杉山(すぎやま)
「ようこそ杉山へ」の大看板が出迎え。トトロが出てきそうな村である。 |
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京都府舞鶴市杉山 京都府加佐郡朝来村杉山 |
杉山の地誌《杉山の概要》 杉山は舞鶴市の東北、青葉山の西麓に位置する。慶長検地帳には焼山村と記される。 →青葉山西麓の登尾から(中央の明るい所)。なお、この登尾から杉山→松尾寺→高浜町今寺へと車道(かつての松尾寺巡礼道)が通る。 東・北は福井県大飯郡高浜町、南は松尾、西は登尾に隣接。古青葉山の噴火によるものか凝灰岩が転がっている。乳岩というのはこれのことらしい。 《人口》58《世帯数》17 《主な社寺など》 熊野神社。 大杉神社が鎮座、境内に名水・大杉水が湧出する。 舞鶴の人すらあまり知る人はないが、平成20年6月4日、「大杉の清水」は公文名・七日市の「真名井の清水」とともに環境省の「平成の名水百選」に選ばれました。 大杉神社の参道脇にある。神社の少し手前、見逃してしまいそうなくらいひっそりとある。 道路の側溝に名水は流れている。 観光案内書などにはいまだかつて紹介されたことはない、と記憶する。 《平成の名水百選「大杉の清水」》 環境省の平成の名水全国百選に「大杉の清水」が選ばれた。 ←駐車場というものはない、道路脇の少し広くなった所に、数台なら留められる。 朝来の奥の登尾から来られるし、松尾寺の前かも来られる。「天空の村」の一番高い所、人家のとぎれる村のはずれに案内板がある。 ←ここは車は入れないので、この道を歩いて行く。ここから約300メートル。 花咲き乱れて、ずいぶんと綺麗な村である。 ←青葉山の噴火によってできた凝灰岩だろうか。ゴロンゴロンと転がっている。 尚、この上の道を行けば、熊野神社である。 ←ここが「大杉の清水」 右手に水汲み場が作られている。 左手は大杉神社。 左手の谷側にワサビも栽培されている。 ←大杉神社。 名水は音をたどると、どうもこの神社の奥の祠の辺りが水源のように思われる。 ←大杉の名水は、かつては軍事用(この下にあった第三火薬廠)にも使われたという。 そうした名残か、こんなものもあって、この下を流れている。 ←水汲み場。神社の手前にある。 予想外の(失礼)大栄誉に、雑草も刈られて、化粧直ししてあった。 →大杉神社までは車は入りません。ドブのような、排水路のような場所なので汲むのは少々不安かも。蛇口などもなく柄杓だけ、水が欲しくてもだいぶに不便です。 村中の道路に面した場所に水汲場が作られています。 《交通》 朝来谷登尾より松尾寺への巡礼道が通り、松尾村に通じる(市道)。松尾寺門前の茶店の前の道がそうなのであるが、この付近がわずかの距離間、道幅が狭いがあとは車で行ける道になっている。ただし駐車場などはありません。道幅の広い所へ遠慮しながら邪魔にならぬよう留めて貰うより方法がありません。 《産業》大杉神社境内に大杉水が湧出している良質の湧水は大杉神社境内下で栽培されている特産のワサビを生む。米も酒米として知られた。 ここのワサビは京阪神の高級料亭でも評判であったそうだが、関係者懸命必死の努力にもかかわらず最近は収穫できないという。…どうしたことなのだろう。 名水は世界大戦中は朝来村の海軍第三爆薬廠の用水に利用された。 《交通》 ↓朝来谷の一番奥の登尾から ↓松尾寺の山門下から 杉山の主な歴史記録《丹後国加佐郡寺社町在旧起》 〈 杉山村 高秀庵海臨寺末寺なり。三所権現社なり。 〉 《丹哥府志》 〈 ◎杉山村(松尾村の次) 【三所権現】 【高秀庵】 【杉の清水】 杉山村は陸より十八丁山に登る、松尾村の次に在り、是より又廿八町青葉山に登る、まづ山の半腹といふべき處なり、村の北に一丈斗の懸崖あり、其懸崖の下より清水流れ出で左右に分れて二条の瀬となる、其傍に老杉樹七八株あり、杉の清水といふ。其水を嘗るに清ふして且甘し銀気を帯るに似たり、其清水の出る處恐らくは銀を掘りたる穴ならんとも覚ゆ、若能く金銀の気を識るものあらば極て銀山とも定むべけん。 〉 《朝来村史》 〈 杉山 杉山の古事は何と申ても熊野神社と大杉、夫れから有名なる大杉水の事を記録することが必要である。又此三つの事は単に杉山丈けのものでなく実に我朝来村の貴重なる史蹟資料であると申さねばならぬ。 兎に角大杉水が稀有の良質であると謂うことは此の水あるが為に日本一のわさびを生じ又此水によって酒造のもと米や寿司米として有名な杉山米を産出するので證明されてゐる。昔熊野神社の境内に蛇池があって此池に住める大蛇が時々出でゝ下に降り彼の清冽なる大杉水を飲みつゝあった。然るに其水を飲むと非常な勢力が出て大蛇は其辺りに生じてゐる三本の杉の木を一つに巻き締めたと謂うのである。現今の大杉稲荷社の境内の廻り三丈除の大杉は大蛇の巻き締めによって三本が一本に締め寄せられたものであると古老の傳説に残ってゐる。夫れ程の勢力の出る大杉水は千萬年の昔から滾滾として尽くることがないのである。 杉山は戸数二十餘戸、舊高百二十四石山林田畑共に肥沃で昔から生活には心配はなかった。但何分青葉山の中腹で田圃は岸高く耕作に不便な爲他の村落よりは勢力を要する分量が非常に多い。従って安逸に暮らせば財政が苦しくなると謂うので此地の人は特に能く働く美風がある、夫れのみならす何事にも質実にして神社の祭祀等特に丁寧周到に古来の傳統を重んする点他に多く類を見ざる程のものがある。中古以前此村を焼山村と称した。 熊野神社の事は第五節に記せる通りであるが此字は大体三区に別かたれ即上の森、中の森、下の森と謂ひ下の森に、荒神下の森大明神と謂うがあり、此れを明治初年熊野神社に合祠し其神殿は松尾寺へ寄附した。松尾寺は此れを青葉山頂の権現神社に祠用して現在に及んで居る、此の下の森荒神の事は舊語記にも記載せられてゐる。(舊語記は林茂太郎氏所蔵) 尚杉山には古来寺院あり中原山高秀雄と称せしが明治十年頃祝融の災に罹り其儘廃寺となったもので今の森内熊蔵氏屋敷の前が其寺屋敷であった。 参考 古見郷 昔朝来中材田口大明神の古社跡と言傳ふる所なり。 此れも舊語記に明記せられてゐる通りで南谷と謂う處の附近に古見郷(こけんごう)と称し昔田口神社が此地に奉祀せられてあったところ或歳の大荒れに下に流されられしものなりと古老の言ひ傳へあり、近年まで其處の岩の上へ御幣を樹てに往つたものであるとの事。 参考 文化時代の杉山の各家名 (今より百三十七年前) 次右衛門 南 仁左衛門 三右術門 助左術門 源右衛門 甚兵衛 甚左衛門 惣右衛門 長太夫 與惣兵衛 太左衛門 伊左衛門 孫右衛門 五郎助 五平 善左衛門 西 八兵衛 善助 東 長左衛門 以上二十二戸 文化二乙丑歳改 庄屋 東 大庄屋 西浦 年寄 長左衛門) 〉 《まいづる田辺 道しるべ》 〈 杉山村 杉山に遣る古跡、伝説 杉山の道 杉山村(上焼村、焼山村) 杉山村は青葉山の西側山腹に位置する標高約三百メートルの高所にあり、その起原については定かでないが、地元の古老の口碑によると、 「いつの頃か、松尾寺に参詣した者の内、なんらかの理由により松尾寺に留まり、南谷附近に住みつき村を発生させたのが杉山村の始まりといい、当初は「上焼村」と称していた」 山深き杉山に、なぜ人が住むようになったのか、 「当地は高所であるが、青葉山の地下水に恵まれ、一年中いかなる旱魃があっても水の涸れることはなく、田畑の耕作には適し、その上風光明媚にして環境は良く、住みよい土地であった」 と古老はいう。 上焼村については、登尾の岸田翁の資料及び地元の伝承によると、 「杉山村と松尾村との村境の近くに南谷と呼ばれる所あり、ここに上焼村が存在していた。 この村には、赤銅塚(経塚)が発見されており、塚の下には高秀庵の元寺があったといわれ、赤銅塚へ上る道ぶちに元屋敷と呼ばれる地名あり、この辺りに現在杉山に居住しておられる柴垣博氏の先祖(長左ヱ門)が住んでいたと当主より聞く。当時の戸数は判らない。 上焼村は、いつの頃か大火にあい、住民はその後現在の杉山集落辺りに移住し、高秀庵も同じく小字中尾谷に移された。その後、明治十年に廃寺になり、田井の海臨寺に吸収され、杉山には同寺の寺跡を留めるのみとなる」 慶長七年(一六○二)の慶長検地郷村帳によると、当時杉山村の村名については「上焼村が大火により消滅したため「焼山村」と呼ぶ様になった」とか古老の話である。 焼山村は、その後、享保三年(一七一八)の領中郷村高付きによると「杉山村」と村名が変更されている。 杉山村の村名由来については、はっきりしないが、現在、大杉神社の境内に樹齢三百年以上の大杉あり。 伝説によると、熊野神社の蛇池に住んでいた大蛇が下りて来て清水を飲み不思議な力が出て三本の杉の木を巻き締めて一本にした、とある。 又、大杉神社の境内から清水が湧き出ており、この清水を「丹哥府志」には「杉の清水」と記している。これ等、杉にまつわる伝承が多く、杉にちなんで杉山と呼ばれる様になったのではないか。 杉山に遣る古跡、伝説 ・古見郷 田口神社の古社と伝えられる古見郷は、古老の話によると、杉山と松尾の村境南谷の道ぶちに祀られていたが、大洪水により長内村(朝来)まで流され、ここで乳岩神社にお祀りされていたが、その後、現在の田口神社へ遷座されたものと伝えられている。 ・熊野神社 伝説によれば、其の昔、此の神社には人身御供という一つの特異なしきたりがあって、それには毎年一度のお祭りに、氏子中の何れかの家から眉目麗しき妙齢の娘を、其の年のお供えとして神社へ捧げねばならなかった。何れ一旦お供へした以上は無事に家へ還って来ないか、若し何事も無く戻ってきたとしても兎に角、此れは非常に村の人々の苦痛としたことに相違ない。何とかならぬものかと、いろいろ相談を重ね適当な方法を考え考えた結果、漸く一つの代案を得た。 それは一定の場所の田を村中で当番によって耕作し、此れによって得た清らかなるお米をもって特に大きなお鏡餅を造り此れに白無垢を被せ、又、お神酒をもこしらえて而して此等を人身の代わりに御供えとして神前に捧げることにした。 今に至るも春の祈年祭には、此の精神と其の作法は続けられているのである。(朝来村史) 〉 杉山の小字杉山 南谷川 中尾谷 大杉谷 大杉ノ上 鳥越谷 上畑 通谷 宮前 迫谷 不動山 鳥越 中尾 関連項目「古代の朝来」 |
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