凡海郷(おおしあま)
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京都府舞鶴市 京都府加佐郡 |
凡海郷の概要《凡海郷の概要》 『和名抄』の加佐郡10郷の内の一つ。高山寺本は「於布之安末」、刊本は「於布之安万」の訓註がある。オフシアマと呼んでいたようであるが、遺称などは残っておらず、他の文献にも見えないのでその郷域や名義などは今も不明である。 『和名抄』や『残欠本文』に記載される順番を見ると、田辺(田造)郷と、あるいは余戸郷と志託郷の間に凡海郷が記載されている。記載順がどこまで信用できるものかは不明だが、一応考えてみれば、これら郷の間は接していて実際には存在しないので、たぶんその北側かと思われるのである。田辺や余戸や志託の北側である。そうすると由良川の河口一帯から日本海に面した海辺の一帯に中心があった郷なのではないのかと、私は比定している。 丹後風土記残欠には、凡海坐息津嶋社と凡海息津嶋瀬坐日子社がある。これは現在の冠島に鎮座する老人嶋神社と恵比須神社と考えられ、冠島は凡海郷であったと思われるわけであるが、人が住んで自給、永住できるような島ではなく、そうすれば冠島に面する陸側海辺の村々が凡海郷と推測していいと思われる。 中世になると、承久元年(1219)9月23日付西願寺(志楽庄春日部村にあった)宛の僧鏡円等連著田畠寄進状案(梅垣西浦文書)に、著名人の一人として「凡海是包」の名がみえる。また永享3年(1431)12月27日の室町幕府奉行人連著奉書に「丹後国凡海郷代官職事」とある(御前落居記録)。同郷は建福寺領であり、寺に納められる年貢が減少したとして建福寺雑掌と当郷代官松月庵との間で相論があり、幕府は以後寺家の直務とするよう命じている。比定地は未詳となっているが、古代の凡海郷と関連あろうと思われる。 普通は「凡海」といった名から、海部を統括した族長がいた地のことだろうと推測されているが、漢字から判断して、実態もその通りなら誰も苦労しなくて済むわけである、漢字辞典だけで歴史がわかるはずはない、はたしてそうした推測通りかはかなり怪しい話である。古代の事などは現在人的常識からは推測しにくいものである。まずはしっかり古代の諸資料の山を読んでから推測すべきだろうと思われる。そうは言っても、私も何も偉そうに言えるほどの知識も持たないが、たとえば、『続日本紀』の大宝元年(701)3月15日の記事に「凡海宿禰麁鎌(紀では大海宿禰アラ蒲)を陸奥に遣わして、金を精練させた。」とある。 朱鳥元年の紀によれば天武(大海皇子)と深い関係があり、壬生とも関係する氏族である。 こうしたことから判断すれば海の氏族というよりも、金というから水銀もであろうし金属一般の高い精錬技術を持った金属専門の氏族であったろうということがわかる。 また凡海=大海であることも、そして多分、青海や忍海なども、表記の違いだけで、実態はほぼ同じとまず考えねばならないことになってくる。 凡海連は丹後では丹後海部氏の支族にあるが、全国的にもあって、安曇系あるいは尾張系とされている。 高浜町の式内社・青海神社に祀られる飯豊皇女(忍海部女王・飯豊青皇女)は、仁賢・顕宗の姉であるが、オケ・ヲケの伝説は丹後にはけっこう多いのである。 ↑冠島(手前)と沓島 凡海郷は大地震と共に一夜にして海中に没したと伝えられる、その一番高い所が二つの島(冠島と沓島)と立神岩として残ったという。現在もこの伝説通りに後世に手がかりを残さぬ謎の郷のように思われる。 冠島と沓島の間にあるトドグリと呼ばれる海中の暗礁に人工の石の階段かと思わせるような遺跡もどきも本当にあるそうで丹後のアトランティスかと時に注目を集める。大浦半島東部の馬立島、鳴生葛嶋社の故地といわれる葛嶋(風島)にも沈島伝説があり、伝説がどこまで史実かは不明。 吉田東伍の大内郷比定説も、ここはオケヲケ伝説の地であり、まったく外れているとも言い難くなってくる。氏のひそみに習って一応関係のありそうな、あるかも知れないような地名を拾うと、大丹生・小橋・大君・大波・大倉岐(小倉)・大川神社・大俣などもある。 凡海郷の主な歴史記録《丹後風土記残欠》 〈 凡海郷 今依前用 凡海郷。凡海郷は、往昔、此田造郷万代浜を去ること四拾三里。□□を去ること三拾五里二歩。四面皆海に属す壱之大島也。其凡海と称する所以は、古老伝えて曰く、往昔、天下治しめしし大穴持命と少彦名命が此地に致り坐せし時に当たり、海中所在之小島を引き集める時に、潮が凡く枯れて以て壱島に成る。故に凡海と云う。ときに大宝元年三月己亥、地震三日やまず、此里一夜にして蒼海と為る。漸くわずかに郷中の高山二峯と立神岩、海上に出たり、今号つけて常世嶋と云う。亦俗に男嶋女嶋と称す。嶋毎に祠有り。祭る所は、天火明神と日子郎女神也。是れは海部直並びに凡海連等が祖神と斎所以也。(以下八行虫食) 〉 《注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録》 〈 一 □□郷 四十八町九段二百九十二歩内 □□□四十五歩 和江村 岸九良左衛門 廿五町三段百廿一歩 建福寺 十八町八段八段五十九歩 本光院 二町七段六十七歩 不足可有紀明之 〉 ※この□□郷は読めないのであるが、普通はこれを凡海郷と読んでいる。もしそうだとすれば和江村は凡海郷に含まれていたことになる。 建福寺は中世文書に名を残すが未詳、本光院も不明。 《地名辞書》 〈 凡海郷。和名抄、加佐郡凡海郷訓、於布之安満。○今詳ならず、凡海とは海部の住居ならんと思はれ、延喜式に「丹後国生鮭三捧、十二隻三度、氷頭一壷、背腸一壷」と見ゆるは即此凡海氏の所貢なるべし、本郡にして北海の鮭の泝るは由良川なれば、今の由良村神崎村などにあたるごとし、本郡又大内郷あり、大内又凡の転にして、海部の住郷なれば其名あるか、或人云今の俗由良川辺を大内と総称す、猶考ふべしと。 〉 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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