨリ狂言躍ヲ勤ル 氏子三河村上桑飼村ヨリ下東村西川筋ノ村々浦方白杉青井大君吉田喜多村迄村々順番ニ躍狂言ヲ掛ル 其外福井上下上安久東ハ清道南ハ今田十倉城屋迄此分ハ狂言ハセサレトモ宮造営抔ノ時分役儀ヲ勤 三月廿三日ハ日尽社参皆々氏子也此宮初ハ山上ニ在シ往来之船見通シニテタゝリ有故今ノ所ニ移ス 今以大川八戸地村ノ者鮭ヲ不食川向三日市村ノ者ハ他所ニテハ食ス地ニテハ不食 八戸地村白髭明神卜云有大川之鍵取ノ神卜云伝ル由 〉 《丹哥府志》 〈 ◎大川村(八田村の南) 【大川神社】(延喜式) 大川神社は今正一位五社大明神と称す、豊受持命を祭る也。末社五座野々宮、日の宮、加持宮、荒神宮、薬師堂なり。貞観元年己卯正月廿七日大川の神階従五位下より従五位上に叙せらる。 天正府志曰。人皇廿四代顕宗皇帝三年神託ありて由良の海上小島より遷し祭る、風土記に、与謝海上に陰陽の二島あり雄島雌島といふ、伊奘諾尊荒波大神といふ島の主を誅伐し給ふ、依て伊奘諾尊を島に祭る、即ち是なりと云。由良の湊に野々四郎といふものあり舟を浮べて釣を垂る、此夜風括にして波平なり、俄に海面光発し灼々然として昼よりも明なり、乍と異人を見る、白衣を衣て金色の鮭魚にのり、左に蟹を携へ右に五穀の種を持ち、野々四郎に謂て曰く「吾は扶桑上古の神なり、今大川の里に至らんと欲す、汝之を審に村人に告げ速に神篭を結ぶべし」と宜給ふ、事は顕宗帝の元年三月廿三日に在り。翌歳正月廿八日大川村の人八歳の童子に又神託あり、前年野々四郎に告げ給ふ處の如し、是歳三月廿三日神廟造営の勅あり蓋両度の神託上聞に達するなり、又岡田の庄に於て神田若干を賜ふ、仝年九月廿三日爰に勧請して大川明神と称す、今に於て正月廿八日、三月廿三日、九月廿三日一年に三度祭を設く蓋之が為なり、三河、桑飼の二村より以北五十余村皆大川明神の氏子なり。 愚按ずるに、是歳神階天一位に叙せらるといふは審ならず、恐らくは年暦を誤るならん。社内に御駒といふものあり一尺余りもある石の駒犬なり、其数幾何ある事をしらず、凡疫癘痘瘡などの流行或は狐狸の類祟をなす時、處々に御駒をかりる(御初穂銀十二匁或は廿四匁、各其次第あり)極て霊験あり、土人の説に、大川大明神は猿の神なり其氏子の地に於て狼の害することなし、又其御駒をかりる時は必狼其郷に来りて妖怪を防ぐといふ、往々其言を試るに誣ふべからざることあるに似たり。 家集 四方の海かくこそあらめ大雲川 ひと日の浪の立時そなき (匡陽) 〉 《大川村々誌》 『市史編纂だより』(54.10) 〈 《大川村々誌》明治16年2月について 専門委員 坂根清之 表題の村誌控を去る9月初めに見ることができたので、その概略を紹介したい。直接の引用は別として、文は現代文に直し、数字は漢字を算用数字に書きなおした。 表紙は半紙を用い、中央に「大川村々誌」と墨書され、右肩に明治16年2月、右下に大川村控と記されている。 内容は罫紙11枚24ページに記され、巻末に美濃紙を用いた絵図と地図が各1枚そえてある。前者は、「日之宮神社境内見取図」で、背後の山とその麓の社殿が画かれ、山は彩色されている。他は「大川村全図」で、縮尺はおよそ6000分の1をとっているが、正確さは欠ける。図は土地利用、道路、水路、集落などが色分けしてくわしく記入されている. 本文 文頭に、「皇国地誌編輯例則拠一村景状調査」と記し、巻末には 以 上 右之通御座候也 加佐郡大川村総代 荒木秀蔵 戸長 森谷新兵衛 と奥書きしている。従ってこの年に総代が編集し郡役所にでも報告したものの控と推定される。そして内容の順序は皇国地誌の編集によったものといえる。 記事の内容に特別な歴史的、文化的な価値はそれ程高いとは思えないが、後日の識者の研究にまちたい。しかし百年余前の大川村の状況を知る上には貴重なものといえよう。特に国道開通前の道路や、明治の大洪水による集落移転前の立地がこくめいに記されていることは注目される。 記述の項目の順とその概要 ・地名、大川の由来 大川神社を祀ったからと推定している。しかし住古は1書に「千代原村」と称したといい、和名抄の「志詫郷の内」とあることも述べている。 ・境域 隣村名、川、山、田圃などにより境する旨の説明がついている。 ・幅員 村の東西南北の距離を記しているが、面積分明ならずとあるのは興味がある。 ・管轄・沿革 細川氏、京極氏を経て牧野氏の所領に変わり、明治4年7月舞鶴県、同年10月豊岡県、同9年を月京都府管轄に属したことを、ややくわしく述べる。 ・里程 京都府庁と加佐郡役所よりの距離と四隣の村央までの里程を記入。 ・地勢 山と川と耕地の配置など。 ・地味 「……稲粱ニハ可ナリト雖モ、桑茶ニハ適シ難ク……時ニ大雲川ハ満漲テ以テ時々洪水ドノ害アリ」とある。 ・税地 田 反別18町4反5畝20歩 畑 〃 7町4反7畝11歩 宅地 〃 1町5反5畝23歩 薮地 〃 1反2畝10歩 山林 〃10町1反2畝 2歩 総計 37町8反2畝26歩 山林反別が少いことが、地図と対照して注目される。 ・字地 小字名をかかげ、その位置の方向と、その1つ1つに、東西、南北の長さを記して大きさを明らかにする。例えば「家ノ上、本村の東 東西1町20間 南北 40間 ごとく記しており、以下字名を列記すれば、 家上、町地、横町、渡上、五反畑、志保良、中野、町畑、下麻町、上麻町、前田、角田、上森、堀町、森、山添、家ノ下、惣作、小津田、薬師谷、姥ケ懐、砂入、南谷、堂ノ谷、澳田、大川路、新田、四反所、小戸地、横谷、小谷、段ケ鼻、榎谷、桶ノ内、右ノ内、御山鼻、庵ノ下、才ノ鼻、二反田、町田、滝ノ谷 以上41を記しているが、そのうち横谷は東西と間、南北7間という小さいもので、この事から字名は網羅していろと考えられる。 ・貢租 地租金313円97銭9厘 賦金 55円39銭(この項後日付記か) 総計金469円36銭9厘 (総計は地租だけを一度記し抹消訂正している。) ・戸数 本籍59戸、但平民。大社1座、小社6座の外旅所、観音堂をあげる。但明治9年1月1日調 ・人数 男115口、女133ロも総計248口、同上 ・牛馬 牡牛2頭、牡牛7頭、牡牡馬○ ・船車 日本形舟5艘、但50石未満(商船2、農業用2、渡船1) ・山 徹光山高さ、樹木、登山道などを述べ、境界など1ページにわたり記す。 .川(一部省略・原文のまま) 大雲川二等河川ニ属ス 名称、源流、漁猟の後に 「……本村沿岸11町14間余、最深所ハ大凡7尋ニシテ浅所ハ1尋半ニ過ギズ、幅員、広キ所ハ2町余ニシテ狭所ハ1町40間ニ足ル。舟楫相通ジ運輸便ナリ。左右堤アリ。……本村ノ東5町40間ノ地……民渡ニシテ船1艘アリ。」 長田川、八戸地川については源と長さ、幅を記し何れも村内を流れ、用水に供されている。 ・橋、かんたんな解説をつけているが、ここでは名称だけをあげる。 鷺橋、江端橋、麻町橋、長田橋、新田橋、小津田橋 ・溝 前田溝と角田溝の2つをあげ、位置と長さ、幅などを記すのみ。 ・道路 福知山、宮津などに至る道につき隣村までの距離について記す。 ・社 大川神社 位置、由来、祭神をあげ、文徳実録、三代実録、延喜式などに見える旨を記している。祭日は5月9.10日、11月8日とある。境内の医祖社、竃社、病除社の摂社がある。 日之社 大日ひるめ女命を祀る。この外稲荷社、加持屋社、 旅所について。 ・観音堂 位置と敷地の外、西国25番の納礼所である。天暦7年和江村国分寺より遷座。天正年中兵火により焼失、その後小堂をたて尊像安置し、安永7年2月堂宇再建、文政8酉年3月、堂宇尊像共を修理、今に至る。 ・学校・村会所 ・物産 米凡そ40石、質中等にして近郷酒造家へ販売楮凡そ150貫目。質巾等。若州へ輸出す。 はぜ実凡そ500貫目、質美、舞鶴へ輸送す。 桐実凡そ150石、質中、舞鶴へ輸送す。 この他穀類野菜、僅かに村民の自用に供す。 ・民業 男農を業とする者36戸、農にして商を兼るもの12戸、医を業とすろもの2戸、神官2戸、日雇渡世するもの7戸、女農を業とするもの36人。 以上) 〉 《岡田下村誌》 〈 大川 大川は、顕宗天皇以前は千原村と唱へていたが、大川神社鎮座せられてより大川村と改称したものと傳えている。釆邑は旧時草高二百五十八石六斗五升、定免七つ七歩で内十一石四斗三升五合が葛定引二十五石が御用総高で残りは二百二十二石二斗一升四合である。しかし成こく年貢米は百七十一石一斗四合で外に 八石五斗五舛貳合 但年貢米に五厘を乗した口米 袷壹石参斗七升七台 夫米 八斗八升 竃役拾五軒分 壹斗八勺 鍜冶炭 壹斗壹升 稲木代 計 百九拾壹石壹斗貳升四台七勺があった。 諸 運 上 は 銀貳拾貳匁五分 家運上十五軒分 仝二匁 撫網運上 仝八匁 雉子四羽代 端折紙 貳束 入木貳百拾束 拾五軒分である 村の役人として大庄屋一人庄屋一人年寄一人伍人組頭八人あった。 役人の待遇及賞罰は 大庄屋給米が四斗貳升七合で 天保年中より代札となった 庄屋の給米は貳石八斗四升五合此他役高拾参石に対し諸掛を免ぜられた 但し給米の内参斗は定夫へ気付として遣す規定があった、年寄は給米役高七石に封し諸掛を免ぜられた。 法令の下達法は 公議より発布せられた定書の板に認め高札として掲示した、本村の小字家の上と称する所に制札場を設け、此處に掲示した。その敷地料として地主へ毎年玄米二升を村より出した、其他触等は大庄屋を経て庄屋に下達し庄屋は各組頭を集め共法度の趣旨を傳へ人民に誤りないよう注意した。 高札を以て告知した法度書の維新以前のものは舞鶴へ返納した、故不明であるが維新後建設したる法度写に左のようなものがある。 定 一切支丹宗門の儀は是迄御制禁の通り固く可相守事一邪宗門の儀は固く禁止候事 慶応四年三月 大政官 右の条々被仰出之間急度相守者也 舞鶴藩知事 この法度を見ても当時の封遺制度の如何に苛酷であったかを知ることが出来よう。 正租外加徴として 継物の ● 眞綿 七百拾七匁 ● 芋 五貫八百貳十匁 ● 大豆 四石貳斗六升八合 ● 胡麻 五斗六升九合が加へられ 其他夫役人足は必要に応じ出夫した。 備荒儲蓄として 天保七年大飢餓後岡田由里に郷倉一ヶ所設立し本村にも壹ヶ所郷倉を設立も稗を貯蓄したが維新後之を廃止した 第五物産として 米麦 繭 櫨実 桐実 楮子があった。 〉 大川の小字大川 家ノ上 家ノ下 山添 町路 堂ノ谷 横町 渡シガ上 五反畠 麻町 前田 角田 庵ノ下 惣作 シボウ 下境 中野 町畑 上森 堀町 枝町 森 宮ケ鼻 ホセナ 水取町 町田 横枕 二反田 才ケ鼻 才ノ神 深田 沖田 フジ 四反所 小戸地 二迫 横谷 小谷 大川道 段ケ鼻 右ノ内 榎谷 桶ノ内 老垣 小津田 南谷 薬師谷 砂入 東西畑 姥ケ懐 ザラ 北野 滝ノ谷 鐘?堂 滝戸ノ倉 滝口 十代田 休場 戸ノ倉 崩ケ谷 ヒノ峠 細迫 風方 風方口 丸山 タナダ 高畑 庵ノ迫 桂谷 細谷 山ノ神 徹光山 七兵衛 岡カ鼻 由里ノ上 小津田口 ヌタノ谷 大平ヒ 小津田奥 七廻リ 狐尾 碇山 小谷口 関連項目 |
資料編のトップへ 丹後の地名へ 資料編の索引
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Link Free Copyright © 2007-2008 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com) All Rights Reserved |