倭文神社(しとりじんじゃ)
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京都府舞鶴市今田津ノ上 京都府加佐郡池内村今田津ノ上 |
倭文神社の概要《倭文神社の概要》 倭文神社は舞鶴市の南部、池内川を遡った中流域・今田に鎮座する加佐郡式内社の1つ。池内川が山間の谷間から平野に出る辺りの小字津ノ上に鎮座。西舞鶴インター近くの田のまん中にこんもりとした社叢が見える。祭神は天羽槌雄命。 倭文はふつうはシトリと読む、古くはシズオリ、シズリとかシズにもなるが、この辺りでは江戸期の文献では子鳥とか志鳥とか書いているのでシトリと呼んでいたと思われるが、今はイブン神社と呼んでいるようである。 「志島大明神」(丹後旧事記)、「子鳥大明神」(丹哥府志)とも表記された。 この神社の本貫ともいわれる伯耆一宮の倭文神社(東郷町)はじめ全国には同名の神社や郷は多い。 「旧事本紀」や「古語給遺」に「倭文遠祖、天羽槌雄神ヲシテ 創立年代は不詳。伝承では正暦3年(992)藤原保昌が大江山の鬼退治に際して誓願するところがあり、その時再建したという。 氏子圏は古くは池内谷各村のほか七日市、倉谷、福来、天台、上安久、上安、近郷一六ヵ村に及んでいたと伝えられ、旧語集では一〇ヵ村(今田・万願寺・堀・布教・別所・岸谷・上根・寺田・白滝・池内下)と記す。なお同書に「右之村ヨリ毎年振物笹躍狂言ヲ勤」とある。 しかし現在の氏子は三字の区域と狭くなっている。 藤原期作と伝える男神像二体.室町末期の「蒲生八幡宮」と陰刻されている鰐口を所蔵する。 九月九日が祭日で、野菜ばかりで作った「ずいきみこし」神事が7年目ごとに行われた。 倭文は普通は織物の神様を祀るといわれる。別にそれも否定はしないが、トリが付くような神社は注意が必要かと思う。鬼退治に祈願したといった伝説もあるし、ズイキはイモだから、どうもあちこちに鉄との関係が隠せない神社とも思われる。 勘注系図は勅令だと伝える、倭文神社は与謝郡にもあり、この神社とは断定できないとしても、表向きは綾織だったが、本当はこの地の鉄を中央権力がねらった神社と私は考えている。 倭文神社の主な歴史記録《丹後国風土記残欠》〈 倭文社 〉 《延喜式神名帳》 〈 倭文神社 〉 《室尾山観音寺神名帳》 〈 正三位倭文明神 〉 《勘注系図》 漢文なので『古代海部氏の系図(新版)』より、 〈 二十五世の孫は丹波国造海部直愛志(えし)祝である。その注記に辛巳年(六八一年)より養老元(七一七)年まで三十五年間奉仕した。慶雲丙午の年(慶雲三年、七○六年)秋七月、丹波・但馬二国の山で火災が発生し、数日間燃えつづけ、人民に災を及ぼしたので、丹波国造愛志祝は国中の諸神に奉幣したところ火はたちまち収まった。 和銅壬子年(和銅五年、七一二年)秋七月、この国ではじめて綾が織られた。祝の愛志は勅命により倭文(しどり)神をまつった。癸丑年(和銅六年、七一三年)夏四月、丹波国の五郡を分割し、丹後国とした。そして初代の国司に任命され、国造も前通りつとめた、と記されている。 〉 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 倭文社 八月十七日祭 鍵取 源四郎。氏子 今田・万願寺・堀・布敷・別所・岸谷・上根・寺田・白滝・下村。十ケ村の氏神トス。今田万願寺は池姫ハ氏神トセス。右村ヨリ毎年振物笹踊狂言ヲ勤。倭文ヲ幟ニハ小鳥八社明神ト書リ 〉 『丹後旧事記・別名丹後細見録』 〈 倭文神社。今田村。祭神=志鳥大明神 天羽槌雄命。延喜式竝小社。 〉 《丹哥府志》 〈 【倭文神社】(延喜式) 倭文神社、子鳥大明神と称す、祭八月十七日。 〉 《田辺旧記》 〈 子鳥大明神 大内荘九ケ村氏神 〉 《加佐郡誌》 〈 祭神 天羽槌雄神(アメノハツチヲ) 由緒 創立年代は不詳なれども一条天皇の御宇正暦三年藤原朝臣平井保昌丹後国大江山鬼退治に際して誓願する所があって再建したと伝えられている。旧社領30石は平井保昌の寄進したものであったが、其後漸次減少して元禄16年の頃には社領は全く其影を存せない様になったと云ふことである。 境内神社 稲荷神社(祭神 稲蒼魂神ウガノミタマ) 八幡神社(祭神 誉田別尊) 〉 『舞鶴市内神社資料集』所収(神社旧辞録)に、 〈 式内 倭文神社 祭神 天羽槌雄命 (祭 旧八月十七日) 同市字今田小字津ノ上 (今はイブンと訓む) この神は天照大神、岩戸隠れの時一役買った神とも云はれる。委文連之祖 古来より倭文八社明神と唱え高田神社とともに大内郷の惣鎮守であった。御神体は元来白幣竹に二本串 脇立木造男神像二体であったが今は木造を本体とする旨。藤原期の秀作と云はれる。 境内は、形状察するに前方後円墳を取崩しその後円部に神殿を造営したのではないかと考えられる。 当社はその昔丹後国司臼井(或平井)保昌大江山の鬼賊調伏の祈願あり、頼光一行討伐成就の晩即ち正暦三年社領三十石寄進と伝う。 ちなみに、「東寺百合文書」によると当時大内郷は平厚正の私領で、正暦元年三月この大内郷地券(今の権利書)盗難に遭ひ、八方官に陳情の結果、翌二年に再下附があった旨記している。 これに関しては当郷惣鎮守にも願望成就の祈願があったものと思はれ、当然神徳奉謝の礼があって然るべきと存ぜられるが如何か。 大江山の方はいまは王朝時代の頼光威徳物語とされている。 話戻して祭神名儀は、天は美称、羽は長白羽ノ羽と同じく布帛をいい、槌は助詞の「ツ」、「チ」は霊又は長の意で、天孫族の布帛織族の長官との名であろう。 「神譜 丹後国伽佐郡大内縣今田邑神社 委文神社 加佐郡十一里 大一坐 小十坐 天羽槌雄命也 倭文連祖 天羽槌雄神ヲシテ天ノ文布ヲ織ラシム、倭ハ青筋ノ文有布ヲ云仍 倭文大明神 鎮座 八幡宮 鎮守別社 右 正暦三年正遷宮 社領附三拾石 田置者也 平井某謹勧請 祭祀九月九日 重陽 神輿七社蒙の給 」 (注)但し八幡宮は細川忠興公豊前小倉に移封の節供奉され後は小祠???祀ったとある。 〉 《舞鶴市史》 〈 倭文神社 今田の倭文神社はイブンと訓みならわしているが、「志鳥大明神」(丹後旧事記)、「子烏大明神」(丹哥府志)とも表記している。倭文の字訓はシヅリが古く、シツオリの略であり、この神の本貫は鳥取県の同名の神社であるといわれる。与謝郡にも式内社の倭文神社がある。志鳥・子鳥と表記するのはその転訛であって、祭神は天羽槌雄命である。 〉 《舞鶴地方史研究》所収 〈 吉岡徳明翁 丹後国神社考證 加佐郡 … 倭文神社(式内小社)今田村字津ノ神ニ鎮座 祭神 天羽槌神 祭日 (往古は九月九日当今は九月二十七日) 此社ハ社伝ニ依ルニ藤原保昌朝臣当国与謝群大山ノ鬼賊退治の時祈誓アリテ任国ノ後正磨三年九月九日再興成就の由(社伝ニハ此時?請ノ趣ニ記シタレド延喜式之儀ハ延長五年ニテ正暦三年ハ式撰ニ後ルゝ六十六年ナレバ式社ニ載ベキ由ナシ黙レバ鬼賊退治ノ時祷誓アリシハ当時已ニ神社アリシ事ナリ正暦三年ハ再興ナル事明也ナリ 〉 『舞鶴市内神社資料集』所収(我が郷土 池内尋常高等小学校)−昭和七年に、 〈 倭文神社 一、所在地 池内村字今田小字津ノ上 二、祭神、天羽?雄アマノハツチヲ神(志鳥大明神) 三、由緒 創立年代は不明なれども一条天皇の御宇正暦三年藤原朝臣平井保昌丹波国大江山退治に際して誓願する所があって、再建したと伝えられてゐる。旧社領三十石は平井保昌の寄進したものであったが其の後爾次第に減少して元禄十六年の頃には社領は全く其の影をなせないやうになったと言ふことである。 四、社格 村社 五、境内神社 稲荷神社 祭神稲蒼魂神 八幡神社 祭神誉田別神 六、行事 ずいきみこし 此のずいきみこしは現在より約三十年程前より中絶の形となってはいるが、往時甚だ盛んなものであって村内の重要なる祭典の一例となってゐたらしい。ずいきみこしは七年目に一度行はれるのであった、御輿を作るのには其の年の農産物のずいき?頭及び粟豆其の他種々の作物で作りあげるものである。 祭典は十月十七日と定めてあって約十日程前より村人は準備にかかり村内の大きい家を借りて造り上げる。かくして十六日中に仕上げて倭文神社の神殿にすえ、舞鶴町朝代神社の神主が来て十七日午前の時頃より宮移しを行ふ。すると急に御輿が重くなると伝へられ神が御輿に移られたのだと信じられてゐる。それと同時に?刀鋳鉄箱等の式立道具一通りをすべて御輿と同じ農作物で作りいかめしい列をなして村内を廻る。 勿論此の「ずいきみこし」は豊作の年に行ふものであって、不作の年は延期されるとの事である。近郷に有名なものであって当日には見物人も夥しかったと伝へらる。 本神社の祭典は七月十五日(夜祭)と十月十七日(昼祭)に行はれる。 七、氏子 二六〇人 神職 一人 (注)ずいきみこし 昭和十一年限りで中断され、大太鼓とヤグラを繰出し練り歩くことになった。 〉 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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