油江(ゆご)
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京都府舞鶴市油江 京都府加佐郡加佐町油江 |
油江の地誌《油江の概要》 油江は舞鶴市の北西部。由良川の河口右岸に位置する。神崎のも一つ川上の集落である。 北流する由良川と並行して府道西神崎上東線・KTR宮津線が走り、川と府道の間は耕地となり、線路の東側に集落が立地している。 集落とその西側自然堤防との間に、旧由良川の河道であった幅の比較的広い細長い沼池がある。この沼池は由良川下流の港津としても利用されたという。 油江村は、江戸期〜明治22年の村名。油江は明治22年〜現在の大字名。はじめは神崎村、昭和3年八雲村、同30年加佐町、同32年からは舞鶴市の大字となる。 《人口》73《世帯数》20。 《主な社寺など》 KTRの神崎駅 集落北方の岡の西側に 古墳東側山上 (出土品の銅製経筒と伴出埋納品は現在東京国立博物館が所蔵している)。 天久神社(テンクと読むか。天狗かな) 三十八社 稲荷神社 竃神社 舞鶴桂林寺末地運寺(余部上に移転している) 《交通》 《産業》 竹野比売の父、丹羽大縣主・ 油江の主な歴史記録《丹後国加佐郡寺社町在旧起》〈 白峯山慈雲寺天久大明神あり。 〉 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 定免七ツ八分 油江村 高百七拾石四斗五升 内五斗 万定引 四石御用捨高 地運寺 天久山 桂林寺末 天久大明神 末社 若宮太神宮 岩戸 愛宕 稲荷 油江宮 三十八社大明神 薬師堂 〉 《丹哥府志》 〈 ◎油江村(蒲江村の北、是より神崎村に接す) 【天久明神】 【天久山慈雲寺】(曹洞宗) 【付録】(薬師堂、辻堂、稲荷社、愛宕社) 〉 《加佐郡誌》 〈 神崎村。凡海郷由良庄に属していた。神崎の名は何物から出たか詳かでない。四所神崎半島の地形から蟹岬の意味であると説く者があるけれども信じ難い。東神崎、西神崎、油江゙、蒲江の四ケ字から成っている。参考。蒲江はもと釜屋と書いたさうだ。之は三庄太夫の塩を焼いた釜屋があったからであるといひ伝へられている。尚蒲江の文字を用ふるやうになったのは同地の古池に蒲が非常に沢山おひ茂っていたからだとのことである。 〉 〈 神崎村字油江神社。本郡神崎村油江には二神社がある。その一を天久神社、他を三十八神社といふ。二社の由来は正確な史料とすべきものはないけれども古老の口碑に依ると、平安奠都の頃聖武天皇の皇子の某王(御名不詳)がある事によって都を逃れて、三十八名の部下を率ひて当部落に来て住んでいられたが、聖武天皇は皇子の御父君であって主従の崇敬が殊に篤かったので神社として奉祀せられるやうになった。是れが即ち当部落の小字上路にある氏神の天久神社であって、宝暦十年十一月改築の際に写して置いたと覚はれる天永三年八月三日再建の棟札を蔵している。其の後皇子主従は従者の一名を遺して皆自殺されたから、遺った者が此の地に社を建てて皇子主従の霊を祭った。これが即ち小字下路にある三十八社であって遺された者の子孫であると伝へられる井上権守と云ふ人が之を守護したと云ふことである。井上家には聖武天皇から皇子に賜ったと云ふ宝釼と、一寸一分の黄金製の観音像(位牌であるとも云ふ)と、弓矢と、御衣冠と、御纓とを伝へて来たが、数代の後に家運が衰へて遂に廃絶しなければならぬ悲運にあったから村民に頼んで三十八社の守護を託した。其後他家から入って井上家を再興した。これが現今の井上家(当主を延蔵と云ふ)で、真の権守の子孫は現に由良村に住んでいる井上氏(代々名を長五郎と云うふ)であると云ふことである。同家には彼の黄金の仏像を伝へたといふが今はないと云ふことである。又油江の井上家には前に記した宝物の中の一部であるといふ征矢(今は数段に切断している)と、古い切地等二三種の外、天正五年二月の日付のある「井上氏記」と、其他数通の古文書とか秘蔵してあるけれども確実な史料とすることは出来ない。其他宝釼の所在に就いても色々の説があるけれども、要するに行衛不明である。三十八社の北凡そ三丁の処に二千余坪の平坦な原野がある。此所はもと一帯に老松数百株が繁茂して居ったが先年字の協議によって伐截したのである。古老の伝へる所によると、「此地はもと三十八社のあった所で古墳が数個ある。若し此の地を穢したら必ず神の祟りがある。」といふことである。それ故、今でね村民は互に戒めて牛馬を繋いだり不潔の行為をしない。然し古墳らしきものも見当たらなかったが、偶々大正十一年三月丹後鉄道の開鑿に当って此の伝説地の東部から、大石をもって畳んだ石棺二個を発掘して、其の中から人骨の小片、土器数種、刀剣の破片、鏃等、等其の付近からも人骨、轡等を出した。是等の発掘品は届出したので、其の当時舞鶴警察署から宮内省に回送されると共に、その発掘部の鉄道工事は一時中止を命ぜられたが、九月に再び工事に着工することを許可せられた。此を以て其の古墳を前記の三十八名の墓であると云ふものがあるけれども確実な証拠がないから、まだ遽に判定することは出来ない。けれども両神社に関する伝説といひ又古墳の発掘と云ひ此の地に何等かの史的史実のあったことは疑のない所であらう。 〉 『舞鶴市内神社資料集』所収(京都府地誌) 〈 天久神社 村社々地東西四十間半南北九十七間面積三千九百二十一坪村ノ南ニアリ聖武天皇ヲ祭ル里老曰当社ハ村人井上武田両氏ノ創建に係ル其年代詳ナラス天永三年壬辰八月三日再建シ宝暦十年庚辰十一月修理ス初メ桓武帝都ヲ平安ニ移サセ玉フモ聖武帝ノ後裔某ナル者住セリ其後十世ヲ経テ子孫寥落セリ十余年ヲ歴再ヒ血統ノ者相続キ子孫綿々今尚存ス即武田井上ト称ス旧ト聖武帝ヨリ下賜アレリ御冠衣弓矢釼鉾等ノ教種伝来セシカ中絶ノ?紛乱シテ今僅ニ?及矢ノミアリト祭日九月十四日境内末社五座アリ (神仙)油江の二神社 字油江地区にある天久神社、三十八神社の二社に伴う今も伝わる古老の口碑、その後伝説に符合する諸事実等(加佐郡教育部会編・加佐郡誌所載)史実として確証するにいたらないまま、当地に語り伝えられている。 (岩野勝二さん) (神社調査書) 一、神社所在地 京都府加佐郡神崎村大字油江小字上路鎮座 二、社格神社名 村社 天久神社 三、祭神 聖武天皇 火産霊命・奥津姫命・奥津彦命 四、由緒 … 〉 『丹後路の史跡めぐり』(梅本政幸・昭47) 〈 この由良湊の対岸油江(ゆご)部落は聖武天皇の皇子が三八人の家来を従えてかくれ住んだ所といい、下路にこれを祀る三八神社がある。主従はのち一人の家来を残して自殺し、大正十一年三月鉄道工事の際発見された二個の石棺や経塚は皇子たちの塚だといわれている。部落に宝剣、黄金製の観音像、弓矢、衣冠、纓(よう・冠のひも)等が伝えられてきたという。 〉 油江の小字油江 宮下 堂ノ下 関下 下路 池尻 穴田 日源田 水戸 久古町 浜町 平町 森元 由里向 蒲上 島田 瀬 西原 島崎 長通木下 大川筋 上島 上路 高奥 井子 新田 穂空 和田 今林 古川 今谷 小谷 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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