丹後の地名

大内(おおうち)
舞鶴市大内


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京都府舞鶴市大内

丹後国加佐郡大内郷


大内の地誌




《大内の概要》

大内は現在は白鳥街道と鉄道の立体交差・大内(おおうち)陸橋の東側、伊佐津川の二ツ橋 までの小さな町名である、田辺城合戦記にも、若狭街道に大内と申在郷、とある。
 しかし本来はもっとずっと広い範囲の地名で、古代の加佐郡大内郷、中世の大内庄の全体を指す地名である。西舞鶴中央の平坦な所の西側は田邊郷であり、東側が大内郷であったと思われる。
地名の由来は、往昔、穴穂天皇の頃、市辺王子・億計王・弘計王が当地に来た際、丹波国造稲種命らが安宮を造営して奉仕した地で、のちそれを崇めて大内と称したともいう。
 だいたいの郷域は中世の寿永3年(1184)4月16日付平辰清所領寄進状案(東寺百合文書)に四至が記されて、そのおおよその範囲を知ることができる。
 中世の大内庄は古代の大内郷内に成立した荘園で、東寺領については吉囲庄ともいった。上安に小字名吉井があり、その辺りに比定される。
  「寄進 所領大内郷事
   在丹後国管 伽佐郡内
    四至
   東限丹後国何鹿郡八田上林(割註・八幡宮御領川上大坂)
   西限田辺郷堺子午仟佰并赤前山
   南限丹波国八田郷堺三俣谷
   北限余部堺方神山并倉橋郷堺
  (後略)。」

「丹後国田数帳」には「一 大内庄 九十七町二段三百歩 三上江州」
「田辺府志」には「天正九年長岡(細川)兵部大輔加佐郡大内にいり給へり」、田辺城の東の城門は大内門と称し、その門前に大内町が起立した。
 近世の大内庄。江戸期の広域地名。これは特別に広くて、田辺町と引土・公文名・七日市・伊佐津・京田・十倉・真倉・高野由里・女布・野村寺・城屋・堀・下・布敷・岸谷・別所・白滝・上根・寺田・円満寺・倉谷・福来・天台・清道・境谷・万願寺・今田・上安久・上安・下安久・和田・長浜・余部上・余部下・北吸・上福井・下福井・喜多・大君・吉田・青井・白杉の42ヵ村を総称した(丹哥府志)。このうち引土・公文名・七日市・伊佐津・京田・十倉・真倉の7ヵ村を中筋郷、高野由里・女布・野村寺・城屋の4ヵ村は高野郷と称した。
 近世の大内町は田辺城の東に続き、田辺城大内門の門前に形成された地域である。江戸期〜明治22年の町名。田辺城下の1町。田辺城大内門から伊佐津川に架かる二ツ橋までの若狭道に沿う。「丹後旧語集」には「大内御門北の方に小役人屋敷有」「二つ橋東の詰屋敷跡を矢場に」なとどあり、若狭道両側は侍屋敷で、城下の若狭口として見張番所が置かれた。
また、享保12年の丹後国田辺之図によれば、町屋は橋より東とあり、伊佐津川東岸の倉谷側は大内新町と称して肝煎の支配下にあった。「丹後旧語集」には、「大内二ツ橋北の松畷迄土居下桜馬場、後築地へ移る」「伊佐津川洪水の節砂入りに付東の土居を工夫して水越のため二重土居に石を畳」などの記事が見える。明治2年舞鶴町に所属。同21年の戸数64。同22年舞鶴町の大字。昭和13年からは舞鶴市の大字。


大内郷は広くて現在でいえば、余内(あまうち)から池内(うけうち)にかけてである。どちらにもウチがつく地名が残る。ウチはウジとかフジとかいった地名と同じで恐らく古代語と思われる。水か蛇か金属かに関係する天日槍系の人々が残した地名でなかろうかと私は考えている。




大内の主な歴史記録

《丹後風土記残欠》
 〈 大内郷 今依前用

大内郷。大内と号くる所以は、往昔、穴穂天皇の御宇、市辺王子等億計王と弘計王此国に来ます。丹波国造稲種命等安宮を潜かに作り、以て奉仕した。故に其旧地を崇め以て大内と号つくる也。然る後に亦、与佐郡真鈴宮に移し奉る。(以下三行虫食)  〉 


《注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録》
 〈 一 大内庄 九十八町二段三百歩  三上江州  〉 

《地名辞書》
 〈 大内郷。和名抄、加佐郡大内郷。○今詳ならず、大浦などにあたるか、大浦朝来は古郷名を欠く。(凡海郷を参考)

凡海郷。和名抄、加佐郡凡海郷訓、於布之安満。○今詳ならず、凡海とは海部の住居ならんと思はれ、延喜式に「丹後国生鮭三捧、十二隻三度、氷頭一壷、背腸一壷」と見ゆるは即此凡海氏の所貢なるべし、本郡にして北海の鮭の泝るは由良川なれば、今の由良村神崎村などにあたるごとし、本郡又大内郷あり、大内又凡の転にして、海部の住郷なれば其名あるか、或人云今の俗由良川辺を大内と総称す、猶考ふべしと。  〉 


《加佐郡誌》
 〈 大内はもと大内郷の一部ぶあった。此の郷名の由来は丹後風土記に詳しく出ている。大内の名は昔穴穂天皇(安康天皇)の御宇に市辺王の御子億計王(後に仁賢天皇)弘計王(後に顕宗天皇)と共に此国に来られた。そこで国造稲種命等が安宮(やすのみや)を作って仕へ奉った。それから其旧地を崇めて大内といったのであるとのことである。  〉 

《舞鶴史話》(昭和29年)
 〈 舞鶴市字大内億計王弘計王の遺跡
 憶計王弘計王の二王子は履中天皇の孫磐阪市辺押磐尊の王子でしたか父尊が雄略天皇に殺されたので共に難を避けて丹波の国に至り、更に播磨国赤石郡に赴き縮見屯倉首忍海部細目の家に身を寄せました。丁度その頃播磨の国司伊與来目部小楯なるものが細目の家にとまりましたが弘計王は歌に託して自分が皇胤であることを明かされたので小楯は大いに驚き、急ぎこれを朝廷に報奏いたしました。時の天皇清寧天皇には皇嗣がなかったので大いに喜ばれ、直ちに二王子を京に迎えて同天皇の三年四月七日億計王を立て、皇太子としました。天皇崩御あらせらるゝや億計王は御自身が皇太子であるにもかゝわらず御弟弘計王を立て、皇位につかしめました。これ即ち顕宗天皇であります。そして億計王はもとの如く皇太子として天皇を輔佐していられましたが、その弟天皇も数年にして崩ぜられたので戊申歳正月五日皇位につかれました。億計王は仁賢天皇となられたのであります。
舞鶴市の大内はこの両王子が潜居していられたので大内の名称がこれから始ったといわれています。又八雲村字和江の和江神社では両王が酒饌を供えて開運を祈らせられたともいい、同村では毎年十一月五日に大小二桶の神酒をお供えして祭礼を行う慣例が残っていると伝えられています。  〉 

《まいづる田辺 道しるべ》
 〈 …そもそも大内町は、大内門の門前町とし、若狭への出入口に位置し、別名「若狭口」とも呼ばれていた。
 大内町内は、大内門より伊佐津川に架かる二ツ橋迄と伊佐津川より東側前後橋(保健所辺り)辺りまでであり、大内町は城東の要であったため武士や足軽が居住し、商人や百姓は伊佐津川より東側大内新町内に居住し、町屋を形成していたといわれる。
 大内町は若狭へ通じる交通の要衝にありニッ橋袂には見張番所が置かれ、番所前の広場には高札(制札)が立てられていた。(天保三年、大内制札が再建されている)
 寛保三年(一七四三)の史料によると、家数七十九戸とあり、明治二十一年当時は六十四戸の家があったという。
 さて、若狭道は船着門前より高橋を渡り、ハリノ木縄手をすぎると伊佐津川の総堀土手道に上る。若狭道は、これより土手道を上流へニッ橋までのぼる。江戸時代この土手道が若狭への本街道であった。道巾は約二間(三・六メートル)ばかりであったと記されている。
 処で、この土手道が伊佐津川瀬替工事以降度々の大洪水により土手が決壊し、田辺城下に甚大な被害をもたらした。江戸時代の土手の高さはどれほどであったのか気になっており、何かよい資料がないかと探していた処、明治六年に書かれた大内町内図(江戸時代の地形と変わらぬ地図)が見つかった。その地図の中に、ニッ橋袂に祀られている稲荷神社の石垣と、境内にある榎木の大木が書かれていた(別図参照)ので、早速同神社を調べた処、神社の裏手に古い石垣跡の一部が見つかった。石垣の上面より現在の土手道迄の高低を測った処、大凡現在の土手道より二・七メートル下に昔の土手道があったことが判明した。
 ちなみに、現在のニッ橋辺りの土手道の高さは川底より約五・五メートルあり、江戸時代の高さは現在の約半分程度の高さであったと推定されるが、素人考で測ったもので、間違っているかも知れないが御容赦願いたい。
 若狭道はニッ橋西袂で四辻となり、右は大内町内に入り大内門に至る。真っすぐ土手を上る道は伊佐津道と呼ばれ、京田で京街道と合流し京への街道となる。この土手道が竹薮の道であったと大内地図に記されている。
 若狭街道は、これよりニッ橋を渡って行く。
 このニッ橋西挟に往昔旅人や順礼者の道しるべが立てられていた。今も三基の古い道標が遣っている。 道標には、…  〉 


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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