丹後の地名 越前版

越前

相生町(あいおいちょう)
福井県敦賀市相生町


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福井県敦賀市相生町

福井県敦賀郡敦賀町

相生町の概要




《相生町の概要》
市立歴史民俗資料館がある辺りから南側の一帯。神楽交差点から北に市道大通りが縦断し、沿道は戦前から敦賀の中心として繁栄、その東側歩道は当時の商店街であるという。昭和31年からの町名で、もとは敦賀市幸・大金・末広・晴明・蓬莱の各一部。昭和32年大金・末広・晴明・富貴と蓬莱・大島・幸・神楽・旭・大黒の各一部を編入し、一部を蓬莱町に編入した。


《相生町の人口・世帯数》 593・250


《相生町の主な社寺など》
清明神社

案内板に
晴明神社由緒 昭和六十一年十月
祭神 保食神、安倍晴明公、春玉稲荷
当社は往古より保食神(食物を守護する神)の旧跡で安倍晴明は正暦年間(九九〇-九九四 一条帝)当地に住み天文、地文の研究をし、日夜この神祠に参詣、信仰心甚だ篤かった。天文の奥儀を究めるに供した霊石(晴明の祈念石)がある。南北朝金ヶ崎戦、天正の織田、朝倉の兵乱にも災禍を免れたのはその霊験によるとして益々尊信敬拝した。
明治十一年社号を晴明神社と改称、春玉稲荷は明治二十四年頃合祀し、大正五年西側の元朝市場より現在地へ還座した。崇敬区域東、中、西晴明(旧名、一向堂、中橋観世屋町)はじめ区外崇敬者も多数である。
祭日 例祭 四月八日、十月八日

『敦賀郡神社誌』
無格社   睛明神社  敦賀郡敦賀町晴明字中橋
位置と概況 當社は敦賀町の中央より稍々西部に位し、睛明區より見れば中央部に當りてゐる。本殿は西面して鎮座し給ふ。元は現敦賀郵便局前の旦市場の地に座しましたが、大正四年十一月社地の移轉、本殿以下の改築及び新築の工を起し、同五年五月工を了して、現地に遷座されたのである。然して當社崇敬區域の當區は、観世屋町・中橋町・一向堂町を合せて、明治七年三月清明町と改稱し、後晴明町と文字を改めたのである。明治二十二年四月町村制實施に當り敦賀町の大字となった。観世屋町・一向堂町・中橋町の舊町名は、永禄年間及び崑慶長年間の記録にも既に見えてゐる。観世屋町は越後の神人寛世在宿の舊坊を寛世屋と云へば、それに據れるにあらずや、神人は氣比宮の神人にて、氣比宮神主の次に在つて、常に社頭を守継し、又小祭には神事にも預ってゐた。又中橋町は西町(幸)と東町(旭)との間を柳川といふが流れ、これに橋が架せられてあったが故に中橋と呼んだので、今は廃川となって町名のみ殘ってゐる。一向堂町は若州の神人、一興(カヅオキ)は屋室を改めて堂となし、一興堂と呼んだからだと云はれてゐろ。晴明の文字を用ひたのは安倍晴明の信仰してゐた、晴明稲荷社及び祈念石かおるからによると云ふ。當社は平山氏の邸宅内に鎮りし當時に比すると、社地は通路及び町家の宅地より二尺許り高く、整然區劃されて、往時よりは総體的に面目を一新し、尊厳を加へた。而し當社は町の中央にて人家軒を並べて稠密なるが、境域の前は道路を隔て、廣き朝市場の空地あるが爲めと、崇敬者等が現地に遷座の際、細心の注意を拂ひ努力を盡して、石玉垣を前面三方に廻らし、鳥居・社標其の他神社に必要なるめ諸般の設備を成したので、狭小なれども神域としての威が保たれてゐる。
祭神 保食大神 安倍晴明命 相殿 春玉稲荷大神
由緒 按ずるに、當社は往古より保食神の舊跡にて、正暦年間安倍晴明中橋町に住み、人文地文の研究を爲し、日夜この神祠に參詣して信仰すること甚だ篤かった。且つ邸内に保食大神を祈念し、天文の奥義を究むるに供した靈石がある。後これを晴明の祈念石と號し、又晴明稲荷と尊稱した。建武四年南北兩朝の頃の金崎戦に兵火の災ありし時、神霊の加護に依つてその近隣にて鎮火したと傳へ、又天正年間織田・朝倉の兵亂に、兵火の災に罹つたが、又々當社の附近にて鎭火して其の災を免れ給ふた。これ全く神威赫々にて祈念石の靈驗なりとて、庶民益々尊信敬拜し、平山家其の管理をなしたが、明治維新神社制度の改新に當り、區民に於て管理し、明治八年十二月無格社に列せられ、同十一年七月三十一日社號を晴明神社と改稱し、大正四年十一月現地に社域を設け殿を建て、同五年五月竣成して現朝市場の地より遷座し奉った。相殿春玉稲荷大神は、和船春玉丸造船の際今の萬象閣附近に勧請したが、萬象閣新築の際合祀奉斎し、神瑞奇蹟の靈石と傳へる祈念石は、本殿右側の殿中に厳然安置し奉つてゐる。
祭日 例祭 四月八日 祈年祭 三月二十一日
    新嘗祭 十一月二十日

口碑 晴明區の平山善右衛門邸内に、安倍睛明が保食大神を信仰し、天文地文學を研究した時に祈念した石があつた。(晴明神社の殿中右側の別室に安置されてゐる)或日家人が小児の襁褓をこの石に掛けて干したるに、忽然腹痛を覚ゆること甚だしかった。早速醫師の診療を乞ふも猶癒えず、よりて卜者の易斷を乞ひたるに、邸内に神岩あり、是れを汚穢したるにより、神の御気色を損ひ奉つてゐるからである。速かに浄水を以て洗ひ、盥を以て清め、その粗忽を詫びねばならぬと教へられて、其数への如くなしたるに、果して腹痛忽ち癒へたので、家人等その霊威を尊崇し、爾後一層祭祀を厳行してゐたと傳へてゐる。
朝市場 當社の舊趾で今は前庭の如き関係にある、朝市場は、大正四年御大典奉祝記念としで、當町篤志家清水友吉氏が、二萬餘圓の私財を投じて、獨力を以七之を建設して郡に寄附し、其後郡制廃止と共に町有に歸したるものに係り、毎日早朝より、日常生活に必須なる蔬菜類其他を販賣し町民及び附近農村民に多大の便益を與へてゐる。されば自然當社の繁榮に資すること亦大なるべく、從つて他日該市場の隆昌と共に當社の繁榮を見るべきを信ずるのである。


出雲屋跡(芭蕉逗留の旅籠「出雲屋」があった)

神楽交差点から北へ続く大通のなかほどに、「芭蕉逗留出雲屋跡」の石碑がある。
この辺りは古くは唐仁橋町といって、旅籠屋町であったという。繁華街だったようで、明治7年富貴(ふうき)町と改称し、今は相生町という。旅籠は一軒も見当たらなかったが、「レストランうめだ」のあたりが、その跡地という。案内板がある。

【おくのほそ道旧跡】芭蕉翁逗留出雲屋跡
月清し遊行の持てる砂の上
 元禄二年(一六八九)、『おくのほそ道』の旅で敦賀を訪れた松尾芭蕉が気比神宮で詠んだ句です。遊行宗(時宗)二世の他阿真教上人が、人々のために自ら砂を運んで参道を整備したという「お砂持ち」の故事を踏まえたものです。
 この故事を芭蕉に伝えたのが、ここ唐仁橋町(現相生町)の宿・出雲屋の主人弥一郎です。芭蕉は福井で再会した神戸洞哉とともに、中秋の名月の前日、八月十四日に敦賀に入り出雲屋に泊まりました。その夜、月明かりの中を、芭蕉は弥一郎の案内で気比神宮に参詣しました。
 芭蕉は出雲屋に、長い旅で用いた笠と杖を残していきました。出雲屋は早くに絶えますが、その隣家で縁戚であった富士屋が跡を継ぎ、蕉翁宿として多くの文人墨客に親しまれました。芭蕉の足跡を訪ね、多くの客の投宿したことが『宿句帳』から窺えます。笠は失われましたが、『蕉翁宿』の宿額等も、芭蕉の残した杖とともに今に伝えられています。
『奥の細道』
…、かへる山に初厂(はつかり)を聞て、十四日の夕暮、つるがの津に宿をもとむ。
 其夜、月殊晴たり。「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「越路のならひ、猶明夜の陰晴はかり難し」と、あるじに酒すゝめられて、けいの明神に夜参ス。仲哀天皇の御廟也。社頭神さびて、松の本間に月のもり入たる、おまへの白砂霜を敷るがごとし。「往昔、遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みづから葦を刈、土石を荷ヒ、泥濘をかハかせて、参詣往来の煩なし。古例今にたえず、神前に真砂を荷ひ給ふ。これを遊行の砂持と申侍る」と、亭主のかたりける。
  月清し遊行のもてる砂の上
十五日、亭主の詞にたがはず、雨降。
  名月や北国日和定なき
次の日に、「ますほの小貝」を拾いに行ったという。
気比神宮境内の芭蕉像と句碑↓

案内板に
氣比の月と松尾芭蕉
 俳人松尾芭蕉は、「おくのほそ道」の旅において月を詠むことが目的の一つであり、杖置きの地敦賀での中秋の名月を心待ちにしていた。元禄二年(一六八九)八月十四日夕刻敦賀入りし、旅籠出雲屋の主人に「明日も晴れるだろうか」と尋ねた。主人は「北陸の天気は変わりやすく、明日は分からない。今夜のうちに参詣してはどうか」と答えたので、夜参し月見を堪能した。案の定、翌日は雨であった。
 芭蕉は中秋の名月の前日八月十四日に当神宮を参詣しその月夜の一夜に十五句を詠んだと伝わる。
「芭蕉翁月夜十五句」の内の五句がこの自然石の句碑に刻まれる。
國々の 八景更に 氣比の月
月清し 遊行の持てる 砂の上
ふるき名の 角鹿や恋し 秋の月
月いづく 鐘は沈める 海の底
名月や 北國日和 定なき

 笆蕉と縁深い当神宮は、平成二十八年十月に境内全域が名勝「おくのほそ道の風景地 けいの明神」に指定され、更に令和三年十月には日本百名月「氣比神宮にのぼる月」に認定登録されている。芭蕉も眺めたであろう美しい月夜は、時代を超えた今もなお我々を魅了している。


市立歴史民俗資料館

奥の建物は市立歴史民俗資料館で、昭和2年建設の旧大和田銀行本店、のち三和銀行、福井銀行敦賀支店と変遷し、長崎の香港上海銀行、京都の西陣会館と並び大正期~昭和初期の三大建造物の1つとして知られる、という。銀行は普通は町の繁華街の中心に建てられるものだから、昭和の始めころは、この通りこそが敦賀の中心であったかと思われる。今は「博物館通り」と呼ばれて、一方通行。朝市場があったという広場が向かいにある。

みなとつるが山車会館
氣比神宮例大祭で巡行する山車を保管し、展示紹介する施設。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


相生町の主な歴史記録



相生町の伝説

『越前若狭の伝説』
晴明神社       (相生町)
 正暦年問(九九〇ころ)当地の裏の門町(神楽町二丁目)に安部晴明が住んでおり、中の橋(相生町)にある保食(うけもち)の神の旧跡に日参して信仰していた。長徳年間(九九五ころ)市・在に悪疫が流行し、多くの人が死んだ。よってこの神社に祈祷したところ、市・在ともに流行を免がれた。
 長保年間(九九九ころ)諸国に火災があり、京・伏見はもとより当地にも炎焼があったので、晴明は火災よけの祈念をした。その石を火よけ祈念石としてみなの者が尊敬した。
 源平の乱のとき社殿がこわれたが、保食の尊像・晴明の直筆による三神の像・祈念石は残った。その後金が崎の戦いのとき、どこかへ失ってしまった。この戦いで平山善久・秀久兄弟は勇戦し、秀久は深手を受けたので、ふたりは兄の布屋太良衛門尉道久の所へ寄って隠れた。
 善久は、越前の新田義貞に面会して、その乱を告諭しようと思い、山道を走って足倉峠へ来た。ここで休んでいると、高い松の上から声がして、「越前へ行くな。労して功がない。この上の不運になる。もとの所へ帰れ。」という。ここにおいて善久はよくよく時勢を考え、道久の所へ帰って、身を隠した。
 善久は隠れ家を建てようと、道久の裏の地を掘った。すると晴明の三神の真筆・保食の神像・白狐の玉が土中の石の下にあった。この石は祈念石と聞き及び、それを隠れ家に置いて尊信した。三代目の子孫が神殿を造って祭った。(晴明神社文書)

孤竹       (相生町)
 正暦二年(九九一)の夏宋の国の玄清法師・たか飼いの孔真・犬飼いの袖光が、敦賀津に来着した。恵心僧都と辛崎大納言政頼公とが、敦賀に下向した。玄清法師は、恵心僧都の博識に感心して、もはや都に上るには及ばぬといって、お経をゆずって帰国した。孔真と袖光とは残っていた。
 わが国には仁徳天皇のみ世、百済の酒公からたか飼いの秘術が伝わっているが、その根本の秘法は伝承されていない。政頼公はその秘伝を得ようとして、島寺の遊女孤竹を孔真に贈った。孔真は喜んで、秘術をこまごまと政頼に伝授して、携えてきたたかおよび装束、鈴、餌袋、狩杖、うちかい袋まで奉った。たかは雄であった。雄たかを俗に兄鷹(せう)という。それで政頼が住んでいた町を、兄鷹(せう)町(庄町、今の相生町)というようになった。秘伝を得た政頼は、たかをひじにし、犬を率いて都に帰った。都から孤竹に謝礼として、綾の小そでを送ってきた。その消息の奧に、
  孤竹てふことかたらはば笛竹の
   ひとよの節を人にしらすな
とあった。孤竹もただの女ではないから、ふみこまごまと返事の奥に、
  呉服鳥重ねし夜半のあしたより
   節ぞ増されりこちくひとりに
 政頼は女の返歌と心根にめでて、ふたたび下向あって、深い仲となったが、ふとしたかぜがもとでなくなった。なきがらを東の山ばたに納めた。孤竹は追善供養をりっぱにつとめて後、ふちに身を投げて死んでしまった。そのふちをおたげが淵というようになった。たか飼いの秘伝書は、孤竹の家に伝えていたが、後に六軒町(栄新町)の五郎右衛門にゆずったという。
 敦賀の遊女町は、浅黄ののれん、紺の染め込み、から草模様を使っているが、これはたかの掛け衣であって、政頼公が孤竹へのお礼として、特に敦賀にのみ許したものである。             (山本計一)
 仁徳天皇のとき、百済国から日記をそえて鷹を奉った。たかの名をクリチョウという。文書がそえてあっても、それを読める人がおらなかった。その後天皇家に伝わったが、口伝がわからなかった。
 正頼のとき唐土のたか飼いが、敦賀の津へ渡った。唐人の名は栄光という。正頼はこの人に会い、文書を開いて、十八の秘事と三十六の口伝を習った。
 正頼は喜んで。コチクというはした者に長持を持たせて、唐人に与えた。唐人は喜び、たか飼いの装束、犬飼いの装束、鈴、えぶくろ、狩りつえ、うちかいぶくろを奉った。
 正頼が京へ上るとき、侍の正世を使いとして、コチクに手紙をつかわした。
  こちくてふことかたらはば笛竹の
    一よの節も人に知らすな
          (鷹秘抄)
   註
 山本計一氏所伝の伝説は「疋田記」および「宿次荷茶始書」によるとのことである。(杉原丈夫)

庄橋           (相生町)
 庄橋は兄鷹(せう)橋とも書く。むかしわが国に高僧があり、そのことが唐にも聞こえた。唐はこの高僧を迎えとるべく、使者を送った。そのとき音物(いんもつ、みやげ)として兄鷹(せう)のたかを持ち来たり、この橋の上で渡したので、庄の橋のいう。             (寛文雑記)




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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