丹後の地名

冠島の
オオミズナギドリ
(京都府の鳥)
舞鶴市字大嶋


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オオミズナギドリ




オオミズナギドリは海洋性の鳥で、人のいる海岸近くには寄りつかないので、身近に見ることができない。郷土資料館(北田辺)に剥製があったと思うが、身近に見るとすればそれくらいである。

国内の繁殖地は舞鶴市の冠島はじめ、北海道松前町の大島、岩手県釜石市の三貫島、新潟県粟島浦村の粟島、島根県隠岐の島の星神島・沖島は天然記念物に指定されている。そのほかの島にも繁殖地はある。簡単な説明を書けば、

 〈 …オオミズナギドリは、日本近海や南太平洋、インド洋を生活の場とする海鳥であり、この地方では古来「サバドリ」と呼ばれ、魚群を知らせる鳥として大切にされてきた。成鳥は体長約50cm、翼開長約110cm、体重440〜750gである。
 毎年2月下旬に南方から飛来し、その数、20万羽と推定される。5月中旬〜6月中旬に交尾を行い、6月中・上旬に白色の卵を1個産卵し、直径30cm、奥行1.2m不呈の土中の巣穴で抱卵、8月10〜20日頃孵化する。その後、11月には南方に向うため離島する。
 この鳥は、離着陸が不器用であり、早暁傾斜した樹にヨチヨチと登り、落下する加速で飛ぶ。
 冠島は、この鳥の外敵が少ないこと、エサとなる魚群が多いこと、営巣しやすいことなどの理由で繁殖地になっていると思われる。
 岩手県の三貫島など6ヶ所の繁殖地が、国の天然記念物に指定されているが、なかでも冠島は最初の指定地である。(*4) これはウミネコ(死んだ小魚で集まる)
 自分さえよければいいの考えの人間は何をはじめるかわからない。鶏糞のように糞土を取り出す、幼鳥の肉がうまく食べてしまい、羽は羽布団の材料にする。産卵期に渡島して大量に卵を半ば公然に盗む。冠島でも過去にそんな事件が起きている。遭難などでやむを得ずというのではなくゼニ儲けのためにそんなことをしてきたのであった。これもウミネコ・彼らの住処の沓島

 現在は天然記念物として保護されてはいるが、人間に守る気持ちがなければ、法はないのも同じ空文である。
「舞鶴みなとライオンズクラブ」の作成したパンプレットには「繁殖地の北限、北海道の松前町の大島には、数十万羽のオオミズナギドリがいました。それが今や130羽ほどに激減し絶滅の危機に瀕しています」と書かれている。「天然記念物」
オオミズナギドリのお兄さんに当たる信天翁(あほうどり)は日本近海に数千万羽もいたのであるが、明治になってから羽布団の材料に取り尽くされてしまい、昭和24年には絶滅宣言が下された。ところがその後幸運にも13羽が生き残っているのが見つかり、現在はそこから懸命な再生事業が取り組まれている。誠のアホウはどちらであろうか。

冠島のオオミズナギドリ。編隊でやってくる。
 「明治31年舞鶴市に鎮守府が開庁し、大島も第1防衛区に編入、立入りが制限され、海軍防備隊の聴測照射所・陸軍要塞・海軍工廠艦船速力試験柱が設けられた。昭和8年、地元民が島へり立入りを要求して雄島事件がおきた。」(角川日本地名大辞典)海軍が冠島を勝手に占拠し兵舎などを作り島内を荒らしているし、北に浮かぶ沓島は「大正期に入って、沓島は海軍の大砲試射標的となり動植物の生態は大きく変容し、以前は目にすることのできたアシカなども、全く見られなくなった。」(*4)という。
人間というものはこんなものであり、油断はできない。
冠島のオオミズナギドリ。
 しかし人間が簡単には近づけないような島に暮らす鳥としては、ずいぶんと研究されている鳥である。

「冠島 オオミズナギドリ調査」
「オオミズナギドリのいる冠島」


冠島のオオミズナギドリ


冠島のオオミズナギドリ


冠島のオオミズナギドリ

 オオミズナギドリをうまい具合に写すのは至難のワザ。一回や二回行ったくらいでは満足できる写真はムリのよう。ウミネコと見分けることすら最初はむつかしい。
何もないのに鳥が勝手に群れるということはあまりなく、エサをまくより手がないわけだが、ウミネコなら死んだ魚でもカッパエビセンでも食べるので、そうすればよいが、オオミズナギドリは生きた魚しか食べない。生きた小魚をまけばあるいは集められるかも知れないが、そんなことをして天然記念物を集めれば、文化庁に大叱られされよう。

何ともアイソのない鳥で船の方へはめったなことでは来ないし、水面すれすれを飛ぶ。冠島を背景にカメラを構えて幸運の訪れを待つより手はなさそう。
うまく幸運に恵まれれば、20万羽もいるので、写し放題。メモリーある限り、バッテリーある限りシャッターを押しまくること、次のチャンスはない。だいたいは編隊飛行で、縦一列飛行、同じコースを飛んできて、決められたように同じ所で反転していくので、待ち構えられる。

冠島のオオミズナギドリ

冠島のオオミズナギドリ


 分類学的なことを書けば、
オオミズナギドリ(*5より)
管鼻目ミズナギドリ科オオミズナギドリ属オオミズナギドリとなるそうである。
アホウドリの異名もあるが、本物の信天翁とは生物分類学上親類になる。幼鳥の写真を見ていると何となくペンギンと似ている、ペンギンとも親類だそうである。この鳥が進化すればペンギンになるのだろうか。
管鼻目というのはクチバシの上に大きな鼻の穴があいていて、

 〈 …オオミズナギドリは、鳥類のうちでも管鼻目に属する海鳥で、くちばしの上に、長い管のような裏をとりつけています。吉田さんは、管鼻目について調べているうちに、ある文献で、実におもしろいことを知ることができました。
 それによると、アメリカのK・S・ニールセンという鳥類研究家が、ある海鳥に海水だけをあたえて育てていました。ふつう、ほ乳類、鳥類、は虫類に属する動物は、血液中にふくまれる塩分の濃度が一パーセントをこえると死亡します。そこで余分の塩分を排出する機能をはたすために、腎臓という器官をもっています。
 ニールセンの飼った海鳥は、海水を飲むだけで、いつまでも生きていました。ニールセンは、腎臓の機能がよほどすぐれているのだろうと思って、解剖して調べてみました。しかしおどろいたことに、その腎臓は陸生動物の約七分の一しか働きません。それでいて、尿の塩分も最高○・七パーセントにしかたっしていませんでした。
 「これは、ほかに、なにか特別なしかけが必要だ。」
ニールセンはそう思うと、さらに調べて、特別に塩腺の働きがあることをつきとめました。
塩腺は鼻腺ともよばれ、すべての鳥の両眼のあいだに一対ずつ存在する器管です。塩腺そのものは、すでに百年もまえから発見されていましたが、その機能については、人間の扁桃腺と同じで、不明のままのこされていました。ニールセンは、海鳥が体内に入れた海水の塩分の九十パーセント以上を、この塩腺で体外に排出すること、塩腺が血液にまじった塩分の濃度の高低によって、自動的に働くことなどを解明しました。
 塩腺は、びんをあらうプランのような構造のものが、多数集まってできています。ブラシの一本一本は細い管で、それに毛細血管がからみついています。毛細血管のなかの血液の塩分は、浸透作用によってブラシの管にうつり、それが軸にあたる太い管に集まって、鼻孔をとおって体外に排出されます。腎臓の機構によく似ていますが、それよりもはるかに単純な構造で、きわめて短時間に血液中の塩分を排出します。
排出された濃度五パーセントのこい塩水は、ふつう鼻孔からくちばしをつたわって落ちますが、管鼻目に属する鳥は、それを長い鼻から水鉄砲式にはじきとばすという話です。(*3)
文中の吉田さんとあるのは吉田直敏氏のこと。東舞鶴高校の校長などされ、オオミズナギドリ研究で有名。山本文顕氏の娘さんの婿さんでもある。
オオミズナギドリのヒナ(*3)
 ペンギンと親類は面白いが、ちなみに人は猿の親類。神様の末裔ではない。天皇さんも同じで神様の子孫ではなく猿の子孫。神様だと今も固く信じ込んでいる日本人は多い。
人は頭脳がよく発達しているのが特徴で、せっかくのその頭でよく考えないならば、猿とさして変わらない情けない生き物であるので注意が必要。
人とチンパンジーの遺伝子は99%が同じとか、遺伝子的には、人とは要するに猿である。一説に83%違うなどの学説もあるとか、しかしそれもおかしな話で、ホントにそれほども違えば人とはタコか。烏賊様か。

 漢字で書くと、大水薙鳥。異名が多く、−

 〈 オオミズナギドリの異名(方言)
 アオモリ(埼玉)アナドリ(鳥取、島根、鹿児島)アメドリ(鹿児島)アホウドリ(京都、日本海沿岸)ウガメ(東京)ウミツバメ(岩手)オオゴイ(福岡)オオミオウトリ(岩手)オキカゴメ(新潟)オミサギ(宮城)カツオドリ(東京)サバドリ(新潟、石川、福井、京都)シカベ(北海道)セドリ(東京)ナギ(東京)ヒヨコドリ(広島)ヘイケドリ(山口)マトリ・マドリ(東京)ミジナギドリ(富山)ミズコイ(高知)ミツコイドリ(高知)ミズナギ(大阪)リョウボウ(福岡)などがある。
 また英名は、Streaked shearwaterに対し、Siebol's shearwater 豪州では、Birds of Providence、Birds of the moon、Flying sheep、Fig Hill Muton-bird、Mutton-bird、Petrel、sheas-waterなど方言が多い。(*1)
 海ならばどこでもいるというものでもなく、次のような島々である。オオミズナギドリの分布図(*3)

 〈 生息環境
日本訴海、南太平洋、印度洋を生活の場としている海洋鳥であまり沿岸に接近しない。繁殖地として知られているのは、次のところで、ほとんどが無人島である。
   (◎天然記念物指定 ○大繁殖地)
 ◎○ 三貫島(岩手県 昭和十年指定)
 ◎○ 大島(北海道松前町 昭和十三年指走)
 ◎ 粟鳥(新潟県 昭和四十六年指定)
 ◎○ 冠島(京都府舞鶴市 大正十三年指定)
 ◎  星神島(島根県知夫郡 昭和十三年指定)
 ◎  沖の島(島根県周吉郡 昭和十五年指定)
 ◎  男女群島(長崎県 昭和四十四年指定 天然保護区域)
  ○ 御蔵島(東京都、著名であるが、昔から島民が、烏を食糧にしているので、天然記念物に指定されていない)。
このほかに、高島(島根県)蒲葵(びろう)島(高知県)沖の島(福岡県)横当島(鹿児島県)甑島の双子島、野島(鹿児県)や、西島、七発島(大韓民国)等々で繁殖している。舞鶴市沓島でも数は少ないが繁殖している。(*1)
 冬の間は暖かい南洋にいて暖かくなるころ帰ってくる。

 〈 冬季間(十二月〜翌年二月)にマレー諸島、豪州北岸の大洋に生息していたオオミズナギドリは冠島で繁殖するために二月下旬になると、日本海を東北上して帰島してくる。十一月まで冠島で繁殖し、若狭湾、日本海を餌場として生活をする。昼間は冠島を中心にして若狭湾、日本海の外洋域で、イワシ、サバ、アジ、イカなど一〇センチ内外の小魚を求めて、五○〜一○○羽位の群で移動する。餌になる小魚を見つけると、その上空で乱れて飛びかい、海中(一メートル位)に突入したり、海に浮かんで潜ったりして小魚をとらえる。小魚が海面近く浮上するのは、その下にブリ、サバなど大型魚類がいて、これらの小魚を追っているのでこの鳥か、餌を発見して乱舞すると、漁師はこれを見て現場に急行する。この鳥は魚のありかを知らしてくれるので、昔から大切に保護している。(*1)

 「鳥まわり」「鳥柱」「鳥吹雪」
鳥柱とよばれている(*2)

 〈 …日没三○分位前になると、日本海方面で行動していたものは、経ヶ岬の方向から、若狭湾のものは中央部から冠島をめざし、五〜一○キロ位近づくと、数カ所で集結し、更に小移動を繰り返し、群れが大きくなって、一キロ位まで近づくと、西から南、東、北へと左回りに、幅五○○メートル位にひろがって島を中心にして回る。更に日没三○分位になると、帰巣を急ぐものが、島の周囲三カ所位で回転運動から離れて、小さな回転をしながら旋回上昇し、一○○メートル位のところから島の上空に向かって下降しながら突っ込んでくる。島の上空で自己の巣を探しながら飛び交い、樹冠すれすれまで高度を下げる。翼が細長く、速度が速く、方向転換や小回りが不得手で、林間をうまく縫うように飛べない。営巣地の上で樹冠にふれて垂直に落下する。樹の疎らなところや、草地などでは翼をうまく操作して、ブレーキをかけながら着地する。自己の巣の位置近くに着地するのは、暗くなった時刻で、ほとんど視力にだけ頼っていると思われるが、不思議な能力をもっている。落下の最盛時には、ばさっ、ばさっ、どすんと大きな音をたて
て、ところかまわずに落ちてくる。島廻り・鳥柱(*2)
 洋上では鳴かないが、島の上空に達すると、ピー、ウィー、ギャァー、グワーエと鳴きはじめ、巣の中で休んでいたものもそれに合わせるように鳴きかけ、島は急に騒がしくなる。ピー、ウィーとかん高い鳴き声は雄で、雌は、ギャァー、グワーエなど低いが、この鳴き声がまじり、複雑な鳴き声が一晩中続き、特に帰島直後、出発前、交尾期ははげしくなる。落下したものは、巣に入ったり、地上でうずくまって休むもの、首をまげて背中の上にのせて睡眠するもの、巣穴の補修をするもの、間違って他の鳥の巣に入り追い出されるもの、小移動を試みるものなど、繁殖鳥と非繁殖鳥によっていろいろな行動をする。少数ではあるが一晩中、島の上空を飛んでいるものや、遅れて帰るものもある。(*1)

 不思議な鳥でアナドリとも呼ばれるように地面に穴を掘ってそこを巣とする↓。ペンギンにもこんな種がいるが、やはり親類のよう。
人間も昔は穴に住んでいたのだから、アナザルか。
冠島のオオミズナギドリの巣穴
地面からは飛び立てず一度樹に登らなければならない。
この鳥は恐竜時代からあまり進化してないのか。かなり原始的な行為を残すように思われる。この鳥の魅力に取り付かれる人があるのもうなずける話である。

 サバドリとも呼ばれ、魚のいる場所を教えてくれる鳥として古来漁師から有り難がられている。『若狭高浜むかしばなし』(平4・町教委)に、

 〈 ミズナギの群れ。
 むかしの漁師たちは漁をするとき、魚がいつどこでたくさんとれるか、自然の知恵をもっていた。鳥たちの行動も漁師たちの情報になった。
 高浜の漁師が海へと舟をこぎだした。目当ては鯖である。
「きょうは、ぜひとも舟いっぱいにしたいもんだ」
「じいさん、どうや、どこら辺がいいだろ」
 年配の漁師は手をかざして辺りの海を見渡した。右手前方を指さしていった。
「ほら、あそこだ。鳥がいっぱい飛ぶんどるところや。きっと鯖がようけおるぞ」
「ほんとや、ミズナギたちや」
 漁師たちは力いっぱい舟をこぎだした。高浜の漁師たちは、ミズナギが群れて飛んでいるところにはサバがいるということを、むかしから教えられていたのである。
 ミズナギたちの飛んでいる辺りにくると、鯖が水面を跳びはねていた。漁師たちはいっせいに網を放った。
「ミズナギのおかげで、大漁じゃ」
 こうして、むかしの漁師たちは魚群を探知したりしたものであった。しかし、今では、電波探知器の利用でいっそう確実に魚を探すことができるようになった  〉 




11月ごろ落下したオオミズナギドリを近くで発見された方へ


 普通は漁師さんくらいしか知らない海鳥であるが、年にただ一度だけ一般の人でもオオミズナギドリにお目にかかれる時期がある。それは冬近くオオミズナギドリが南方に渡る時期である。
「迷行落下」と呼ばれるが、子を産み、まるまると大きく育てた親鳥は、自分たちだけで、子鳥は冠島に残したまま、勝手に南へ向けて先に旅立っていく。彼ら親鳥は日本海を西へ飛び途中列島を横切ることもなく墜落することもないが、問題は残された幼鳥の方である。
幼鳥は親がいないから冠島で食い物もなく、腹を空かしてもがいている。まだ飛べない状態で残されるのである。しかしそうして腹を空かしているうちに、まるまるのとても飛べそうにもない体はスリムになり、飛べる体に作り替えられていく。こうしておいて彼らは本能に従ってある日南へ向けて飛び立つ。
ところが近道を選ぶ鳥もいて…

 〈 迷行落下
幼鳥が離島する十一月に、近畿各府県でオオミズナギドリが迷行落下して、住民に保護され大きな話題になる。舞鶴市や京都動物園で保護されるものは、最近一○年間(昭和三十七年〜四十六年)で、九八五羽に達した。うち、舞鶴市三七四羽、京都市一二八羽、綾部市九○羽、福知山市七四羽で過半数を占め、京都府内がほとんどである。近畿では兵庫県、大阪府、和歌山県、奈良県、三重県、滋賀県、福井県の各地で迷行落下している。落下時期は十一月中が多く、特に十日を中心に前後五日間位に集中する傾向がある。この鳥は普通は沿岸に近よらないが、離島期になって、幼鳥は本能的に南方への渡りを指向して陸地に入り、迷行のあげく疲れて落下したもので、飛行の未熟や、未知の陸地に突入したことも加わって割に多く迷行落下する。この鳥は地上からうまく飛び立てないので、人目にふれて保護されるものが多い。落下して保護された地点を見れば次のような移動経路が考えられる。
   →由良川(福知山市、綾部市、美山町、京北町)−大堰川(園部町、亀岡市、京都祠)−淀川(大阪市)
   →舞鶴湾(舞鶴市)
冠 島→由良川−加古川(柏原町、春日町)
   →小浜−琵琶湖(志賀町、八日市市、栗東町)−宇治川(宇治市)−淀川(大阪市)
   →丹後半島(久美浜町、丹後町、岩滝町、宮津市)落下したオオミズナギドリ(*3)
迷行落下地点は大きな水系の流域で、ほとんどが夜間に落下し、翌朝までに保護されている。冠島のオオミズナギドリは南方海域のどの辺まで行くか、不明であるが、三貫島のものや、鹿児島で放したものは、フィリピン近くで保護されているので、この付近まで行く可能性がある。人目に触れずに保護されない幼鳥も多いと思われるが、保護思想の普及によって、人目につくことが多くなり、このことが京都府の鳥になった一因である。(昭和四十年五月、住民の投票によって「京都府の鳥」に指定された)。(*1) 落下したオオミズナギドリ(*3)

 〈 また京都府綾部市の周辺にも、毎日二、三羽ずつ、多い日には、六羽ものオオミズナギドリの落下が見られました。ただちに電話がかかってきます。警察でもほうってはおけません。そのたびにビービー警笛を鳴らして、パトカーが走り、おかげで警察官がくたくたになるという、わらえない喜劇までおこりました。  〉 
(*3)



迷走暴走…どこぞの国や町の政治屋さんどもを思い浮かべるような幼稚な話であるが、しかしオオミズナギドリはその年の夏に孵化したばかりの生後3ヶ月の幼鳥ですから仕方もないので、もしこうした鳥を見られたらぜひ保護して下さい。噛みつきますから手袋をして目をつつかれないようにして段ボール箱に入れて下さい。
腹は空かしていますが、何も食べません。もし食べるなら生きた魚だけです。生きたものならドジョウでも食べるそうです。無理矢理にのどに押し込むと食べることもあるといいます。
この鳥は地面からは飛び立つことはできませんが、水面からは飛び立てます。近くに広い水面があれば、そこへ放して下さい。なければ太平洋まで運んでやって放して下されば最高です。
詳しくは舞鶴市教委(0773−62−2300)の指示に従って下さい。ではどうかよろしく。


オオミズナギドリの主な歴史資料など


《丹哥府志》

 〈 【冠島】(宮津より海程凡八里、田辺より八里、小浜より八里、伊根湾より三里、野原、小橋より三里、出図)
【沓島】(冠島より相隔つ一里半、出図)
冠、沓の二島俗に沖の島といふ、一に雄島女島と呼ぶ、又大島小島、陰陽島、釣鐘島棒島、鶺鴒島などともいふ、皆二島相対する處の名なり。昔陰陽の二神爰に天降り初て夫婦の因を結ぶ、於是荒海大神といふ龍王を退治し給ふ、是時天女天降りて天の浮橋に松樹を植ゆ、天の橋立是なり、と風土記に見えたり。…略…
【老人島大明神】(島内)
老人島大明神俗に小島大明神とも称す、野原、小橋、三浜三ケ村の氏神なり。梅雨前後風波穏なる日浦々の者太鼓を撃つつ多く参詣す、蓋黄昏より船を艤して暁島に至る、島の前後に猟舟の泊するものあり、依て参詣の者酢、酒、味噌、醤油の類を船に出し用ふ也、其魚を買ふて之を肴とす、島の内にも自然生の菜大根の類あり、又竹の子、枇杷尤沢山なり、鯛などを釣る處を見て直に之を屠るに清鮮の味誠に妙なり、好事の者之を奇とする。宮内に米あり、難船の者爰に泊し、其米を借りて之を炊ぎ命を助かる者尠からず。
【洲先大明神】(島内)
島の南に洲あり長サ一丁余、蓋此洲あるを以て船の泊する所なり、其洲先に洲先大明神といふ、渺たる大洋の間風波の為に其洲の壊れざるは洲先大明神の護る所なりといふ。
【立神岩】(出図)
島より十間斗り隔てて切り立たるが如き岩あり、岩周り七八尺四面、其高サ卅丈余、海底幾何ある事をしらず。
【サバ鳥】
鳥の形鴎の如くにて水に泛ぶ、立能はず又樹木に集ること能はず、夜は土を堀りて形を没す、恰も門方の城の如し、波面に浮出たる魚に飛付て之を食ふ、是以其啄み喰する容易ならず、依て餓て常に飽こと能はず、故を以て食に当りては人を畏れず命を惜まず餓鬼ともいふべき様なり、まづ小島に限る鳥なりといふ。辛丑の夏六月十四日伊根浦に宿す、其夜三更の頃月の乗じて舟を泛べ大島に至る。始め鷲崎を出る頃風吹きぬ所謂夜風なり、よって蒲帆を掛て東の白き時分洲先明神の前に至る、明神より島山の下に至る凡二、三丁、其間小石の浜なり、處々にサバ鳥といふもの群り集りて其鳴?々たり、山の麓老樹森々たる間に老人島大明神の社あり、社の前後幟数十本、皆難航に逢ふ者の願済なり、社の後より山に登る、山の模様陸地の山と異ることなく、されども竹木の形は大に異なり松なども古びて葉短く木皮細なり、松にあらざる様にも見えたり、又十囲余もある桐の大木あり、定めて異草異木もある可しと、聊尋ねたれども何分一里余もある山なれば容易に極めがたし、山の内に蛇の大なるもの栖めり所謂うわばみなり、是島の主なりといふ、年々海を絶て野原、三浜の辺に渡る、若し是を見る時は必奇怪のことありて風波必起る、よって舟子余を招きて舟に上らしむ、既に舟に上る頃、日出の光波面に映じて朱を注ぐに似たり、実に日の海中より上るを見る、是時鯛を釣る者あり、又泊宿の漁舟アワビなどを採る、乃ち之を買ふて其鮮を割く、於是一杯を傾けざるを得ず、瓢酒を把てまづ両三杯を喫す。既にして島を巡り立神岩の際より小島に渡る、其間に白岩といふ處あり水底僅に四五尺の處に岩あり、凡四、五丁四方其色皚々たり、凡大島小島の間風は東西より吹き潮は左右より来る、依て處々に渦の處あり実に阿波の鳴門の如し、船人誤て其處に至る、船中皆愕然たり、江魚の腹中に葬られんとす、幸に遁れて小島に渡る、是時に方て再び瓢酒を把て茶椀に盛り之を嚥む凡五杯、傍人皆船に酔て吐気を発し舟中に臥しぬ。小島は大島に比すれば又一段の険阻なり、島の岸に舟をつくべき處もなければ攀ずべき道路もなし、奇岩千尺の間に落々たる怪岩互に聳立つ、誠に一大奇観なり、其険阻の際に?しき草花を見る、又枇杷の実るあり、嗚呼剛の中に柔あり柔の中に剛あり剛柔相摩して変化窮まらず、天地の情是れに於て見るべき也と工風の心起る、又花実の己が為にもせず又人の為にもせず、只天地の自然に任す情態を見るなり。  〉 

《加佐郡誌》

 〈 冠島。大正十三年十二月九日、内務省告示第七百七十七号を以て、おほみづなぎとり繁殖地として天然記念物に指定せられた、東大浦村大字野原・西大浦村大字三浜・大字小橋立合字大島といふのは、舞鶴湾外の舞鶴を去る約十六浬の沖合にある一島であって、其の形が冠に似て居る為め冠島と呼んでいるが、又大島とも雄島とも老人島とも称へられているのである。そして其の傍には沓に似た小さな島があるので、それを沓島又は小島・雌島といっている。冠島の周囲は一里にも足らないが、奇巌怪石が縦横に遶っていて、狂瀾怒涛は巌角を噛み飛沫は霧の如くに散じて、壮観実に筆舌の及ぶところでない。若し一度西北方の千畳巌頭に攀ぢて眼を放つならば、雲波縹渺水天髣髴として一物の眼界を遮るものなき日本海を一望の中に収め得べく、形勝の雄偉気象の宏瀾真に鯨背鵬翼に跨って北溟に飛ぶの概がある。然し東部及び南部は鬱蒼たる森林であって眺望は全く不可である。其の林中の木根や草根の下等に数尺の横穴を掘って、無数のおほみづなぎ鳥(舞鶴地方ではさば鳥といっている)が塒を作っているが、此の鳥は他の鳥の如き巣は作らないので昼間は必ず海上を飛翔或は潜泳し、夜間のみ此の穴に帰へるのである。けれども六、七月頃り産卵期には、其の穴中産んだ唯一つの卵を孵化せしめる為に、雌鳥は約一ケ月間穴中に居て、昼間と雖も決して海上には出ない。それから此の鳥は余り人を恐れないので掴む事も出来るが、保護鳥である上、此の冠島全体が此度此の鳥の為めに天然記念物に指定せられる事になったのであるから、鳥も卵も絶対に捕獲し得ないのである。
 尚本島には、老人島大明神の祠があって漁夫の尊崇が甚だ篤い。それで毎年の陰暦五月五日の例祭には非常な賑ひを呈する。其の日には舞鶴から吉原の漁夫が競舟と称する漁船の競漕を催ほす古習があるが、それは選手の者が其の日に吉原を出て此の島に渡り、終夜近海で漁撈した上翌朝は身を潔めて神に祈りを捧げ、櫓一挺に櫂八本の漁船二隻に組を別け、正午一斉に纜を解いて十八海里の海上を腕の限りに競漕して舞鶴に帰へるのである。其の決勝点は湾内横波の松で、疾いのは約一時間半で着するといふ。それから数多くの歓迎船に擁せられて、漕手の若者は様々の扮装を凝らし、  たる太鼓の音勇ましく吉原へ凱旋する。これを雄島戻りと称へ、当日の朝から満街の士女は舟を装ふて此の盛挙を観る為め、湾内に輻輳するが、先着の舟が眼に入ると、歓呼の声喝采の響海波に相和して、観る者も漕ぐ者も狂せんばかりの壮観を呈するのである。今此の島に関する古歌を挙げて見ると次の様なものがある。  〉 


『郷土と美術』(昭14.8)

 〈 丹後海の至宝  老人島(大島・小島)山本 文顕

 地理でいふ若狭湾、即ち丹後の半国と若狭の一国より成立する中部裏日本の大箝入湾は我等丹後のものよりみるとき丹後の海と称したいのは至情であらう。なぜといふに東方は緩い弧線の湾形であるに西方の丹後国沿岸はいかにも当国へ深く箝入する湾形であるからだ。
 その丹後の海の海上にポツカリと浮ぶ大島小島−雄鳥小島−を総括した老人島の呼称は丹後風士記より推考して、往昔丹後の国加佐郡の有してゐた凡海(おほしあま)の郷より転化したものであらうことは比むべくはない。
 丹後の海に老人島の存することは我等の欣快であって、丹後の海を歌はんとする国人詩藻の対象こそ実に老人島であると思ふ。
 ポカリと沖合に浮ぶあの老人島.その地理名が冠島に沓島とは、たが命じけん快適の島名ではある。公卿のかぶる烏帽子に似たるその大島、そのまたうがつ沓にも似る小島、いかにも文学的な命名でないか。
 若狭の人は該島を釣鐘島といふ。島形などは見所によって姿態を異にし、若狭からは大島が梵鐘の如く感ぜられ、小島はその梵鐘に配する鐘木のやうにみゆるは私も味ふたことがある、釣鐘島の俗称も文学的で微笑のものだ。
 古老傳へて曰く、往昔丹後加佐の水郷千歳邑に在はした文珠菩薩、ある日千歳よりいまの三本松に続く底礁を干潮時に渡って対岸へ夜遊びをなされた、ところがつい遊びにほゝけて帰る刻限を忘れ、急いで三本松海岸に到りみると、夜は全く明けはなれ千歳に今更帰るが恥かしい、そこでまゝよし千歳の帰住を観念し、陸路を橋立にゆかるゝ途、由良の名具から、ヱゝ邪魔になるとて冠と沓とを海に投げ、そして漸くいまの文珠の地に定住し給ふたのであるといふ。そしてそのときの冠と沓とがまた丹後海に定着して冠島と沓島とが出来たのであるときく。いかにも丹後の国にふさふ傳承であるが、文珠菩薩の神格に夜遊びの朝帰りばなしをあしらふことは是正せねばならぬ。
 老人島の名物に、おほみづなぎ鳥の棲息することは有名である。この水禽は表日本で土佐沖の一島と裏日本ではこゝ冠島とだけが棲息地になってゐて天然記念物指定になってゐるのは周知のとほり。ところが該島の生能調査に大きな誤りがあって学者の報告にもとんでもない謬説が存してゐる。それは諸報告に渡り鳥となってゐて春彼岸に何地よりか飛来し、秋彼岸には飛び去るといふのである。然るに往昔よりかの島を所有し管理する加佐郡大浦村の野原、小橋、三浜三村の人々は異口同音に仝島の固定鳥であるといふ。
 この是非は明瞭である。冬季該鳥は全島に飛翔しないのである。そこで粗忽な学者が渡り鳥と推断した、学者は仝島へ航行の安全なる春夏の季節にのみ渡って冬秋の頃の踏査をしないから、冬の状態は飛翔しないといふ定説に立ち妄断を下してゐるのである。
 この学者、先年そのおほみづなぎ鳥の剥製品を舞鶴海軍で陳列し、生物学に御趣味を有せらるゝ尊き御方へ供覧し奉つたことがある。私はそのときのカードに、本鳥は渡り鳥なりといふ誤謬の記事が若しなかったのではなからうかと、恐懼するところである。
 その季節の調査を遂げずに妄断を下すことは学人の慎しむべきことである、おほみづなぎ鳥は渡り鳥ではない、老人島で越年し卵を生んで雛に孵へしその雛が全島で成鳥となり親となりまた卵を生み、かくして老人島のおほみずなぎ鳥は殺生禁断の仝島を世界として繁殖し棲息する水禽である。然らば冬季なに故に姿を仝島でみせないかといふに不思議にも穴居冬眠する鳥であるのである。蛙や蛇とおなじく冬は穴籠りしてその蓄積せる体脂肪を緩徐に消耗し、この生体内酸化作用のカローリーを以てエネルギーとする動物などである。この故に仝島にはかの如く奥行の深い横穴が無数なのである。単に産卵孵化のためにある穴ならばか奥行の深さを要しないは自明であらう。
 秋に至るとおほみづなぎ鳥は三尺−五尺或は狐穴のやうに彼此通ずる腐植土質の横穴に籠居する、そして全く冬季にはその外方に向ふ洞穴の奥部に内部より土を掘り蹴り出して、以て外風や外温と絶縁する。厳冬に至ると該鳥は本来の羽毛を失ひ全身一面の綿毛に覆はれ一見別種鳥の観を呈するのである。
 名にしおふ冬荒ぶる裏日本の海上、丹後沿岸漁民が荒天時に仝島へ避難し命を助かるの事実は珍しくない、小橋の漁夫親子が三十五日を仝島に避難し居住した例がある。(漁夫の名は現存竹内長太郎氏)吉原部落民が百何十人仝島で二三日避難居住した実話もある、冬沖の荒れが続くとなると一ヶ月間も帰るに帰れず迎へにも舟が出せない天候のあることは郷土人の合点するところ、発動漁船のなかった明治時代にはきもあらう消息である、
 かゝる際、老人島明神に奉斎の饌米を戴いて飢を凌ぐの快話は贅言までもないが、吉原漁民遭難の如き百幾十人の上陸避難においてはお饌米もものゝかずに入らない。かうした冬季の避難民は老人島に上陸すると、おほみづなぎ鳥の横穴の奥部をつゝき内外の絶縁壁を潰す、そして最奥部に冬眠してゐる全身綿毛のみるからに似ても似つかぬおほみづなぎ鳥を抽きいだしその両脚を掴んで胴を足にて踏み引き裂くのである、惨いことであるが緊急避難の所爲である。すると美しい股の肉が得られる、この股肉を主食として飢を凌ぐが故に、百人もの避難民が全島での避難に於て餓死をしないのである。冬服せる鳥数は幾万である、それが悉く地下手取りの洞穴に冬眠でなく冷蔵されてゐるからこそ、かゝる大避難も救はるゝのであって、漁民はおほみづなぎ鳥の学名を呼ばずさば鳥の地方俗称を以てし且老人島明神の神使と崇めるのである。
 老人島には眞水の湧く泉がある、これも避難民には有難い明神の加護となる。更にカド石とて燧石が西方の山中に産し前記泉のほとりに生ふる葦の穂をもんで火口となし漁船内の鉄器を打ち合ふて昔の発火法を行ふのである。
 なほまた老人島には到るところに老人島菜といふ菜か年中自生してゐる。十字科の大根菜の変種と思はるゝのであるが白色に紫色を交じゆる花弁であって、生えてゐる土質が腐植質であるため硝酸菌などの土壌細菌の生育が悪しい必然性のため全体の発育は甚だ貧弱であるが、一方鳥糞のためにアンモニヤ窒素や燐酸が多く長径発育はよくいたしてゐる。根は養分吸収に飽和さるゝためか発達せず萎縮してをり型ばかりであるのは尤もだ。かくて兎も角この老人島菜によつて長期避難民には野菜食が摂り得られ以てヴヰタミンCの給源となりC欠乏により壊血病の発病を免がれるのである、 かうしたなにもかもが老人島明神の霊験なりと尊宗するため一層に漁民が明神の威徳に随喜するのである。私はこゝにおいて思ふ、老人島こそは日本第一の天恵避難島である、動物において、植物において、はたまた真水と燧石との砿物において、動植砿物のみなが幾百人のロビンソンクルソーを収容し得る天與の施設になつてゐることはまさに天下の寄瑞であって、我が丹後の郷土が有する奇しき誇りであると共に大なるお国自慢の題材だと思ふ。
   (昭和十四年八月十五日舞鶴要塞司令部検閲済)  〉 

『丹後路の史跡めぐり』(梅本政幸・昭47)

 〈 昭和十六年、太平洋戦争を前にして海軍防備隊の観測所、照射場がつくられ、頂上に二一センチ砲台が一基すえつけられた。…昔から漁に出てしけにあうと冠島へ逃げこみ、納めてある食糧で命をつなぎ、帰港してからは使った物は必ず返しておくならわしがあった。明治初年まで神聖な島として女子の入島を許さず、新井では不幸のあった者と出産をした者は入島しないならわしであった。今でも沿岸漁氏は毎年船を潔めて飾り、太鼓をたたき酒肴を携えて雄鳥まいりを行う。  〉 


『舞鶴文化懇話会会報20』(60.7)

 〈 「冠島」  清水 厳三郎
…丹後半島の古老− 伊根町新井崎の故佐藤清次郎翁(明治二十一年生れ)は「合わせ火」という言葉を教えてくれました。現代のように発動機をつけた漁船なら沖あいで時化(しけ)に出合っても、すぐ港へひきかえせますが、一本の櫓や一枚の帆がたよりの小舟時代には、突然の荒天に遭遇した時、冠島に避難したものです。
 明治二十八年一月八日のこと、家の戸もふき飛ぶような大風になった。その日、新井の漁師が一人乗りの小さな舟でジイラ釣りに沖あいへ出漁していた。西北の大風で海は荒れ、村の人々は帰らぬ小舟を心配して海に面した丘に集まっていた。夕方になって風もおだやかになると、村人は高台にワラや枯木を積み、それに火をつけて烽火(のろし)をあげた。そうして冠島の方を祈るような気持ちで見守っている。やがて冠島の方からも火をたく炎が夜空に見えると、村の人々は安心したという物語です。
 「合わせ火」というのは、丹後の海で出漁中に遭難した時、冠島に避難しているか否かを陸と確かめ合う方法なのです。はじめに陸側から島へ向けて火を焚く。その火のことを「送り火」とか「迎え火」という。これを見た島の避難漁師は陸へ向けて火を焚く。それを「受け火」と言い、陸と島とが確認しあった火のことを「合わせ火」と称したのです。
 このような言葉が丹後の地に残っていることでわかりますように冠島は古来より海上で荒天にあい遭難した時の避難場所として位置づけられていたのです。
 大陥没地震の時、海上に残ったといわれる絶海の弧島に、沿岸の住民は深い神秘性を抱き、神社を建て、丹後の海の聖地として昔からこの島の樹木には刃物を入れなかった。それに数万羽も棲息しているオオミズナギドリの鳥糞が良い肥料となって、島全体が自然の原生林でおおわれ、その島影がまた魚付林としての役目もはたし、漁師さんたちは信仰の上からも漁労上からも冠島を大切にしてこられたのです。
 昭和の時代になって日本が戦争をはじめようとしていた世相に、この冠島をめぐって舞鶴の郷土史家である一市民と軍港司令部との間に雄島事件といわれる大騒動が勃発しました。一市民とは今は亡き山本文顕さんという薬局を営んでいる人でした。事件の内容は、軍港司令部が昭和八年八月に次のような布令を発表したことから始まりました。
−冠島南端平地は海軍用地につき、海軍軍人軍属のほか乱りに本用地に立入るを禁ず。学術研究その他やむを得ず立入りを要する場合は、事前に当部の許可を受くべし−
 昔から三浜・小橋・野原の三カ村によって管理されてきた神聖な島に対して、司令部は冠島の山頂に軍港舞鶴を防衛する施設を築き、上陸を禁止する布令を出したのです。今まで沿岸一帯の漁民が心のよりどころとして信仰してきた老人島神社参拝の自由が奪われます。また丹後の海で出漁中、荒天に遭遇したとき「事前に」申し出て「許可を受くべし」では緊急に避難することもできなくなります。
 そこで郷土史家の山本文顕氏は、沿岸漁民の苦悩を代弁して、名前が「文顕」のごとく得意のペンでもって敢然と司令部に対して布令を取りさげるよう迫ったのです。当時、海軍が最も威力を発揮していた舞鶴において、当地方紙「新舞鶴時報」に −没義道な海軍当局の上陸禁止令−と題した長文の寄書を十六回にわたって連載されます。その内容は冠島の地籍・地誌・植物をはじめ、島に関する神秘・伝説・風習・祭事を郷土史家としての豊富な資料をもとに克明に書きあらわしたものです。
 それに対して海軍側は、法令を発布した目的は天然記念物のオオミズナギドリや冠島を保護するためであると弁明しますが、山本氏は「神より人より鳥が大事か」という見出しの公開質問状で応戦します。そして辛辣な批評で布令の廃止を要望しました。事件が広まるにつれて海軍側は、信念に燃えて迫ってくる文顕氏のペンの攻撃に対して侮辱罪で告訴しました。告訴された山本氏は堂々と法的に応戦したのですが、舞鶴区裁判所は「被告人ヲ科料拾円ニ処ス」と有罪の判決をくだしました。
 この判決に不満な各漁村では漁民大会を開いて当局に陳情し、また京都府会も海軍の法令を廃止する要望書を採決可決しています。山本氏自身も京都地方裁判所、さらに大審院まで控訴したのですが、軍部が指導権を握っていた当時の日本の情勢からは「科料拾円ニ処ス」の判決以外には何の答えも返ってきませんでした。
 その後、海軍は冠島の頂上付近に兵舎を建て無人島で自然のままであった原生林を伐採して大きな水槽をつくったりしています。警備兵の往来によりオオミズナギドリの巣穴も踏みつぶされたことでしょう。古来より老人島神社をまつり、神聖な冠島は、日本が昭和二十年の敗戦をむかえるまでへ海軍の権力によって支配されていたのです。
 冠島がオオミズナギドリの繁殖地として、国の天然記念物に指定されたのは大正十三年十二月九日です。日本海の近辺では島根県隠岐の星神島も指定されていますが、それは昭和十三年です。冠島が日本で最初にオオミズナギドリの繁殖地として指定された背景には何があったのでしょうか。明治四十二年六月二十二日には、京都府告示第三十九号で、この島を禁猟区としています。
 綾部の大本教祖、出口王仁三郎箸「霊界物語」第三十八巻には「冠島」「沓島」「禁猟区」という章があります。発表されたのは大正十一年十一月ですが、そのなかで鳥の密猟のことが出てきます。横浜や神戸あたりからも団体でやってきて、何万羽の鯖鳥(さばどり)を密猟したとか、神聖な島にわら小屋を建て、日夜鳥網を張りめぐらし、棍棒を携帯して信天翁(あほうどり)を捕獲していたとあります。当時の丹後地方では、オオミズナギドリを「サバドリ」とか「アホウドリ」と呼んでいたのです。冠島に棲息するオオミズナギドリを捕獲し、その羽毛を羽蒲団の材料にしていたのです。もちろん鳥や卵を食糧にもしたでしょうし、なかには多量の鳥糞を肥料として売る商売もやっていたようです。…  〉 
「冠島・沓島」





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冠島は京都府舞鶴市字大嶋1番地


沓島は京都府舞鶴市字大嶋2番地

《引用文献》
『舞鶴市史(各説編)』=*1
『樹に登る海鳥』(吉田直敏・1981)=*2
『冠島のオオミズナギドリ』(岡本文良・1972)=*3
『舞鶴の文化財』(昭48・舞鶴市教委)=*4
『京都府の鳥 オオミズナギドリ』(平8・舞鶴みなとライオンズクラブ)=*5




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