白糸浜神社
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
京都府舞鶴市浜 京都府加佐郡新舞鶴町浜 |
白糸浜神社《白糸浜神社の概要》 浜地区が現在に見られるような軍港の町となる以前には、白糸湾に面したこの浜地区には三つの社があった。 寺川尻(今の財務局あたり)に水無月神社、現在の七条通八島南(今の七条商店街)に蛭子神社、八島児童公園に稲荷神社。 水無月神社境内が軍用地になるのを機に、これら三社を合祀して「白糸浜神社」とし、新舞鶴町の氏神とすることになった。 河川改修、区画整理された与保呂川東岸の現在地に、大正2年6月に移転、同4年に社殿建築、同7年に村社、同13年に郷社と社格が上がり、昭和19年3月には大森神社と肩を並べる府社となった。 夜祭は7月6日5:30くらいから。 秋祭は「だるま祭」の初日、11月1日としていたが、最近は神輿のかつぎ手の集めやすい10月下旬の日曜日になっているよう。 平28年7月6日の夜祭のにぎわいの様子 参道は与保呂川東岸の養老通りだが、露店と人の波で一杯。 何はともあれ、参拝。 ↓大正9年の白糸浜神社 水無月神社の周辺一帯も、軍用地に転換。これを機会に、浜地区の三つの神社は「白糸浜神社」として合祀され、大正二年に現在地に移転された。 水無月神社跡地は海軍官舎を経て現在は近畿財務局舞鶴出張所になっている。また、稲荷神社跡地は、稲荷園市場と演劇場の稲荷座を経て、現在は八島公園に、そして、蛭子神社跡地は裁判所出張所を経て現在は、七条商店街の一部になっている。 なお、白糸浜神社南側の石の垣根は稲荷神社から移されたもののようで、かつての面影を今に伝える数少ないものだと言われている。(当時の写真はいずれも『ふるさと今昔写真集』より。キャプションも) ↑水無月神社(明治末年、軍用地に転用される前。現在の近畿財務局舞鶴出張所付近) ↑稲荷神社(明治末年 現在の八島公園の中央にあった) ↑蛭子神社(明治末年。現在の七条八島南にあった) 白糸浜神社の主な歴史記録《神社調査書(加佐郡役所・大正十四年十一月》〈 一、神社所在地 京都府加佐郡新舞鶴町大字浜五百廿番地鎮座 二、社格神社名 郷社 白糸浜神社 三、祭神 月読命、保食命、事代主命、大物主命 五男三女命、稲田姫命、素盞鳴命、倉稲魂命 四、由緒 創立年代不詳ナルモ当社地ハ旧称枯木ノ浦又ハ白糸浜ト称シ(丹後風土記)(加佐郡旧語集)ニ曰ク枯木浦者往昔少彦名大神大己貴大神二柱神当于国造坐之時欲?海路順次所在之諸島集合更登于笠松山之嶺而限息号呼曰彼々来々則四嶼自来列故曰彼来也云々 白糸浜、枯木浦ノ内浜ニシテ上古少彦名命大己貴命二柱ノ神国造リ座スノ時幽契ニヨリテ魚井ノ大神威光ノ峯ニ御垂迹時ニ上天晴レ渡リケレバ海原ノ浪静カニシテ白糸ヲ引キ並ヘタル如ク美状ヲ覧ニシテ白糸浜ト宣ヒキ云々此ノ白糸浜ハ北海ヨリ渡航ノ要港ナルガ故ニ妖賊鎮護ノ守護神トシテ鎮座シ給ヒ弘安四年蒙古来冦ノ国難ニ際シテハ敵国降伏御加護ノ示現アリ云々 武将トノ関係及口碑伝説、天正十一年領主細川幽斎公ハ社殿ヲ再建シ又金燈篭及鳥居ヲ奉献セリ後領主京極家ヲ経テ牧野家ニ至リ親成公英成公当社ノ修理ヲ加ヘラレシト言ヒ伝フ現今ノ社殿ハ大正元年十二月二十八日水無月神社ニ稲荷神社、蛭子神社並ニ境内六社ヲ併セテ白糸浜神社ト改称シ大正五年一月十日建設落成セルモノナリ。 五、列格 大正七年十二月廿五日村社ニ列セラル 大正十三年郷社、昭和十九年三月府社トナル。 〉 《加佐郡誌》 〈 白糸浜神社 祭神 月読神 保食神 事代主命 大物主神 五男三女命 稲田姫命 素盞鳴命 倉稲魂命 由緒 新舞鶴町の大部はもと浜と称へ戸数僅に百戸に過ぎぬ寂しい農村であった為め、当時当字には農業漁業及び守護神として霊験を垂れさせられる若丹人士の崇敬厚い三社(水無月神社 稲荷神社 蛭子神社)があったが、舞鶴鎮守府設置に伴って人家が稠密し境内不浄となった為如上の三社並に境内六社を併せて白糸浜神社と改称したものである。 〉 《舞鶴・大正12年》 〈 白糸浜神社 新舞鶴町の与保呂川畔朝日通を北に入った處に鎮座新舞鶴町の氏神で月読命外七神を奉祀せる村社である、毎年九月二十五日が例祭で町内はもとより付近の村落から沢山な人出がある。 〉 《舞鶴市史》 〈 白糸浜神社 一神社の信仰の消長は、長い歴史の上ではしばしば起こり得る。その一つの身近かな例として浜に鎮座の白糸浜神社をあげることができよう。神社の消長はその立地条件の変化によって起こる場合が多い。同社は江戸期からあった旧浜村の稲荷、恵比須堂、水無月明神の三祠宇(ただし恵比須堂は明治以後、蛭子神社と改称して神仏習合色を払った)を、大正二年に合併し創建されたものである。合併合祀は、舞鶴軍港化に伴う東地区の大区画整理によるものであった。 〉 《得月寺と浜村》 〈 (註) 白糸浜神社については神社明細帳に、「当社(水無月神社)境内社二社及無格社稲荷神社仝社 境内社四社、無格社蛭子神社合併移轄改称ノ件大正元年十二月二十六日許可」と記載されている。 付記 水無月、稲荷、愛宕、蛭子の四神社について、京都府地誌(丹後国加佐郡町村誌三)に次のとおり記されている。 水無月神社 社地東西二十一間南北二十五間面積五百二十三坪村ノ西北にアリ月読命ヲ祭ル祭日六月二十八日境内末社二座アリ 稲荷神社 社地東西八間南北四十間面積三百十九坪村ノ北ニアリ保食神ヲ祭ル祭日六月十八日境内末社三座アリ 愛宕神社 社地東西八間四尺南北十一間面積九十五坪村ノ西北ニアリ伊奘冊尊火産霊命ヲ祭ル祭日七月廿三日境内老松アリ 蛭子神社 社地東西八間南北十二間面積九十坪村ノ東北ニアリ事代主尊ヲ祭ル勧請年紀詳ナラス祭日十月二十日境内老桜一樹アリ 〉 《舞鶴の民話4》 〈 白糸浜の社の手水石 (新舞鶴) 新舞鶴小学校の方へ与保呂川岸を上る。白糸中の生徒も三三五五登校をいそぐ。小学校の子は集団でいく。けずりとられた赤土。上はみどりの木の茂る長谷山のふもとにいく。私が小学校のころは頂上まであがったものだ。山上は大変眺めがよく、新舞鶴港湾が一望にみえる。往時は、三島外記によると桜井左京の城跡であったと伝えている。 むかし、西国橋は西国街道の与保呂川の唯一の橋であり、木橋であった。暴風で水が出たときはよく流されたそうだ。やはり水の力に木の橋ではもたなかった。明治になって架橋の話がでた。明治二十三年にこの浜村や余部村が海軍の軍港地指定をうけ鎮守府が出来ることになり、この浜村に新しい町づくりがはじまることになった。京都府では地元の人たちの要望で、ごばんの目のような(京都市街)町づくりをすることになった。府の吏員がやってきて計画をたて、与保呂川が西に寺川の方に流れていたのを分離し、行永より南北にまっすぐに流すことになった。そのころは全国より労働者がやってきた。橋も西国橋、桜橋、八島橋、万代橋の四つをかけることになった。西国橋は石、桜橋は木で、八島、万代橋はコンクリートで、西国橋架設のため、石材は、地元で調達することになった。そこで長谷山にないかと山上を掘っていると石室がみつかった。掘ってみると、白骨と金環数個、刃片等があった。殊に石室の天井には煤煙を止める大きな石があったということである。その石室のうち、一番大きい石一箇は、多くの人の力で下に持っておりた。そして、村の社を一つにして、白糸浜神社を作ることになっていたので、その社の手水石として奉納することにした。その他の石は、西国橋の基礎石にした。現在の白糸浜神社の手水石は予定通りあの大きな石を使った。ほんとに固い花崗岩の石である。 〉 《新舞鶴校百年誌》 〈 浜地区には、寺川尻(現在の近畿財務局舞鶴出張所付近)には水無月神社、六条通り八島北(現在の八島公園)には稲荷神社、そして、七条通り八島南(現在の七条商店街)には姪子神社があった。 人口の急増と軍用地の拡大に伴って、水無月神社一帯は、軍用地に転換された。そこで、これを機会に、浜地区の三つの神社は、大正二年六月二十七日現在の地に移され、「白糸浜神社」として合祀された。 〉 関連項目 |
資料編のトップへ 丹後の地名へ 資料編の索引
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
市街地が作られるまでの浜村 『得月寺と浜村』より |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Link Free Copyright © 2007-2016 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com) All Rights Reserved |