麻生口(あそうぐち)
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福井県敦賀市麻生口 福井県敦賀郡愛発村麻生口 |
麻生口の概要《麻生口の概要》 国道8号線と県道敦賀柳ケ瀬線(140号線)が分岐する付近に位置する。新道野越の塩津道と柳ケ瀬で北国路に通じる刀根越の分岐点にあたる。「敦賀志」は「此村より右ハ新道野、左ハ刀禰村へ分るゝ石標有、茶店も有」と記す。天正18年(1590)8月18日の日吉神社鳥居棟札に、奥麻生の同社鳥居を建立する際、「あさう口惣中」で米1斗のほか当地の住人13名が米・布を寄進している(奥麻生区有文書)。慶長国絵図では疋田村666石余の一部。 近世の麻生口村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)から小浜藩領。「享保郷帳」には莇生口村と見えるという。享保12年(1727)の家数11(高持5・無高5・寺1)・人数57。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に、戸数8(全戸農)・人口33、産物は麻3貫余・繭16貫・桑600貫・炭4,500貫・桐実2石4斗。桑・炭などは新道野越えで塩津に売った。同22年愛発村の大字となった。 近代の麻生口は、明治22年~現在の大字名。はじめ愛発村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西55間・南北2町余、戸数9、人口は男23 ・ 女18。 《麻生口の人口・世帯数》 10・5 《麻生口の主な社寺など》 白山神社 『敦賀郡神社誌』 村社 白山神社 敦賀郡愛發村麻生口(アゾフグチ)字村内
位置と概況 本區は享保郷帳には莇生口村と書いてある。戸数僅かに六戸で、滋賀縣柳ヶ瀨及び鹽津の兩街道の分岐黠に當り、東南は一帶の山脈を隔てゝ、東は柳ヶ瀬街道により、二十八町にて刀根區に隣し、南は鹽津街道により、二十一町にて新道區に接してゐる。西は銭道及び笙ノ川上流の疋田川に沿ひ、柳ヶ溯街道より曾々木區を經て、二十五町にて疋田區に到る。當區には中愛發尋常小學校を設置してある。萬葉集に『八田の野の淺茅色づく愛發山、みねの沫雪さむく降るらし』とある名歌の八田の野は、麻心口區の附近とも、道ノ口區附近なりとも、或は又愛發山の麓なりとも、其の他粟野村御名區附近とも樣して、諸説紛々であつて、既に定説がない。これ愛發山が、敦賀郡なるが故に、たゞ附近の野なるべしとの、雑駁なる考より起つた錯誤であらう。又奈良縣生駒郡矢田村字矢田の里なりと云ふ説もあるが、延喜式神名帳に、矢田坐久志玉比古神社があり、今社格郷社である。又郡山町にも矢田口といふかあるが、これは矢田村へ通ずる所である。この歌の意を玩味すれば、愛發山は本郡で、八田村は奈良の八田村附近であると、解するを妥當と信ずるが故に蛇足の樣なれど、こ丶に記して置く。扨て本區の氏神白山神社は、區の東端山麓に鎭座し、境内は二區に分たれ、即ち柳ヶ瀨道より、直に三十級の石階を登りで、鳥居を入れば、近年開拓せる、百数十坪の平地がある。然して東側に高さ六尺の石垣に、教級の石階を設けたる上地に、本殿は西面して鎮座し給ふ。その背後は、刀根連峯の山麓にて、周圍二・三より四・五尺の杉が、一帯の森林をなした閑寂の境である。この邊を宮谷と稱してゐる。社域より西方南方を展望し得る景勝の地である。 祭神 白山比咩命 由緒 按ずるに、當社は往昔より白山権現と尊称し、菊理媛神・伊弉諾尊・伊奘冊尊尊を祀り、明治十一年三月村社に列せられた。 祭日 例祭 八月十五日 祈年祭 舊四月三日 新嘗祭 舊十一月三日 祭殿 内殿 … 曹洞宗慈雲寺 享保7年(1722)創建の曹洞宗慈雲庵。 『敦賀郡誌』 麻生口 曾々木の東に在り。 神肺、白山神社、村社。 慈雲庵、曹洞宗、奥野宗昌寺末。享保七年本山十二世虚室創立。
《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 麻生口の主な歴史記録麻生口の伝説『越前若狭の伝説』矢田野 (麻生口) 矢田野の戦いで、蒙古軍の将鉄輪が討ち死にして、野づち(太くて短かいへび)になった。家来たちはくつわ虫になった。 (敦賀記) かじ屋が淵 (麻生口) 麻生口に一軒のかじ屋があった。その娘は美人であった。ある夜見知らぬ若者が来て、むこ養子にしてくれと頼んだ。しかし彼が去った後、戸外を見ると彼に影がない。それで彼が淵(ふち)に住む蛇(じゃ)であることを知り、断わる口実を考えた。 次に若者が来たとき、「では今夜中に千本の刀を打ってください。一本でも足りなければ、望みはかないません。」といった。 若者は仕事場へおりて、刀を打ち始めた。見るみるうちに打ち上げて、九百九十九本になった。驚いたかじ屋は鳥小屋へ走った。鶏は一声高く時をつくった。若者は残念がって、九百九十九本の刀をかかえて、姿を消した。その後はふたたび姿を見せることはなかった。 (伝説の敦賀) 麻生口の小字一覧麻生口 〆田 一反田 本宮 谷口洞 石場造 広廻 上野 松本平 清水本 上清水 矢田野 下河原 広畑ケ 谷 上河原 村内 西ノ谷 掛ケ花 居付平 治開谷 小馬小屋 大馬小屋 西馬小屋 南馬小屋関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『敦賀郡誌』 『敦賀市史』各巻 その他たくさん |
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