小原田(おわらだ)
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京都府福知山市大江町小原田 京都府加佐郡大江町小原田 京都府加佐郡河西村小原田 |
小原田の概要《小原田の概要》(含・小谷) 公庄や蓼原から天ヶ峰(632m)の方へ山道を入っていくと小原田に至る。谷河川や蓼原川など由良川の小支流が地内に源を発して南流する、谷河川の上流集落が小原田で、蓼原川上流集落は小谷と称する枝郷。いずれも山間の過疎地で、標高150メートル前後の谷間や丘に集落が散在する。源氏の落人村上氏、江州から来た川戸勘兵衛の子孫、仏性寺村から移住した高橋善太夫の子孫らが開いた村と伝える。 小原田村は江戸期〜明治22年の村名。天正8年細川藤孝・忠興領、慶長6年からは宮津藩領。 小原田は明治22年〜現在の大字名。はじめ河西村、昭和26年からは加佐郡大江町の大字、平成18年からは福知山市大江町の大字。 山の上に建てられたこの集落のたたずまいは、アンデスの空中都市・マチュピチュを彷彿させられる。あるいは頼光が見た鬼の城。 何か目的があってここに建てられたのであろうが、風がよく当たるというのが気になる。あるいは鍜冶の村なのではなかろうか。世界遺産は無理としても丹後遺産なり丹後歴史保護区などの指定があっていいと思う。 《小原田の人口・世帯数》104・45 《小谷の人口・世帯数》12・11 《主な社寺など》 日吉神社 八幡神社 猿田彦神社 愛宕神社 稲荷神社 市杵嶋神社 秋葉神社 《名勝》 夫婦滝 交わりながら二筋に流れる。 水量が少なかったが、名水という。 《交通》 《産業》 小原田の主な歴史記録《丹哥府志》 〈 ◎小原田村(日藤村の北、蓼原村の奥) 【山王権現】 【付録】(八幡宮、愛宕社、弁財天) ○小谷(小原田村の枝郷) 〉 《加佐郡誌》 〈 参考。小原田は源氏の落人村上氏と江州から移って来た川戸勘兵衛の子孫と河守上村仏性寺から移住して来た高橋善太夫の子孫等とが開いてた所であると伝へられている。(村上重左衛門、高橋市郎衛門、川戸重太三氏の言) 〉 《京都の伝説・丹後を歩く》 〈 平家の落武者 伝承地 加佐郡大江町小原田 小原田の始まりは、昔、平家の残党(村上・高橋・川戸の三氏)が隠れて、村を開いたことによるという。 ここの家は不便な土地で、高い場所にありながら、あまり風当りを考えないで建てられている。これは、外から入ってくる人たちをよく見張るためであるという。また、山うらの橋谷や金山への間道であったと思われる道が、今も残っている。金山から公庄への道も小原田へは入らず、桜木谷という山あいの道を通り、山の中に「右 ぐじょう」という石地蔵が残っているのも、他国の人の入るのを避けたからであろう。 (『大江町風土記』第二部) 〉 《大江のむかしばなし》 〈 鉄砲の印可と弓の印可 小原田 佐藤 為治 昔ねえ、小原田に川戸勘左右衛門っていう人が、鉄砲の印可が、あった。名人、鉄砲のねえ。それからもうひとつ、弓の印可もあったけど、それは何ちゅうもじゃ忘れた。それがねえ、愛宕坂ちゅうのがここに見えとるじゃが、その坂からねえ、 「今日、武術の見せあいしょうか」と、こういう、二人相談してねえ。それから、この下に、この向こうに稲荷さんが祭ってある。その稲荷さんになあ、参る道があって、若い十七・八の娘さんが稲荷さんへさし下駄はいて、三寸歯のねえ、それへ行くのを、 「これをひとつあてにして、的にしてやなあ、やろうか」というようなことでしてなあ。鉄砲の印可の、印可って名人でんなあ、これが、 「若い娘の頭に二つ重に結うた髻を撃ってみようか」と。髻でんな、元でんなあ。 「ほっても、若い娘を髻あ毛え切るということはあんまりかわいそうじゃによって、ほっでひとつ掛け物を、こう両方に掛け物を掛けますねえ、それをひとつねろうてみよう」と。 「ほんなら、そうせえ」と。そうしたら、その鉄砲の印可がなあ、ひとつ鉄砲をいぼを引いて離したと。 そうしたらその娘の子うの、掛け物ちゅうもん掛けますわなあ、昔はこの、髷のうちに、これがパーととんだっちゅうねえ。そうしたら、その掛け物とんだもんで、後もどりして拾って、そうしてまた掛けてね、頭に、そうして先いんだ。そしたら今度、弓の印可ちゅう人がねえ、これが、 「あのさし下駄を二枚ずつありますのを、それを四枚ひとつ矢を抜いてみようか」と、こういうようなことでねえ。ほで、こう重なって行きますのを、重なったとこの四枚な、弓の矢を抜いたと。まあず、こういう、その技術の、ひとのようせんのをやりよったと。 そこでねえ、こういう話がある。川戸勘左右衛門ちゅうのは猟師じゃって、鉄砲で猪を追っとるんで。そんでここには奥山というごつい山が、昔お殿様が見られて、伯耆の守のお殿さんの高が百石ついとった大きな山があります、そこへ毎日猪狩りに行くのがこの商売じゃった。商売じゃったところが、ある日朝早よう、何やら三時ごろに起きて、それで夜がうっすら明けるんを待つとって。その、おんたこんたという池がある、そこで猪がぬたを、こういたって、まあからだを洗うわけでんなあ、泥で、それで、それをねらいに毎朝のぼりよったっちゅう。 そしたらある日、ある朝行ってみたら、きとくがはなというとこに大きな岩があります、それをまあ、昔から化けもん岩ちゅうことを言うとった、そしたら、その手前まで行ったら、若い十七・八の娘の子 がホヤホヤ笑いもって行燈の明して髪をこう結うとったちゅうですなあ。 「はてな、おかしいなあ、今朝はわしを化かすなあ。化け物がわしを化かしよるんじゃな、ひとつ撃ってみてやれ」って、そで、鉄砲をならして、そしてその娘を撃ったちゅうですなあ。そしたらポターッと火が、行燈の火が消えて、ほて、またしばらくしとるというとねえ、またパツと行燈の火がついたら、同じこと髪をこうといとったちゅう。昔から、化けもんは火だということを言うとるなあ、ほで、ひとつ火をねらって撃ってみようと思て、ほで火をねらって今度撃ったちゅう。それっきり火がつかなんだ。それで、 「いやもう、こういう化け物がいてはわしは命が危ないさかえで、まあいったん今日は山へ上らんと帰ろう」と言うて、ほして帰って。 それから、その人がまた朝間、夜が明けてから、高い山におんたこんたちゅう池がありますで、今はまあ水なしに、けど猪はたくさんおったで、そこでぬたということをして、ほで泥を浴びるさかいで水がたまって池ができてた、ほしたらそこに夜分の若い娘がなあ、毛を足元までだらいて、髪さばかいて、ほんで泳いとったちゅう。 「やれもうこれで猟師はやめよう。あれは、夕べの化け物に違いない。あれを撃ったら、わしゃ命がないで」ということで、そんで撃たんと帰った、こういうことですねえ。 それから、その、男の子と女の子と二人あったと、その人はねえ。それで、山の獲物にめんたを撃ったら、女の子が 「きゃあ」っちゅう声をあげよったと。もしおんたを撃ったら、男の子が 「きゃあ」っちゅう声を、撃った時刻に声をあげると。それで奥さんちゅう人がねえ、 「ああ、今日は主人がおんたを捕って、おとこのけものを捕ってくるな」 「ああ、今日は、おんなのもんをいて、もってもどってくるな」ということを知らせよったと。まあそういうことを不思議がったんか、つまりそれかぎりですなあ猟師はやめたという、そういう一口話です。 天狗のまね 小谷 桐村 勇三郎 「お前も天狗にしてやるさかえ、その宮さんにこもって行せえ」言うて、一週間ほどこもって。小谷の山のいちばん頂上の裏に天狗さんいうお宮があるんですが、ほで橋谷の若いもんがねえ、そのまあ、夢見せがあって、お宮さんに参って、こもって、ほいて願かけたら、お前も天狗さんになれるさかいいうて夢見せがあったもんじゃで、山へ上って、お宮さんに一週間ほどこもって、もうほんでもこのへんで天狗になれるだろう思って、山の上の石の上から(大きな岩があるんです)もうわしも天狗になれたじゃろう思って飛んでみたら、まんだ天狗になれえで足が折れたいうて。 「一週間やそれぐらいな行では天狗にはなれんのや」言うて、あのまあ、話しよりました、お爺さんが。 〉 《大江町風土記2》 〈 かくれた人たちがひらいた小原田 小原田がひらけたのは、昔平家の残党(村上 高橋 川戸の三氏)がかくれたのがはじまりだといわれている。ここの家は不便な土地で、高い場所にありながら、あまり風当りを考えないで建てられている。これはお父さんにきくと、外から入ってくる人たちをよく見張するためにこうなったのだろう、ということである。山うらの橋谷や金山へは、当時間道であったと思われる山道が今ものこっている。金山から公庄へ通じる道も小原田へは入らず、桜木谷という山あいの道を通り、山の中に「右ぐじよう」という石地蔵がのこっているのも、他国の人の入るのをさけたからだと思われる。ここからは福知山城が一目にながめられ、千原、在田などの田辺領が眼下に見おろされる。藩制時代になってからは、宮津藩の前哨地としての役割をもっていたそうだ。そのためか税金なども少かったらしい。その頃、どんどん人が入り二百戸にもなったと伝えられる、(現在八○戸)世の中があらそいのはげしいころには、間者が入ってきて殺しあいもあったらしい。そう思われるものに次のようなものがある。 のま水 川上で間者を切り血刀を洗ったので、その水をのむと血をはくといわれている。 血ケ渕 間者の処刑場であったといわれる。 (河西小6 佐藤輝三) 〉 小原田の小字小原田(オワラダ) 公庄畑(グショウハタ) ユヅロ 越田和(コイダワ) 赤畑(アカハタケ) 田和(タワ) 山吹 鯖谷(サバタニ) 横谷(ヨコタニ) 次良迫(シロサコ) 蛇ケ端 桜木谷 奥山 黒カンバ ノリシゲ 向田 滝ケ奥 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『大江町誌』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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