瑠璃寺(るりじ)
付:吉田のしだれ桜 |
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京都府舞鶴市吉田 京都府加佐郡四所村吉田 |
瑠璃寺の概要《瑠璃寺のしだれ桜》♪ いざや、いざや、見に行かん… 舞鶴は幸いなことに桜うるわしい町で、町々の至る所に、わざわざ出かけずとも、街道を走る車の中からでも十分に桜見物が堪能できる町である。 その中でも、ここは特に高名で、瑠璃寺は「吉田のしだれ桜」で有名過ぎるほど有名なお寺である。実はたった二本しかないのだが、Web検索ではダントツのナンバー・ワンの人気を誇る。 (その他の桜については、「舞鶴の桜」など参照) 咲き具合、色具合は年によって異なる。 西舞鶴市街地の西北、いずれ案内板が立てられると思うが、「とれとれセンター」の信号を北へ(海の方へ)入る。あとは一本道、舞鶴湾を右手に見ながら海に沿って行くとトンネルがあり、それを越えた所に吉田という聚落があって、この村の入り口あたりにお寺がある。この辺りまでは道はよい。駐車場もある(有料200円)。村の中は狭いので車では入らない方がよろしい。最近は大阪辺りからも観光バスが着くこともある。舞鶴ではもっとも有名なしだれ桜のお寺である。公共交通機関は、青井校区バスがありますが、しだれ桜用に運行しているかどうなのかわかりかねます。自家用車で行くならアクセス↓ 昔は(どれくらい昔なのかわからないが、たぶん昭和9年の室戸台風に上の枝が折れる以前のこと。もう80以上の人でないとその姿は知らない)もっともっと綺麗だったという。下を箒で掃きよっちゃった、という。何のことかわからないがそれくらい花びらが多く散ったということか。今はもうそんなには散らないように見える。古木も古くなりすぎてね昔の勢いはもうないねえ。何でも同じやけどねえ。と昔を知る人はみな悲しむ。 普通のソメイヨシノの頃に咲くようで、(あくまでも一般的な話。開花時期は年により異なる)。花の命は短くて、一瞬の出来事。本当に桜の花の美しい日は一日だけだという人もある。 極悪どもの毒花やクソ花のみが狂い咲く世の中に咲いてくれる夢の世界。しかしそれにしても何とも美し過ぎる。こうした財産を持つ村は幸せだしまた大変、よくやっておられると思うが、大切に大切にした戴きたいと願う。 次はぜひゴッツォとお酒を持って出かけたいもの、名花を見ながら、おいしいでしょうねえ。 でもそんな俗っぽいことはダメかも… 《瑠璃寺の概要》 このしだれ桜は、ぜひとも見物に行ってもらうとして、 ここでは瑠璃寺の方である。 ちょっと高い石垣の上にある。金剛山瑠璃寺といい、曹洞宗桂林寺の末寺、ご覧のように立派な桜の枝に隠れ霞んでしまうほどの小さな古いお寺である(失礼)。ここ吉田と南の大君の可愛らしいお寺。お寺でもまったく肩肘張らずに行けそうな気楽な感じがいいのだろうと思う。 ご本堂前、奥にご本尊が祀られている、いつもここの戸は開かれている。年によっては、ご本尊を縁側近くまで出しておられる時もある。 その寺号からもわかるようにご本尊は薬師如来(=薬師瑠璃光如来)である。だから古くはというのかフルネームは薬師瑠璃光寺、薬師寺であったと思われる。しかも山号が金剛山。鉄の山。曹洞宗とは本来は関係がないと思われる。 薬師さんは当寺だけでなく、この地域一帯で広く祀られている。 吉田の北に続く青井には「湯やくし」の伝説が伝わる。 『舞鶴市史』は、 〈 湯やくし (青井) 古来の記録に「湯やくし」と記されている薬師堂がある。現在では寺の境内に移されているが、元この薬師堂があったという辺りに、昔、温泉が湧いていたという。 千年ほど前のこと、この湯元で近所の者がおむつを洗たくしていたところ、湯の神さまが怒って「千年経ったら迎えに来い」といって、有馬へ行かれ、それ以後、湯が出なくなったという。 なお、ここから程遠からぬ所に、当時の湯治客の墓跡だといわれるものが現存している。〃湯だおれの墓〃というのであるが、〃行きだおれの墓〃というのかも知れない。 薬師と温泉の伝説は、このほかに森、小倉、上安にもある。 〉 青井には伊吹戸(いぶきべ)神社がある。その北の白杉には、蔵王権現があり、「たたり薬師」の伝説がある。 「舞鶴市民新聞webみなと舞鶴・ふるさとみて歩き」には、 〈 NO.75 “たたり薬師”さん(白杉) 白杉から金ケ崎へ向かって1番奥のアンモの谷へ。車はそこで行き止まり。湾口西岸の白杉は58世帯、船は約60隻。海との関わりが深く、金ケ崎周辺など舞鶴随一の漁場にも恵まれている。特に昔はナマコ漁が盛んで江戸時代に献上したことも。さらに昭和初期までは、ランプの燃料に使われていた桐の実(コロビ)と養蚕で、富豪の財を得たと言われる。その桐畑があった棚田の中に1つ、温泉伝承を伴う薬師堂が建っている。舞鶴湾を一望し、こんもり茂った所にある二間四方の堂は、裏のタモノ木が直撃して昭和37年に再建。堂内には、像高23センチの薬師如来像が安置されており、ここの水を持ち帰ると目と耳に御利益がある…が、併せて“たたり薬師さん”の異名でも名高い。縁起木札に「往昔、何時の程よりか(略)その威顕著にて、沖を航する舟は、帆柱を倒さざれば航海することを得ざりという」と。つまり、漁船が外海へ出る時、薬師さんに祟られ船をひっくり返されるので、この前では静かに帆を降ろし、用心して波高い日本海へ出ていった訳である。そして今も、海上安全を祀る薬師さんとして信仰され、毎年七夕の夕べに祭事が行われている。ここは、荒れる日本海への出入口。「気を引き締めよ!」と、海に挑む意気込みが伝わってくるようだ。“猿の尻笑い”ならず“猿も木から落ちる”ことのないように―。来年は「サル年」! 〉 誰も彼も最も大事な点を見落としているのだが、ここの薬師様は目と耳に御利益があると伝わる。これが重要なのである。 耳は海人系の仏様か、仏様というよりはエビス様と習合したものか、エビス様は不具者などと書けば差別語になるかも知れないが、五体満足ではない、耳が聞こえない、耳が遠い、片目、盲目、イザリ、足腰が萎えて立てないなどの伝承もあるが、そうした性格がここで習合したものかと思われ、薬師様とはそんなには関係ないだろう。自分自身すら救えない神様が何で人間を救えるのか、などと考えるかも知れないが、庶民の神様はそんなに強くはない、救えないがそばにいて一緒によりそって苦しんで、わずかにその苦しみを負って下さる弱くやさしい神様のようである。強い神様は支配者どもの神様であることが多く、彼らがそうありたいと願う神様であり、庶民が求める神像とはあまり関係はない。 薬師様が目の病気に御利益があるというのは、薬師様自身も目が悪く苦しんでおられるのである。 仏様といえども自分が同じように苦しんでいなくては、人々を救えることなどはありえない。ましてや人間おや、であって、何か救いとなってくれそうな、何か支えになってくれそうな人というのは最初はわからないが、後で知れば自分と同じ苦しみを苦しんでいる人であったことはよくある。 信仰の対象にはぜひそうした仏様を、現世に救済を求めるなら、自分が苦しんでいる人をぜひ選ぶことである。大金持ちでエエトコの坊ちゃんで何不自由もない、そんな者を選べば自分ばかりでなく子孫もそれどころか日本滅亡である。 古くからこの一帯も薬師信仰の地であったと思われるのである。薬師は対岸大浦半島の多禰寺の七仏薬師が有名であり、ここは特に眼病に霊験があると伝わる。これらは産鉄民が信仰した最も古い仏教信仰と思われる。 西舞鶴の市街地にも薬師のお寺が目白押しにある。それは「丹後七仏薬師・薬師寺廃寺など」参照 薬師さんはここで書いたように光明の仏様でもあり、樹の精のような性格も持っておられる。古木から作られたと言った伝説がある所もある。 世界樹と光明(ar)信仰が仏教化した最初のものではなかろうか。 瑠璃寺の主な歴史記録《丹後国加佐郡旧語集》 〈 桂林寺末 〉 《丹哥府志》 〈 【金剛山瑠璃寺】(曹洞宗) 〉 《加佐郡誌》 〈 金剛山瑠璃寺、曹洞宗、慶長九年創立四所村 〉 《舞鶴》(大正12年) 〈 吉田の桜 年取島の向ふ岸山と山との間にある一部落を四所村吉田といひ浜辺から麓に浴ふて一廓をなして居る、所謂山村水郭で此處に往くもの誰しも太古の感にうたれぬものはないその山手にある名も床しい瑠璃寺の境内に年古し一株の枝垂桜がある、弥生四月の頃が見盛りで??(さげ)たる老樹香雲天を敬ひ飛雪地に撒いて坐ろに武陵に入るの感あらしめる 〉 《市史編纂だより》(50.8) 〈 【吉田桜視察記】 専門委員 吉田美昌 昨年の4月下旬に 地元の吉田から枝垂桜を天然記念物に指定してほしい旨の申し出と、現地視察の要請かあったが、既に開花時期を過ぎていたため文化財保護委員会への報告だけにとどめ、調査は本年に持ち越した。 桜前線が通ったあとの日和を見て4月11日、主管の社会教育課と関係の文化財保護委員とで現地視察を行った。 吉田桜については、明治34年、鎮守府開庁を記念して舞鶴実業協会が発行した「舞鶴案内」に、名勝地として 〃四所村字吉田瑠璃寺にあり、様?盤屈香雲天を籠め、飛雪地に徹し、近郷?(まれ)に見るの老桜なり。舞鶴港より船に貸して行けば一里に満たず、千両谷桃を賞するの途次、一たひ櫓を迂(まわ)らさは、所謂両手花を握るの天賓(らい)あらん〃 と、美文調で賞揚し広く紹介している。 文中の「千両谷桃林」も名勝地で、対岸の平地籍にあった。 ここは、満山ことごとく桃林で、実の収獲が千両あったので千両谷の名で呼ばれたといわれ、むかしは湾内遊覧を兼ねた観桜、観桃の三角コースであったらしいが、今日では見ることができない。 また、大正12年舞鶴町役場発行の「舞鶴」にも 〃年収島の向ふ岸、山と山との間にある一部落を四所村吉田といひ、浜辺から麓に沿ふて一廓をなして居る。所謂山村水郭で此処に往くもの誰しも太古の感にうたれぬものはない。その山手にある名も床しい瑠璃寺の境内に年古りし一株の枝垂桜がある。 弥生四月の頃が見盛りで、ノ;??たる老樹香雲天を蔽ひ飛雪地に撒いて、坐(そぞ)ろに武陵に入るの感あらしめる〃 として、同工異曲であるか武陵桃源に入る別世界であると力説している。 現地の瑠璃寺(山号・金剛山、曹洞宗桂林寺末)境内には、老若二株の桜樹がある。 ここで紹介されている桜は古木の方で、実測の結果、胸囲2.45メートル、根回り3メートル高さ約7メートルであった。今冬の雪害で上方の枝条が折れたが、まだ息づいていて満開の風情をただよわせていた。 この古木は、かつて天空に向かって三段になった枝ぶりで、カサ状を呈していたが、昭和9年9月21日京阪神を襲った室戸台風で損傷し、切角の美観を失ったという。 瑠璃寺は、京極高知治世の慶長14年(1609)の開山で、古木が開山と同時に植えられたものとすると樹齢は366年になる。若木の方は大正7年に古木の芽を移植したものである。 西舞鶴から吉田までは陸路で約9キロあり、観桜のため高野川尻の新橋から、また中舞鶴では加津良から舟で来遊し、好者は芸者連れで樹下に宴を張ったというか、たしかにカサ状の時は美事であったと思われる。 桜は温帯地方に広く自生するバラ科の落葉喬木で、わが国では万葉の昔から詩歌に詠まれ、花といえば桜に代表されている。 このうち、〃しだれ桜〃は、名の通り枝垂れ性で、細い枝が四方に垂下し独得の風情がある。 大正8年の「史跡名勝天然紀念物保存法」により、桜が名勝や天然記念物に指定されているものは33カ所で、このうち〃しだれ桜〃で名高いのは、京都の円山公園(名勝)と、福岡県の滝桜がある。京都ではこのほか、特別史跡、特別名勝指定の醍醐寺三宝院庭園の醒醐の桜や、名勝指定の仁和寺の御室の桜(里桜)、大沢池の桜など、史跡や名勝地には大なり、小なり桜が添景となっている。 府下では京北町常照皇寺の名木『九重桜』『御車返』が天然記念物(植物)となっている。 全国的には、樹齢1000年以上、幹回り10メートル以上の老樹はたくさんあるといわれる。 吉田桜については、更に検討を要する点があるが、記念物として見る場合、かつて喧伝された枝ぶりを失っていることが借しまれ、反面名勝地としては付随する景観に乏しいのも恨まれるが、稀少価値があるものだけに、これ以上損傷を与えることのないように、地元の人々によって保護の手を加えてほしいものである。 〉 (境内の案内板) 〈 吉田のしだれ桜 この桜は、樹齢三百年以上と伝えられている。陽春の頃、大きく枝を広げ、樹枝いっぱいに花を咲かせる姿は美しい。昔から「吉田のしだれ桜」と市民に親しまれ、昭和五十二年には「古木と若木が織りなす開花期の景観のすばらしさ」により舞鶴市指定文化財となっている。吉田区には氏神奥上神社をはじめ曹洞宗瑠璃寺、年取島、吉田遺跡、吉田古墳(一〜七号墳)伊崎古墳(一〜七号墳)、民俗芸能「吉田の振物」、など、多くの史跡や文化財があり、この地域の歴史の深さを示している。ちなみに若木の芽生えは、門前の嵯峨根堅治翁の苦心によるものである。 金剛山 瑠璃寺 〉 (駐車場で貰った案内)(平17) 〈 瑠璃寺 由緒 瑠璃寺は、山号を金剛山と称する曹洞宗寺院である。創建は、江戸時代中期村全体を焼きつくしたと伝えられる大火で、瑠璃寺も全焼し、同時に過去帳始め寺の由緒となる一切の書類が焼失したので、詳らかではないが、文化九年(一八一二)に書かかれた瑠璃寺過去帳によると、【当寺開山大渓和尚和上慶長十四年(一六〇九)】とある。 かっては、鎌倉時代の元応年間(一三一九−一三二〇)にさかのぼる寺縁起があったものと考えられる。 本尊 瑠璃寺の本尊は薬師如来である。本来曹洞宗の本尊は、釈迦如来なので、薬師如来が祠られているということは、大渓和尚以前から瑠璃寺が存在していたとの証拠ではないかと考えられる。 しだれ桜の由緒について 吉田瑠璃寺のしだれ桜は、樹齢三百年以上と伝承されており、昭和五十二年(一九七七)には「古木と若木が織りなす開花期の景観すばらしさ」により、舞鶴市指定文化財となっているが、天正八年(一五八〇)から慶長四年(一五九九)にかけて、この地に幽閉されていた京都の公卿中院通勝(なかのいんみちかつ)を慰めようと、当時の田辺城主であり、通勝の歌の師でもあった細川幽斎が、京都の吉田山の桜を移し植えて、この地を吉田と名付けたのではないかと言う。また、瑠璃寺開山の大渓和尚は、かの田辺龍城戦に細川幽斎を助けて、袈裟を旗印にかかげて城内に入り、共に戦った人物であることから、瑠璃寺と幽斎にはつよい結び付きがあったのももっともと思われる。 一方、瑠璃寺の南東に当たる吉田の入り江には、年取島とゆう周囲二百米ほどの小島がある。この島の小庵が二人の会う場所であったといわれ、幽斎は舟で城と島を行き来したとみられる。ある年の大晦日に二人は夜が更けるのも忘れて歌に興じ、ついに元日をむかえてしまい、年取島と名付けたと伝えられている。また、その時幽斎が詠んだ『藻塩草かき集めたる跡絶へて、ただ年取の名のみのこれり』と、以前からあった地名の「トットリ」を読みこんで、「年取」の字をあて、風流を示したのではないかとも考えられる。 このようなことから、瑠璃寺と年取島と中院通勝、細川幽斎は一連のものと考えるのが自然のようで、その鍵を握るのが「吉田のしだれ桜」かもしれない。 ※因みに、平成十五年(二〇〇三)、当寺しだれ桜の故郷とおもわれる、京都吉田山の吉田神社と縁あって、友好の関係が結ばれ、平成十六牛(二〇〇四)二月、古木のしだれ桜からとった、穂木を贈り、吉田山大元宮の他に里帰りした。 〉 年取島 年取島は駐車場から見える円い小さな島である。蠣養殖の筏の先に見える。 年を取ったから年取島ではなかろうと思う。何でも幽斎様に関係づけないと承知できないのが舞鶴郷土史界の古くからの愚かなならわしで、それで何かわかったような気持ちになって、何百年も思考停止しているのである、化石かミイラのような世界である、ミイラとりがミイラになるというまさにその世界であるが、しかし考えてみれば、こんな目に付く島なら幽斎様以前の古くから現地の呼び名があったはずで、幽斎様とてそれを無視して勝手な島名などつけれるわけがない。納得できない島名を勝手に付けたところで誰もそんな名では呼ばない。泡のようにすぐに消えてしまうことであろう。何かの事蹟にかこつけて都の文人らしくそれを少し意味をもじったのではなかろうか。あまりというかぜんぜん地方の歴史民俗などには興味はなかった人かも知れない。伝説としてこうも語られます、くらいの話であるが、それが島名発祥の本当の由来ではなかろう。 本当はトトリかも知れないし、トビトリ(トミトリ)かも知れない。幽斎様当時の書によれば、現在の愛宕山(西舞鶴市外の西山)に鳶取山がある。トミとかトビとか呼ばれるものは、簡単に言えば理念上は世界樹のカケラ、実際は何かの樹の小さな若木か枝で、それを採ってきて自分の田に植えるというのか植えるマネをして自分の田の豊饒を願うというものである。今でもこうした行事が残っている地方もあるのではないかと思う。『角川日本地名大辞典』は、「7月には弁財天を祀る年取島で雨乞い祈願の祭が行われる」としている。年取島や鳶取山はそうした若木を採った聖地なのではなかろうか。 あるいは元々から今の文字通りの島名であったなら、集落の正月の何らかの祝い行事がこの島で行われていたかも知れない。初日を拝むにはいい場所かと思う。だから正月祝いの島=年取島なのかも知れない。(今では知らない人の方が多いかも知れないが、昔は正月で一つ年をとった。そうした年齢の数え方をした。「数え年」) 《加佐郡誌》 〈 年取島。住吉入江から舟出して油のやうな海を匂崎の一角を遶ると程なく左手に緑樹の鬱蒼として蓬莱山とも見ゆる小島が年取島である。(丹後旧年記に年取島は加佐郡田辺江中の島村也とある。)天正十年中院通勝卿左遷せられて此島にあった時国守藤孝は庵を結んで卿を住はせ、和歌の閑談あらせられて伊勢物語、闕疑抄、百人一首、捨穂抄、詠歌大慨抄、大平山家記等の編集をされた。ある時藤孝は卿を伴ひ舟を浮べて此の島に遊び互に好む和歌の物語りに閑談清話時の移るのを忘れ除夜を徹して此の島に初陽を迎へたので幽斎が此時名づけて年取島といったのである。 藻塩草かきあつめたる跡絶えて ただ年取の名のみのこれり。 後に通勝卿御勅免によって召帰されし時の餞別の歌に (家集) 忘れなよ翔ならへし友鶴の 飛とり雲井に立ち帰るとて (玄旨法印) (返し) 帰るべき雲井にたどる友鶴は 元の海辺を立ちははなれじ 通勝 此の中院通卿御帰りの後は也足軒素然と号された由。 〉 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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