丹後の地名 越前版

越前

堂(どう)
福井県敦賀市堂


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福井県敦賀市堂

福井県敦賀郡中郷村堂

堂の概要




《堂の概要》
市街地の南方。一般に「どむら」という。衣掛山北麓に位置し北を笙ノ川が流れる。地名の由来は、「滋賀県物産誌」に口伝として,「往昔此ニ一ノ寺院アリ、此寺院ノ徒弟各一家ヲ為シ遂二一ノ村落ヲ為セリ、故ニ堂村ト称スト、其盛衰往昔ハ之レヲ知ラス、近世以来更ニ異ナルコトナシト云フ」とある。
中世の堂村は、戦国期に見える村名で、永禄元年(1558)6月5日の善妙寺領目録に「在坪ハ堂村之きぬかけ」とあるほか「堂村鳥居殿分」(2筆)と見え、当村に鳥居氏を名乗る土豪がいた。慶長国絵図では山泉村分を含め高580石2斗6升。
近世の堂村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)からは小浜藩領。享保12年(1727)の家数27(高持14・無高12 ・ 寺1)・人数142 (男69・女69 ・ 出家4)、馬8。「雲浜鑑」に、家数25・人数144。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に、戸数30・人口173、荷車18、物産は莚1,600束・菜種30石。同22年中郷村の大字となる。
近代の堂は、明治22年~現在の大字名。はじめ中郷村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西1町・南北1町余、戸数25、人口は男91 ・ 女91。昭和49年一部が観音町・樋ノ水町となった。


《堂の人口・世帯数》 494・185


《堂の主な社寺など》

衣掛(きぬかけ)山古墳群の1号墳
衣掛山麓一帯には総数約40基からなる衣掛山古墳群があるそうだが、見渡しても当墳しか見当たらない、天井石が露出していて、かなり封土が失われた様子である。衣掛山古墳群はいずれも横穴式石室を主体部に持ち、6世紀中頃から7世紀初めにかけて造営された後期群集墳で、須恵器・土師器・武器・馬具・農耕具・漁労具・装身具などの金属製品や管玉などの石製品などが出土しているという。

案内板に、
衣掛山一号墳
指定年月日 平成元年
所在地及び管理者 敦賀市
時代 古墳時代後期
敦賀平野南東部、笙ノ川左岸の衣掛山山麓に総数四○基を超える数の衣掛山古墳群が展開しているが、そのうち最大規模を誇るのが本古墳である。昭和六二年、市教育委員会の調査によって六世紀後半代に造営された群集墳の盟主墓であることが判明した。
 後世の開削によって墳丘が損なわれ、石室天井部が露呈しているが、径二六メートルの円墳で、全長約一〇メートルの横穴式石室を備える。これは同時期の首長墓とされる向出山三号墳を凌ぐ規模であり、地域首長墓の系譜を解明するうえで重要な問題点を提起している。
また、同群集墳中、三号墳には製塩土器が副葬されており、古代敦賀において特筆すべき生業である製塩とこの造営主体との関係が注目され、貴重な歴史遺産であると言える。  敦賀市教育委員会


(うずら)神社・薬師堂

氏神は鶉神社。同社境内に本殿と相対して薬師堂がある。
『敦賀郡神社誌』
村社 鶉神社 敦賀郡中郷村堂字中庄
位置と概況 古田苅區より坦道を南進し、岡山を東に見て、丸山の麓を經、笙ノ川に流に出でゝ堂橋を渡れば當區である。人家は道路に沿ひ、或は平地に山麓にと散在してゐる。古田苅より南方を距る十町で、西は八町にて山泉に、東も八町にて道ノ口に近接してゐる。往昔此區に一の巨刹ありて、其の徒弟が各一家成して、遂に部落をなした。故に堂區の稱があると傳へてゐる。氏神鶉神社は區の中央に當り、三面は人家に隣接し、社殿は東南に面して鎭座し給ふ。區の古老に就き、鶉の社名、及び岡山・丸山等に關する調査を遂げしも、素より文献の徴すべきものなく、口碑・傳説等の證すべきものもなかつた。神域内は廣からず、從って樹木も亦少いが、社殿附近に椎の古木がありて、稍ゝ凋萎したるも、神社の古きを物語ってゐる。境内には本殿と相對して藥師堂がある。こは舊時の兩部神道時代り遣物であっで、神社の本旨にはあらざれども、神社史上の片鱗として存置する價値ありと信ずる。
祭神 應神天皇
由緒 按ずるに、當社は往昔より俗に鶉權現、又は鶉明神と尊稱し奉りて、コシキ谷と稱する部落有山林の麓に、突出せる一小丘上に銃座せられしを後村上天皇正平十年、今の地に奉遷したと云ひ、明治十一年三月村社に列せられた。
祭日 例祭 五月十日(元舊四月八日)
放生會 九月十四日・十五日の兩日は放生會と稱して、神前に獻燈をなし盆踊をなしたが、氏子が少ないので、近時は舊時の如く盛でない。
本殿…
薬師堂 氣比宮社記に「在一宇本地薬師堂也然ハ或ハ祭二大巳貴命少彦名命一社歟」とある。社堂は方九尺平屋根瓦葺である。此の堂に經巻の箱二個がある。天井は屋根形にて、底辺に臺が付いてゐる。総長約一尺六寸、幅七寸で、箱の正面には神像を書いたもの一個に、佛像を書いたもの一個あり。各箱の裏面には、竪穴があわて、各四巻宛の木版経文が納めてある。箱の内部には佛語が書かれ、箱の裏面には次の如く墨書されてゐる。
     天和二年九月
      奉造堂村庄屋 高田善兵衛敬白
     天和二年九月
      奉造堂村庄屋 高田善兵衛内方敬白
天和年代は今を去る二百五十年前である。納経の目的は、供養又は祈願の爲めに高田某夫妻が納めたものであらう。
舊神社地の傳説 當區民の共同山である、コシキ谷と稱する山麓に、小丘があって、こゝに鶉權現鎭座せるを、正平年間當區の庄屋に霊夢ありて、現地に奉遷し、神慮に添ひ奉ったと云はれ、今尚此のコシキ谷には、往昔の社趾の礎石が残存してゐる。庄屋の霊夢によりて今の地に奉遷せしは、我が意に添へり、吾れ元の宮趾にて、朝日夕日のたゞさゝぬ處に、黄金の縄三杷を埋藏せり、爾後若し村内に大なる疲弊の時あらば、掘出すべしと告げ給ひしとの口碑が、區民等に傳はってゐる。これは傳説の系続から云へば、朝日夕日又は金縄傳説の混合したものである。
神社附近の舊蹟参考地 古田苅區に通ずる道路の東方にある瓢形の丘陵を岡山と稱してゐる。この丘陵には昔時より狐狸棲息し、今も尚迷信的信仰により、食物の施與者がある。丹塗の小祠が丘上に、鳥居が丘麓及び丘腹に丹然として建てられてある。この前方後圓の丘陵を、往古より岡山と稱し(陵山とも書くと云ふ)てゐることは既記した處である。往時、鴉の多く住みしことありと云へる丸山は岡山と相對してゐる。之も圓形古墳に似た丘陵である。尚其の附近に小さき圓塚があるので、岡山に封する陪塚の如き感がある。果して古墳なるや否、今尚不明である。これに關しては古田苅區村社八幡神社の由緒附記の條に収録して置いた。


真宗大谷派光沢山西雲寺

鶉神社の隣の光沢山西雲寺(真宗大谷派)はもと真言宗の寺であったが、慶全のとき本願寺九世実如に帰依して改宗したと伝える。
『敦賀郡誌』
堂村  古田苅の南に在り。永祿元年六月善妙寺々領目祿に堂村とあり。 氏神、鶉神社、村社。祭神應神天皇、もとは鶉権現と稱す。 西雲寺(光澤山)眞宗大谷派、東本願寺末、傳云、往古は眞言宗なりと。開基慶全、本願寺九世實如に歸依して改宗す。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


堂の主な歴史記録



堂の伝説

『越前若狭の伝説』
黄金のなわ  (堂)
堂区民の共同山であるコシキ谷のふもとには、今の中庄にある鶉(うずら)神社があった。むかし当区の庄屋が、霊夢に感じてここにあった神社を、今の地に奉遷したのであるが、そのときの神慮に、今後もし村内に大なる疲弊のときがあったら、もとの宮跡の朝日夕日のただささぬところに、黄金のなわ三ばを埋蔵してあるから、これを掘出せとあったという。   (福井県の伝説)


堂の小字一覧

堂  下砂場 衣掛 元橋 広平 東砂場 山ノ神 蛇谷口 中庄 奥畑 深田 畦ノ内 村口 江川 海道 中長 中河原 米地 竹ノ下 元古河 柳原 土山 下河原 外河原 砂子田 河原 河向 中瀬 団子田 水掛 古川 塚狭間 明神 石蔵 丸山 大土居 上河原 別戸 畑ケ田 厚街道 六反田 岸ノ下 イヤ尻 四反田 岡ノ腰 壱町田 ザル 五反田 蛇田 岡山下 二俣 堀田 糠塚 小兵衛谷 コシキ谷 清水谷 落ケ谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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