京都府宮津市鶴賀
京都府与謝郡宮津町鶴賀
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鶴賀の概要
《鶴賀の概要》
KTR宮津駅前、海までの宮津市の中心地、大手川河口の右岸側、一部左岸もある。大部分が旧宮津城のお城のなかになり、海岸部は明治以降の埋立地になる。宮津城は別名を鶴賀城・舞鶴城と呼び、その名をとったものであろうか。
↑大手門と大手橋(宮津市・明治初期) 宮津城と城下をつないでいた大手橋と平櫓をのせる城門。明治維新後城郭はほとんど破壊された。(『目で見る舞鶴・宮津・丹後の100年』より。キャプションも)
鶴賀町は、明治初年〜22年の町名。宮津城外濠と大手川に囲まれた城下跡地と一部大手川河口左岸の地をもって成立したもの。戸数は明治維新以前98軒、明治19年64軒、同21年は52戸。明治17年大手橋東詰北側の家老関左門旧屋敷跡に与謝郡役所が設置された。同19年宮津街道が改修され、木橋であった大手橋の架け替え工事が栗田トンネルから切り出された花崗岩を利用して行われ「めがね橋」が完成し、栗田トンネルとともに丹後宮津の名物とうたわれた。同22年宮津町の大字となる。
鶴賀は、明治22年〜現在の大字名。はじめ宮津町、昭和29年からは宮津市の大字。
《鶴賀の人口・世帯数》323・140
《主な社寺など》
大手橋近くの一色稲荷神社は、丹後守護家一色氏の終末の地と伝える。
旧城内西南入口にあった太鼓門は宮津小学校裏門に移転。
《交通》
《産業》
鶴賀の主な歴史記録
《丹後宮津志》(地図も)
宮津町=本町・魚屋・新浜・宮本・万・金屋谷・小川・白柏・河原・住吉・漁師・杉末・川向・宮町・蛭子・池ノ谷・万年・万年新地・鶴賀・波路・波路町・安智・外側・吉原・中ノ町・京口・馬場先・松原・京口町・木ノ部・京街道・大久保・柳縄手・島崎。世帯数2212。人口9190。 |
黒が元禄時代。赤は大正14年。
一色義清戦死の趾
今宮津大手橋の東詰宮津駅頭に面する處一色稲荷また義清霊社と崇むるもの吉野朝時代より室町時代を経て戦国時代の終りまで二百四五十年間、丹後の国守たりし一色家が最後に鮮血を以て染めし土地にて、古戦場として将た史蹟として最も尊重すへき所なるべく、場所宛かも駅頭に當れるより史蹟顕彰を唱導すもの等相謀り紀念伸建設を企て目下工事中なれば成工の暁は一段の偉彩を放つならん。 |
《丹後の宮津》
大手橋あたりと一色稲荷
宮津の町の山の手ともいうべき地域の、その名所旧蹟もこうしてまわると、やはりこの町の古い歴史のいとなみがひしひしと感じられ、遠いむかしにつながる今の宮津の町々も、なんとなくうるおいがあるように思われる。でもだるい足をひきずって歩くには少々疲れすぎている、バスで市役所まえにおり、右左をながめると、市役所といい、裁判所といい、また目のまえの大手橋あたりといい、なんといっても新らしい町の姿ではない。市役所は旧藩時代の郡会所の建物であり、門は当時そのままである。裁判所は旧藩時代の江戸家老有本吉太夫邸に明治十九年改築したもの、大手橋は旧大手橋の場所に、栗田トンネルエ事で切りだした石材をもって、同じ明治十九年(一八八六)七月、大膳橋・旭橋とともにかけかえたもので、このこともやはり売間九兵衛翁の主唱によって実現したといわれ、当時この大手橋を「メガネ橋」とした工法には、人々みなおどろいたとのことである。
さてこの大手橋を宮津駅の方へ渡ると、右手に橋から百メートルほどで小さい神社が目につく。いわゆる「一色稲荷」である。なぜ一色稲荷というか、すでに天正十年九月、一色氏最後の当主十代義俊・十一代義清が、いずれも細川藤孝・忠興の父子に亡ぼされたことはいった。その義俊は同九月八日、宮津の細川館へまねかれて謀殺され、つぎの義清は同九月廿八日、義俊亡きあとの一戦によって細川本陣へ最後の斬りこみをかけ、宮津川ほとりの伏兵にさまたげられて、ついに本望をとげぬまま、その川しもの漁家の蔭にはいって自匁しはてた。その後この地域に京極氏が築城のとき、以上の一色家亡霊をなぐさめるべく小社をたて、これをその後たれいうとなく一色稲荷とつたえたもので、この宮津を中心にした丹後興亡の歴史を物語る資料として、人々にふかい感慨をおぼえさせずにはおかぬところである。 |
《丹後路の史跡めぐり》
一色稲荷と菊姫稲荷
室町末期においては城砦の守護神として稲荷を祀る事が多かったため、いまも当時の古城址には稲荷神社が残っている所がある。
宮津警察署前に「一色義清自刃の処」と書かれた碑が建っており、稲荷神社が鎮座しているが一色稲荷とよばれている。天正十年(一五八二)九月二八日、細川藤孝の大軍を腹背に受けて落城目前に迫った時一色氏最後の国守吉原越前守義清は手勢百余騎を卒いて血路を倉梯川に求め、須津峠を越えて猪岡山の本陣へ斬り込んだが伏兵のため進退きわまって宮津海岸の漁家に入り、主従共に切腹して、ここに二四七年続いた一色氏は滅亡した。その霊を慰めるために戦後藤孝がその自刃の場所に稲荷を建立したという。
義清は義俊の父義道の弟であり、義俊が田辺に謀殺されて後は一門に乞われて居城吉原(峰山)から弓木城に入り、第十一代目の国守となっていたものである。これより先、弓木城を攻めたが稲富一夢の鉄砲に妨げられて攻略できなかった細川藤孝は、十五才になる娘菊を弓木城なる敵将一色義俊に嫁がせた。時に義俊二一才、天正九年(一五八一)の三月であった。
機を見て翌十年の九月八日、聟入りと称して義俊を田辺城(一説宮津大久保城)に誘い、酒宴にことよせて斬り殺してしまった。この策謀は藤孝の発案でなくして実は功名をあせる忠興の策であったといわれる。宮津波路(はじ)の大膳橋のほとりにある菊姫稲荷はそうした愛娘菊の末路をあわれんだ藤孝が建立したものといわれるが、一説には丹州青山候に仕えて皿をわって殺されたお菊の霊を祀ったものとも言われている。 |
現地の案内板
一色稲荷社 宮津市字鶴賀
丹後守護職一色氏は南北朝末明徳三年(一三九二)正月に補任された満範をもって第一代とする。その後若狭武田氏にその職を奪われたことはあったが、七代義有(一五〇〇前後)のころまではその実名を明らかにすることができる。その以後の事情は頗るわかりにくい。
近世後期の地誌である「丹哥府志」にいう「一色義清の墓」と、幕末期宮津城図に記載されている「一色稲荷」とは同じものであろうが、その義清なる人物を確定する史料はない。「細川家記」その他近世軍記物によると天正一〇年(一五八二)九月八日、一色氏の当主−細川藤孝の娘むこ−が宮津細川家臣の屋敷で、細川忠興方の手で謀殺されるという大事件があった。細川方の記録類で米田屋敷、「丹州三家物語」で有吉屋敷というが、何れにしても現一色稲荷か、その付近と思われる。「丹哥府志」はその復讐戦に義清を登場させるが、細川方の記録類は一切そのことにふれない。ちなみにその当主の名は義有、満信、義俊、義定さまざまに伝えられているが、何れにしても、謀略に倒れた一色氏の怨霊に対するおそれが、長く城郭内のこの地に鎮魂の社を存続させたものであろう。
宮津市教育委員会 |
現地の案内板
丹州皿屋敷の話
この小社を「菊姫稲荷」と称え、俗に「お菊稲荷」といわれているが、今から二百余年前の宮津
城主青山氏の一族に青山近江守幸澄という者がおり、その妾と家臣との不義密通から、養子鉄之助の自殺事件へと発展した。この間、幾多の奇怪な事件もあったらしく、藩主青山氏これら事件のため、幕府から咎められて美濃郡上へ転任を命ぜられた。この「お菊稲荷」が、この青山氏の事件に関係あることは想像されるが、それが後年の戯作者によって、「番町皿屋敷」等と、芝居ものに創作された経緯は明かでない。
けれどもこの有名な芝居「番町皿屋敷」と青山氏との関係を考えると、それが宮津藩主時代の事件を材料に創作されたことは首肯され、現にこの「お菊稲荷」の西北百メートル付近に、「お菊井戸」もあったが、今は埋められて跡形もない。そこで従来の「番町皿屋敷」や「播州皿屋敷」というよりも、実は「丹州皿屋敷」とでもいうべきだといわれ、ここ「菊姫稲荷」の縁起も、これでほぼ明かなように思われる。
宮津市教育委長会 |
舞鶴が発展しないのは細川ばっかしで、一色はほったらかし、その祟りじゃ、バチじゃ、などと言う舞鶴人もあるが、舞鶴には一色氏を祀った社は、たしかなかったと思う。
宮津城内は何者かの怨念が今も籠もっていそうな稲荷社が残されている。ヒメ殺し、何か面白い古い民俗信仰の残りかすなのかも知れないが、キクという名と水が関係しているようだが、もう少し何か資料がないと私は解明できない。地元の方どなたか、やって下さい。
関連情報
めがね橋
何か映画にも登場するというが、よくネット検索される「めがね橋」(↓写真は『丹後宮津志』「旧城三ノ丸趾ヨリ大手橋及ビ裁判所ヲ望ム」とある)。
↑大手橋を渡る神輿(宮津市・明治35年) 現在の市役所の地点から、橋上を行く和貴宮(分宮)神社の神輿を眺める。(『目で見る舞鶴・宮津・丹後の100年』より。キャプションも)
今の大手橋であるが、橋の上手右岸側からの写真のようである。今は付け替えられてこの「めがね橋」はない。裁判所はこの位置に今もある。川面に映る円い橋桁と一緒になって眼鏡のように見える。
栗田峠のトンネルを抜いた時に出た花崗岩で作られ、府の予算では不足し篤志家の寄付もあって完成したといい、「丹後宮津に過ぎたるものは波路トンネルとメガネ橋」と、驚異の目を以て迎えたという。旧城は右手側にあり、大手門はこの橋の左手・西側(今の市役所あたり)にあったという。
↓橋の袂にはオベリスクのような立派な碑が建てられている。下の案内がある。
↑いさざ採り(宮津市・大正時代) かつて大手川はいさざ採りの名所で、春先には多くの人びとがつめかけた。(『目で見る舞鶴・宮津・丹後の100年』より。キャプションも)
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