丹後の地名

志高(しだか)
舞鶴市志高


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京都府舞鶴市志高

京都府加佐郡加佐町志高

志高の地誌




《志高の概要》

志高は舞鶴市の西部。由良川左岸に位置する。もっとも広く水田が広がった所で、この地方の中心地である。舞鶴市の加佐分室がある。
041020の23号台風による由良川増水のため37名が乗ったバスが立ち往生して屋根の上に取り残された事故があり、全国的に有名になったが、それは当地の話である。
↓トラックとトラックとの間の右手のユリノキがバスが流されないようにと結びつけた木である。何とも頼りなさそうな木に見える。
バス水没現場の現在の様子(志高下境)

 古代の『和名抄』の志託郷。高山寺本の訓には「之多加」とある。
丹後風土記残欠にも記録があり、それは「荒蕪」と書かれている。シグキとかシタキ、シタカなどと読まれている。
志高(千葉県香取郡山田町)、志多賀(長崎県上県郡峰町)とか、あるいは尻高(しったか)(群馬県吾妻郡高山村)など、全国的に見られる地名で、たぶんウチシダクなど古語にみられるシダクという荒蕪の地をそう呼ぶのでなかろうかと思われる。日子坐王が踏み荒らしたとかいうのでなく、川の氾濫地で荒れていたのではなかろうか。あるいは鉱山の鉱毒などで荒れていたかも知れない。写真のあたりは現在は整理された美田が続いている中を、由良川堤防建設工事が始まっている。

 中世は志高荘で、室町期に見える荘園名。「「丹後国田数帳」に「一 志高圧 廿三町一段百七歩内」とある。
広隆寺縁起には「今上皇帝有勅、永於当寺、勤修上件法会、故毎四時至今修焉、今上皇女御、以丹後国志高庄、而為薬師如来燃燈之料也」とあり、村上天皇の女御から薬師如来の燃灯料として広隆寺(現京都市右京区)に寄進された、これが事実ならば当荘の成立時は平安中期にまでさかのぼるという。薬師と縁がありそうである。

由良川の対岸には岡田下橋で結ばれた川向の集落がある。浄土真宗本願寺派古城山光明寺があるが、ここも志高である。
明治20年代の戸数163戸、うち自然堤防上に36戸あったが、明治40年の洪水で24戸が流失、その後、堤防上の家屋は既成の山脚集落の間や奥地に割り込み、また一部は付近の谷々に集団移転したという。

志高村は、江戸期〜明治22年の村名。志高は明治22年〜現在の大字名。はじめは岡田下村、昭和30年加佐町、同32年からは舞鶴市の大字となる。


《人口》454《世帯数》134。

《主な社寺など》
岡田下橋上流付近に志高遺跡
薬師地区の丘陵腹部に薬師谷古墳
館の山頂に中世三上飛鳥之輔宗玉が拠ったと伝える志高城址
於能知神社
岩倉神社
愛宕神社
秋葉神社
稲荷神社
曹洞宗桂林寺末東光山宏玄寺
山城国宇治郡醍醐寺末宝寿院

《交通》
国道175号線

台風23号(H16.10.21)による由良川増水でバスが国道上に取り残され、バスの屋根に避難した客など37人あわや全員流されるか、という危機一髪の事件があった。もう忘れてしまった人も多いかも知れないが、50年に1度くらいの割で、由良川はそれくらい増水する。何の記念碑も無いが深く記憶に刻んでおかねばならない出来事かと思う。
イナゴ街道(国道175号線)の舞鶴市志高の市の加佐分室や志高神社前から下り、事故現場まで。カナディアン・メープルの緑か美しいが、その時は、ちょうど行き交う10トントラックの屋根の高さまで増水した。今は堤防が作られようとしている、画面の右手に赤土の土手が見えるがそれである、これが完成すればもうあんな事故は二度となくなるかも知れない、この部分では。




《産業》
無煙炭の志高炭鉱があった大正初期まで採鉱された。

↑ビデオの信号機のある交差点を右へ行けば、岡田下橋を越えて久田美で、医王寺廃寺がある。左へ行けば東光山宏玄寺、その裏の谷筋は薬師谷と呼ばれ、渡垣山福蓮寺があった。渡恒山福蓮寺とする文献もあり、恐らく渡恒山、トコ山、東光山だろうと思われるのであるが、その跡地に薬師堂がある。
どちらも薬師であり、両岸が古くからの鉱山地であったと思われ、よりさかのぼれば陸耳御笠、オニの拠点の一つではなかっただろうか。

《岡田下橋》
岡田下橋と由良川(舞鶴市志高)
『郷土史・岡田下』
 〈 岡田下橋の建設
 昭和十九年、岡田下橋(木造)が架橋されるまでは東西の交通はすべて渡し舟に依存していた。人はもとより、車も牛馬もこの舟によらねばならず、危険と不便はこの上ない状態であった。(渡し舟の通航路は、現在の岡田下橋のやや下流付近であった)。
 明治四十四年に久田美口(現在地)に小学校が統合されてからは、西地区の幼い児童たちの登下校も、また岡田由里の高等小学校へ通う東地区の生徒も、この渡し舟を利用せねばならず、志高田んぼへ耕作に行く人も、牛も車もみなこの渡し舟であった。
 大川神社の春祭りになると、丹波からの参詣人が丹波峠を越えて、引きもきらずこの渡し舟を利用したし、また舞鶴地方から由良川筋への交通もこの渡し舟であって、とにかく往き来のはげしい場所であった。
 更に不便なことは、少し雨が降りつづくとたちまち増水し、平素の清らかな、柔和な流れは一変して濁流と化し、滔々と矢のような流れとなり、暴威を振るいはじめる。船頭が二人に増員され、櫓と櫂で岸沿いにずっと上流の方までのぼって渡らねばならず、更に増水すると舟止めになる。すると大川橋か地頭橋まで遠回りをしなければならなかった。「渡しの舟がとまった」ということは相当な増水を意味し、次の氾濫を警戒する必要があった。
 渡し番(船頭)は、舟戸部落三十余戸が輪番でこれに当たったが、明治四十年の大水害以降ごろから、専任の人を数人、村が委嘱してこれに当たらせた。そのために舟着き場に船頭の寝泊りする家と、舟を待つ人の休憩する小屋があった。
 また古老の話によると、村外の人からは渡し賃をとったが、その額は明治の末ごろで二銭であった。
 このような状態の中で、橋を架けてほしいという願いは皆が一様にいだく、きわめて強いものであったが、何分にも多額の費用と、水害時に流失のおそれが多分にあるため、延び延びになっていた。
 昭和十二年になって、村長真下一夫が発議するなど村会でも架橋の議が出され、実現の方向へ動き始めた。架橋に至る経過は大体次の通りである。…
▽永久橋の建設  このように復旧、流失の繰り返しが続いたが、一方では永久橋の架橋に村長今西弥一郎らが百方画策、たゆまざる運動を展開し、ついに府当局を動かし、昭和二十七年から、三カ年の継続工事が施行される運びとなり、永久橋への明るい見通しが立ち、やっと愁眉を開くことができたのであった。
 同二十七年六月二十二日、ボーリングによる地質調査が始まり、第一年度には五百万円で、飯野建設株式会社によって工事が施行されることとなり、同年十二月七日永久橋の鍬入れ式を行った。
 同二十八年、同二十九年と大小の水害にも度々会ったが、永久橋工事は順調にはかどり、同三十年三月末、立派に完成した。延長一五二メートル、幅員四メートル、総工費三千八百万円、全額府費によるものであった。
 同年四月十一日、午前十時半より渡り初め式を挙行、小学校において府知事臨席のもとに盛大な竣工式を催した。地域民一同は、どんな水害が来ようとも微動だにしない、近代的な、しかも堅牢な永久橋を目の当たりにして、過ぎし日の渡し舟の時代、木造橋架橋、流失、復旧と繰り返したあのいたましい時代を思い浮ベながら感慨深く、その竣工を心から喜び合った。
 その後、この橋の東西に照明灯も設置されて、より安全な近代的な永久橋となった。
 以来この岡田下橋は交通の要衝として、よくその責めを果たして来たが、社会情勢の急激な進展と、それに伴う交通量の増加は、その幅員の狭さを感じさせ、現在重量制限を余儀なくされている。  〉 



志高の主な歴史記録

《丹後風土記残欠》
 〈 志託郷 本字荒蕪

志託郷、本字荒蕪。志託ト号ル所以ハ、往昔、日子坐王官軍ヲ以テ陸耳御笠ヲ攻伐ノ時、青葉山ヨリ墜シ之ヲ遂ヒ、此地ニ到ル。即チ陸耳忽チ稲梁中ニ入テ潜匿レル也。王子急デ馬ヲ進メ其稲梁ノ中に入テ、殺サントセントキ、即チ陸耳忽チ雲ヲ起シ空中ヲ飛ビ走ル。南ニ向テ去ル。是ニ於テ、王子甚ク稲梁ヲ侵テ荒蕪為ス。故其地ヲ名ツケテ荒蕪云フ(以下十四行虫食)  〉 

《注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録》
 〈 一 志高庄 廿三町一段百七歩内
  十四町八段百八十歩    杉若三良左衛門
  八□□段二百八十七歩     不知行  〉 

《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 志高村
東麓山宏玄寺は村中の位牌所なり、岩倉明神天神の社あり渡垣山福連寺は薬師如来の利生を祈なり
昔一色左京と云うもの奥州信夫郡より守り奉る由、一色作の千体仏あり、三上飛鳥之助城郭の跡あり今は愛宕を勧請す、飛鳥之好け後に三上宗心と云ひ倉谷左武ケ嶽をかけもちにしたりよし  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 定免六ツ五分
志高村 高七百五拾三石七斗六升九台
    内五拾三石九斗五升弐合六勺 万定引
    百五拾石御用捨高
 古城 三上飛鳥之助 別ニ宗宅ト有又相応ト同佐武ケ嶽掛持トモ云
 岩倉明神 村半分氏神
 天神  同断
 薬師堂  渡垣山 福蓮寺 今ハ小庵
 宏玄寺 東麓山 桂林寺末  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎志高村(大川村の次)
【天満宮】
【岩倉明神】
【渡恒山宏玄寺】(曹洞宗)
【薬師堂】
元渡恒山輪蓮寺といふ寺なりしがいつの頃よりか廃寺となる、其跡なりとて薬師堂あり、其傍に小庵残る。
【三上相庵城墟】
三上相庵三上飛騨之介といふ、後に入道宗庵と改む、又宗宅、宗室。
 【付録】(不動、愛宕、八幡宮、天王社、稲荷、観音堂、弥勒堂)  〉 


志高炭鉱について志高神社
 →写真は舞鶴市加佐分室の隣に鎮座の「志高神社」。
写真の水平はピタと出してある。何かおかしくない。
この地下に炭鉱の坑道があり、そのためか地盤が沈下して鳥居が傾いたといわれている。

《加佐郡誌》
 〈 志高鉱山。所在、岡田下村字志高。位置、南端は国道に向って坑口を開き、由良河谷の河辺に蛇行している一連の山脈中に在って、其の北端は河岸を去る約二十町の地点にある。地層、中生代に属し、礫岩砂岩及頁岩より成っている。炭層、右に述べた所の岩石間に介在して三層になっている。第一炭層は炭幅六尺、第二層は七尺、第三層は六尺、三尺、廿尺の三小層にわかれ各小層は互に数尺宛隔っている、向は南から北で、七十度の傾斜をなし各層は互に並行している。炭質、良質の半無煙炭で長門及肥後のものに酷似して骸炭性を帯びている故に、コークスの原料としてよいものである。現状、最近まで発掘してその炭量も約六一六、三四五〇万噸であったが、現在は中止している。  〉 

《舞鶴市史》
 〈 志高鉱山
中世層の志高層群に含まれている。炭層は最上位にあうて、一.二メートルの厚さの無煙炭が二枚はさまれ、その他きわめて薄いものが数枚認められる。大正年代の初期まで採掘されていたが、その後廃坑になっている。  〉 

《岡田下村誌》
 〈 志高炭鉱
志高炭鉱はその炭層を最初発見したのは慶応元年旧田辺藩で試掘したが中途廃止せられ其後十七年を経て明治十八年越前の人阪本某来りて継続し若狭より船を廻漕して小浜に送り石炭焼に使用した。
明治二十一年丹波氷上郡の波部某これを買収し長野見取下の二ヶ所より探堀を始め更に買主は転じて仝三十八年大阪中材三郎は相當な設備を施して採炭を行ったが、大正六年七月神戸市の菊池菊藏来ってこれを継続し其後四、五名の鉱主異動して経営した。
昭和十二年島根県肥田理吉は株式会社組織にて経営し戦時中の政府より出た相当多額の助成金をもって大々的に採掘したが終戦と同時に政府の助成金は絶中したために昭和二十二年遂に休止となった。  〉 


伝説など

《岡田下村誌》
 〈 血の段
志高宏玄寺の左側に小高い丘があるが、これを血の段と云っている。これぞ天正の昔志高落城の砌彼我スリ乱れて屍山血河を演じた激戦地で、寓目粛々風尚なまぐさい丘であるから期せずしてこの名称が生れたのである。治に居て乱を忘れずとか泰平に生をうくるものは須くこゝを弔って深く反省すべきである。
志高城
志高小字館の山頂にあって現在の愛宕山である。山上に東西三十間、南北五十間の平地があるが、こゝに永正年間一色族の幕下三上飛鳥之輔宗宝が居城を築き其の英姿が恰も鶴の舞ふが如くであったので之れを舞鶴形と云ふと傳えている。天正年間、細川族の幕下長岡軍勢のため落城したが近世に至り其の旧蹟より刀剣を堀出したものもある。
次に傳説による志高落城の一巻を挙げて見よう。天正の頃永禄の年間、志高城主を山崎守といった。附近の小城を抜いて勢ひ盛であった。或夜のこと、東方に当って幾千とも知れぬ松明の灯が見える。舞鶴城の兵が攻寄せたのである。一人の臣は山崎守の前に出てかくと告げた。驚いて立出づると、こは如何にもう城前五六町まで押寄せ来る。直ちに武器を採って無二無三に攻下した。如何に強い舞鶴兵でも志高魂に練り鍛へた勇士には叶ない遂に四散した。その後幾度も戦ったが城兵よく防いで落ちず恰もこの城は鶴が羽を拡げた形をしたるので若し志高勢が不利になっても、その鶴が羽ばたいて舞上って、どおしても陥れることが出来なかったと傳えられた。それで或る時田辺城主の一勇士、或る夜ひそかに窺ひ見るに案の走志高城の形は鶴によく似ている、あの翼さえ切落せば容易く落城すると判断しこの事を城主に告げた。之れを聞いた田辺城主以下手を拍って喜こんだ。程経て、志高軍の不意をうかゞい数万兵を以て襲撃し、五六十人の先進隊はとうとう鶴の翼を切落して一時に四方から攻め立てた。あゝ志高城−運命は旦夕に迫った−山崎守は最後の一戦を下知する。藩戦数刻、決死の忠勇武士も衆寡敵せず。城主以下悉くしろをまくらに討死した。あわれあわれ志高城、月は荒城の上に映えて風に泣く老松のみ栄枯盛衰を物語っている。
因にいう。現在志高に山崎姓が五六家あるがこれは川崎守の末裔で、又迫尾姓の祖先は山崎守の臣下であったと口碑している。

陣屋
志高薬師谷の行者山、参道一帯を陣屋と称えているが、こゝは天正の頃志高城をから川より攻撃せんものとこゝに陣営を張った旧蹟である。

長池の大なまづ
志高の長池に大なまづがいてこれを見たものは発病した。岩倉神社建立の際社殿を長池に正面して祀ったのでこの災難は解消したと云ふ.現狂の志高神社も同様長池に面している。

雨乞ひの石塔
志高長池の俗称、出島の池底に梵字を彫った五輪の石塔がある。古来こゝで我々の祖先は雨乞ひの祈祷を行った所だと傳えている。  〉 

《ふるさと・岡田中》
 〈  古事記や日本書紀は、神話伝承の記録を元にして編纂されたものであると言われているが、大和朝廷と丹波国は特に関係が深く、開化天皇の御子日子坐王(彦座王)を四道将軍の一人として丹波に派遣し治めさせた。四道将軍とは北陸・大彦命、東海・武淳川別命、山陽・吉備津彦命と丹波・彦坐王の四人である。当時、青葉山中に、陸賀耳御笠と匹女を首領とする土蜘蛛がいて、猛威を振い人民を苦しめたので、彦坐王は勅命により討伐にやってきた。鳴生、爾保崎、志託、血原、楯原、川守で戦ったことが地名縁起に伝えられている。
 彦坐王は青葉、鳴生、爾保崎の戦の後、蟻道御地原まで追いかけて、匹女を殺害した。この戦で一面血の海となったので、血原(千原)という。御笠は降伏しようとしたが、日本得玉命が下流からやってきたので川の上流に逃げた。彦坐王は楯を並べて川を守った。これが楯原、川守の地名の起こりであると。御笠は反転して川を降り、由良川の畔の田に隠れた。彦坐王は稲中に馬を乗り入れて攻めた。陸耳御笠はたまらず雲を呼び空を飛んで南に去った。この戦によって稲ははなはだしく蹂躙され、荒蕪(しぐき)となる。故にこの地は荒蕪後志高に変わったという。彦坐王は御笠を更に由良まで追いかけたが見失ったので、石を投げてその行方を占い大山に逃げたことを知った。故にこの地を石占(石浦)という。彦坐王は御笠の小勢であることを察し屈強な若武者五名を撰んでひとまずこの戦いを終わった。
 石浦、和江、八戸地といずれの道を撰んで逃げても漆原の地に行くより外はない。五名の若武者は漆原の地を探索し、更に下見谷まで追跡した。御笠は止むなく赤岩卯之尾の大山を越して与謝郡に向かって逃げた。若武者らは山また山の追跡に疲労重なり、赤岩山のゴラ場で遂に御笠を見失った。間もなく、年長の武者は斃れてしまった。この武者は源氏の蔵人と名乗る武士で、永く武威を称えるためこの地を源蔵と呼ぶようになった。  〉 

《郷土史・岡田上》
 〈  今の丹後のことについては、わが国で最も古い記録「古事記」「日本書記」によると、崇神天皇の条に「日子坐王をば旦波国に遣して、玖賀耳之御笠を殺さしめたまひき」とあります。この日子坐王とは天皇系譜によれば開化天皇の子が崇神天皇で、崇神天皇の弟にあたっています。玖賀耳之御笠について「丹後風土記残欠本」には、「古老曰当于二御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)之御代当国青葉山中有二土蜘一曰二陸耳御笠一者而其状賊ニ人民一故日子坐王奉レ勅伐之」とあって、その意は崇神天皇の御代青葉山に住んでいた首長陸耳御笠が朝廷に服従しないので、朝廷から派遣された将軍によって平定されたということです。同風土記は、陸耳御笠軍との戦闘の地が由良川筋であったことを詳しく書留めていますので、要点を紹介しますと、志高は荒蕪(しぐき)の訛であるとして、王が稲梁の中に潜伏の土蜘を探索し、王がいたく稲を荒したことに起因すること、大江町千原の地名は王がここで陸耳匹女を殺して血原となったこと、またこの時陸耳御笠は降伏を思いたったが、下流から大和得玉命の軍が追撃してきたので、急に川を越えて遁れようとしたが、対岸では官軍が楯を列ねて矢を放ち上陸を阻んだので、陸耳の党は蝗の飛ぶ如く死に流れていった。故にこの地を川守(河守)、楯原(蓼原)というと、また激戦中上流より一艘の舟が忽然と下ってきたので、王はこれに乗り土蜘を追ったが、由良港で遂に見失ってしまった。そこで王が石拾って占ったところが石占(石浦)であり、既に与謝の大江(大江山)に登ったことを知った。また舟は蓼原に祀って舟戸神としたと結んでいます。  〉 

《舞鶴市史》
 〈 薬師古墳   (志高)
 大正の末のころ、志高小字薬師に古墳が発見された。ここは昔、馬鹿殿様がいて扱いに困り、家来が石のカラト(石室)を作り、火の雨が降って来るといって、この中へ押し込め石蓋をして封じ込んだという。  〉 


《舞鶴の民話2》
 〈 長池の大ナマズ (志高)
 志高神社は長池に面している。そこの小学校の友が古老から聞いたと私に話してくれた。かわった話なので記す。
 むかし志高の長池には大ナマズがいたという。村人はこのナマズをみるのをさけていた。村人でこの大ナマズを見たものは、原因不明の病気になったという。
 その後志高の岩倉神社を建立するとき社殿を長池に正面してまつったので、この災難はなくなったといわれる。現在の志高神社も同様、長池に面しているのである。
 またこんな俗謡も伝わっている。
   志高長池にゃ 蛇がおるじゃげな こわい蛇じゃげな ウソじゃげな
 この池の周囲は大きな竹がうっそうと深い竹やぶで、長池は水面黒く青ずみ、いかにも大蛇が住んでいそうな所で、村人の中には大蛇がいたのを見た人もあった。この大蛇は時には美しい女にばけることもあったとか。じっとみていると、だんだん池の方にいきたくなるし、女もにこりと笑っているようだ。神社の方に振りかえると、はっと正気にかえるのか、お社の方に歩が進み、しばらくして池の方をみると、大蛇が大きな口をあけ、長い舌をぺろりぺろりと出している。
 更にまた、旧岡田上村の桑飼下に上池、下池というのがあり、これが志高の長池とつながっていて昔庄屋の一人息子が行方不明になったことがあった。この息子にはヒョウタンを腰につけ、それに住所を書いておいたという。不思議な事にこのヒョウタンが長池に浮いていたそうな。  〉 

《郷土誌岡田下》
 〈 渡垣山福蓮寺  (志高薬師谷)
  本尊 薬師瑠璃光如来
 日光、月光菩薩、十二神将
 毎年七月六日(陰暦)供養祭を行い、六十一年ごとに開扉経会を厳修する。
 伝説によると、古代武州(埼玉県)三浦郡轟の里に味触院という寺があり、福建と呼ぶ僧侶がいた。ある夜、薬師如来が霊夢に現れて「丹後国に由良川あり その川上に勝地あり、吾汝と共に行き、有縁の衆生を救わん」と告げた。霊夢は数度に及んだので、福蓮はその仏命に従い、丹後に行脚の大願を起こし、垣の内の梅の枝を手折って、老の身を助けるための杖とし、如来像を背負うて百五十里に余る道を遠しとせず、山を越え、川を渡ってようやく尋ねて来たのがこの薬師谷であった。ここに伽藍を建立して聖像を安置し、広く衆生に結縁して無量の利益を施したので、山を渡垣山と称し、寺を福蓮寺と人々が呼んだという。
 その後、桑飼村の館主一色了雲が深くこの如来を信仰、日光・月光の二菩薩及び十二月四季を守り給うといわれる十二神将の尊体を造って文安四年(一四四七)七月七日、安置した。
 天正七年(一五七九)細川藤孝が田辺を攻めて建部城主一色式部義道を滅ぼし、続いて志高城を陥れた時、本堂も兵火にかかり全滅の惨状を見たが、その後、村民が小堂を建て祭祀していた。しかし、星移り年変わるに従い、聖像及び二菩薩、十二神将の尊像が破損したので、時の庄屋市郎兵衛及び仁左衛門らが力を合わせて再興に努力し、広く有志の寄進を受けて再興したのが元禄二年(一六八九)閏二月十一日であった。しかし、この堂宇も明治二十九年の大水害による山崩れに全滅したので、同三十二年三月、時の総代森野庄次郎が発起人となって、滝本尚徳その他多数の人々の篤志により再建したものである。堂宇の広さは百数十平方メートル、境内地は六七三平方メートルである。(写真28)
 毎年八月六日を例祭日とし、薬師谷の人たちをはじめ、近辺の者が清掃してお供えをし、宏玄寺住職、老人会や有志多数が参篭籠てお祭りを行っている。  〉 




志高の小字


志高 下境 天神前 尾ノ内 宇谷 見取 見取下 出羽 倉ノ谷 柳谷 細迫 間 間口 菱上 新田 野田 大田 サオリ 館 先田 石橋 馬場 宮ノ前 長野 岡ノ前 大坪 萩原 楮子ノ木 薬師 出口 三反田 上境 薮下 スドロ 上野 カキ安 舟戸 岡安 大畑 杉ケ尻 浅 シゲツ 川向 花ノ木 山ノ内 碇山 由里山 平田 丁ケ坪 天神ノ下 榊田 コヤノウシロ 池ノ尻 横枕 松ノ向


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福井県敦賀市





【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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