結城神社(ゆいき・ゆうきじんじゃ)
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京都府舞鶴市青井 京都府加佐郡四所村青井 |
結城神社の概要《結城神社の概要》 結城神社は舞鶴市の北部。西舞鶴市街地の北部で北端の金ケ崎に近い 現在は 久美浜町の式内社・ したがって、イフキとは何かということになるのだが、誰もそう考えた人がない。−−今以てそのようである。 我らが頼りとする郷土史家たちや市教委は古代金属神に関しては、研究がかなりにたち遅れのようである、何もコレということはしてないのではなかろうか。市教委などは高給をただ持って帰って赤レンガと遊ぶことだけなのか。ど素人がこんな解説を書かねばならぬようなことではどうにもなるまい。しっかりしてくれ。 何をしているのだとぼやいても仕方ないので、ごく自然に考えてみよう。青井の北に 伊吹は近江の伊吹山(1377m)の伊吹である。 写真の山であるが、ここが故郷で、ここから来た人々であったと思われる。伊吹山の神(伊福伎神・伊夫伎神・意布伎神・夷服神などとも書く)は大蛇で日本武尊もここで遭難しそうになった。と伝わる。 伊吹山の南東麓の岐阜県不破郡垂井町に伊富岐神社が鎮座するがこれが本社と言われる。 伊福部氏は火明命の末裔とされる。だから尾張氏系統・丹後海部氏系統かも知れない。 『古代海部氏の系図(新版)』は、 〈 伊福部氏 『新撰姓氏録」によれば、古代の豪族、伊福部宿祢は海部氏の祖先、火明命の子孫とされている。 ○京師左京神別下 〃伊福部宿祢 尾張連同祖 火明命之後也〃 ○山城国神別 〃伊福部 火明命之後也〃 ○大和国神別 〃伊福部宿祢 天火明命子天香山命之後也〃 〃伊福部連 伊福部宿祢同祖〃 ○河内国神別 〃五百木部連 火明命之後也〃 伊福部氏関連の神社について、まず京都府熊野郡久美浜町油池に式内社、意布岐(いふき)神社が鎮座、祭神は五百木入彦命である。兵庫県出石郡出石町中村には現在、伊福部神社が鎮座。天平十九(七四七)年、伊福部連が、また延暦三(七八四)年六月、伊福部宿祢弘が、出石丘に伊福部の祖、天香久山命を奉斎する(但馬故事記ほか)。 愛知県海部郡七宝町伊福にはいま伊福部神社が鎮座し、五百木入彦や妹五百木入姫が居住した由緒を伝えている。なおその所在地は延喜式では尾張国海部郡となっている。 〉 現在の結城神社の祭神は、春日大神・八幡大神・大日霊貴神となっている、一般的な天照大神を中心に公家の祖神の春日神社、武家の守護神の八幡宮をまつる三社形式に変ったものとされるが、本来は火明命でなければならないと思われる。常陸風土記逸文では伊福部の神は雷神として描かれる。 さて丹後系文献の弱いところで、彼らが何をしていたかが書かれていないのだが、天香久山命を祀るというのだから、だいたいの想像はつく。火明命もだいたい何を主たる仕事にしていたかもわかる。 『青銅の神の足跡』は、 〈 …伊福部神とは、『常陸国風土記逸文』にある伊福部岳の神のことである。この神は雷神である。雷が蛇であり、また剣であるということは数多くの神話や説話から検出することができる。つまり、雷=蛇=剣の等式が成り立つことは今や文化人類学の常識である。栗田寛が近江の伊吹山にも伊福部の神が住んでいたのであろうと推察しているのは当を得ている。細矢藤策氏も「尾張氏の伝承と倭武の物語の成立」の中で同様のことを述べている。 伊吹山には伊吹の弥三郎という鉄人の伝承が伝わっている。全身が鉄でおおわれていても、身体の一カ所だけがふつうの人間とおなじ肉身であるために、そこを狙われて殺されるという話は、日本各地にある。その多くが鍛冶神と関連していることは見のがすことができない。こうしたことから伊吹の弥三郎というあばれ者の話の背後には、伊吹山の神が鉄人、すなわち鍛冶神であった事実が示唆されている。香取秀真は『随筆ふいご祭』の中で古代の伊吹山には銅を錬る伊福部氏が蟠踞しており、そのなかには銅の悪気にあたって命を落とすものも少なくなかったとし、ヤマトタケルが伊吹山で悪神の悪気にあてられたというのは、そうした事実の反映であろうと推測している。香取のこの推論は、私があとで述べる仮説と対応し合うものであるが、伊吹山に銅が産するということは確認し得ない。したがって、香取説にはそれを裏付ける例証が欠けている。 しかし、大場磐雄によると、伊吹山の近江側のふもと、伊吹村金山付近には露天掘りの岩鉄を採掘した跡があって金糞やふいごの火口などをともなう古墳時代の製鉄所跡も発見されているそうである。伊吹という集落に鉄滓が落ちているという話は、私も地元の人から聞いたことがある。そこには伊吹神社が祀られている。要するに伊吹山が古代の金属精錬に従事していた伊福部氏の尊崇する山であり、そこに伊福部の神である雷=蛇神が祀られていたことをみとめるだけで充分である。野だたらによる古代の製鋼や製鉄に欠くことのできない猛風を与えてくれる伊吹山を、伊福部氏はあがめていたと考えるのがもっとも自然である。 したがって、ヤマトタケルは伊吹山の銅の悪気にあたったというふうには理解しがたいが、伊吹山の周辺で製銅や製鉄に従事する氏族集団が、必然的に背負う鉱毒を表現したものとみることは可能である。… 〉 『舞鶴市史』は、 〈 白杉鉱山 金ヶ岬南南東の海岸にある。10米内外の二本の坑道によって、昭和三十一年ごろ採掘されていた。接触交代鉱床で、鉱石は、黄銅鉱、磁硫鉄鉱、黄鉄鉱などである。 〉 青井には喜多から移住した人が多く、両村の血縁は濃いそうである。 同社には、正月元日から十三日まで、十代の少年たちが合宿して、きびしい集団訓練をする「宮籠もり」の風習が受け継がれていたが現在は中絶した。鬼と書いた的を射る「 茨城県に結城郡がある。田数帳の丹波郡に結城越後の名が見える。彼は『宮津市史』によるば、結城郡の結城氏の裔という、しかしこれ以上の詳しいことはまだ調べていない。 結城神社の主な歴史記録《丹後風土記残欠》〈 伊吹戸社 〉 《丹後国加佐郡寺社町在旧起》 〈 青井村 瑞雲山青龍寺、本寺右同断、膽吹大明神九社の内、薬師堂あり。 〉 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 胆吹明神 九社之内 薬師堂 青龍寺 瑞雲山 桂林寺末 〉 《丹哥府志》 〈 【膽吹大明神】 【瑞雲山青龍寺】(曹洞宗) 【付録】(薬師堂) 〉 《加佐郡誌》 〈 結城神社 祭神 春日大神 八幡大神 大日霊貴神 〉 《舞鶴市史》 〈 青井の宮籠り 正月の元日から一三日間、村の男の子が氏神結城神社の「たちや」(前のお堂)にお籠りをする行事である。いつごろ始まったものか分からないが、文化十年(一八一三)の「村方年中行事調べ」の正月元日のところに「今夕より子供(一三才より一七才まで)十三日まで毎夜御宮え御籠り申候」と記されていることをみても、かなり古くから行われて来たものと思われる。 お籠りをする者を「こもり子」といい、数え年一三歳から一七歳までの村の男の子は、家に「けがれ」のある場合を除いて全員参加することになっている(兄弟がある時は弟は不参)。「こもり子」達は正月元日の午後になると、決まりの服装を整え、夜具一通りと筵で作った藁布団(敷代用)を持って「たちや」に集まり、昔から伝えられている厳しい仕来たりに従って、いろいろの「行」をする。 この行事の起こりについては、昔、村中の男の子の育ちが悪いので、氏神様に祈願してこのお籠りを始めたところ、それから丈夫な男の子が育つようになったので、以来ずっと続けて来たと言い伝えられているが、行事の内容は大体が年の始めに当たって、村の豊作を祈願するもののようである。 「こもり子」の役割は、年齢によって順位が決められている。… 〉 『舞鶴市内神社資料集』所収(神社旧辞録) 〈 結城神社 祭神 春日大神・八幡大神・大日霊貴神 同市字青井 古名伊吹戸大明神と唱う。結城は伊吹の転化として土記の伊吹戸社に比定。この社名及び村名共に天照と須佐之男の誓約の場所息吹の天真名井戸に縁由あるかと睹らる。 〉 『舞鶴市内神社資料集』所収(基層文化 花園大) 〈 結城神社・八大荒神 結城神社の創建は不明である。なお社殿について、元文三年(1738)の棟札が残っている。『丹後国加佐郡旧語集』によると「胆吹明神 九社之内」という記述が出ている。胆吹明神とは結城神社の祭神で『丹後国加佐郡寺社町在旧記』には胆吹大明神と、『九重神社略記』には伊吹戸主神、『日原神社御旅所略縁起』には伊吹戸主神とでてくる。「九社」については『舞鶴市史・各説編』に詳しい。 結城神社の主神は、天照皇大神・八幡大神宮・春日大明神である。それに因む正徳二年の奥書きを持つ『三社託宣一滴抄』が安原一氏のもとに残されている。その内容は以下の通りである。 天照皇大神 正直雖非一旦依終 蒙日月之憐 謀計雖為眼前利潤 必当神明之罰 八幡大神宮 雖食鉄丸不受心汚 人之物 雖坐銅灯不到心穢 人之慮 春日大明神 雖曳千日注連不到 邪見之家 雖為重服深厚可趣 慈悲之室 結城神社は、元文二年(1737)現在の八大荒神の祠の所にあったが火災になり、現在の場所に移すという記録がみられる。なお、八大荒神は過去何処にあったかのかという記録はない。八大荒神の祠については、災害が多かった文政年間(1818-30)に、現在の場所に造らせてほしいという願い出の記録がみられる。 文政年間に、ムラに災禍がみられることは青龍寺過去帳により推測できる。文化七・八・九年(1810・11・12)に死者が非常に多くなっている。なお、八大荒神の祠の裏の椿の葉を服に入れておくと伝染病にかからないという伝承があることを書き加えておく。 結城神社の管理はコウド(氏神講)によっておこなわれ、祭典は大川神社の宮司によってなされる。 百手 「そもそも百手は漢の高帝よりはじまりしとかやにて此の村にても古来より見えところその後しばらく中たえて」と書かれた百手に関する宝暦十二年(1762)の記録がある。結城神社の前の広い場所に矢場を作り、十五間離れたところより五尺の的に矢を射あてたもので、その矢数は総数千三百三十三本と決まっていた。そのまとの裏に鬼の字を書いてはりつけたことにより、ムラの安全を祈願した悪魔はらいの御祈祷行事のようなものであろう。天保五年(1834)五月十四日の『矢数人別帳』によると、この日参加した若者は四十五人であり、この行事は毎年行うものではなかったと思われる。最近の記録によると明治二十七年(1894)に行われている。 (太刀振) 氏神の祭礼に行われる。二、三百年前から伝わる。終戦後途絶える。昭和四十二年に行った。文献なし。 (祭礼にちなむ踊り) 太刀振りのあと円座をつくって行う踊りで、踊り手は太刀振をしたもので、各自扇を持って舞う。 はやしは、歌い手三人、笛三人、締め太鼓二人、大太鼓一人 ・地ばやし ・花のおどり ・おはらぎおどり 〉 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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