高田神社(たかたじんじゃ)
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京都府舞鶴市上安 京都府加佐郡余内村上安 |
高田神社の概要《高田神社の概要》式内社に比定される高田神社は上安に鎮座している。「室尾山観音寺神名帳」正三位高田明神は国道27号線の上安交差点を天台の方へ曲がった右手の鉄道線路の所にある。鎮守の森が見えるのですぐわかるが、どういけばいいのか参道がわかりにくい。少し下の上安踏切の脇から農道(と思う)を歩けば行ける。 昔、余内青年団があったころ、「手が足りないので手伝ってくれ」とかで、祭礼の手伝いに行ったこともあるが、どこに車を留めたのか忘れてしまった。 もともと高田社(祭神:建田背命とされる)はここにあったのではなく、鎮座地は洪水や社殿の老朽化などで度々その位置を変えたといわれる。社伝によれば、古くはずっと下の大内郷 延宝9年(1681)7月9日伊佐津川氾濫で倉谷村前堤が決壊し堂社が流出した、御神体を鈴木神社(祭神:天細女命)のある上安村の、ミセヶ谷に移して同座奉斎されたという。 さらに社殿老朽化のため現社地に移ったが、高迫山頂に鎮座していた 祭神とされる建田背命は丹後海部氏の祖神とされる。境内は綺麗にしてあるが、案内板が禿げていて読めない。境内社もよくわかるようになっている。稲荷神社(祭神:保食神)・広峯神社(祭神:素盞鳴神)・大川神社(祭神:五元五柱神)・水天宮神社(祭神:四座不詳)・兵主神社(祭神:不詳)である。北西側山裾の東林寺は、かつて真言寺院であったと伝承する、古くは不明だが、どうもこの社も元々は鉄の神社、渡来神の神社かと思われる。 高田神社の主な歴史記録《丹後風土記残欠》〈 高田社 高田社は祭神、建田勢命也。是丹(以下一行虫食) 〉 『丹哥府志』 〈 【高田神社】(延喜式) 高田神社は今高田大明神と称す、祭七月六日。 〉 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 高田明神 七月六日夜祭 湯立斗 九月廿六日祭 湯立斗。 〉 《丹後旧事記》 〈 高田神社。高田村。祭神:建田背命。延喜式竝小社。 〉 《加佐郡誌》 〈 祭神 建田背神 天細女神 由緒 不詳 境内神社 稲荷神社(祭神保食神) 広峯神社(祭神 素盞鳴神) 大川神社(祭神 五元五柱神) 水天宮神社(祭神四座不詳) 兵主神社(祭神不詳) 〉 『丹後史料叢書』所収「丹後国式内神社取調書」 〈 高田神社 ○在高田村○【旧事紀】建田背命丹波国等祖 ○【姓録】竹田臣阿部朝臣同粗大彦命男武渟川別命後也 【明細】上安村祭日九月二十六日【覈】同【道】同【式考】上空村風土記ニ高田社者祭神建田勢命也【豊】同八月十七日).(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志) 〉 『舞鶴市内神社資料集』所収(神社旧辞録) 〈 式内高田神社 祭神 建田背命 (祭 旧七月六日) 同市字上安 往古より大内八ケ庄の宮と唱える。旧地は上安(杭ケ坪)上安久(田中田)倉谷(杭ケ坪)三村の合接する所に位し三村の氏神であったと云はれるが徳川中期伊佐津川決壊の節殿社流失により取敢ず上安のミセ谷に遷座したが、其後上安仲イサキに社殿新建立なり現在に到った。 宮知里は伊佐津川鉄橋約百米東方でいまは鉄道敷になっている。上安・上安久境界野道を南行し鉄道に当る所 祭神建田背命は尾張海部の長で天火明命六世の孫に当り、神服連海部直丹波国造但馬国造等の祖とある。 武と建は同義で旧代武神の称。田背タセは長谷ハセ・古瀬コセ・見瀬ミセ等大和地方の地名で大和葛木郡尾張地方で出生地の名を負はれた尊名と睹らる。丹後地方に来られてからの本地は丹後諸旧記も語るとおり、現熊野郡久美浜町字海士で同祭神を祀る式内矢田神社や付近に宮殿跡と伝承ある所も在る。本地も古代海辺との証もあり、高田神社旧地も古代貝殻等出土や地名遺称等で海辺と睹られる。 なお現在建田背神と併座の鈴木神社は天細女命でこれは上安生へぬきの地主神で素は小字宮谷に鎮座したが新社造営の節高田神社に併座された。天細女命は人口に膾炙する天照岩戸隠れの節の花形役者であったが、続いて天孫降臨の下りでは神格一変し怪神猿田彦将軍と堂々外交接渉して懐柔した男勝りの女神である。斎部の猿女君の祖とある。鈴木の語源は略す。 上安村氏神棟札 …略… 〉 《舞鶴市史》 〈 高田神社 高田神社は上安に鎮座。祭神は建田背命(丹後旧事記)とするが、「加佐郡誌」では天細(鈿)女命 を加えている。建田背命は丹波国等祖(丹後国式内神社取調書)とするが、天鈿女命を祭神とした経緯も判然としない。同社はもと伊佐津川に近い地に祀られていたが、京極氏時代に洪水を避けるため現在地へ遷した(明治五年祠官田中照海書)とされている。 〉 《舞鶴 ふるさとのやしろ》 〈 国鉄舞鶴線天台踏切から西へ約一キロ、すぐ社の裏を通りながら、その存在に気がつかなかったが、延喜式神名帳に「加佐郡高田神社」とある由緒正しい神社である。祭神は建田背命(たけだせのみこと)。丹波国造(くにのみやつこ)海部直(あまべのあたい)の祖神で、京都府北部支配者の先祖。古代には大内郷宮知里(現在の国鉄米田川鉄橋の南付近の小字杭ケ坪)にあったが、江戸中期、伊佐津川の洪水で流されたとき、御神体だけは村人が背負って、現在の社の南にあるミセンが谷に遷し、その付近にあった鈴木神社(祭神は天細女命)といっしょにまつった。さらにその後、高迫山頂の武場権現(大山祗神)もまつり、三神同座となった。御神像は高さ六三センチの白木一木のナタ彫りで、藤原後期の作とみられる。 〉 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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