京都府与謝郡与謝野町四辻
京都府与謝郡野田川町四辻
京都府与謝郡市場村四辻
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四辻の概要
《四辻の概要》
加悦谷平野の北西部に位置する。地名の由来は、南北に走る宮津・加悦街道(国道176号)と東西に走る但馬・出石街道(宮津八鹿線)が交差していることによるという。
四辻村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降宮津藩領。織機数は、明和3年2機、享和3年30機、文化年間10機・嘉永年間48機・文久年間56機。天明年間、野田川舟運の積出場は亀山橋にあったという。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年市場村の大字となる。
四辻は、明治22年〜現在の大字名。はじめ市場村、昭和30年からは野田川町の大字。大正15年加悦鉄道の敷設に伴い、丹後四辻駅ができた。昭和2年の丹後大地震ではほとんどの家が焼失した。平成18年3月からは与謝野町の大字。
《四辻の人口・世帯数》 1457・471
《主な社寺など》
古墳(幾地も含む)(『野田川町誌』より)
市場の家外古墳 幾地小字家外にあり、、一八五メートルの山頂に南北一二・四メートル、高さ三メートルの円墳が現在完全に残っている。土師器の破片が、付近に散在している。
市場の愛宕山古墳 四辻小字愛宕山頂にあり、円墳、竪穴式石室で、昭和二年の丹後震災のとき山崩れがあり、石棺が出現し現在崩壊。副葬品は碧玉管玉、同勾玉、金環、刀剣(破片)、鉄鏃、須恵器類。
市場の戌石古墳 幾地小字戌石にあり、山腹に円墳横穴式石室が三基ある。一基は全壊し、一基は現在半壊で、土師器が出土していた。一基は、完全に現存している。
市場の香久山古墳 幾地区香久山(七〇メートル)頂にあり、山頂に円墳が二基あって、いずれも東西、南北、各一四メートルの大きさである。頂上部付近には土師器の破片が散在する。
穴石神社
同村小字穴石に穴石神社、愛宕神社等あるも無格社なり。
(『与謝郡誌』) |
なお小字穴石(あなし)に穴石神社がある。
(『野田川町誌』) |
などと超簡単で、金属に弱い丹後史界らしい。本当は何も丹後だけではなく、「高度に発達した工業国」一般の欠陥で、丹後はそれに影響されているだけなのだろうが、罰当たりな話ではある。過去を忘れる者は未来も忘れることであろう。中国に抜かれまもなく韓国にも印度にも抜かれるかも…
現地の案内板
穴石神社由緒
祭神 大山祗神(山を司り給う神)
神徳 心願成就・災厄削除・家内安全
当社の創建は不詳なれど元亀三年(一五七二年)に書写された丹後の国神名帳伝本に阿梨明神と記載されており、相当古くから存在した神社であることは明かである。明和六年天保十二年再建の棟札が現存し、明治十九年に鳥居が再建されている。
伝説
往古上山田尾崎の辺りに古沼があり、大蛇が棲み里人を困らせていた。そこで少名彦命が大蛇を退治したところ、その尾尻から刀剣が出、その刀剣を祀ったのが彌刀神社であり、少名彦命は苦無神社に、蛇体は穴石神社に祀ったと言う。
例祭 九月第一日曜日
平成八年三月吉日
宮司謹書 |
指摘のとおり、「室尾山観音寺神名帳」「与謝郡六十八前」に、
だれがつけたものか、ヘンなルビがあるが、アナシと読むのだと思われる。
同じ漢字をかくのは、伊賀国阿拝郡に式内社穴石神社、豊前国下毛郡穴石郷、アナシよむのだが、穴師とか痛足、痛背などとも書かれる。鉄穴師のことで、産鉄精錬など吹革を踏んで足や背が痛むので痛足、痛背とうまく書いたものと思う。
北西の風をアナシとよび、そのことだという説も多いが、ここは北側の山の麓で、北風より南風を受ける、また風では痛足・痛背と書くのがわからないし、穴師兵主神社とか、兵主神社とよくセットになるのも理解できなくなる。
ここは東隣に苦無神社がある、クラアナシと思われ、仲間の神社ではなかろうか。その東の式内社・弥刀神社はミナトの神社でないかと思われるが、境内に産鉄関係の社があったのかも知れない。
天満宮跡
町内文化史跡を訪ねて・四辻・天満宮跡
四辻小字天神ケ丘で、現江陽中学校敷地となっている。 加悦の伝説では、細見倉彦が菅原道真に仕え、道貞配流の後、倉彦は丹後に帰って、中郡二箇に天神社を設け、後に四辻村天神ケ丘に移し、一三二八年加悦の宮野の森へ、一五八五年現在の天神山に移したとしています。
四辻村の伝説では、細見倉彦が二箇村へ帰る途中、この天神ケ丘で病気となり、里人に頼んで、道具の形見をここに祀ってほしいと言って亡くなったので天神社ができたといいます。今の天神社は四辻へ帰りたがって、すぐ社が四辻を向くので、加悦城主有吉将監が再度四辻を向けて建てたのが今の天神社と伝えております。中学校々歌の天築ケ丘は、天神ケ丘だとも言われています。
(『町報野田川』(昭和53.5.25)) |
八幡神社(四辻上谷)
八幡神社
市場村字四辻小字上谷鎭座、指定村社、祭神誉田別命創立年代由緒詳ならず古老の伝によれば神像は嵯峨帝の御作にて応神帝、神功皇后、武内宿禰の三体なりしを何時しか其一を失して寛文八年八月京都佛師黒羽正邦再営せしといふ。元八幡大菩薩と號し八幡山寳泉寺より奉仕せしを維新の改革に別當寺院を離れ明治六年二月村社に列せられ大正六年八月二十一日神饌幣帛料供進神社に指定せらる、氏子百七十六戸、境内末社に蛭子、島田、若宮稲荷、天満宮等の小祠あり。拝殿、幣殿、籠舎及び永和二年卯月建設の石燈等あり郡内最古の石燈籠なり当社のこごは総論田数帳の部に引ける石清水文書に山田東方八幡別宮とあり式外舎なりと雖も藩主の崇敬もあり近郷稀に見る尊厳を有す。祭典八月十五日
(『与謝郡誌』) |
八幡神社 四辻小字上谷
誉田別命(応神天皇のこと)を祀る。
「誉田は、天皇に生れ給いし地名なるべし。仲哀天皇の皇子にして御母は神功皇后軽島の明宮(アキラノミヤ)にまして、天下を治め給う。 諡(オクリナ)して応神天皇という。軽島の明官の地は大和国高市郡軽にあり。」(大日本神名辞書)とある。大祭は、旧八月十五日(現九月十五日)に行なわれる。
神仏習合説により八幡菩薩といわれ、江戸時代、八幡山宝泉寺が別当職であった。境内には、重要文化財の石灯篭(出雲石)一基がある。高さ二・四八メートル、八角形、円筒竿笠を盛り上げ、宝珠と請花をつくり、上下に高くのびる形に仕立てている。永和四年(一三七八)四月二十八日、願主、庄頓の銘が刻まれている。
境内には、白姫稲荷、若宮、島田、妙見堂、明治神宮、御城稲荷などがある。古来は、嵯峨踊りといって、子どもらが、花笠、花扇をかざして奉納した。明治中期からは、神楽組が各戸を祓い潔める行事が行なわれ、現在までつづいている。また、各町内で、秋祭りには、「作り物」と称して、同一材料で、風景、人物など万般にわたり工作して、町の目抜のところに陳列装飾したが、現在は行なわれなくなった。妙見堂は、日蓮宗実相寺(加悦町)の十九世日迅上人が、享和二年に建立したが、当時の曹洞宗宝泉寺の五世耕道師は、宗派観念を超越して、この建設に協力を惜しまなかったという。七月十四日は、夜祭りで賑う。
(『野田川町誌』) |
町内文化史跡を訪ねて・加悦谷祭・四辻地区
四辻地区の氏神は八幡神社で、誉田別命を祀り、神社境内には重文指定の石燈籠(南北朝期の作)一基のある由緒深い神社です。
四月二十四日の宵宮は、神輿に御神霊遷しの儀を行ないその神輿と屋台が町内を練り歩きます。
二十五日祭典の日は、神楽社名旗、鉾、弓、楯、四神旗雅楽、稚児、神官、称宜、神社総代、神社役員、賛助員、屋台、御輿の行列が八幡神社を出発して町内巡行し、その後八幡神社本殿で祭儀を行い、祭典は終りを告げます。
四辻地区特有の行事として、「作り物」があり、天保の頃から昭和の初期まで続き、その後、戦後十年ほど再開されましだが、今はその名残りはなく知る人も少ないそうです。
(『町報野田川』(昭和55.11.25)) |
町内文化史跡を訪ねて・八幡神社(四辻)
御祭神は、誉田別命(応神天皇のこと)で、「誉田は、天皇に生れ給いし地名なるべし。(中略)諡して応神天皇という。」と、大日本神名辞書に記述されています。
大祭は、旧八月十五日(現九月十五日)に行なわれ、以前は、「作り物」と称して、同一材料で、風景、人物など万般にわたり工作して、町の目抜のところに陳列装飾されましたが、現在は行われなくなりました。
境内には、白姫稲荷、若宮、島田、妙見堂、明治神宮、御城稲荷などが祀られ、又、重要文化財の石燈籠(出無石)一基があります。
この石灯篭は、高さ二・四八メートル、八角形、円筒竿笠を盛り上げ宝珠と諸花をつくり、上下に高くのびる形で、永和四年(一三七八)願主、庄頓の銘があります。
(『町報野田川』(昭和56.10.31)) |
四辻城址
寺山の四辻城址は、赤井五郎・赤井平治の城跡と伝え、今も峰山街道の中郡境を平治峠という。
「丹哥府志」には「荻野悪右衛門城墟」、「丹後旧事記」に「四辻亀山 荻野悪右衛門、石川悪四郎」、「一色軍記」に「四辻亀山 荻野悪右衛門・石川悪四郎同居す。荻野は丹波の大名なり、破軍の後一色に入込終に家臣と成る」と記している。
丹波赤井氏勢力が、加悦谷にまで及んでいたことを示すものと思われる。
四辻城趾
市場村四辻八幡社の上にあり赤井五郎之れに拠りしと云ひまた亀山城の萩野悪右衛門の臣赤井平治とも云ふ丹後野乗一色軍記等之れを幾地城とも書く。
(『与謝郡誌』) |
四辻城跡 四辻小字寺山にあり、城主は赤井五郎で、清和源氏頼季より出る。加佐郡西大浦の赤井氏は、その後裔である。安田氏系図(安田義輝所蔵)に、「家清又称兵衛太夫因代道臣足立氏芦田氏等被深創而卒以弘治三年丁巳二月六日享年三十三法名浄法其子五郎忠家尚幼叔父直正執国政幾地安田岡新城建称安田氏」。とある。当時、忠家は九歳であったので、叔父の直政(悪右衛門)が執事となる。その後、忠家の子五郎時綱が、伊久知城(四辻城)主となる。三河内梅林寺付近には、安川氏十一代秀義が修成した五輪塔がある。戒名は、「安国院雪窓浄喜居士」。寛永三丁寅十月十五日、家紋は剣梅鉢となっている。現に安田の姓は市場、三河内、岩屋にある。
(『野田川町誌』) |
曹洞宗八幡山宝泉寺
八幡神社の隣に八幡山宝泉寺(曹洞宗、本尊千手観音菩薩)がある。もと桜谷にあった法性寺(真言宗)の後身といい、法性寺五代目が中興開山して寺名・宗派を改め寛永年中(1624−44)に現在地に移したと伝える。天和2年(1682)の丹後国寺社帳には曹洞宗としてみえる。江戸時代までは八幡神社の別当職であった。
八幡山宝泉寺
市場村字四辻、本尊千手観音、慶長八年宣黙といへる僧櫻谷に法性寺といへるを建て、以来五代住し寛永元年三月祖道和尚今の地に移して宝泉寺と改むと寺記にあるも八幡宮と密接の関係あれば阿禰陀仏を本尊として尚ほ寺伝より古るきこと言ふまでもなかるべし。
(『与謝郡誌』) |
八幡山宝泉寺 四辻小字上谷
本尊 千手観音菩薩 曹洞宗智源寺末
宝泉寺の前身といわれる法性寺は、桜谷にあって、真言宗の寺院として栄えたが、五代目の一山祖道和尚が中興開山して当寺を改宗、寛永元年三月十日、現在地に移した。年中行事としては、観音講、宗祖忌、達磨忌がある。寺宝としては、江戸中期の画家、曽我蔵白の屏風一双が保存されている。文化十四年の「宮津藩差し出し帳]には、「本堂、位牌堂、庫裡、隠寮、薬師堂、鐘楼が建ち並んでいた。」と書かれている。現在の伽藍は、本堂、庫裡、薬師堂、書院、鐘楼などで、これらは、昭和二年の丹後震災後に再建されたものである。仏像には、千手観世音菩薩像、将軍地蔵、毘沙門天像、薬師如来像、地蔵菩薩像があり、すべて江戸時代のものである。檀家は約百戸である。
(『野田川町誌』) |
町内文化史跡を訪ねて・八幡山宝泉寺
四辻小字上谷にあり、本尊は千手観音菩薩、曹洞宗智源寺末寺である。宝泉寺の前身と云われる法性寺は、桜谷にあって、真言宗の寺院として栄えたが、五代目の一山祖道和尚が中興開出して当寺を改宗、寛永元年三月十日現在地に移したと云われます。
寺宝としては、江戸中期の画家、曾我蕭白の屏風一双、又、黄檗二代目木庵筆による羅漢像十八幅が保存されています。
文化十四年の「宮津藩差し出し帳」には、「本堂、位牌堂、庫裡、隠寮、薬師堂、鐘楼が建ち並ぶ。」とありますが、現在の伽藍は、本堂、庫裡、薬師堂、書院、錘楼など、これらは昭和二年丹後大震災後の再建で、庫裡の一部は、昭和五十四年に改修されました。
(『町報野田川』(昭和58.1.14)) |
八軒町の供養塔
町内文化史跡を訪ねて・市場・八軒町の供養塔
岩屋川の、昭和三年一月架換とある四辻橋(俗称八軒町橋)のたもとに、天保四年五月建立、碑銘南無陀仏の供養塔がある。
天明三年(一七八三)の全国的不作大飢饉に続き、天保の大飢饉(一八二三〜一八三七)が起きた。この天保三、四年の飢饉は、当地方は比較的軽微であったが、その様は悲惨を極め、木の根、草も喰べたと伝えています。そして行倒れる者後をたたず、岩屋川の水を飲んでこのまま河原で死ぬ人や、死人が流れてきたとも伝えられています。
四辻村は、見かねて八幡宮で粥の炊出しをしたが、この施粥の話が広まって、来村する人も多く餓死者が続出したといわれ、それらの人の冥福を折ったのがこの供養塔だそうです。
(『町報野田川』(昭和55.1.10)) |
《交通》
《産業》
四辻の主な歴史記録
『丹哥府志』
◎四辻村(上山田村の次)
【八幡宮】(祭八月十五日)
【八幡山宝泉寺】(曹洞宗)
【荻野悪右衛門城墟】
【源頼光の銚子】(農家蔵、出図)
【付録】(穴石大明神) |
『野田川町誌』
市場地区 当町の中心地区であって、現在五区に小区分されているが、通常四辻と幾地に大別される。四辻は、その名の如く、府道宮津八鹿線及び福知山宮津線の分岐に旧道及び町道石川(亀山)道などの交叉点を形成し、その辻を中心に発展しているが、元来、集落は、八幡宮北東の山麓から南東部にかけてであったと思われ、八幡宮前に市場集落が発達し現在の形態の基をなしていたのではないかと考えられる。ともあれ、現状は加悦鉄道丹後四辻駅前あたりから、府道宮津八鹿線沿いに四辻を経て幾地区の常吉道三叉路付近まで、また、一方は四辻から府道福知山宮津線沿いに三河内地区の加悦谷高校前あたりまで、いわゆる四辻を中心に、銀行、農協、医院をはじめ衣料、食料、雑貨、時計、写真、文房具、理髪、飲食、パチンコ、映画館、自転車、タクシー、運送自動車卓修理、ガソリソスタソド、それに機業関係の商店等々と、いろいろの店が集まったメインストリートを形成しており、さらに、福知山宮津線に平行する新道には町役場、郵便局などが新しく移築されて、本町、並びに加悦谷地区の中心位置をも確立している。かかる府道の商店街に対して、四辻駅前から八幡神社前にかけての旧道筋には機業家庭が多く、八幡神社西南の坂誠工場は丹後機業の有数工場であり、この旧道より山麓にかけても、機業との関連をもつ家屋が集まっている。
幾地本来の集落は、四辻の山麓線に続く、深田神社から平地峠口に至る一区一三八戸の地域である。これは、上山田から山麓に沿って四辻、幾地を経て平地峠から北接の常吉へ、あるいは岩屋地区を通って但馬への古くからの道路に沿うものであり、機業、半農半機業がやはり主体をなしている。この山麓および谷口集落に対して、同じ幾地に入る前記府道宮津八鹿線および福知山宮津線の街村は、明治初期の地図には、僅か数戸が記入されているにすぎず、山田地区同様、これら街道筋の家並は新しいものである。
市場地区の総戸数は、六四六戸で、幾地(一〜三区)三九二戸、四辻(四、五区)二五四戸であるが、幾地の二区(主に宮津八鹿線)一一七戸と三区(主に福知山宮津線)は、四辻中心街に続くものである。なお市場地区と岩屋地区との境界上にある中村神社は、俗に「市場さん」と称せられ、九月三日の祭礼は今も賑わうが、この境界上の位置や俗称から考えて、日本各地に見られるように、かつてはこの境界に市が発達して付近の交易場となり、神社はその市神として奉祀されたものと考えられ、「市場千軒」の言葉もある程度往時の繁栄を物語っているようである。従って現在の市場はその後身とも見られる。 |
四辻の小地名
(幾地を含む)
市場
追路 亀山 五反田 根 山方 向田 坂根 追附 井原井 沖田 中縄 青田 才ノ神 福岡 御手洗 カン川 城山 戊石 箱ノ宮 王ノ木 アミダ堂 井根ノ谷 市場後 市場前 八丁岩 縄手 中岡 岡ノウラ 当光寺 堂ケ岡 穴田 地蔵下 安田岡 柳町 五輪ケ岡 観音堂 下桂林寺 坊主ケ谷 法性寺 浄水場 桜谷 家外 新宮 カクワ 城山 浄水場 ソブ谷 カクレ畑 休場 オシ谷 大谷 蔵ワレ 砦 藤ケ岡 二反田 大日東谷 大日 山王 ヤキヨ谷 ココ谷 今谷 古道 堂ケ成ル
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