与謝郡(よさぐん)
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与謝郡の概要《与謝郡の概要》 今の宮津市、伊根町、与謝野町がだいたいの範囲で、丹後国の五郡の1つ、若狭湾の西岸、天橋立のある周辺に位置している。舟屋のある丹後半島の北端から、南は大江山まで。東は若狭湾と加佐郡、西は竹野郡、丹波郡に接する。 郡一般について。 「郡」という地方行政単位は、現在では死語になっていて、知らない人も多いと思われる。別に郡役所や郡会があるわけではなく、行政的は特には何も機能はない。 郡は古代律令国家の地方行政組織の一つで、国の下におかれた。古くはグンではなく「評」と書いてコオリと呼んだ。今でも「私はイカルガのコオリの者ですが、実はお宅の娘さんを…」等と正式に名乗りたい場合は使う人もあるとか。古代朝鮮語の大村すなわちクフルのことだろうと言われている。 もともとは中国の郡県制に淵源していて、日本での初見は『日本書紀』大化2年(646)正月条の「改新之詔」、いわゆる大化の改新だが、そのとき「凡そ郡は四十里をもって大郡とせよ。三十里以下、四里より以上を中郡とし、三里を小郡とせよ」とあり、このとき郡制が施行されたかのように記されている。 孝徳朝の649年(大化5)に評制が施行されて以来、金石文や木簡などの当時の史料から、7世紀の後半を通じて国の下の行政単位が一貫して評であったと確かめられている。評も郡もコオリと読まれたらしいが、郡は評を継承しつつ701年(大宝1)の大宝令の制定とともに始まり、「改新之詔」はそれにもとづいて後に作文されたものと考えられている。 「郡」と書くのは、正確には大宝令以後であり、それ以前は「評」と書いていた。聖典『日本書紀』に誤りありや否やと、有名な郡評論争のあったところで、この論争によって『日本書紀』の信憑性が大きく低下してしまった。舞鶴人の大好きな言葉でいえば、聖典から「偽書」に転げ落ちてしまった。藤原宮出土木簡には、与謝郡は「与射評」、加佐郡は「旦波国柯佐評」と書かれていた、このように藤原宮出土の木簡には「評」と書かれていて、『日本書紀』という超一級史料ですら、木簡という一次史料に比べれば二次史料に過ぎないことを改めて示した。権力が勝手にでっち上げた自主申告の「歴史書」をそのまま信じる学者などはもうない、ということになるのだが…。 令の規定では、50戸よりなる1里(のち郷と改称)で20里以下16里以上を大郡、12里以上を上郡、8里以上を中郡、4里以上を下郡、2里以上を小郡として、各郡ごとに郡家とよばれる役所を置き、、郡司(大領・少領・主政・主帳の四等官)が政務をとったという。 和銅6年5月に、『風土記』の斤進が命ぜられたのと同時に郡郷の名には好字が使われるようになった。 郡家には政務をとる庁屋のほかに、正税を収める正倉、厨房としての厨家、納屋などのほか、旅舎なども置かれて、律令国家の地方行政の基礎単位として政治的・経済的に重要な役割をになったという。 郡の総数は奈良時代の前半で555(『律書残篇』奈良時代)、平安前期では591(『延喜式』927年)であった。9世紀から10世紀にかけては郡の分割が行われて、10世紀以降はさらに進んで郡的な機能をもつ郷、保、別名なども出現し、郡司の四等官制も廃されて、地方行政単位の細分化と地方豪族によるその所領化が進行し、郡家も多くは廃絶していく。 古代の与謝郡 古くは丹波国に属していて、和銅6年4月丹波国から丹後国を分置し、その後は丹後国に属した。 藤原宮出土木簡に「与射評」と見えるのが早く、『日本書紀』雄略天皇22年7月条に「餘社郡」、顕宗即位前紀、仁賢即位前紀に「余社郡」。『続日本紀』和銅6年(713)4月3日条に「與佐」郡、同書宝亀7年(774)閏8月28条に「与謝郡」。天平10年(738)但馬国正税帳(正倉院文書)に「與射郡」。『釈日本紀』に「丹後国風土記曰、與佐郡云々」、『三代実録』元慶2年(878)3月23日条に「與謝郡」、『延喜式』神名帳、『和名抄』高山寺本に「與謝郡」などともさまざまに表記された。訓は『和名抄』刊本は「与佐」と訓じている。 今は与謝郡と書き、ヨサと呼んでいるが、ヨザとも呼ばれている。地名の意味については古来不明とされることが多い、発祥地も明確にしまいままに、豊受大神の天吉葛や海人と関係深いヒョウタンだという説などなども見られるが大変に苦しい説明ばかりである、日本語では意味不明ということであろうか。丹後は古い地で、日本語では解けない郡名は与謝ばかりでない、日本古代の先進地とは実はこうした所が多い。 丹後でもとりわけ縄文・弥生・古墳時代の遺跡が集中する地で、大風呂南墳丘墓、日吉ヶ丘遺跡や全長145mの蛭子山の巨大古墳、銅鐸出土地などの御存知通り全国的に有名なものあり、その圧倒的な古さと豊かさから「丹後王国」のロマン語られる心臓部になっている。 「古事記」には、開化天皇と竹野比売、美知能宇斯王と丹波河上摩須郎女、「日本書紀」には、開化天皇と竹野媛、崇神天皇のとき丹波道主命を丹波に通わしたこと、垂仁天皇と「丹波の五女」との結婚などと、大和政権と丹後(当時の丹波、与謝はこうした記録には出てこないが、すぐ隣りであった丹後の中心地であり、関係がなかったわけではなかろう)との浅からぬ関係を伝えている。大和と丹後の連合政権が当時の日本をリードしていたかも知れない。 「和名抄」高山寺本は宮津・日置・拝師・物部・山田・謁叡の6郷を、刊本では神戸郷を加え、名古屋市博物館蔵本ではさらに駅家郷が見える。 宮津は宮津川流域および栗田半島一帯、日置郷は現宮津市日置より与謝郡北部全体、拝師郷は阿蘇海沿岸、物部・山田・謁叡郷は現与謝野町の加悦谷(通称)域、がおよその見当として考えることができるとされ、拝師・神戸・駅家以外には遺称地がある。神戸は名神大社大虫・小虫の鎮座地あたりに、駅家は勾金駅のあたりではなかろうか。 「延喜式」神名帳は与謝郡に大3座・小17座をあげ、丹後では最も多いが、そのうち名神大2座(大虫神社・小虫神社)、小9座(物部・弥戸・須代・宇豆貴・阿知江・矢田部・吾野・阿知江イソ部・倭文神社)が野田川流域の加悦谷に鎮座しており(田結・木積・板列の論社も含めればさらにあるかも)、この一帯が律令期の府中・一宮以前のより古い時代の与謝地方の政治祭祀経済文化の中心地、与謝といった地名の発祥地だと思われる。 丹後国府は宮津市府中に、与謝郡家は、「丹後国風土記」逸文に「郡家の東北の隅の方に速石の里あり」とあって、拝師郷の南西側にあったようである。 国分寺も天橋立を望む景勝の地、今の宮津市国分に建てられた。丹後海部直が祀る籠神社は天橋立の傍らにある式内大社で、のちの丹後国一宮である。 「延喜式」諸国伝馬に、丹後国駅馬として勾金5疋と記している、その位置は現与謝野町与謝に伝承地がある。「延喜式」(主計寮)には「丹後国(行程上七日下四日)」としているが、この道は古くから都人の歌にも詠まれている。 小式部内侍の 大江山いく野の道の遠ければまだふみもみずあまの橋立 内侍の今でいえば、小6くらいの時のものである、都の小学生でも知っていたことになる。 また「枕草子」は、「海はよさの海」と書いた。 この時代の創建と伝える古寺院は智恩寺・成相寺・如願寺・大乗寺・禅海寺・金剛心院などがある。 「郡」は中世になると、郡を生み出した律令国家そのものが衰退していき、地方の主役は荘園に移っていく。 平安時代の中葉を過ぎ、10世紀末〜11世紀前半のころには、郡が有した広範な権益は国衙に吸収され、国衙官人の統治が直接的に各郡内に及ぼされることになった。郡衙は広範な機能を失い、そして旧来の郡域そのものも、分裂・解体の過程をたどることとなった。 12世紀中葉を頂点とする荘園の設立・寄進の動向によって、新設の郡のうち、半数ほどは国衙の統治から離れて荘園として寄進・立券されていき、中央の貴族・寺社のもとに属することになった。 この結果、公領(国衙領)は大幅に減少して荘園は公領にほぼ匹敵する事態となった。その公領の部分にのみ郡が残存した。その公領でも別名など国衙直結の行政単位が郡から新たに分離・設定されるなどして郡の地位はさらに低下した。 鎌倉時代に入っても、国家の支配地としてはそうしたことであったが、地域社会においては「郡」の地位はそれなりの重みを失うことはなかったといわれる。 鎌倉御家人は郡を所領として給与され、その統治のために郡内に政所・公文所などの役所を設けた。地頭だけではなく守護も郡ごとに置かれることがあった。 守護大名・戦国大名は荘園制の枠組みをのり超えて領国の統一をはかるためにに、郡の行政機構を重視し郡代・郡使などの役人を置いた。 郡内の有力寺社は地域社会の中心として、人々の寄合いの場となった。南山城国一揆ように郡を拠り所とする人々の集団が中央の権力にたいして独立の勢いを示すこともあったという。 中世の与謝郡 『丹後国田数帳』は、15世紀のものだが、鎌倉時代後期の郷荘の状態をある程度は反映していると考えられている。 神戸・駅家郷は名も残さず、宮津郷は宮津荘となり他の郷は郷名こそ残しているがわずかで大部分は荘・保に移ったものと考えられる。 日置郷からは伊禰荘・筒川保、物部郷からは石川荘・大石荘、謁叡郷からは加悦荘などが分かれたと考えられる。 大きな荘は、「加悦庄 163町8段248歩 実相院殿」「石河庄134町5段330歩」。 与謝郡の末尾に「已上1190町5段29歩」とある、そのうち寺社支配地が、680町5段149歩と全体の半分以上を占める。その寺社のうち、等持院領「107町980歩」、常在光寺領106町8段74歩、実相院領163町8段248歩(以上三寺は山城国所在)、一宮領59町3段210歩、八幡領43町4段28歩、以上五寺社の合計が480町7段100歩となって寺社領全体のおよそ七割余を占めている。等持院は足利氏に関係の深い寺である。寺社領を除いた残りのおよそ半分が、幕府ないし守護一色氏料地・幕府奉行人・奉公衆およびこの地方国人層の所領、それに若干の国衙関係の土地である。 田数帳にいう与謝郡は今の与謝郡よりは範囲が広く、平荘22町3反余、八幡領としているのは現京丹後市の平であり、物部葛保12町9反余は同市の野中・中津付近である。この付近は近代に至るまで与謝郡野間村と称していた。 戦国期の丹後一色氏支配の中心地は国府所在地裏山・成相山の府中城(新熊野城)(「府中城」)であったが、一色氏内部での勢力抗争は深刻であった。「細川政元記」によると永正3−4年(1505−07の丹後守護一色義有と若狭守護武田元信との戦争には武田方の背後を細川改元が支えた。一色氏の部将には守護代延永修理進(府中城)・石川直経(加悦城)がいたが、石川は一色氏の措置に必ずしも従わなかった。同13−14年になると、義有なきあと一色義清と同九郎が対立し、義清は武田元信らと組み、九郎は武田方被宮逸見らと組んだ。延永は九郎に味方し、石川は義清に味方したという(諸寺過去帳、朽木古文書、室町家御内書案)。 天文期(1532−55)の「丹後国御檀家帳」によって、田数帳の時代とはかなり様相が変わって、一色氏の拠点は与謝郡では府中と石川に置かれ、石川の一色氏は府中の一色氏の「御しん父」であったが、「是は石川殿御取立の屋方」であった。「石川殿」は「かやの御城」の石川殿で「国の御奉行」であった。府中と石川という二つの地域に一色一族が相対立している点ではたいした変化がなさそうにみえるが、地域権力の在り方はまったく変わっている。 田数帳の時代には幕府権力ならびに中央諸社寺の荘園と武家方および国人層との抗争が中分・半済などのかたちで顕著にみられたのに対し、それより半世紀以上経過した御檀家帳の時代には、一色氏を中心として支配系統がずいぶん単純化されていることがわかる。荘園制が崩壊して新しい「むら」「垣」「段」という地縁結合体が生れ、「いちば」が広がりつつあるさまをうかがうことができる。しかしそのかたわらで、至る所に大城主・小城主がいて、一色氏との間に被宮関係を結び、地域支配権力として存在している。 近世になれば、「郡」よりも「藩」が主役だろうが、行政単位・所領あるいは住民の地域的な結集の単位などとして生き続けている。 天正13年(1585)に秀吉は古代以来の国家支配の枠組みを継承する路線をとって天下統一し、郡は支配・行政の基本単位とされるに至る。1591年の全国の御前帳(検地帳)と国絵図は国郡を単位としてつくられていて、豊臣政権の国郡制的国家支配の特質をよく示している。 江戸幕府もそのような古代以来の国郡制を幕末に至るまで継承し、郡は国とともに近世国家の行政・支配の根幹をなす単位であった。 近世の与謝郡 織田信長は細川藤孝・忠興父子、明智光秀らに命じて丹後を平定させた。丹後の一色義有が細川・明智らに降伏したのは天正7年(1579)であった。細川氏は翌8年7月信長から正式に丹後を与えられた。与謝郡各地の山城にこもる小領主たちもこの間に降伏した。 慶長5年(1600)12月細川忠興は豊前中津に転封、そのあとへ信州飯田より京極高知が丹後全領123000石を与えられて入国した。 元和8年(1622)高知死後はその子に丹後を三分し、与謝郡は宮津藩京極高広の領内に入っていた。 高知が慶長7年に実施した慶長検地によれば、与謝郡は52ヵ村、30462石余であった(慶長検地郷村帳)。 京極高国が領地没収されてしばらく幕府領となり、寛文9年永井尚征が入部、父子2代在城した。領内の村方は細分化されて延宝3年郷村帳によると92ヵ村となっている。栗田村が12ヵ村、下宮津村が10ヵ町村、上宮津村が3ヵ村、府中郷が8ヵ村、世野村が6ヵ村などというようにして結局与謝郡が倍近くの40ヵ村増えて92ヵ町村となった。 宮津藩領は増高されて領民は苛政に苦しんだという。たとえば永井氏の当時、加悦谷17ヵ村の高は15025.82石であったのが、延高によって191660.157石となった。27.6パーセントの伸びとなる。 10%消費税となれば、それでは足りないとして20%までは最低もっていきたい政府与党野党どもだが、低所得者には実質27.6%以上の大増税となっておいかぶさり、選挙では隠して、日本の底辺は大破滅となるだろうかもの大増税であった。 加えて延宝8、9年は大飢饉で、延宝9年9月中旬、都合大数14086人の餓死人という有様であったという、総人口5万弱の中でであった、分母も分子も正確には明らかにならないが、総人口の30%程度の餓死者が出たことになろうか。(歴史が二度繰り返されねばよいが) そればかりでなく阿部時代になると領内は、政治的色彩の濃い組分けをされる。加悦谷を例にとると、ひとつの谷に連なっている加悦谷一七ヵ村は、田中組に四ヵ村、河守組に五ヵ村、温江組に八ヵ村と分断された。団結しないようにの分断策である。 享保2年青山氏が入部した時、湊宮代官領となったところは与謝郡で22ヵ村・5、915石5斗9升4合であったが、宝暦8年本庄氏入部の時13ヵ村と奥波見村の一部が戻ってきた。 『与謝郡誌』によれば、幕末期における宮津藩代官領含めて与謝郡の家数は百姓およそ7、900軒・城下町人1、180軒・武家830軒・ほか360軒・計1万270軒、人数は百姓およそ3万7、820人・城下町人6、230人・武家3、350人・ほか1、640人、計4万9、040人であったという。 大きな被害をうけた飢饉は、延宝8−9年、天明3−4年)、天保7−8年の飢饉があった。餓死人夥多敷道傍辻堂にて、倒死し言語に難尽困窮之年柄なり、飢死人道傍辻堂又は町方往還にて倒れ相果候者不知 数、なとど書き残されている。 宮津藩は田辺藩と比べると苛酷な藩政といわれ、これに対して農民は、ある時は嘆願愁訴し、時には強訴・一揆の行動に出ている。近世前期には承応3年(1654)の加悦谷算所村の逃散をはじめ、正徳4年(1714)の全藩領大庄屋を結合しての訴願、後期には文政5年(1822)の百姓一揆などはその代表的な事件。 地震や津波は近世を通じて大きなものはなかったようで、元禄7年(1694)10月26日、宮津地割れ、砂を噴出、家屋破損、宝永4年(0707)10月4日近年珍しい大地震、安永2年(1773)12月11日夜子の刻大地震家根石多く落ちる、安政5年(1858)2月26日、地割れ、家屋破損などが記録される。 近世産業として特色をもつものに加悦谷地方の縮緬機の隆盛と伊根町を中心とする地域の漁業、岩滝を中心とする廻船がある。 近代の郡は帝政国家下請けの民意無視の機能不全行政機関で、やがて廃止となる。いよいよ死滅か。 明治4年(1871)の大区・小区制の下で旧来の郡は否定されたが、同11年の郡区町村編制法で行政区画として復活して郡役所と郡長がおかれた。 郡長は官選で府知事・県令の下にあって町村を監督し、もっぱら上命下達にたずさわった。当時郡長は警察とともに国家権力の象徴的存在とみなされていて、各府県会ではしばしば郡長公選が建議されている。 同23年の郡制公布によって郡会がおかれ初めて一応は地方自治体となったが課税権もなく、府県知事や内務大臣の強い監督権下におかれ自治体としては不完全であった。 郡会はその3分の2の議員を各町村会が選挙し、残り3分の1は地価1万円以上の土地を所有する大地主が互選でえらぶこととされていて地主層中心の議会となった。ヤシみたいな「議会」であった、こんなものに歳費を払う納税者はあほくさいの極限だが、しかし今もどの議会もこの推薦と互選の郡会議員と、実質的にはたいしては変わらぬ様子である、そうしたことではやがて死滅の運命か… その後、郡は若干の改良も試みられたが、自治体として不十分であったため地方制度合理化の見地から問題視されて日露戦争以後たびたび郡制廃止が議論の対象となっている。 大正12年(1923)4月1日郡制は廃止されて、郡は純然たる行政区画となった。さらに同15年7月に地方行政整備と地方財政緊縮の見地から郡長以下の官吏が廃止され、郡役所もそれに伴って姿を消して郡は単なる地理的名称となった。 郡は第2次大戦後の地方制度改革を経て、郡は地方自治法上町村の存する区域を示す地理的単位であり、郡区域内町村が市となったときは郡の区域も自然変更される(259条)そうである。 郡は公職選挙法により衆議院議員選挙と都道府県議会議員選挙の選挙区編成単位となることもある。市町村行政の実態面からみると旧郡制時代の郡区画は依然として機能をある程度は残している。広域市町村圏などの市町村レベルにおける広域行政の圏域設定や府県庁の地方事務所の管轄区域など、おおむね郡制時代の区域に対応していることが多い。 近代の与謝郡 幕末期は88ヵ村・4ヵ町、石高4万2、175石余(旧高旧領)、明治12年の郡区町村編成法施行時の町村数は129町村。同17年郡役所は、宮津の大手橋東詰北側の家老関左門旧屋敷跡に置かれ、初代郡長は長田重遠、明治22年の市町村制施行により2町21村となる。この間郡内の村々は、明治4年7月に宮津県・峰山県・久美浜県に分属、同年11月、いったん豊岡県に編入され、同9年京都府所属となった。同27年新たに岩屋村がおかれ、同35年には雲原村が天田郡に編入された。 昭和29年6月宮津市が成立。平成18年3月与謝野町が成立。今の与謝郡内の市町は、現在、宮津市・伊根町・与謝野町である。 与謝はフツー的にはヨサと読まれている、ヨザノブソンとかヨザノアキコとは言わない。しかし地元でこの地名はヨザと読まれることが多い。 この車の所有会社も「よざ」としている。 与謝郡の主な歴史記録『大日本地名辞書』
『与謝郡誌』
『日鮮同祖論』
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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