京都府与謝郡伊根町泊
京都府与謝郡朝妻村泊
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泊の概要
《泊の概要》
町の東部で新井の北、小さな泊漁港に面している。人家は漁港付近に集まり半農半漁の集落。泊港外には海食洞門がある。
村内にある七社明神の文明14年(1482棟札に「小泊村」「泊」とみえるのが早く、近世は「泊」、明治初年から22年(1889)までは「泊り」、以降は「泊」と記した。
古くから漁業を営み、塩浜もあったが災害で破壊されたという。享保12年鰤漁場について隣村津母村との間に争論があった。
泊村は、江戸期〜明治22年の村名。慶長6年から宮津藩領、寛文6〜9年・延宝8年〜天和元年・享保2年〜宝暦9年は幕府領。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年朝妻村の大字となる。
泊は、明治22年〜現在の大字名。はじめ朝妻村、昭和29年からは伊根町の大字。
《泊の人口・世帯数》 85・40
《主な社寺など》
七社大明神
家の山南麓の七社大明神は江戸時代、泊・伊室・六万部三村の産土神であった。文明14年銘の七所社棟札を所蔵、同社の4月15日の祭礼には、当地区から太刀振と花の踊、井室から神楽、六万部から相撲が奉納される。
七神社
朝妻村字泊小字宮垣、村社、祭神天神七代の神、丹哥府志七所大明神、泊、井室、六万部の産士神にて明治六年村社、氏子百七十戸、例祭九月二十日、外に愛宕及ぴ山根川荒神等の無格社あり。
(『与謝郡誌』) |
七神社(七社大明神又は七所社)泊小字宮垣(旧村社)
祭神 天神七代(天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神・宇麻阿斯詞備比古遅神・天之常立神・国之常立神・豊雲野神)の神を祭り、泊・井室・六万部の産士神としてある。
例祭 四月十五日、古くは旧暦八月十五日、新暦九月二十日の時もあり、昭和五年(一九三○)より四月十五日であったが、昭和三十四年(一九五九)に伊根全体の祭日が八月三日となり、昭和四十八年(一九七三)に元にかえり四月十五日となる。
沿革 創建は天暦元年(九四七)四月とされているが、確実な記録による年代は、「文明十四年(一四八二)八月二十六日上棟」の記事のある棟札があり、後土御門天皇の御代、足利九代将軍義尚の時代である。棟札には「七所社修造事始」として、文明十四年八月九日に取りかかり、「仮殿出御」が同十三日にあり、「上棟」が同二十六日で、「御遷宮」が九月三日に行われている。当時筒河庄の領主は二階堂政行であり、棟札に「領主二階堂山城大夫判官殿 地頭領家公文一円御知行」と記され、「御代官三富豊前守忠胤」「国之代官太田新左衛門尉忠恒」となっている。当時筒河庄は「丹後国田数帳」によれば「公方御料所」となっており、室町幕府の御料所即ち将軍の直轄領としてあり、将軍が領家職であるが、二階堂政行に領家職が「預け置かれ」地頭・公文共に兼ね支配されていた。そして三富忠胤と太田新左衛門忠恒が、在地の直接の代官として存在していたことが知られる。なお棟札中に泊の「刀祢」と呼ばれる土着の地主名や、伊振村(井室)では池本太郎四郎が「権守」として名を連ねている。…
祭礼
宵宮 四月十四日午後、初め海岸の道路に出て海に面し、大島(老人鳥神社)・小島・竜権さんに太刀振りと花踊りが行われ、つづいて横路の愛宕社・秋葉社に奉納され、最後に荒神山の山根川神社に奉納される。祭典行事は棒振り・小太刀・三人棒・大太刀(葵太刀)・花踊りの順にて奉納される。夜は太鼓台に笹竹をくくりつけた屋台に、手丸提灯を数多く吊し、太鼓を打ちならしながら伊勢音頭で泊・井室の順に宮入りをなす。宮入り後は七神社の境内で御神火をたき、神酒を汲み交し本祭の打合せをする。
本祭 十五日、午前中に神官による礼拝の儀があり、泊・井室・六万部の役員並びに氏子が参拝する。式が終ると同時に泊の猩々緋・笠鋒を先頭に宮入りをなし祭典が行われる。祭典には井室の神楽が舞われ、つづいて棒振り・小太刀・三人棒・大太刀の順に奉納され、つづいて花踊りがあり、最後に子供・若衆による花相撲が数番とられる。…
(『伊根町誌』) |
ご神体の取りあい
七社大明神は井室と六万部と泊との、郷の氏神さんです。
昔に、七社大明神のご神体を自分の部落ぃ持って戻って祀るってで、取りあいをしたもんです。一つのお宮さんを。
井室の人が、白い風呂敷に七人のご神体を負うて、道路を通ると六万部のもんに見つかるから、山ぁ越えて井室へ行った。そうしたら、背中から後光がさえて、道が明るいどころか、人が見ても周辺がぱあーっと明るかったいうて。
何事だろういうて人が見て、とうとう見つかって、また、もとあった泊に取り戻されて、そして泊は戸数が大きいから、ここのお宮さんに納った。
ご神体を負うて逃げた井室の人たちは、ばちが当たって、はやり病がべたべたはやったけど、そいつにかかわらなんだ二軒だけは一人も病人が出なんだいうて。(泊の柴田つれさんに聞く)
(『丹後伊根町の民話』) |
七社大明神の休み石
昔から七社大明神さんの休み石いうて、大町いう田んばの中に石がある。三尺四方ぐらいの石で、上がなるかったんだ。
七社大明神さんは神さんが七人ござるだって。その神さんが、あっちが出てきてたばこをし、こっちが出てきてたばこをし、二人そろうてたばこをしたり、石の上に腰掛けて、ほって夕涼みしたり、お話したりする。お宮さんに正式ばって、ちょんとしとるんが退屈でかなわんで、この石の上へ来て休憩なさったですって、七人のうち二人来たり、一人来たりして。
ほんで、その石は絶対動かされん石で、その石ぅ動かあたら、その主の家の人がほうけるいういわれが続いとるだいうてな。
うちのは、この石を、苗代をしょうが、打ち起こそうが、稲刈ろうが、絶対これはいらわなんだもんですわ。
稲刈りのとき、都合によりゃぁ子どもも座らせたかったが、ばちが当たりゃぁ思うて、子どもを連れとっても、道の縁ぃ置いて座らせなかった。石の上へ持ってきて座らせたら、お母さんらに近いで喜ぶがなあと思ったことがあった。(泊の柴田つれさんに聞く)
(『丹後伊根町の民話』) |
曹洞宗朝妻山松岩寺
朝妻山という山号をもつ、今は集会所。
朝妻山松岩寺
朝妻村字泊、本尊釈迦三尊、開基創建不詳、安政三年二月炎上、文久三年九月玉成和尚再建。
(『与謝郡誌』) |
松岩寺(曹洞宗) 泊 檀家廃寺時二八戸
本尊 聖観世音菩薩
開山 桃渓可徹
由緒 元真言宗朝妻山(寺名不詳)が「ザントウ」というところに、庵寺としてあったと伝えられる。
天文二十二年(一五五三)振宗寺四世桃渓可徹和尚が閑居し、永禄元年(一五五八)曹洞宗に改宗した。
宝暦十二年(一七六二)十月三界万霊塔造立。施主惣右衛門と刻まれている。
文化二年(一八○五)三月十五日再建
安政三年(一八六三)二月十日住職玉成和尚の他行中に失火により炎上し、本尊、位牌、過去帳のみ残る。
文久三年(一八六三)九月十六日再建
昭和三十七年(一九六一一)閉山
昭和三十九年(一九六四)三月三十日振宗寺に合寺となり、建物は現在公民館として使用されている。
昭和四十年(一九六五)茅葺の屋根を瓦葺とする。
境外仏堂 観音堂一宇
泊観音堂 泊小字石原
本尊 観世音菩薩
建立 天和三年(一六八三)五月
御詠歌 津々かわのあさづが浜の聖観音波のひびきで夜の目あるらん
由緒 観音堂の由来について次のように伝えられている。泊村にあって一老婆が眼病をわずらい、視力がおとろえ、失明寸前の状態になり神仏の加護を願った。老婆は眼病の平ゆを成相寺に祈願し、数里の道を不自由な眼もいとわず毎日参詣したが、成相寺の堂守はその熱心な信心に感動し、一体の観音菩薩の仏像を与え、毎日祈願されたらよかろうと背負わせ持ち帰らせた。老婆は持ち帰った仏像を毎日礼拝するとやがて眼病がなおり、この霊験あらたかな仏像を村に寄進した。
そこで泊村の人々は堂宇を建立し泊観音堂として記ることになった。この観音堂は昭和十六年(一九四一)松岩寺の管理とされたが、現在は振宗寺の管下にあり、毎年八月十七日夜に全戸が参詣している。
昭和五十八年(一九八三)九月、観音堂が移転再建され、厨子が修理された際に発見された台座の記録に、天和三年(一六八三)と天保十二年(一八四一)の年代が墨書され、前者には「天和三年癸亥五月、奥野次郎右衛門、同次郎左衛門、同七郎右衛門、八左衛門」が菩提のために造立し奉ったとあり、庄屋が厨子を寄進したと記録されている。天和三年(一六八三)は現在(昭和五十八年)からちょうど三○○年前であり、江戸時代五代将軍綱吉の初政に当たる。後者台座の記録は天保十二年(一八四一)に宮津京街道徳田屋善兵衛によって再建され、時の庄屋は万助となっている。その後安政三年(一八五六)五月十八日再建された棟札が現存している。また厨子の一表側の張り板を見ると、明治四十二年(一九○九)旧九月に、何鹿郡志賀郷村の仏師倉橋某と、大工某によって修繕されたとの記録があり、また昭和初期に堂宇の大修繕がされ、世話人小西安蔵、木挽下岡市左衛門、大工棟梁上山佐平治、大工上山貞之助等の名が記録されている。…
金らんの内敷
観音堂にまつわることとして、安政四年(一八五七)江尻村の漁師が泊の沖合いで遭難し、板切れにつかまり小泊へ漂着して小西家の世話になった。この遭難中に観音堂の明りが見え、九死に一生を得たことは、観世音菩薩の加護によるものと金らんの内敷が寄進された。内敷の裏に「安政四丁巳年六月、施主江尻邑漁師中、世話人府中灘江尻邑源五郎、儀三郎、弥造」と記されている。
(『伊根町誌』) |
名所
狩場の桜
狩場の桜 和泉式部が植えた桜の木であると伝えられ、小泊の観音堂の上の山中にあった。枯れては芽を出して二代目・三代目と大正時代まで美しく咲き誇っていたが、現在は見られなくなった。
(『伊根町誌』) |
雷神洞
↑雷神洞はそこ、見えにくいが入口が見える、ここはその遥拝所か?
雷神洞(はたがみぐろ)一名かくれ里ともいわれ泊湾の東岸にある。昭和二年(一九二七)この洞穴から人骨や素焼の徳利・平皿・木棺が発見され、当時棺は墓地に埋められ、人骨はお経をあげて埋葬された。その後昭和七年(一九三二)夏、考古学者西田直二郎博士一行が丹後地方を視察の際に再調査され、多くの人骨・菓子器・酒器・食器・花立などが収集された。木棺は船型の長さ一・八メートル厚さ三センチの杉材が用いられ、組方は木材に穴をあけ、板を組合せて作った組合せ木棺であった。土器は素焼で模様はなく、帯形の布(藤つる)で作られ、現在泊区に保存されている。
(『伊根町誌』) |
泊城址
天正10年(1582)丹後一色氏が諸将を弓木城に集めた時、泊城主は三富豊前守であったという。泊城跡は村の東部荒神山の頂と西部家の山南領と二ヵ所にある。海の近くで水軍の根拠の城と伝える。
《交通》
《産業》
泊の主な歴史記録
『丹哥府志』
◎泊村
新井村より西十八町其間に松尾嶺あり、松尾嶺の南に当て蝙蝠ケ嶽あり、頂に巌窟あり其内に大なる蝙蝠夥し。
【七所大明神】
【朝妻山松岩寺】(曹洞宗)
【そひねの松】(泊りの里)
丹後旧記云。俊成卿歌枕の頃民家に宿乞ひ玉ふをかかる貴き方とは村人はしらで御宿もまゐらせざりければ野末の松陰に夜を明し玉ひけるとなん。
続拾遺 夕汐の磯こす波のまくらとて 風に泊りの日数をぞふる (野宜左大臣)
新拾遺 見渡せはみとりの空に波かけて 泊りもしらぬ船出しにけり (大炊御門右大臣)
拾遺集 風をいたみ思わぬ方に泊りする 海士の小舟もかくやふらん (源景明)
続千載 浦々の末の泊りは知らねとも 同し磯辺に出るともふね (前関白左大臣)
【浅妻】
世継物語曰。藤原保昌翌は狩せんとて物とりつどひたる夜半鹿のいたく啼ければ、和泉式部「ことわりやいかてか鹿の鳴かさらん今宵はかりの命と思へは」かくよみければ其日の狩は止みけりと云々。
【狩場の桜】橋立案内志に、昔保昌狩せし處に式部が植し桜今も猶残れりといふ。
【岩門】(泊村の西、出図)
断岸数千丈の下より四、五間斗隔てて又数千丈の絶壁あり、絶壁東の方に穴あり潮を通ず、又西の方に穴あり門の状の如し、舟に棹して西の方より入りて東の方へ出る凡三、四十間、其間の険阻語るべからず。
【一ツ穴】(泊村東、岩門の西、出図)
穴の大サ一丈四方もあり深サ亦然り、穴の内に入りて聊かものいふ時は其響雷の如し能く人を驚かしむ。其西に雷神の祠あり(出図)深サ幾許ある事を知らず。
【犬の塔】(出図)
村の前少し海を隔て嶋あり、嶋の上に塔あり犬の塔といふ。昔より雷神の洞より蝙蝠ケ嶽にある岩窟へ其穴通ずると申伝ふ、よって或人試に犬を蝙蝠ケ嶽にある岩窟へいるれば、雷神の洞へ出たれども其犬皮肉敗れて遂に死す、よって夫が為に塔を建つといふ。愚按ずるに、昔保昌式部が歌にあわれを催し、末代まで浅妻の狩を停むべしと下知せしぬ事は諸書に見えたり、是等参考すべし、塔の状口細の瓢に似たるが如し、内海にある無字塔と相似たり、無字塔も殺生禁断の塔なれば此塔も殺生禁断の塔なるべし。 |
泊の小地名
泊
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