お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから探索してください。超強力サーチエンジンをお試し下さい。 舞鶴は桜のうるわしい町。長年住んでいますと気も付きません、そうああこんなもんやない、と自分の町の良さも知らないのではないでしょうか。桜を植えるのは旧海軍が残した正の遺産かも知れない。悲しい歴史もゴッソリと秘められた桜でもありますが、舞鶴人としまてはこの文化を正しく受け継ぐ責任があると思っているのでございます。 どこが横綱かとかケヤキなどはすでに格付けがなされていますが、桜はないようで、ワタクシ流に勝手に番付をしていらぬことをしておきました。 舞鶴市民の木はゼッタイに桜。どこもヨコヅナ。
舞鶴の桜ではダントツの数を誇り、ナンバーワン。与保呂川沿いの7キロばかりに植えられた約千本の桜並木。東の横綱。 参照 「日尾池姫神社:与保呂川の千本桜」など 春のうららの与保呂川のせっかくの絶景なのだが、まとまって見物できるだけの場所がない。歩きながらの立ち見くらいしかできない。 ↓与保呂川の千本桜:亀岩橋の周辺 ↓与保呂川の千本桜:亀岩橋下より見上げる ↓与保呂川の千本桜:日尾池姫神社→亀岩橋 ↓与保呂川の千本桜:舞鶴医療センター横の桜トンネル ↓与保呂川の千本桜:万代橋→舞鶴医療センター 平成24年の冬は記録的な寒さ、桜の開花も約1週間遅れた、おまけに天候が悪い、桜も成長して茅屋の窓からも土手に咲いているのが見えるほどになった、これまでは小さくて家々の屋根に隠れていたのだが、そんな近くだけどもカメラ持って出かける日がない。この日はもう散りかけの19日の様子など。 25、26年は温かく、小学校の入学式のころに満開となった。 以下の写真は各年のいろいろが混じっています。ここはたくさんあるので写して回れば一日ではムリ。近くにもう何十年も住んでいてもまだすべては写せない。 桜の成長速度に比べて見物サービスのインフラやソフトは昔のままで何もないといっていいほどに遅れている。このままでは宝の持ち腐れか。「東の横綱」はただ桜だけに対するワタシの格付けで、桜周辺の人々や社会に対するものではない。 与保呂川千本桜の一番奥、与保呂水源池の桜。構内にたくさん桜はあるが、まだ若木である。開放されていない。しかしここは与保呂川の桜の原点のような場所である。 与保呂水源地の楼 舞鶴市の水道は、明治34年に開庁した旧海軍鎮守府の軍用水道としてその歴史がはじまりました。築造から100年を超え国の重要文化財にも指定されている桂貯水地をはじめ、岸谷貯水池、与保呂水源系統の施設、有路水源呆紋の施設など、旧海軍によって築かれた水道施設は、今日の舞鶴の水道の基礎となっています。 与保呂浄水場の桜は、大正末期に植えられて以降、昭和38年及び昭和56年の2度にわたり植え替えを行い、“水源地の桜”として多くの市民に長らく親しまれてきました。 しかし、平成10年頃から、樹勢が衰え花を咲かせなくなってしまいました。そこで、桜守の佐野藤右衛門様のご指導をいただき、桜が育ちやすい土壌づくり(右下図参照)に取り組み、平成20年度から3年計画でNPO法人「舞鶴ドリーム与保呂川を桜の天の川にずる会」をはじめ、与保呂、木ノ下、常地区の皆さまや与保呂小学校の児童、水道部職員OBなど多くの皆さまのご支援により、5種類の桜約100本が浄水場圏辺に植樹されました。ここに桜の名所が再びよみがえり、将来にわたり桜の花を楽しむことが出来るでしょう。 平成23年3月 貯水池に毒物でも投げ込まれたら困るとか、衛生管理上、安全管理上とか何かとアホげな理由をつけて開放されていなかったのだが、それなら由良川も全国すべての河川も水源となる所ヘはすべていっさい近寄ってはならぬとでもぬかすのであろうか。これは口実で何かほかにマコトの理由がありそうに思われる、大バカどもがぬかすイカレの極地のネゴトでどれほど皆が困ったことか。 しかし平29年度になると、オープンしますのメールがあった。もっと古くからそうだったのかは不明。天気が悪くオープン最後のこの日も厚い雲に覆われた日だった。まだ市民には周知不徹底か水源地のすぐ下まできているのに、「あそこは行ってもアカン」と判断するのか、近寄らずに引き返して行く車も多い。とんでもないドアホの悪影響は大きくコワイ。 この与保呂の水は下流域のワタシなどが飲むほかに、案内板にあるように、海上自衛隊にも送られる、その海自を狙ったテロでここに毒物が投げ込まれるかも、と海自はそんなことを考える程度のバカではなかろうが、その意向なるものを勝手にソンタクした市職員が、勝手にこうした処置に出たものかと思われる。ドアホどもとっては市民が死んでもかまわないが、海自に被害が出ると困るのであろうか。軍や原発などへのアホげなソンタクやサービスでなく、市民の意向をしっかりソンタクしてサービスすることこそがイッチョマエの市職員だろうが。いかにもドクソ官僚らしい市の腐り切った対応であったし、今も色濃く見られる傾向である。 軍都舞鶴はほかの町や村と違ってこうしたドアホが今だに見られる。イヤそんなことはしとりません、オカシイのが勝手に言ってるだけです、などと、どこかの首相みたいなことを言うではあろう、ドアホどもは保身だけはミゴトで、何の責任も取れない連中である。 しかしまだ木が若い、こんな桜が好きですの向きは別として、遠くからワザワザ見に足を運んでもらうほどのミゴトさはまだない。もう10年は待ってもらうほうがよかろう。良い点は駐車場、トイレ完備。 軍都の匂いを残すような所ではなく、河畔の桜の方がずっと自由でよい。 与保呂川の千本桜は日尾池姫神社あたりから海まで続く。 与保呂小学校から上流の方は、「里の川」の「里の桜」の自然と人間の暮らしが近い日本的な風情がある。 例の「世界一危険な通学路」の府道菅坂橋↑、いまだに何もなされていない。橋を新しく付け替える時に作ります、の仰天の返事という。お役所仕事の、クソ役人天国の不効率というかゼロ効率の好見本。日本社会のかかえるとんでもない非効率が、とんでもない危険性がここへ来ればマコトによく見える。こんな場所が日本国中くさるほどもあるのだろう、税金払うのも何もかもが情けなくまったくイヤになってくる。イヤこんなトコはイッパイあるで、何もここだけではない、まあテキトーでええわいな、が一般的な考え方なのであろう。腰をあげようとしない。桜よりも何よりもこちらを先に手を入れるのがスジかも知れない。 ここは危ないから早く渡りなさい、叫べども、うかれ気分の児童達はこの橋をわざわざ行ったり帰ったりする子すらいる様子、先生たちが抱きかかえるようにして渡していた。親御さんもわかっておらず、注意してない、自治会はあいもかわらず知らん顔、だろうか、そんな様子を桜並木が見ていた。 ふるさとの悪口言うのは何ともつらいが、ふるさとの子たちが危ないのに、ナンのこっちゃ顔の大昔からノンキというか無神経というのかバカというのが正解か、小さい時からここはずっとこんな状態であって、別にどういうことないんとちゃうん、アブナイ?そうかぁ?の感覚なのか、問題を問題として意識できていない様子で、どこにもこうしたお方は一人や二人はいらっしゃるが、ここは村全員が何世代にもわたってそうしたことで、言うてもアカンのそんな府も府なら、市教委も市教委、住民も住民、父兄も父兄のお互いが仰天同士のところである、教育に対する超デタラメぶりはこれだけではなかろう、ここはこんなことですが、ほかではしっかり出来てます、などは考えられない、一事が万事で、これを見ただけで、すべてを判断して大きな誤りはない、まことに情けなく、子育てもまともにできない、それでもオトナのつもりなのか、これでは愛郷心も音立てて壊れ死んでいくように感じるのである。ちゃんと全力でとりくまないと子どもが死ぬだけではない、みんな死んでいってしまう。何でもカニでもあまりに過保護にしすぎるのも問題だが、小1や小2くらいまではやはり安全な歩道がいると私は見ている。 もちろん村も高齢化して小さな村ではいろいろな組織の役員などが毎年のように回ってくる。村仕事もある、大変なことはそうだろうが、しかしそれでも子ども安全はやはり最優先されるべきものであろう。 さらに書けば、与保呂小学校の生徒は毎年1〜2人のペースで減り続けている。30年ほど前には各学年2〜3クラスあったが、今年度の新一年生は20名だとか、やはりだいたいこのペースが続いているよう、従ってあと10年もすれば1ケタの学級となり、そうなれば学校の統廃合が出てくるし、村もいよいよ滅亡寸前である。 仮に新にして橋に作り替えて歩道もできたとしても、そのころにはもう学校はなく、ここを子供達が歩くこともないし、村人が歩くこともないかも知れない。 もう何十年も昔、桜はまだヒョロヒョロであったころ、このまま行ったら学校もなくなるな、の話題が青年団などでは出ていたことがあるが、ダレも何もせず、桜樹はいよいよ成長し見事に見頃になってきたが、人はいなくなり村が学校が消え去る日が目前に迫ってきた。そうした崩壊寸前の最後の一瞬の光だと意識して見て下さい。 与保呂の千本桜を車で見にこられる方も多いよう(そうしか手軽な方法は用意されていない)、与保呂の道はどこもこんな大変危険な道です、桜に気を取られていると危ない、どうか気をつけて走って下さい。 桜見物はこの橋からも土手へ出られるので、ここから歩かれてもいい。 菅坂橋から亀岩にかけては、府道から離れるため、車では行けない。里山、里川、里桜の風情は失われる。 草花など植えられていないとイノシシ除けの柵の外側になり、人間社会からは離れた奥山的、獣の領域的に咲く自然の桜のような感じになる。 だいたい5メートル間隔くらいで桜樹が植えられている。できれば、路の反対側にも植えると、将来は桜のトンネルになる。 与保呂小学校は入学式の日のよう、終えて記念撮影中。 あと何年のあいだ、こうした光景が見えるのだろうか。 どこかの園児たち、しもから土手を歩いて来たようで、ここで弁当を済ますとまた歩いて帰っていった。 結構距離はあるが、園児の運動にはちょうどくらいのものかも知れない。 与保呂川の河原の所々にこうした河川公園のようなものが作られている、また今も作るための工事が進められている。桜を見ながら弁当を広げるにはよい所である。 ただ駐車場もトイレもなく、弁当だダンゴだお土産だ、などは考えたこともない、まだまだ工夫努力が求められよう。 キレイヤよ、と言うくらいで周辺の住民に主体性がない、誰かがやってくれるのだろう、手とり足とり、オンブにタッコですべてやってくれるのだろう、ワシらがやるのはオカシイ、そんなことを言ったりしたりする者はオカシイ、くらいの認識しかない。ワシの故郷だ、ヨシ、ワシが植えたる、具合の悪いとこはようしたる、などの当然持つべき意欲はゼロのままである。舞鶴全般に当てはまる傾向だが、特にこの周辺は強いかも… ↑ 人ばかりが喜んでいるわけではなく、生き物すべてがうれしそう。川をコンクリートで固めてしまうとこうした生き物がいなくなり、人も来なくなろう。 ↑ すぐに散ってしまう、路も川も散った花びらだらけ。茅屋は与保呂の桜からはずいぶん離れているが、玄関を出ればその前の道路には花びらがたくさん落ちている。どこから飛んできたものか。ひさかたのひかりのどけき春の日に しず心なく花の散るらん、だったかの感傷がわく。 以前は川は見て頂けるようにものではなく、川一面背の高い萱草茫々で川はどこにあるんじゃの状態で川を写すのは難しいことだったが、こうした落差工事が進み、今はずいぶん美しくなって子どもが遊べる「里の川」状態になってきている。問題はあと人間と社会がどれだけ美しくなるかだけか… ここは与保呂川千本桜を代表する美しい場所、しかしたいへんにヤバイ、事故がないのが不思議なくらいなところ。歩道などはあるわけありませんから、できるだけこちら側を歩いて下さい。ボンボリ立てて、どうだ見てくれということだろうが、実際にここを歩いてみろよ、「危ないな、ここは」ときっと言う。 安全の確保が難しい場所はたとかどれほど美しくとも、注意もないままに人集めの宣伝などするものでないと考える、道路拡幅など安全対策もやってもらいたい。私も宣伝しますが、ヤバイ所はヤバイというようしております。 両岸に桜がある箇所はあまりない。両岸にあるところは与保呂川千本桜でも貴重な場所になり、ほっておいても人がやってくる。 ↑ 「婚前撮影」とか。ロケ地にもなるよう、高浜から来たとか言っていた、大人数で撮影が行われている、女性カメラマン(おかしいが)ばかりだった。そこでは先に汚い小屋(失礼)があってジャマだろうし、川は萱草が茫々で与保呂の名水の川面が写しにくい、動画撮影はこの場所ではムリ、重い機材があるし歩きにくい服装のモデルだから道路から遠いとムリだし、車が近くに停めれるどこかに写真や動画ロケ用の場所を作らないといかんな。ちいとがんばって与保呂川の千本桜の文化財指定までは持って行きたい(言うてもアカンとこなので言わないが…)。 保育園もやってくる。園のバスが留まれるだけの場所もない。 亀岩橋より下流↓。かなり町的な風情になってくる。 与保呂川の千本桜の代表箇所:国病横。ここはスゴイ、白衣の先生もカメラを構えていた、桜を逆光で、上手な先生かあるいは…。ここも片岸だけだが、片岸に2列に植えられている。 ↑ 川沿いばかりでなく、近くの公園の桜、貫禄はここの桜が上か。 国病から下流にもまだまだあるが、またそのうちに写します…
西の横綱。ネット検索では超ダントツの超人気。舞鶴市指定文化財。伝説のしだれ桜。向かって若木(樹齢100年)と老木(300年といわれる)。 詳しくは 「瑠璃寺のしだれ桜」 ↓瑠璃寺のしだれ桜(舞鶴市吉田) 今年は特に色がいいとか。青空の日差しがあれば、桜が冴える。さながら流れ落ちるような花の滝。
一本だけで頑張っているえらい桜。何の宣伝もないがその下は蹊を成す。しだれ桜の穴場。番外。舞鶴市上福井のKTR(北近畿丹後鉄道)四所駅前のしだれ桜。村人はもちろんとして、いろんな人がやってくる。この桜もまことに見事でございます。 今日は観桜懇親会のよう。上福井区民の皆さんが、ゴッツォ持ち寄って集まっておられた。近くの増茂庭園舎の社長さんは趣味の広い方、おソバだって達人。 『舞鶴市史』は、 岡田上、中、下三か村及び八雲村の一部の応召者は死所あるいは死傷に通じるといって、最寄りの四所駅からは出立せず、舞鶴駅まで出掛けて乗車していたのも笑えぬ事実であった。 としている。そんなことなどもう誰も覚えてはいない、のどかな春の日である。
風土記にも名のある爾保崎、近くで銅鐸が出土した古い土地。陸軍の演習砲台の跡地でもあり、それらしい遺構も見える。陸軍時代からの桜なのかは不明。190本ばかりあるらしい、古木もあり、桜好きのカメラマンにお薦め。西の大関。
ワタクシの子供の頃は(おおよそ50年も以前)は、舞鶴の桜といえば、共楽公園と決まっていた。この山全体が花見客でごったがえして、その客は今のようには品はよくはなかったな。あの時代も、共楽公園もすでに過去のもののよう。桜も植え替えられたのか、450本はほぼみな若木になっている。しかし公園を管理する人間の心は古い昔のままか、若木は育っていないよう、大昔のままにやらなければと思うのか、カネがかかり努力がかかっている割には、昔のママに俗っぽく安っぽい印象を受ける、今のセンスからはもう行きたくないの感がする、衰頽する大関か。 そんな大昔のままにか、サービス精神のつもりか、ヘタな歌をヘタな再生機でガンガンと鳴らしているが、やめた方がいいとワタシは思う。誰もこんな所へヘタな歌など聞きに来るのではない。どうしても鳴らしたければ、もっとセンスのある曲をもっと高価な再生機でもっともっと小さな音で遠慮しながら流すのがよろしいでしょう。 舞鶴鎮守府の岡が見渡せる位置にある。舞鶴軍港の要部がよく見えて共楽公園は海軍の山だと思われる。 「舞鎮も水交社もきれいなきれいな建物でしたよ。何ですか、あそこに建っている建物は、公務員官舎ですか。品もクソもありませんね、悲しいです。ナンであんなヘンなもん建てるんでしょうね」などと嘆かれる安っぽいヘンな公務員宿舎が2棟建って歴史と文化と景観と自然を破壊している。この岡の周囲は老木で覆われていてヘンな建物が隠されていたけれど、それも全部伐ってしまったようで丸裸、木を伐ることしか知らんと、さすがに名にし負うクソ公務員ども。亡国の徒と自己宣伝されているのか。ここに住む者どもを総動員して桜でも植えられて、せめて自分らが住んでいる周辺だけでも森を再生されたらどうですか。それともゼーキン持ってくだけですか。
八重桜なので、ソメイヨシノよりも2週間は遅れて咲く。「桜が咲いた、春が来た」の春のうららの喜びの感情を忘れたころになる、生け垣がツツジだが、その花が咲きかけるころである。気象情報などではもうとっくの昔に「桜開花状況」などというものが消えてしまってからである。 ほかの桜と違い、ここへ来てうかれていたりはできない。ここの桜は慰霊と鎮魂の、痛恨の反省の桜である。 昭和33年には一応引揚事業は終了し、現在木工団地になっている所にあった引揚援護局の建物は、昭和44年10月にはすべて取り壊されたが、その痛恨の歴史を残すため、引揚港や援護局を見渡せる高台に建設された公園。舞鶴市と京都府が共同で作ったもので、マコトの戦争責任者である国が作ったものではない(昭和45年3月完成)。こんな国が「国を守る」などと言う時には注意が必要である。そんなことはするわけがない、ヤバくなれば一番最初に逃げ出すと、歴史は教えている。 引揚者から贈られた八重桜が、頂上のぼり道の両脇に101本植樹されている。そのほかに地桜・ソメイヨシノは約20本ばかりある。 贈り主(引揚者)の名が書かれた柱がそれぞれ添えられている。悲しい歴史をもつ公園の桜である。 頂上の広場 戦没者への弔意と世界の恒久平和を訴える「平和の群像」、ふるさとを思いながら異国の地で亡くなった人々を慰める「望郷の碑」、舞鶴の婦人会等の活動に感謝しての「ああ母なる国の碑」、岸壁の母の歌詞と異国の丘の歌詞が刻まれた「歌碑」がある。 下の記念館に展示していた、ちばてつや氏の原画。雨と疲労と空腹でこうして亡くなっていった、ここまでたどりつけなかった人々もまた多かったことも忘れてはなるまい。これが戦争の厳しい結末。まだまだ「残留孤児」だとか、まだこの問題は残っていて、過去のハナシではない。この人達の遺骨も拾われてはいない、なにもかもほったらかしで、またまた戦争をしようなどと馬鹿げたことを考えてはなるまい。
↓ 北吸桟橋の桜。 軍艦の泊まっている所。「護衛艦」「自衛艦」などと大本営語のようなニセ日本語はもう使わないでおこうでないの。ここにいるのは軍艦です。軍艦基地の桜。70本ばかりあるそうです。 イージス艦「あたご」「みょうこう」や輸送艦「ましゅう」などがいる艦艇基地。米海軍軍人はここを"navy base"と呼びます。国道27号線を挟んで向側の総監部や宿舎周辺も美しい。 ↓ 大波街道の桜。約80本。 ↓ 白鳥街道の桜。これだけです、数えてみて下さい。 ↓青葉グリーンロードの桜。約200本とか。 サイクリング・ロードに整備されているが、以前は鉄道の引き込み線で、私の子供の頃にはまだ使われていた。「日本板硝子」工場用のガラス原料を満載した貨物列車の長い長い連結車が1日1回くらい通っていた。 その以前は第三火薬廠で、軍事火薬をこの一帯で生産していた。戦艦大和の砲弾用火薬も回天の弾頭火薬もここで作られたという。そしてこの鉄路で搬出された(たぶん)。 今は歩道(サイクルロード)↑になってる所に線路があlり、それは戦争用の火薬を運ぶためのものであった。 |
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