職人(しょくにん)
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京都府舞鶴市職人 京都府加佐郡舞鶴町職人 |
職人町の地誌《職人町の概要》 西舞鶴市街地の中央部でビルや商店なども建っている。戸数も多くはなく、わかりにくい所であるが、国道27号(大手通)沿いの広小路十字路南の道路ぶち東側に位置する。京都銀行の大手通りを挟んだ向側である。東の北田辺との境を伊織殿川が北流する。 田辺城下の職人町で、細川時代時代から地子銭免除の町屋であったという。 職人町は江戸期〜明治22年の町名。田辺城下の1町。享保16年の「丹後国加佐郡寺社町在旧記」には「職人町には武家相交研白鞘柄巻屋塗師金具の細工人思々の家業懈怠無」とあり、正徳5年城中から当町へ延寿院が移転した。寛保3年には大橋と伊佐津川の普請人足として川方へ6人、橋方へ5人が12軒に割り当てられている(竹屋町文書)という。「丹後旧語集」に「大手の向に職人小屋あり、残らず職人町へ引き馬場になる」とあるが、当町は今の市民会館あたりにあった大手門の門前、本町通りの一つ南の筋(字元職人町、現在の北田辺地内、NTTが建つあたり)にあり、幕末に「魚屋町の濠端」(現在地)に移転したという。「金村家文書」によれば、文久2年幕府の参勤交代緩和によって3年間100日の交代となり、城主の家族、家臣の多くが帰国したため、それまでの職人町を士屋敷とし、職人町の9軒を魚屋町濠端へ、延寿院を竹屋町尻に移したといわれる。 明治2年舞鶴町に所属。同22年舞鶴町の大字、昭和13年からは舞鶴市の大字。 今は普通は「職人 《人口》16《世帯数》8 《主な社寺など》 《交通》 国道27号線 職人町の主な歴史記録《丹後国加佐郡寺社町在旧起》〈 後家さやの小尻まで張る白銀を ねぐらにかけて研出す刃 《市史編纂だより》(56.5) 〈 職人町の移転について 専門委員 瀬戸 美秋 現在の職人町が、今から約120年前の文久二年に、元職人町(電々公社北側通り)から引越したことを知る人は案外少ない。 知っていても、何時ごろのことなのか知る手立てもなかった。 この資料は「職人町記録」(文久二壬戌年十一月、年寄金村仁兵衛、組頭甚兵衛)である。当時、職人町の年寄役はなく、本町の年寄金村仁兵衛が兼ねていた(金村家文書)。 事の起こりは、幕府が文久二年(1862)幕政改革の一端として、参勤交替を大大名は三年に一年、他は三年に一度百日在府と改正(このことから幕府の大名統制が緩んだ)したことによる。 文久二壬戌年九月 公儀御改革ニ付殿様三ケ年ニ百日之御交代被 為蒙仰若殿様奥様御子様方御国勝手被仰付御 留守居御用人并添勤御両人ニ而江戸御屋舗詰 ニ相成其外諸士方一同御国勝手ニ相成候ニ付 職人町御屋敷御用地ニ相成地所不残町会所と も御引上ケ被仰付代リ地魚屋町堀端ニ而被下 急々引払候様被仰付候 但し 延寿院直御達ニ相成候 これによると、若殿も奥方も御子様も国へ帰ることは自由となり、御留守居御用人と、添勤の二人が居るだけで、あとの多くの諸士は国へ帰ることとなった。そこで帰国する諸士の屋敷がないので、職人町を御用地とするから、町会所も延寿院も一般町家も急ぎ立ち退け、という藩の命令であった。 この中、町会所は他に替地をもらい、延寿院も同様引越すこととなった(竹屋町尻と思われる)。一般の町家の人々は、魚屋町の堀端に替地をもらった。 戊九月廿一日 右之通被仰付候処近来之時□一同難渋ニ付引 越失墜困窮仕候儀段々歎願い堂し候処一様ニ 参リ不申町家之分難渋之様子年寄上ニ而取調 申出候様田中氏より御沙汰ニ付有増書取申之 候処十月廿二日家毎間数書差出候様被仰付左 之通 (畧) 一同難渋で引越しなどとても出来ない。個々の事情もあるので、年寄で取調べの上藩に報告することになり、とりあえず家ごと間数を調べ差出すこととなった。 職人町軒別間数 (文久二年十一月) 浜ニ而 間口四間四尺四寸 裏行九間半 本町持地所 但定使住所 〃 〃二間四尺 裏行七間半 職人町持地所但定使住所 浜ニ而南北〃二丈四尺四寸 東西八間五寸 逸見与一左エ門蔵 西側ニ而〃 一間四尺四寸 裏行九間二尺 (個人名略以下同) 同 断 〃一間五尺 裏行九間二尺 北 側 〃十間半二尺 〃十二間八歩 〃 〃三間七尺五分 〃十三間 〃 〃三間半二尺三寸〃 〃 〃 〃四間六尺 〃 〃 〃 〃四間半二尺 〃 〃 〃 〃一間半三尺 〃 〃 〃 〃三間五尺 〃 〃 調査の結果、個人町家9軒が所替科を拝借することとなった。1軒当たり900匁〜2貫500匁を拝借したが、総額銀札12貫900匁で、一軒平均1貫433匁であった。この中、半高の6貫450匁を10カ年割で返済する。1カ年にして645匁である。後の半高は藩から支給ということで、返納しなくてもよいことになった。しかし幕末の物価高は、想像以上のものがあり、一般庶民の生活は苦しく、今までの割では返済できず、元治元年(1864)から歎願により15年割に改めた。 電々公社北側通りの元職人町は、寛文八年(1668)牧野親成が、田辺領へ入部して城内外とも屋敷替えを行い、そのとき「一、大手の向に職人小屋有り不残職人町に引馬塀に成る」(加佐郡旧語集)とある。大手の向いというのは、どの辺を指すのか不明だが、親成のときに元職人町ができたことは間違いなく、従って文久二年まで194年間続いた。 〉 《舞鶴市史》 〈 細川時代の紺屋町が職人町と名称変更 職人町は寛文八年(一六六八)牧野親成が入部、城内外の模様替えを行った際、大手の向かいにあった職人小屋を元職人町(現新大橋〜国道二七号)に移した。しかし、一九五年後の文久二年九月魚屋町向かい大手の堀沿い、現職人町に再び移転を命じられた。理由は同年、幕政改革の一端として参勤交代の制度が緩和され、御子様方御国勝手となったが、江戸詰の藩士たちが帰国しようにも土地がないため、住民は引き払いとなった(「金村家文書」)。移転当時、この町に祈祷所延寿院があったが竹屋町尻へ移転させられた。 〉 《まいづる田辺 道しるべ》 〈 ・職人町 職人町は元大手門前辺りにあったが、文久三年(一八六三)参勤交代の緩和に伴い、江戸詰めの城主の家族、家臣が帰国して来たため、九軒が現在の職人町辺りへ移転したとある。現在の職人町辺りは慶長十五年(一六一○)頃「かたはらまち」といわれており、堀を背にしていた町屋のため「片側町」とも呼ばれていた。 寺社町在旧記によると、 「武家相交、研白鞘巻屋塗師金具の細工人、思々の家業懈怠無」と記され職人の町であった。 家数 三十六軒(享保十二年) 町長 南北一一二間(二○三メートル) 道巾 三間(享保十二年)(五・四五メートル) 〉 職人町の小字関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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