和江神社(わえじんじゃ)
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
京都府舞鶴市和江 京都府加佐郡加佐町和江 |
和江神社の概要《和江神社の概要》 由良川の下流域左岸、舞鶴市と宮津市の境に近い和江の集落のすこし南側、国道沿いにある。和江神社と呼ばれるようになったのは明治以降のことという。以前は現社殿の後の宮山の中腹にあって、「八王子神社」といい、祭神は五男・三女の八柱の神と伝えられている。 和江は山椒太夫がいたという由良石浦の南隣で、この地には丹後国府や国分寺が置かれ、厨子王丸が逃げて隠まわれたのは、和江の国分寺だとする説もある。 和江の歴史はおそらくずいぶんと古く、縄文時代からの歴史がある。この神社の創建も朱鳥元年(686)の伝承もある。毎年旧神嘗祭に近い日曜日を秋祭りの日として、伝統の笹ばやしや大刀振りが奉納されている。 和江神社の主な歴史記録《丹哥府志》 〈 ◎和江村(石浦村の次) 【八王子大明神】 〉 《加佐郡誌》 〈 祭神 五男三女神 億計弘計二王。安康天皇の即位二年丙甲冬十二月に億計弘計の二王が難を避けられて只今の舞鶴町字大内に安宮を造って潜居せられたので大内の名称がこれから始まったと云ふことである。又、丸八江村の和江神社では両王が酒饌を供へて開運を祈願せられてから後、村民は代々その徳をうけついで毎年十一月五日に大小二桶をお供へして祭礼を行ふ慣例があると云ふことである。 〉 『舞鶴史話』(昭和29年) 〈 億計弘計伝説。 舞鶴市字大内億計王弘計王の遺跡 憶計王弘計王の二王子は履中天皇の孫磐阪市辺押磐尊の王子でしたか父尊が雄略天皇に殺されたので共に難を避けて丹波の国に至り、更に播磨国赤石郡に赴き縮見屯倉首忍海部細目の家に身を寄せました。丁度その頃播磨の国司伊興来目部小楯なるものが細目の家にとまりましたが弘計王は歌に託して自分が皇胤であることを明かされたので小楯は大いに驚き、急ぎこれを朝廷に報奏いたしました。時の天皇清寧天皇には皇嗣がなかったので大いに喜ばれ、直ちに二王子を京に迎えて同天皇の三年四月七日億計王を立て、皇太子としました。天皇崩御あらせらるゝや億計王は御自身が皇太子であるにもかゝわらず御弟弘計王を立て、皇位につかしめました。これ即ち顕宗天皇であります。そして億計王はもとの如く皇太子として天皇を輔佐していられましたが、その弟天皇も数年にして崩ぜられたので戊申鼓正月五日皇位につかれました。億計王は仁賢天皇となられたのであります。 舞鶴市の大内はこの両王子が潜居していられたので大内の名称がこれから始ったといわれています。又八雲村字和江の和江神社では両王が酒饌を供えて開運を祈らせられたともいい、同村では毎年十一月五日に大小二桶の神酒をお供えして祭礼を行う慣例が残っていると伝えられています。 〉 『舞鶴市内神社資料集』所収資料 〈 (神社旧辞録) 和江神社 祭神 左記五男三女神 同市字和江 祭神詳は天照皇太神と須佐之男尊の天の真名井で誓約の節生まれた神々なりし記紀にある。 天忍穂耳尊、天穂日尊、天津彦根尊、活津彦根尊、熊野久須(以上五男神)多紀理姫、市杵島姫、多紀津姫命(以上三女)是を世に八王子と称する。(桐生の八王子等) 京の祇園初は牛頭天王(垂跡名須佐之男尊)とこの八王子を祀る。中世祇園寺庄はこのあたりと比定されるので一つの手がかりになるか。 この神社は往昔弘計億計二王丹波国に潜行あらせしとき立寄られ甘酒を供饌して開運を祈願されたとの所伝があり、今も伝承のまにまに祭礼には甘酒を供するという。 〉 『八雲のれきし』 〈 和江神社 昭和四十四年に大改修された。当時すでに旧殿は二百四十余年前の建立で水害にもあい老朽が甚しかった。整然とした和江神社は元八王子大明神と称し、後の宮山の中腹にあり、朱鳥元年(六八六)の創建の伝承がある。享保九年(一七二四)四月五日、旧殿跡へ降し遷座したもので、和江神社では爾来五日を記念して宮行事が行われた。四月五日の遷宮祭、十月五日の例祭、十二月五日の皇土講甘酒日であった。 明治になって和江神社と呼ぶようになったが八王子神社と称し、五男三女の八柱を祭神とする。神話にでてくる天照大神と須佐之男命の天安河での出会で吹く息の中から生れた八神で、須佐之男命の剣から生れたのは、多紀理毘売命、狭依毘売命(市寸嶋比売命)、多紀津毘売命(多岐都比売命)の三女神、天照大御神の玉から生れた天之忍穂耳命(天君穂耳尊)、天之菩卑能命(天穂日命)、天津日子根命(天津彦根命)、活津日子根命(活津彦根命)、熊野久須毘命(熊津久須毘命)の五男神である。又、神仏習合の結果の本地垂迹の牛頭天王八王子説があり、午頭天王に須佐之男命を配したため、日本神話の五男三女神が八王子の神として祭られるようになったとの説もある。 境内社は左側に若宮神社(仁徳天皇)、祇園神社(八坂神社分神)をそれぞれ祀り、右側に瀬戸嶋開金+産を記念して、以前から長く向島に棲息していた龍神を治水の神として祀り脇宮としている。 秋祭りの日は、古くから伝わる笹囃しや大刀振りが奉納され賑わいをみせている。 和江神社の狛犬 宝暦四年作(一七五四年)瓦製 和江神社境外社 ・谷口稲荷 小字的場 細川藤孝が和江村地先の岬を掘削するまでは、この稲荷まで和江の谷は入江になっており、谷口の稲荷と称していた。 ・最上稲荷 小字クドノ谷 二一五 稲荷社は、五穀を司る神として昔から崇拝していた。 ・恵比須神社 小字クドノ谷 二○七ノ乙 商売繁昌の神として広く信仰されている。又農、漁民にも信仰されてきた。 ・秋葉神社 小字クドノ谷 二一四ノ乙 防火の神として山頂に祀られている。戦前までは子供会の年中行事として火の祭りを行ってきた。 ・山之神社 小字下地 宅地二一二ノ乙 もともと、山の神は山を支配する神といわれるが、この地方では昔から男の子の護り神として信仰し現在も子供会の年中行事として続けられている。 〉 『和江の歴史』 〈 和江神社の歴史 (一) 天君穂耳尊 天穂日命 天津彦根命 活津彦根命 能津久須毘命 多紀理毘売命 狭依毘売命 多紀津毘売命 和江神社は元八王子大明神と称し、右記の五男三女を祭神とし、明治になって和江神社と呼ぶ様になりました。又本殿左側の脇宮には若宮神社、祇園神社を夫々相り右側の脇宮には大正二年瀬戸島開金+産を記念して、従前から長く同島に棲息していた龍神を治水龍神として把ってあります。 (二)由緒・起源其の他の事ども 八王子神社の創建は朱鳥元年(西暦六八○年頃)の事で、元は宮山の山腹にあったものを、享保九年四月五日(西暦一七二四年)旧殿跡へ降し遷座しました。和江神社では爾来この遷座された五日を記念して宮行事に用い、四月五日の御遷宮祭、十月五日の例祭、十二月五日の皇土諸甘酒日でした。既に旧殿は二百四十余年前の建築である上再々の水害浸水で老朽甚だしくこれが為昭和四十四年(区長 佐藤徳太郎)舞鶴市大滝雄吉工務店の施工で境内を嵩上げ拡張して本殿、脇宮全部を新築、舞堂は旧建物を移転大改築しました。これに要した総経費は七百八十三万四百九十七円で、財源は小字城ヶ谷共有檜林売却中五○○万円、又他村への本村出身縁付氏子を含め全氏子の浄財二百八十一万八千円、外に多数の現物寄進によって見事完成、昭和四十四年十月五日例祭を卜し、世紀の大完工祝典を挙行され、氏子一同永代安泰繁栄の誓願を立てました。戦前ならとも角、敗戦后、稍もすれば世情浮華詭激の澎湃とした時代思潮の中で、この種、神事業が欣然一村挙げての総意で完成された事は誠に劃期的大偉業であり特筆して后世に伝えたいと思います。 社頭の大石灯籠は、安政六年白杉在の小和田藤兵衛の棟梁で、台石を小字和江の谷から現代の様に道も車もない時代に村中足腰立つ老若男女一人洩れなく総出で、運び来て作ったものであります。重量は推定二千六百六十貫と言われています。其れをグレーン車一台で二、三人の手伝いで数時間に旧境内から新境内へ移されました。 手洗用水は、 大正十年宮の谷に横井戸を掘鑿水源を求めましたが、長日月の苦心にもかゝわらず不幸水が湧き出なかったので水源にはなりませんでした。以来久しく貰い水をしていましたが、昭和三十三年和江に簡易上水道か敷設されたので旧境内へ導入、用水としていました。更に昭和四十匹年神社改築造営を機に新境内へ導入、洗心池の水と共に、美しい玉の様な透明水が夏冬間断なく、滾滾と岩を割って湧出、参拝者の心の底まで洗い浄めて呉れます。 又旧殿裏の椎の森は其の何れもが古木の故に朽ち、見るも危険だったので昭和三十二年全伐し、 昭和三十四年伐採の跡地を焼き払い綺麗に整地して、其処に加佐町森林組合の指導で六品種の杉の良苗を植付け一般村人への展示、指導林として現在稀に見る成績で逞々と天を摩しています。この年昭和卅四年襲 った台風は殊の外、激甚で、伯人山にも嘗て知らぬ程の風倒木を出しましたが、本社旧境内の杉四、五本も大木が全部根から倒伏、風倒木となりました。然し境内の鳥居、舞堂等には 聊も被害を与えていなかった事は、村人皆ん左喜んだせめてもの慰めでした。木挽由里源次郎に伐採を頼み加佐町森林組合の手で京都木材市場へ搬出、販売しましたが神木の処分等夢にも見ぬ事乍ら、村人沈痛な思いでした。爾来境内には杉槍等一本もなくなりました。僅か欅が一本代表して残っていましたが昭和四十四年宮造営の為境内へブルを入れ土の嵩上げした事から、原因も不明の儘間もなく自然枯死しましたので、昭和四十五年(区長 石間宏)綾部大成工拳へ価百六十三万円で伐採売却されました。后には境内には庭木らしいものは無くなっていましたが本社造営后村一般から応分の庭木が献木され尚舞鶴市寺内田路造園から庭木を多数購入、洗心池を含め、見事な境内作りが完成され、明るい広々とした境内が石と水、そして庭木の三つに囲まれた環境で誠に親しみ深い神社になりました。神社と言えば老木に昼尚暗い中に神々しさを覚えると古くから言われていますが、これは又新しい木の香、明るい日射、心和む庭園からは近代的な神への親近感を格別感ぜさせられます。 皇土講、昔から暦の上では関西では十一月になると各社の神々は出雲へお集りで其の間は神無月、和江でも神社の神様が十一月中はお留守十二月になるとお帰りになるので、十二月五日(特に五日御遷宮の日)神迎祭を神社で行い、其の席で村中の男女洩れなく、予ねて五人組輪番の施主の饗応で、神社基本金の利息で甘酒を村中頂く事になっていました。実際この行事は古くから伝承されているので其の時代では農村馳走と言えば甘酒、ぼた餅が最高、殊にこの神迎には神社の神様から頂くおもてなしの甘酒とあっては美味さは又格別で勿体ない事だったのです。これも昭和卅七年頃から中止になりました。 和江神社例祭奉納行事 古来から毎年例祭に神社へ奉納される笹囃は永承年間(西暦一○五○年頃)この地に悪疫大流行し、夥しい死者を出し其の平癒祈願の為奉納されたものと言われ、歌詞は村の開祖と言われる大友王子(天智天皇王子)夫妻を詠んだもので現在も願済とされ、中世之れに太刀振を加え奉納する様になった。 氏神例祭 東西の奏上文 「東西南北鎮まり候、今日吉日を以って、和江神社様へ、例年の願済しといたし、事可笑し笹離しを一踊り、差上げ奉り候」 其の歌詞は、 (一)松虫踊 松虫が松の小枝に昼寝して 時を忘れて日を選む 松虫が笹の小枝に昼寝して 時を忘れて日を選む 松虫が稲の小枝に昼寝して 時を忘れて日を送る 松虫が庭の古木に昼寝して 時を忘れて日を送る (二)姫子踊 姫上はたゞイョいざゝ山 風も吹かぬにざよざよと 姫上はたゞイョ浮雲や 風にまかして行くほどに 姫上はたゞイョ釣瓶繩 切れて離れて又むすぶ 姫上はたゞイョ清滝の水 落ちてとのごの目を覚ます 和江神社奉納太刀振 ◎露払 略 ◎小太刀 略 ◎小鳥羽 略 ◎水引 略 ◎関棒 略 ◎脇棒 略 (三)和江神社改築造営について 昭和四十四年区長 佐藤 徳太郎 昭和四十二年度において国道一七八号線(舞鶴−鳥取線)が京都府の起業によって、嵩上げ拡巾の改良工事が行なわれ、八王子神社の境内が低位となり排水悪く、緑したふる悠久の昔から鎮座をします区の守護神が、その為に形態を保つ事が出来なくなった。 氏子はこの事を憂いて、地の嵩上を思いたったが、本殿は既に老朽化しこの造営の経緯を調べた処、享保九年の造営になるもので、既に二百四十余年を経過している事が判明した。依って本殿及び附属建物(舞堂は移転のみ)の新築を併せて施行する事に区総会を以って決定した。この造営を昭和四十四年の例祭を目標として進捗を図る為に、其の建築形態方針を区長役員に相諮り、広く京都方面の神社を調べ、資料を求めんとして、昭和四十四年三月八日京都市、米原市方面まで赴き、当区出身京都市在住の加藤善亮氏の好意により、隈なく資料を持ち帰り、部落総集会にはかり基本方針を決定した。 これより先に昭和四十二年度建設省起業により由良川改修により、大字丸田小字門戸方面の狭搾部の切取り工事によって、其の残土を大字丸田小字斉宮に埋め立て、湿田が嵩上げされて、之れに要する「かんがい」用水を和江谷川から引くことになり、用水路が境内の一隅を通過するその水を境内に引き入れて「洗心池」の建設を併せて施行し、山紫水明を神域に調和させる事を図らんとした。 その所存は境内の神域にふさわしい環境を作り、日進月歩の機械文明に人の心がむしばまれて、自らの姿を失ない勝な世相にあって氏子皆夜明けの太陽に心を照らし、自然美の内に平らな境地を得せしめんとするものであって、第十四世仏心寺住職中小路芳道氏の命名による池の礎石『洗心碑』を奉納せしは全く同一所存によるものである。此の礎石は大江山産の自然石に刻名したものである事を附記する。 この世の総ての人々は、皆時代に流されて、煩悩に汚され皆その事さえも知らずに暮すようになり、世相が揺れに揺れ、さまざまな刺戟に乱されて、ともすれば自分を失ないがちな現代であるだけに、この神域を自戒の場として現在に生きる自分たちと子孫の為に、良きにつけ悪きにつけ神の御前にぬかずくとき、その神域に接し何かを感じ、心にきざむ場として意義あらしめたい。 時に明治百年目に当り日本民族黎明の記念すぺさ年で、皆その造営の意義に漸く目覚め区中五十一戸は総力を挙げて建設の意欲も燃え、殊に老人クラブ常盤会々長甲盛信太郎氏は、会員に出雲大社への代参を諮り、昭和四十四年三月二十一日総勢三十一名がこれに参加して無事完成を祈願した。又部落の四十五才から六十才迄の集まりである壮和会々長森 友二氏は会員と相諮り『手洗い場』の奉納を図り、石板に「自ら潔して他の汚れを洗い、清濁併せ容るゝの量あるは水なり』と刻んで訓となし、境内の神域化に努める外、青壮年層の集まりである郷志会々長甲盛正美氏は会員とともに久しく途絶えた奉納行事『笹噺し』『媛子踊り』『太刀振』など復活奉納する事とした。 一方財源的には山林売却代金六百八十万円は、本年度事業である『プールエ事』と、昨年からの継続工事である「かんがい用水路工事」の経費に充当分百八十万円を差引いて、五百万円を宮造営に充当する事とした。然し乍ら本殿、脇宮を水害のない処まで嵩上げして新築するのみて、玉垣参道及び周囲の土抱石垣に至るまでには財源の不足を来し所期の目的が達せられない事から、本社ゆかりの広範囲に亘る氏子に寄進を仰ぐ事とし、二百八十一万八千円の寄附と左記物件の寄進並びに奉納作業を受けて五月二十日着工し、十月五日茲に近郊稀にみる立派を神社を完成する事が出来た。 略 〉 関連項目 |
資料編のトップへ 丹後の地名へ 資料編の索引
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Link Free Copyright © 2007-2008 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com) All Rights Reserved |