名神大社:大川神社
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京都府舞鶴市大川 京都府加佐郡加佐町大川 |
大川神社の概要《大川神社の概要》 加佐郡では唯一の名神大社、大河明神とも書かれる。 名神大社は丹後国では七社、加佐郡ではこの大川神社のみである。由良川筋の村々の総鎮守であるばかりでなく、加佐郡内の大抵の神社にはこの社を勧請した祠が祀られている。 現在新しく作り替え工事の進む大川橋の西詰、 →今日は赤ちゃんの初参りがあったよう。 近世の文献には、大河大明神(田辺府志)、正一位五社大明神(丹哥府志)、天一大川五社大明神(旧語集)などと称され、祭神は保命神(田辺府志)、豊受持命(丹哥府志)、大川大明神・稲倉豊宇気持命(丹後旧事記)などと記されていて、一般には農耕に関係する神を祀る社と思われている。農業の神・蚕の神であると同時に、漁民の信仰も厚く、祭には船に乗って参拝する風習もある。 ↓最近発行された『神崎地区写真集』(平20)所載。これはいつの時代か不明だが、たぶん砂利を採った船ではなかろうか。その時代と思われる。位置は末社(御旅所)の野々宮神社の裏側ではなかろうか。 現在の祭神は保食神、相殿に句々廼馳神、軻偶突智神、埴山姫神、金山彦神、罔象女神の五元神という。 ←立派な石垣でがっちりと固められてまるで城塞である。これが中門、そして拝殿、本殿と続く。 「三代実録」貞観元年(859)正月27日、「京畿七道諸神進階及新叙、惣二百六十七社」の一として「丹後国従五位下大川神」とあり、また同13年11月11日条に「授二丹後国従五位上大河神正五位下一」とある。 草創については不詳、近世の地誌類に記されたものは下に引いてあるので参照して下さい。顕宗天皇元年3月五穀と桑蚕の種を持って金色の鮭に乗った神が垂迹し大川の地に鎮座したという託宣が由良の漁師野々四郎にあり、同年9月社殿を造営したことにはじまるなどと伝える。由良の冠島より遷座したという「丹後旧事記」の説もある。もとは山上に鎮座していたらしいこと、食鮭の禁忌が村人にあったことなどが伝わる。 ←大川神社の大ケヤキ。周囲4.65メートル。市内では四位の大きさという。ここを登ると本殿である。 明治初年の調べによれば氏子3296軒(丹後加佐郡東西村々神社取調帳)。 江戸時代の末社は野々宮社(由良河畔)・日宮社(西の堂ノ谷)・加持宮社(香椎宮)・荒神社(幸神)・薬師社・稲荷社。医祖神社・竈神社・病除神社が境内に祀られる。 近世期には正月28日・3月23日・9月28日の年3度の祭日があった。「享徳2年2月□日」の銘をもつ鎌鑓がある。 ←本殿は巨大。このあたりではやはり最大ではなかろうか。 ←御旅所とされる「野々宮神社」 大川神社とは国道を挟んで向かい合う位置になる。この社の背後は由良川である。 ↓春期例祭風景 ↓初詣風景 大川神社の主な歴史記録《丹後風土記残欠》〈 大川社 〉 《丹後国加佐郡寺社町在旧起》 〈 岡田庄大川村 天一位大川大明神 神主 高田出雲 神子 荒木式部 顕宗天皇の御宇鎮座まします野の宮、日の宮、加持の宮、荒神薬師堂なり、野の宮は祭礼の府志御輿渡りたまう旅所なり、間だ二年を隔て発地の郷民踊を懸け傘鉾を捧げ奉る この村の者鮭を喰う事かなわず 〉 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 本書之文。丹後五社ノ内也。日光月光春日顕宗天皇御宇河ニ出現三月三日野々四郎ニ負レテ九月廿八日遷座。重盛公造営ト有リ。神主出雲伝来。天一大川五社大明神。神主 高田。巫 与平次妻。末社。野々宮社・日宮社・香椎宮加持宮社・荒神社、幸神トモ。薬師社・稲荷社。縁起。夫人王二十三代顕宗皇帝元年乙丑ママ嘉月二十日有丹州由良湊野々四郎ト云常ニ業於釣魚。或夜至三更有一道光螢宛モ如昼見怪人乗鮭魚勧請之翌年正月廿三日達天聴勅許天一大川大明神。同九月廿八日移徒祭礼被寄付岡田之荘旨綸言掲焉。承保元年甲寅中秋 旭翁謹言。 大川老民ノ伝来。当社女体神往昔鮭ノ魚ニ乗川ニ出現野々ト云人ノ背ニ負レテ山上ニ行キ于時野々ニ告給フ様戻リニ跡ヲ不可見ト示給フ。野々川端ニ至リ後ヲ見返ル忽死タリ則其所ニ社ヲ立野々宮ト号ス。明神ヲ拝セハ先野々宮ヲ可拝ト神託之由。祭。正月廿八日・三月廿三日・九月廿八日、年ニ三度祭日。 玖津見日向守五位下直覚之説大川者五行ノ神也左之通。豊斟渟尊・罔象女命、二神中殿水神也。軻偶突知命、左ノ殿火神也。木々之智命、右ノ殿木神也。埴安命、左二ノ殿土神也。金山彦命、右二ノ殿金神也。大己貴命・保食神合殿。右五穀成就五行ノ神也。 年ニ三度祭之覚。正月社参止。三月廿二日ヨリ氏子事業ヲ止遊。廿三日野々宮ヲ御旅トシテ神輿出座神事有リ。九月廿八日氏子村々ヨリ狂言踊ヲ勤ル。氏子三河村上桑飼村ヨリ下東村西川筋ノ村々浦方白杉青井大君吉田喜多村迄村々順番ニ踊狂言ヲ掛ル。其外福井上下上安久東ハ清道南ハ今田十倉城屋迄此分ハ狂言ハセサレトモ宮造営ノ抔時分役儀ヲ勤。三月廿三日ハ日尽社参皆々氏子也此宮初ハ山上ニ在シ往来之船見通シニテタタリ有故今ノ所ニ移ス。今以大川八戸地村ノ者鮭ヲ不食川向三日市村ノ者ハ他所ニテハ食ス地ニテハ不食。八戸地村白髭明神ト云有大川之鍵取ノ神ト云伝ル由。 〉 《丹哥府志》 〈 【大川神社】(延喜式) 大川神社は今正一位五社大明神と称す、豊受持命を祭る也。末社五座野々宮、日の宮、加持宮、荒神宮、薬師堂なり。貞観元年己卯正月廿七日大川の神階従五位下より従五位上に叙せらる。 天正府志曰。人皇廿四代顕宗皇帝三年神託ありて由良の海上小島より遷し祭る、風土記に、与謝海上に陰陽の二島あり雄島雌島といふ、伊奘諾尊荒波大神といふ島の主を誅伐し給ふ、依て伊奘諾尊を島に祭る、即ち是なりと云。由良の湊に野々四郎といふものあり舟を浮べて釣を垂る、此夜風括にして波平なり、俄に海面光発し灼々然として昼よりも明なり、乍と異人を見る、白衣を衣て金色の鮭魚にのり、左に蟹を携へ右に五穀の種を持ち、野々四郎に謂て曰く「吾は扶桑上古の神なり、今大川の里に至らんと欲す、汝之を審に村人に告げ速に神篭を結ぶべし」と宜給ふ、事は顕宗帝の元年三月廿三日に在り。翌歳正月廿八日大川村の人八歳の童子に又神託あり、前年野々四郎に告げ給ふ處の如し、是歳三月廿三日神廟造営の勅あり蓋両度の神託上聞に達するなり、又岡田の庄に於て神田若干を賜ふ、仝年九月廿三日爰に勧請して大川明神と称す、今に於て正月廿八日、三月廿三日、九月廿三日一年に三度祭を設く蓋之が為なり、三河、桑飼の二村より以北五十余村皆大川明神の氏子なり。 愚按ずるに、是歳神階天一位に叙せらるといふは審ならず、恐らくは年暦を誤るならん。社内に御駒といふものあり一尺余りもある石の駒犬なり、其数幾何ある事をしらず、凡疫癘痘瘡などの流行或は狐狸の類祟をなす時、處々に御駒をかりる(御初穂銀十二匁或は廿四匁、各其次第あり)極て霊験あり、土人の説に、大川大明神は猿の神なり其氏子の地に於て狼の害することなし、又其御駒をかりる時は必狼其郷に来りて妖怪を防ぐといふ、往々其言を試るに誣ふべからざることあるに似たり。 家集 四方の海かくこそあらめ大雲川 ひと日の浪の立時そなき (匡陽) 〉 本来の主祭神は狼=鍛冶屋ではなかったかと思われる。 『舞鶴市内神社資料集』所収 《(神名帳考証三十八 伴信友全集)》 〈 大川神社 名神大 在二大川村水辺一信友云今大河原大明神トイフ若狭国人猪鹿の田を傷ふを愁ひて此神に祈て狼を借るといふ事あり其祈願に詣でて帰らぬほどに既に其村へ狼来りゐるゆゑ猪鹿出ずかくて其定めて借たる日限をすぐれば一つも居らずと云ふこの事慥なる事なり 〔三実〕貞観元年正月二十七日丹後国従五位下大川神従五位上・同十三年十一月十一日従五位上大川神正五位下 〉 《宮津府志》 〈 大河大明神 在加佐郡大河村 祭神 天保食持神 楼門ノ額書二ス天一位大河大明神一ト 延喜式神名帳二曰。加佐郡大川ノ神社ハ名神大云云。 田辺府志ニ曰當社ハ祭二リ天保食持神一天照太神同時之神也。人皇二十四代顕宗天皇之時徒二リ由良海上一移二ル此地一云々。 當社は田辺領に属して加佐郡の大社也、国俗云當社の神使は狼なり當国近国にて田地へ猪鹿の属出て害を爲す時其村より當社に祈誓をかくれば必ず神使の狼其地に至て田地を護す猪鹿の属遠く逃げ去て害をなさずとなり、此外當社の神異奇瑞多しとなり。 〉 (京都府地誌) 〈 大川神社 式内郷社々地東西百七十間南北四十間面積六百八十三坪本村西方字徹光山麓ニアリ五元神ヲ祭ル相伝フ顕宗天皇元年乙丑三月二十三日鎮座スト社記曰夫人皇二十四代顕宗皇帝元年乙丑嘉月二十三日有丹州由良之湊野々四郎者一常業二於釣魚或夜至三尺有一道光螢宛如昼見怪人乗鮭魚勧請之望月四月二十八日仝村?子ヘ歳?託宣?社大河郷(中略)三月二十三日達天廳勅?正一位大川大明神仝九月二十八日移?祭礼被寄附岡田之庄?綸言掲焉云々トアリ祭日五月九日十日十一月八日境内末社三座アリ 日之社 村社々地東西五間三尺九寸南北三十間面積百六十九坪村ノ西方ニアリ大日・貴命ヲ祭ル由緒詳ナラス祭日七月十五日境内末社二座アリ 〉 《舞鶴市史》 〈 大川神社 由良川筋(加佐)の大川に鎮座する大川神社は、「延喜式」において名神大の待遇をうけた。名神大とは国家の臨時祭の一つである名神祭に「あしぎぬ五尺、綿一屯、絲一く、五色薄あしぎぬ一尺、木綿二両、麻五両…」(延喜式・巻三)などの頒幣にあずかる神社をいい、全国二百八十五座、丹後国では七社が該当し、加佐郡では大川神社のみであった。よく世間にいう大明神の尊称は、この名神祭の頒幣にあずかる神々を指すことから始まったとされる。また同社は貞観元年(八五九)に従五位上、同十三年(八七一)に正五位下に神階が進められた(三代実録)。舞鶴地方一帯の神社境内には大川社の社額を掲げた境内社を見かけるが、この神の信仰の広がりを窺うことができる。 祭神は保食神(丹後田辺府志)、豊受持命(丹哥府志)、稲倉豊宇気持命(丹後旧事記)、五元神などと称し、他に大川大明神、正一位五社大明神(丹哥府志)、天一大川五社大明神(旧語集)ともいうが、明治政府編集の「特選神名牒」は祭神欄を空白にしている。社名や祭神は一社の長い歴史の推移によって、しばしば変化する例が多いから、大川神社の場合もそれが考えられないわけではない。しかし神名の変化はあっても、主として農耕に関する神であると思われる。同社の創建について近世の地方誌に引用の縁起を要約すると「顕宗天皇の元年三月に由良の漁師野々四郎に、金色の鮭に乗り五穀と桑蚕の種を持つ神が垂迹して、大川の地に鎮座したい旨の託宣があって、九月に社殿を造営した」のが始まりであると伝承されている。伝承の信憑性はしばらくおくとして、この縁起が説く祭神像は、明らかに農耕神であるが、おそらく、祭神は創建初期には人格神としての固有の名を持たなかったと考えられる。また魚類の背に乗って神が垂迹する型は他にも類例が多い。この伝承は承保元年(一○七四)に旭翁なる人物が採録したとされるが、伝承内容は〃大川の神〃の信仰宣場に大きな役割を果たしたと思われる。また同社の至近地点に古墳があり注目される。 〉 『舞鶴市内神社資料集』所収 《神社旧辞録》 〈 式内名神大社・府社 大川神社 同市字大川 祭神 保食神、豊受持命、五原神などと種々に古来より唱えられるが農耕神の呼称には相違ない。祭日 旧正月廿八日・旧八月廿三日・旧九月二十八日 年三回 古代より加佐郡の惣鎮守で神階もまた極めて高く「三代実録」によれば貞観元年正月廿七日の条に、丹後国従五位下大川神(注・大国の国司級) 正五位上篭神 (注・近衛少将級) 正六位上恩津島神(注・中国ノ国司級) 正六位上葛島神 と見える。 草創については不詳だが旧語集には、「大川村」の条で大川社縁起として夫人王二十三代顕宗皇帝元年乙丑嘉月二十四日有丹州由良湊野々四郎ト云常ニ業於釣魚或夜至三更有一道光螢宛モ如昼見る怪人乗鮭魚勧請之翌年正月廿三日達天聴勅許天一位大川大明神同九月廿八日移従祭礼被寄附岡田之荘旨綸?揚焉 承保元年甲寅中秋 旭翁謹言 大川老民の伝来 当社女体神往昔鮭ノ魚ニ乗川ニ出現野々ト云人ノ背負レテ山上ニ行キ于時野々ニ告給フ様戻リニ跡ヲ不可見ト示給フ野々川端ニ至リ後ヲ見返リ忽死タリ、則其所ニ社ヲ立野々宮ト号ス、明神ヲ拝セリ先野々宮ヲ可拝神託之由 祭 正月廿八日 三月廿三日、九月廿八日 年ニ三度祭日 起筆に種々神明を掲げたが愚按では特に豊受姫神に所縁があると睹る。実は豊ノ大川大明神ではなかろうかと思う。 豊後国第一の大河、遠賀川はオカ川と訓み中流地方に岡城址で有名な岡町もある。古代は大を「ウヌオ」といい、オカは即ち大川の呼称である。 岡田地方のオカも大川地方の当地と睹られるし、加佐郡の古訓「ウケ」郡も同様大川郡とも見做される事は地方漫録加佐郡及岡田村の項で縷々のべたので略するが惣て郡名地方名もこの神名と関連あるものと思ふ。 古代史学者石柳秀湖氏らは、海洋民族?農耕神豊宇気神とは古代豊の国遠賀川流域一帯を領知した女酋長だとされている。 そしてこれを斎き祀る分派が丹後海部の一派を成していたと睹られていた。なお中郡の式内八神は惣てこの豊受姫神を祀っている。 〉 大川をオカと読む。この川上が岡田だから、あるいはそうかも知れない。それなら大川はクガとも読めないこともない。もしそうなら玖賀耳御笠の神社であったかも知れなくなる。 《岡田下村誌》 〈 大川神社 府社大川神社は申すまでなく京都府加佐郡岡田下村大川小字徹光山に鎮座ます保食神の祭神で罔象女神、句々迺馳神、埴山媛神、金山彦神、軻遇突智神の五神を配祀している。 その由緒を尋ねると 第廿四代顕宗天皇三月二十三日の御創立、仝年九月二十八日祭祀云々と社記にあって、古来天一位大川大明神と称え奉った。 第五十六代清和天皇貞観元年御神位従五位下より上に進み仝十三年十一月更に正五位下に昇進、延喜の制なるや名神大社百八十五処の中に加えられ、又考徳、天武、持統天皇記中奉幣祈雨の御事見え、六国史所載社である。近代に至って旧田辺藩主細川惟成の武具寄神あり、明治十四年一月十五日久迩宮期朝彦王殿下は「大川神社」の御染筆を賜った。明治五年郷社に列し大正八年六月七日府社に列せられた。 五穀豊穣、養蚕及び病除、安産の守護神として、近隣に有名である。 祭祀は例祭が四月二十二日で 古来御遷座記念日を以って例祭と定めた。 四月七日は 蚕神祭 七月十日が 植付祭 十月二十八日を氏子秋祭としている。 境内社として 竃神社 (祭神 澳津彦神澳津姫命 社殿 流造壹間社 四合壹勺) 医祖神社 (祭神 少彦名神 社殿 流造壹間社 四合壹勺) 病除神社 (祭神 健速須ノ男命 社殿 流造壹間社 四合壹勺) 奥亜神社 祭神 氏子中ノ英霊(七百五拾柱 昭和二十五年五月竣工 社殿 神明造 二坪二合)が祀れている。 大川神社伝説 人皇第二十代顕宗皇帝の元年三月廿三日由良の湊の漁夫野々四郎といふもの孤舟に棹して波濤に釣をたれていた。夜三更に至って風さわやかに霞晴れ清らかな月は海を離れて潮の音も静かに漁火幽かにきこゆるの時俄然一道の光輝がさすよと見るうたに金色の鮭に乗った霊神が左手に五穀を右手に蚕種を携へてあらわれた。 霊神のたまく「我扶桑上古の神である永く大川の里に鎮座してこの地方を護らん。汝すみやかに行きて之を村長子に告げよ。」と御姿は霞霧のやうに消へた。野々四郎急ぎて帰り大川の里人に告げる里の人々恭しまこの地に祀って崇敬した。翌年正月廿八日新たに託宣があった。同年三月廿三日このこと天聴に達して天一位を下し給ひ、更に神廟造営の御沙汰があった。同年九月二十八日神殿に移御鄭重な祭礼が行われた。 それから岡田の荘に五穀よく実り養蚕の業ますます盛えるに至ったのである。 〉 《舞鶴の民話5》 〈 蚕の社 (由良川) 大川橋にさしかかる。由良川の水が心豊かに流れる。沿岸の茶畑、桑畑がみえる。先日父の買っていた書籍の中に、蚕についての本をみつけた。父は養蚕教師として、このあたりの村にもやってきたことがあったらしい。又父の生家の綾部の井倉の家に幼いころ行って泊まったとき、隣の蚕室から上簇する蚕が桑の葉を食べる音が、川の流れの音のように、ざあざあと一晩中聞こえてねむれなかったことが思いだされる。三つ辻の道を南の方に行くと、大川神社に着く。この大川神社は、この地の開国神として延喜式神名帳にも「名神大」と記され、室尾谷観音寺人名帳にも正一位と、この地方最高の神階と記されている。又蚕の社ともよばれて、次のような縁起も古老より聞いた。 古代、由良川周辺に渡来系の漢人がやってきた。応神天皇(三九一)の頃、朝鮮半島に出兵している雄略天皇は、宋とも関係があった。 顕宗天皇元年の三月二十三日、由良湊の野々四郎という者が、舟をこぎ出し漁に出た。いつもなら、夕方には魚がとれるのだが、今日は少ししかとれない。日がくれたがもう少しと漁を続けていた。他の舟は帰ってしまった。夜がふけて月がのぼるころ、雷の光のように一筋の光がさし、昼のようにあたりが明るくなった。すかしてみると、水干姿に冠をかぶり、真珠のかざりをつけた神が、金色の鮭魚に乗り、左手に五穀の種をもち、右手に養蚕の桑の種子をもって虚空に現われた。野々四郎は驚き、神にむかって「あなた様は」とふるえ声で問うのに対して、「我は扶桑の神である。この地方の生産のためにやってきた。末永く大川の里に鎮座する」。四郎は里に帰るなり村人にこの事を伝え、大川に社を建て祭った。鮭が神魚としてあがめられるのも、由良川を遡上する鮭に神の使いを感じたものである。蚕業も古代よりこの地にあったのである。 〉 案内板 〈 大川神社由緒 開創は五世紀末顕宗天皇元年(四八五)四月二十三日宮柱を立て鎮祭したところから始まったとされます。 その後、天武天皇五年(六七六)には勅使をもって幣帛が捧げられ、さらに持統天皇七年七月(六九三)には「祈雨の政」が行われたことを伝えています。平安期に入ると、貞観元年(八五九)には神位の昇進があり、十世紀には延喜式内名神大社に列し、丹後国きっての著名な古社であります。 下って明治五年郷社となり、大正八年府社になり、大川大明神と尊称されて来ました。主神は保食神・相殿に句々廼馳命神(木神)・軻遇突智神(火神)・埴山姫神(土神)・金山彦神(金神)・罔象女神(水神)の五元神が祭祀されています。例祭は四月二十九日、大祭は十一月三日で、御幣渡御・種々の奉納行事があり、伝説も数多く、什物として室町時代「享徳二年(一四五五)の銘がある特異な形の鎌鑓があります。 〉 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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