丹後の地名 越前版

越前

赤崎(あかさき)
福井県敦賀市赤崎


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福井県敦賀市赤崎

福井県敦賀郡東浦村赤崎

赤崎の概要




《赤崎の概要》
市内から国道8号を北上すると、田結の先の集落である。この先はしばらく、丹後でいえば奈具海岸のような海岸美地帯を走る、赤崎は、この岬を呼ぶのでなかろうか。
中世の赤崎浦は、戦国期に見える。文亀3年(1503)9月10日の西福寺寺領目録に同寺塔頭善衆院領として「六段 道辻畠田赤崎五霊会田木崎道泉田」とあるのが当浦のこととみられ疑問も残るという。永禄元年(1558)6月5日の善妙寺領目録には赤崎浦内の地として3反120歩の田地1筆と地子銭150文の山1所を記す。田地の方は有部谷にあって塩浜を含み、塩4石1斗・多屋入銭700文なども納めていた。当浦月本の百姓左衛門二郎は、天正18年(1593)対岸の色浜・浦底両浦入会山に権利を持っていた。慶長国絵図にも赤崎浦と見え、田結浦分を含み高561石1斗2升1合。
近世の赤崎浦は、江戸期~明治22年の浦名。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、天和2年(1682)鞠山藩領、明治3年小浜藩領。南部に枝村の鞠山浦(塩込)がある。享保12年(1727)の敦賀郷方覚書では「赤崎・鞠山」と本村・枝村が連称され、庄屋・村高・塩高なども分割されている。赤崎分は家数49(高持43・寺6)・人数264、塩かま屋15・塩高478俵余、牛15、船3、馬足31疋。鞠山分は家数19(高持18 ・ 寺1)・人数113、塩かま屋6・塩高110俵余、船2、馬足9匹。赤崎浦の塩高は東浦中最高で、塩かま屋も五幡浦の17に次ぐ。のち明治11年頃には東浦で塩業を営むのは田結・五幡と当浦の3浦に減少し、当浦では同38年廃絶する。「名蹟考」所収の慶長18年(1613)の越前国諸浦御役舟之帳并御肴割によれば、東浦10か浦で船役は大比田1艘と赤崎6艘,西浦10か浦は全浦で27艘分の船役を負担して、東浦が漁業から遠ざかった端浦であったことがわかる(敦賀市史)。舟があっても漁業用ではなく、石灰などの輸送用と思われ、海岸の集落だが今でも漁村という感じがないように見える。
赤崎浦の石灰業は、泉村の宝暦2年(1752)より遅れて生産を開始したと伝えられ、明和8年(1771)には「銀七匁 赤崎浦石灰師運上」と記録され、当時9窯で製造していた。このことから生産開始は少なくとも明和年間初期であったと見られている。当浦には石灰岩はなく、泉村と同じく金ケ崎やその一部である福浦の石灰岩を採掘し、これを当浦の浜まで海送し焼き立てた。石灰の用途は、はじめ上質の壁上塗り用から漸次田地肥料用へと変化し郡内で使用され、その需要に追いつかなかった。文政5年1822)石灰の諸国移出が小浜藩から許可され、その支配は敦賀炭問屋に命じられた。弘化2年(1845)の窯数割方は,泉村12 ・ 赤崎浦11 ・ 杉箸4窯半。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年東浦村の大字となる。
近代の赤崎は、明治22年~現在の大字名。はじめ東浦村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西2町余・南北3町余、戸数62、人口は男178 ・ 女195、学校1、大船1・小船24。大正2年一部が鞠山となる。江戸期に始まった石灰生産は昭和20年代後半以降化学肥料に押されて沿岸に並んでいた石灰がまは姿を消した。昭和20年赤崎小学校が空襲で全焼、同41年現在地に新築移転、しかし2年ほど前に閉校となった。


《赤崎の人口・世帯数》 137・57


《赤崎の主な社寺など》

八幡神社

国道8号ぶちにある。字宮ノ谷の八幡神社は旧村社、祭神は応神天皇、白雉2年(651)勧請と伝え、承応4年(1655)の木札、元禄期(1688~1704)の石灯籠、明和元年(1764)の本殿棟札が存する。例祭(9月14、15日)には獅子舞が行われ、当日、朝8時頃から荒神払いといって、各家を回って座敷で鈴の舞を行い、その後神社の境内で、鈴の舞・幣の舞・蟹・寝・高い山・千秋楽の6種を舞う、という県指定無形民俗文化財。
『敦賀郡神社誌』
村社  八幡神社  敦賀郡東浦村赤崎字宮ノ谷
位置と概況 本區は南方十二町餘にて鞠山區に、北西方二十六町餘にて江良區に隣し、東方は山を負ひ、西方及び南方の大部は海に臨んでゐる。人家は多く國道の東側に在り、本村四小学校社中の一なる、赤崎尋常小學校は當區に在る。氏神八幡神社は、區の北端西部の宮ノ谷北麓に鎭り、北陸道に沿ふて社標が建てられてある。こゝより直に境内に入り、手水舎・鳥居を經て、二十餘級の石階を上れば、平坦な神域でこゝに拜殿がある。更に十級許りの石階を上れば、前面に石玉垣が設けられ、この裡の上段に本殿は南面して鎭座し給ひ、御屋根は流造の檜皮葺で荘重である。その左右には末社が列んで鎭り給ふ。即ち向て左側には神明社が、右側には須部神社が座す。稻荷神社は拜毆の下方に座して、小さな赤い鳥居が建つてゐる。社域からは洋々たる蒼海を俯瞰し、岩松の翠色青波に映じ社背は杉・桧等の蒼林で、前後相俟つて天然に恵まれた、風光秀麗の境地である。
祭神 應神天皇
由緒 按ずるに、當社は白雉二年の勸請にて、往昔から八幡社又は劔八幡社と尊稱し奉つて、地方の崇敬厚き社であつた。承應四年九月二十二日に御厨子を新に造った木札、又明和元年九月二十一日の本殿を改築した棟札、其他元禄年代の石燈籠等ありて、往昔を推想せしめてゐる。明治十一年頃村社に列せられた。
祭日 例祭 九月十五日(旧暦八月十五日) 祈年祭 三月二十三日
    新嘗祭 十一月二十六日
宵宮と獅子舞 例祭の前日である十四日夕刻より宵宮と稱して、獅子舞を奉納する。十五日にも午後二時頃より獅子舞を奉納する。氏子の老若男女は言ふも更なり、祭禮に招待された親類・知友等が、境内に参集して觀覽するので、境内は搖らぐばかかの賑を呈し、祭礼氣分は一層濃厚となりて、自から愛郷心が培養さるゝのである。翌十六日にも午後より先づ境内で舞ひ、それより悪魔祓ひと稱して區内各戸を巡り舞ふのである。これが年一度の例祭に於ける青年唯一の行事で、古くから今も変らず行はれて笛・太鼓の調子も、獅子の舞姿も、素人とは思へぬほどである。

境内神社
 神明社 祭神 天照皇大神 豊受大神
 須部神社 祭神 蛭子命
 稻荷神社 祭神 保食神

伊勢講 毎年十一月中頃までに、順番で四名が伊勢両宮へ代參し、十一月十六日まてには必ず帰村し、十六日には區内各戸が八幡神社に参拜して、神恩報謝の祭を行ふのである。
特殊行事(神事始)一月十日(元暦一月一日)神事始めと稱へて、正午區内の各戸が籠堂(大日堂と稱す)に参集する、その時各自が一本づつ持ち寄った、二股大根と、講番(廻り番で決まる)が予め用意した、小さな切布二枚、乾蕨二本、大豆を煮てそれに豆粉をかけたもの二平粒宛、及び粢(白淅の略かと云ふ)を各人員に分與出来得る數量と、神酒とを供へ、祈祷して後直會をする。この行事は、往古此の區に人を襲ふた人喰鵺が棲息し、誰れも彼も恐れをなしたが、或る時區民総出で神仏に祈願し、漸くこれを退治することができ、區民初めて安堵の思を爲したので、その怪鳥調伏の祝ひをする行事であると傳へてゐる。而して二股大根は怪鳥の胴に、昆布二枚は羽に、蕨二本は足に、豆と粢は臓腑に擬らひたものであると傳へてゐる。
山ノ神講 十一月九日(「元舊十月九日)山ノ神講と稱へて、七八歳から十四歳までの男子が、區内各戸より米を集め、その年に家屋の新築,又は増築模様替等の普請をなした家を、講宿に頼み、そこへ區内の子供等が集合して、先づ三ッ組の藁苞苴を子供の数だけ作り、而して子供中の年長者は、注連縄を作りて、これを自己の腰に巻き、神酒を入れた瓶子と、米を水に浸し擂潰して作った處の粢を入れた重箱とを持ち、他の子供は、粢を藁苞苴に入れて手にす、而して何れも裸體跣足で、注連縄を腰に張りた年長者が先頭となり、他の子供は其り後に從ひ、區内より四町を隔った、的場と稱する地籍の山麓まで走り、そこの幹圍一丈五尺の松に、先づ先頭が神酒と重箱の粂を供へ、腰の注連繩を解いて松に巻く。すると他の子供各自が、手にせる粢の藁苞苴を、その注連縄へ累々と吊下げて、元へと走り歸るのである。それより子供等は、一所に晝食をして、その一日を樂しく遊ぶのであるが、此の日若し日曜日に當らない時は、特別に學校を早退してこの行事を行ふと。


曹洞宗万年山玉祥寺

玉祥寺は曹洞宗、もと永厳寺末。山号は万年山、本尊は薬師如来。開基は天正2年(1574)月庭種存と伝える。
『敦賀志』
赤崎浦 小村塩込ハ今ハ鞠山と云
氏神八幡社、光照寺〔鞠山ニ在 佛光寺末〕・玉祥寺〔禅宗永嚴寺末〕、塔頭宝秀菴・長盛菴・高昌菴・養徳菴・月秀菴有、鞠山ハ酒井飛州侯の邸也、


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


赤崎の主な歴史記録

『稚狭考』
田烏のつるへ(釣姫)他及(谷及)須の浦、塩を煮る所にて、塩は国用の第一と見へて、風波にて塩浜崩るれは銭米を給つて繕はしむ。十年征ありても右の費にはつくなはれす。文禄年中敦賀赤崎浦の塩焼とも爰に来り、地を開き塩を焼といへり。寺も赤崎より転す。伊勢の玉串も、赤崎浦より取伝へておくり来る。寺の名忘れたり。

赤崎の伝説





赤崎の小字一覧

赤崎  マ谷口 トシヤ谷口 小坂尻 ヨモスケ谷 入屋谷口 小入屋谷口 葛葉谷 キワ谷 ガンダラ谷口 寺ノ谷 辻堂 ウラフ谷 女郎谷 タモノ木谷 堂ノ上 マトバ尻 長谷 ウコレシヤ谷ロ サカサマ谷口 ヒ谷 トビヤ谷口 上谷前 東ノ荘 上ノ荘 カワクボ タヤノ谷 北ノ荘 小タマ谷 宮ノ谷 蕪谷 ナガ尾 高野窪 九竜ケ谷 脇荘 下ノ荘 北浜田 村中 南ノ津 下田畑谷 中田畑谷 田畑谷 アマ谷 アマ谷口 セバ谷口 セバ谷 エベ谷 北今原 南今原 高竈 金割 六反田 清水 イヤン谷 松尾 嵐口 石橋 山腰 ヒル谷 椎ノ木 畷 中川原 馬路 坂ノ尻 シゝ谷口 茶ノ木下 中シゝ谷 奥シゝ谷 アタラシ谷 東伊吹谷 アフギ平 西伊吹谷 中伊吹谷 伊吹谷口 山本 五反田 丁田 雨見 浜田 金剛丸 塚田 馬路畷 小谷前 今原辻 清水谷 今原 兵谷 ウエ谷 トビヤ谷 スガ谷 サカサマ谷 小入屋谷 西入尾堂 東入尾堂 マ谷 トチノ木谷 トチノキ谷口 宮谷 トシヤ谷 入ヤ谷 堂年坊 滝ヤ谷 森ヤ谷 西辻堂 ウシロ浜 ナスビハナ 姥ガフトコロ ホツ谷 ダン畑

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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