丹後の地名 越前版

越前

莇生野(あぞの)
福井県敦賀市莇生野


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福井県敦賀市莇生野

福井県敦賀郡粟野村莇生野

莇生野の概要




《莇生野の概要》
粟野小学校や桜ヶ谷公園がある、井ノ口川中流左岸に位置する。
中世の莇野保で、鎌倉期~戦国期に見える保名。建暦2年(1212)9月日の気比宮政所作田所当米等注進状(気比宮社伝旧記・鎌遺1945)に「莇野作田六十三丁四反二百四十歩〈承元三年実検定〉」とあり、除田15町5反を引いた定田が47町9反余、分米145石余であるという。建保6年(1218)と推定される左大臣家遺領目録(門葉記雑決・同前2409)にも九条良輔家の遺領のうち気比社領の1つとして「莇野保年貢四十七石」と見える。元徳3年(1331)2月26日に「莇野新御所」などを15年を限って気比社造営料所とすることが後醍醐天皇から妙香院門跡に伝えられ(竹内文平氏所蔵文書)、同院を管下に置く青蓮院門跡領となった。以後青蓮院門跡領としての所見は長享元年(1487)と推定される閏11月23日の青蓮院門跡御教書(醍醐寺文書)まで見られる、この間永享12年(1440)将軍足利義教によって青蓮院の子院法輪院公範に知行権が与えられて以後は法輪院が給主として支配した(同前)。応永33年(1426)11月28日の年貢算用状(同前)には「あさミの」と見える。慶長国絵図には阿曽布野村と見え、周辺を合わせて2,019石余。
近世の莇生野村は、江戸期~明治22年の村名。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、寛文8年(1668)からは安房勝山藩領。
明治4年加知山県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に、戸数99・人口486。,同22年粟野村の大字となる。
近代の莇生野は、明治22年~現在の大字名。はじめ粟野村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西4町・南北3町、戸数95、人口は男268 ・ 女259、学校1。


《莇生野の人口・世帯数》 994・350


《莇生野の主な社寺など》

劔神社(式内社)

氏神の剣神社。祭神は比咩大神。「敦賀志」に寛永年間故あって相殿に応神天皇を崇祀すとある。境内神社は神明社・神明神社・日吉神社・日宮神社・愛宕神社・稲荷神社の6社。明治9年村社となる。式内社である。地名もそうだが、当社も天日槍系のものであろうか。社殿は左手の山麓の少し高いところに北面して鎮座。
『敦賀郡神社誌』
村社  劔神社   敦賀郡粟野村莇生野字宮ノ内
位置と概況 本區は往昔より莇生野莊、又は莇生野保と稱し、古くは莇野と二字の事もあったが、室町時代頃より現在の三字となった樣である。當區の西南は十町餘にて金山區に、北方十六町餘にて松原村木崎區に、西方は沓見區に隣し、本村役場所在地の櫛林區は、井ノ口川を界し近接してゐる。當區鎭守劔神社は、區の東端南部の丘陵の山麓に鎮り、社地は若狭街道よ心井ノ口川の宮内橋を渡れば一町餘にて道路に沿ひ高さ三尺の石垣を以つて堺してある。こゝに樹てられてある社標の側から鳥居を潛れば、参道の左右には石燈籠立ち並んで、杉並木の群青の木陰を進み、社務所の前を經て更に歩を運へば石垣高さ約二尺を築き是に石階二級を設け、此の上地に床割式の拝殿がある。こゝから更に三段の石垣を築き、青苔其上を蔽ひ古色蒼然としてゐる。それに十五・六級の石階が設けられ、これを畏みつゝ躋れば本殿は北面して鎮座し給ふ。その東方には末社神明社、西方に日吉神社が鎭り座す。社域の西方に粟野尋常高等小學校がある。それに連績して人家及び寺院があり、社地の東北方も泣路を隔てゝ二・三の人家がある。社殿の南方及び背後の丘陵は、悉く古椎その他多くの常緑樹生ひ繁り藤莖の大なるもの龍蛇の如く之れに纏絡し、其の老樹喬木の鬱々蒼々たるは、太古の気流が雲を呼ぶかの感を起させて神域殊の外荘重で神厳犇々と迫う来る。剩へ當社の舊史を證する三百坊・古宮・宮ノ内の地名など今も存して、如何に往時は盛大を極めたる郷土の名社たりしかを物語つてゐる。
祭紳 比咩大神 配祀・譽田別天皇
由緒 當社の由来を按ずるに、續日本紀に曰く寳龜二年冬十月戊辰詔充二越前國従四位下勲六等劔神食封二十戸田二町一とある。新抄格勅符抄に劔御子神三十戸越前寶龜三年充二十戸天平神護元年九月七日封十戸とあり。三代實録に貞観元年春正月二十七日甲申奉レ授從四位上勲六等劔神正四位下とある。延喜式神名帳に越前國敦賀郡劔神社とあるは、是れ即ち當社にて往古より劔大明神又は劔宮或は劔三社と尊稱し奉り気比神宮西方鎭護の社としで尊崇され、敦賀神社考に祭神一座姫大神是日神之心化三神崇祀之一神一者深々有二口傳とある。氣比宮社記に瀛津島姫・湍津姫・思姫の三女神とあって、今云ふ比咩大神はこの三柱の大神を總稱し奉ってゐる。國中式内祭神考には、祭神三女神在莇生野村云々とある。貞享四丁卯三月六日気比神宮より應神天皇を配したこと又敦賀志稿にも其の亊をも記されてあれど、年代區々たりしが、今囘の調査により勸請木札を發見し其の確證を得たのである。其他諸書に當社の事を書載されてゐる名社である。明治九年七月十七日村社に列せられ、同四十四年五月神饌幣帛料供進の神社に指定せられた。
祭日 例祭 五月九日(元舊四月九日) 祈年祭 三月二十日 新嘗祭 十一月二十八日
 秋季祭 十月十日(元舊九月十日 これ往時の新嘗祭なりと云ふ)
行事 毎年正月九日往時の慣例で、區民は神社に參拜して後直會の儀がある。
境内神社 神明社 祭神 天照皇大神
神明神社 祭神 豐受大神
日吉神社 祭神 大山咋命 火産霊命 継体天皇
        安閑天皇 宜化天皇 字賀魂命
由緒 昭和三年六月、日吉神社の社殿を當社境内神社であった、愛宕神社祭神大産霊命、日野神社祭神継体天皇、安閑天皇、宣化天皇と稲荷社祭神宇賀魂大神を合祀し奉った。
氣比神宮と當區との関係御供物 正月氣比神宮に於いては、恒例により莇生野區が、献供祈祷祭の初奉仕をするので、其の時には區長は數名代參物と共に參拜し御供米を献納するのである。
御田植祭御供米献納 六月十五日気比神宮御田植神事には、恒例にり當區より御供米を献するのである。
神社に關する舊蹟 三百坊 當社境内東方接続地に、三百坊と呼ぶ地名がある。今は田野となれども往昔は此の地に社僧宗泉寺の宿妨があつたと傳へられてゐる。社僧宗泉寺は廢寺となつてゐるが、當社境内の西方に在りて、今は粟野村尋常高等小學校の敷地となつてゐる。
古宮 當社境内の南方同一の山麓で、今は當社の境内となつてあるが、元この地に織田神社が鎭座され劔神社と相並び給ひしが、何れの頃か梵鐘二口と織田神社の神體とは、丹生郡織田郷に遷されたとの口碑である。當時梵鋒一口は織田郷に移すとき敦賀灣に沈んだと云ふ。故に鐘ヶ崎と云ふと古書にも見えてゐるが、鐘ヶ崎の地名に就きては、尚考證を待つべきものがあらうが、芭蕉の句に「月いづこかねは沈める海の底」とあつて、此の句の初めに、「仲秋の夜つるがに泊りぬあるじの物がたりに此の海に鐘の沈みて侍るを國の守のあまを入で尋させ給へと龍頭下ままに落で引揚べきたよりもなしと聞く」とあって、仲秋とあるは元祿二年の仲秋のことである。


曹洞宗霊鶴山幸松寺

曹洞宗幸松寺・宗泉寺・福寿庵・瑞現寺・台中庵の5か寺があったが、幸松寺以外は明治期に廃寺となる。幸松寺は元亀2年(1571)創立、近江小田曽光寺末。
『敦賀郡誌』
幸松寺 霊鶴山 曹洞宗、近江小田曾光寺末、元龜二年三月十五日創立、其後再度炎上し、寛政三年再建す。今の堂宇是なり。近郷に末寺數ヶ寺あり。 廃寺、宗泉寺・福壽菴・瑞現寺、皆共に曹洞宗幸松寺末。台中庵、曹洞宗、沓見龍谷寺末。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


莇生野の主な歴史記録




莇生野の伝説

『越前若狭の伝説』
剣神社   (筋生野)
莇生野の剣神社の境内の南方に織田神社が鎮座して、剣神社と相並んでいたが、いつのころか梵鐘二口と織田神社の神体とは、丹生郡織田郷に移された。梵鐘一口は、織田郷に移すとき、敦賀湾に沈んだので、そこを鐘が崎という。  (福井県の伝説)



莇生野の小字一覧

莇生野  糀ケ鼻 材木 溝坂 雨田 山ノ神 杉森 寸尺  無加伊 友金 四反田 青良 砂走 川北 向山 九内作 塚町 廻り町 白楽 脇当 サイ堂 坂ノ下 福谷 西所 松ケ谷 西野 西畑 野々下 大田 足洗 馬場 足曽田 川骨原 河堀田 九社尻 六反田 丁田 角田 土分 竹ケ鼻 蟹塚 奥野 中所 梅ケ谷 堂ノ前 金蔵 桜ケ谷.宮ノ内 ゴイ 石原 袖野 上所 東所 苗代 儘田 薄清水 七反田 惣口 下所 山本部 穴田 砂田 藤原 小谷口 九拾歩 西落合 大柳 コボレ 東落合 北山 落合川北 宝木川北 室ノ木鼻 鴨ノ助 セリメ 白髪田 丸田 百々 粽田 野中 八反田 土手田 丁下地 熊丸 五反田 五斗曽 笠保 樋ノ詰 宮ノ前 寄定 古宮 渇坪 中野 西野所 畑ケ田 三百坊 操屋城 長房 中田 溝田 二反田 九反田 大曲り 十両戸 外鳥居 北向山 二重坂 西福谷 粟ケ谷 堂ケ谷 南桜ケ谷 宮城 整理


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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