丹後の地名 越前版

越前

江良(えら)
福井県敦賀市江良


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福井県敦賀市江良

福井県敦賀郡東浦村江良

江良の概要




西を敦賀湾に面して入江をなした海岸。松ヶ崎の小岬が海に突出する。国道8号が通る、南は赤崎、北は五幡。建暦2年(1212)9月日付の越前気比宮政所作田所当米等注進状にみえる五幡保に属したかという。刀根家文書の文明元年(1469)4月の刀禰職安堵状に「ゑら」、同17年9月の刀禰職安堵状に「江浦」、大永7年(1527)1月の納租書出に「江良浦」とある。地名は、海が枝のように延びて入江になった所を江といい、枝浦・江浦であったのを、元明天皇和銅の詔により2字で嘉字を用いた江良浦になったのではないかという。
中世の江良浦は、文明元年(1469)4月28日刀禰職安堵状に「ゑら」とあり、当地の刀禰職が彦二郎に安堵されている。当浦は気比社執当の私領とされ、代官および地頭と称する社家の支配下に置かれていたが、天正元年(1573)には執当のほかに本所(気比社か)にも納所銭を納めていた。大永7年(1527)正月買得によって新たに地頭となった天野与一太夫に提出した江良浦指出によると、浜地子・桑代・麻代・堂畠代などの銭3貫文、米1石のほかに、つはいあわ・地子麦・はう柴・餅つき柴・節料木・山のいも・くろとり・糠・はち・畳の薦・ねいも・ささげ・なるひしゃく・いも・枝豆といった様々な現物納、さらには日公事・陣夫・詰夫などの夫役、3年に一度の間別銭などの諸役があった。また、正月地頭のもとに年始のあいさつに出向くのは、刀禰のほかには百姓3人(右近・刑部・彦大夫)とそれぞれの下人の合わせて8人だけであった。永正15年(1518)の家数は32軒(うち公事家15軒、農民26人),天文11年(1542)の農民は刀禰1人・名主3人・散田作人7人。豊臣政権のもとでは蔵人地とされ、慶長3年(1598)の太閤検地で村高が61石余。うち田・畠・山畠・屋敷39石余(4町7反余)、塩浜10石余(7反余)のほか、塩浜地子・山手米・薪代米・島手などを含んでいた。慶長国絵図では新保村1,162石余の一部。
近世の江良浦は、江戸期~明治22年の浦名。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、天和2年(1682)鞠山藩領、明治3年小浜藩領。元和5年(1619)の江良村納所并小成物指出では、当浦の高や本年貢に並列して葉原・田尻両村への出作年貢を書上げている。享保12年(1727)の家数27(高持16 ・ 無高10 ・ 寺1)・人数158、塩かま屋6・塩高151俵余、牛8、舟2。当浦の塩年貢は慶長15年(1610)に208俵余。これは大谷氏が領主の頃の本塩167俵余に「跡打ちのしりくくり」と称される本塩の4分の1に相当する新塩41俵余を加算した額である。しかし生産された塩は年貢として納入するほか極端な安値で買い上げられたため、東西すべての塩浦で塩年貢の減免を願い出ている。当浦は慶長14年に塩7俵の未進、同19年に塩39俵余の未進となっており、翌20年は初塩による未進分納入の誓約書を提出させられるなど、塩年貢高はかなり過重であった。その後寛永元年(1624)から同10年までは208俵余を完納した。慶安4年(1651)以降の塩年貢高は減額が実現して151俵余となり、その後も寛文3年(1663)と天和元年(1681)の永荒浜による減免や一作引などにより113俵余ともとの半額近くとなった。
近世の東浦では漁業に従事した数少ない浦の1つであるが、網漁の中絶と再興を繰返しており、農業と塩業への依存度の高い村方的塩浦のようである。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に、戸数16・人口85、「農 傍ラ採薪或ハ草箒ヲ作リ女ハ裂織製造ヲ事トス、蓋シ近世マテ傍ラ塩ヲ焼キシト雖モ利ナキヲ以テ之ヲ止メタリト云フ。明治五年断然其業ヲ廃セリ」と記す。同22年東浦村の大字となる。
近代の江良は、明治22年~現在の大字名。はじめ東浦村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西1町・南北35間、戸数14、人口は男53・女48、小船4。


《江良の人口・世帯数》 30・13


《江良の主な社寺など》

日吉神社

中世には刀禰、近世には庄屋を勤めた刀根家の裏山、字帰山(かえるやま)日吉(ひえ)神社。旧村社。祭神は刀根家の先祖と伝える武内宿禰命。敦賀郷方覚書は「山王権現」、「敦賀志」は「山王社」と記す。

参道がわかりにくい。国道8号から見えるが、たぶん旧庄屋さんの屋敷でないかと思われる門構えのお宅の山手の路を行く。「この先 行止まり」と書かれている路がそれである。
『敦賀郡神社誌』
村社 日吉神社 敦賀郡東浦村江良字帰山
位置と概況 本區は、南方二十六町餘にて赤崎區に、東方四町餘にて五幡區に近接して、西北は海に面し、人家は多く北陸道の東方、山麓に散在してゐる。明治五年頃までは、區民の多くは製塩を業としてゐたが、文明の惠澤に依り、今は盛に農業に従事し、家門の繁栄を期してゐる。氏神日吉神社は、區内より數町を隔てた、東北端の帰山中腹に鎮り、数十階の石段を級したる高燥の地であつて、境内の平坦地は、左程廣くはないが、山林には幹圍二三尺の椎・松の樹木蜜生し、社域よりは洋々たる日本海を望み、又封岸の松原村西浦一帯の連峰、山色特に勝れて、紺碧の海と相和して、風光絶佳である。本殿の位置は一段高く、西面して鎮座し給ひ、靜閖なる浄域は俗塵を遮つた、一層の神威を加へてゐる。
祭神 武内宿禰命
由緒 按ずるに、當社は大化二年の秋、刀禰氏二十二代の孫刀禰良行公が、我が家の氏神として創立せる社なりと傳へられて、俗に三王権現又は山王社とも尊称してゐた、氣比宮社記には三輪權現と御同體の由を記してあるが、正確なる他の文献に乏しいので、考證し難い、故に今は明細帳に從ってゐる。明治十一年頃村社に列せられた。
祭日 例祭 四月十四日(元舊四月中の日、月に三度の時は中の申を、月に二度の時は上の申を祭日としてゐた) 所年祭 三月二十四日 新嘗祭 十一月二十五日
特殊神事 藻苅の神事 當區刀禰彦右衛門氏は、舊家にて代代當社の祠官に仕へてゐた。往昔から正月一日の早朝に、江良海岸に至り、馬尾藻(ホンタワラ)を採収して、これを刀禰皿と稱する、小竹を撓めて徑四・五寸の圓形を作り、藁を以て其の中央に、十字形に掛けて結びたる皿、七個を作りて、これにその海藻を盛つて、氏神日古神社に供するのである。この古風は現在も、刀禰家では行ってゐる。舊時は當社へ七皿、伊勢大神宮へ七皿、氣比大神へ七皿の、二十一皿を作つたとのことである。
本殿 

御鍵預りと刀禰家 刀禰彦右衛門家では、先代まで毎年厳冬中三十日間、潔齋の爲め水垢離をして、當社の神事に關する奉仕をなし、御鍵をも預り居たが、今はたヾ御鍵預りの舊例のみ行はれてゐる。
 刀禰職と刀禰家の事 刀禰彦右衛門は、氣比御神領成し時の刀禰職であって、社司よりの下し状數通を藏してゐる、今、その一二を記せば、
    就ゑらのとねが事に
 よのもの刀禰の望をなすといふ共此刀禰彦二郎いちごの間そのいのき有べからずたヾし守護殿の御意にそむくぎあらば此はんものほ
  うくたるべし仍状如件
    文明元年卯月十八日                  判江良刀禰

   在所に於て代官職名下地作職之亊望者雖有之住先々旨末代作職不可有相違之状如件
       弘治二年八月吉日              執當散位大中臣朝臣景親判
〔附記〕刀禰の義は、大寶令制の四部官の主典以上の諸官人を云ふ。主典以上は長上の官なれば、殿寢の義なりと云ふ。西宮抄裏書
   に大節には、大夫を刀禰と稱し、小節には侍従と稱すとある。後には貴賤共に公事に仕ふる者の總稱ともなり。又里長坊令等をも稱した。祝祠式に倭の縣の刀禰とも見えてゐるし、古くは神職の事を刀禰とも稱した神社の例もある。


浄土宗来迎山福伝寺

福伝寺は山号来迎山、浄土宗。かつては原の西福寺末。本尊は阿弥陀如来。慶長期(1596~1615)に刀根家が開基。2代目の時寺号を下付された。寛永12年(1635)11月の江良浦宗門人別改書は寺請・庄屋請・前書などを欠き帳面形式をとらない宗門改の原初的形態をもち、江良浦16軒全戸が当寺の檀徒となっている。

『敦賀志』
江良浦
氏神山王社、福田寺〔浄土宗西福寺末〕刀袮彦右衛門ハ氣比御神領成し時の刀袮職にて、社司よりの下し書数通を蔵す、其一二を記す。
    就二ゑらのと袮か事に一
よのもの刀袮の望をなすといふ共、此刀袮彦二郎い
ちごの間、そういのぎ有べからず、たゞし守護殿の
御意にそむくぎあらバ、此はんもほうこたるへし、
 仍状如件、
   文明元年卯月十八日判
            江良刀袮
在所二於て代官職 名 下地作職之事望者雖有之、
任先々旨末代作職不可有相違之状如件、
   弘治二年八月吉日
  執当散位大中臣朝臣景親 判


延命大乗水聖観音菩薩堂

国道8号線が、江良集落を過ぎて、両側が山になる切り通しのような所を通るが、そこに国道に面してある。豊富な湧水で、よい水なのか、車を留めて水くみをしておられる。

観音堂の隣に「無縁塔」の石碑がある、その由来は、敵を供養するものという。
無縁塔縁起の碑
 当地は敦賀市街より北へ七キロメートル程の地点、江良五幡両区のほぼ中間、江良は帰り山地籍に位する。往時より地域住民はこの垉を首取りと呼び、往来の静なる夜問は通行さえ怖れ敬達していたものである。この地名の由来については、古代より話り継かれてきたつぎのような伝説がある。
 頃は奈良期、人皇四五代聖武帝の時世。天平二十年も霜月(七四八)この敦賀の浦に蒙古の軍船が攻る来たつた言う。我が将兵の奮戦に首領鉄輪他多数の兵士をこの地に処刑し、その首と胴をそれぞれ分ち、埋めたと伝承される。
 また近く五幡海岸には近年まで、おおぐり石、またの名を追い岩と呼称された岩があった。かの鉄輪が上陸の際、武内刀禰なるものに追われ、この岩と回ぐり逃げたとの口伝も残る。五幡の地名の起源も、蒙古襲来の折り区の西南、高き山頂に不可思議なる哉、五色五流のみ幡が厳然と現われ、大いに将兵の士気を奮起したことに因んだと聞く。顧みるに今日迄の千数百星霜霜、誰をして遠き古代異国の地に果てた蒙古軍船無名戦士の霊に香華を手向けた者がいたであろうか。
今、この延命大乗水の恩愛を受けている善男善女普く十方にその数知れず。現世へ垂れ給うところの甘露の法水に、併せて数多の古代異国殉難無名戦士諸精霊の菩提を圓にせんことこそ、この観世音菩薩の深き大乗のみ心であろう。
 依って観世音菩薩の慈恩に酬いんがため茲に無縁の供養塔建立の発願に到ったのである。
 冀わくば、南無延命大乗水聖観世音菩薩、十方の諸国土において、永く昏衢の夜を照らし給え。合掌
昭和六十五年十月吉日  帰り山観音堂 堂主舛野建治識
汝の敵を愛せよ。まことの宗教者、マコトの人間というものはこうした境地に立つものだろう。敵味方分けることなくを供養するというのあると思われるが、ここは敵だけを供養するのだそう。
「帰山」は、福井県を嶺南・嶺北に分ける、その「嶺」のことで、鹿蒜(かひる)山と呼ばれた山のことであろう。その大きな山塊の分脈が当地まで至り、海へ達している。
当観音堂の裏山であり、日吉神社もそこにある。
『常陸国風土記』久慈郡条に、「賀毘禮(かびれ)の高峰」(今の久慈・多賀両郡境の神峰山(594米))。このカビレと同じ意味があるものと思われる。大きな村といった意味か、あるいはカシハラ、クシフルといった聖山の意味を持つものか。ずいぶんと古い地名と想われる。


市文化財刀禰古文書
刀根家文書は文明元年(1469)の刀禰職安堵状をはじめ、気比社領関係文書を中心に、文禄期(1592)以前の中世文書が20数点、寛文期(1661~73)までのもの80点余。うち16点は市指定文化財。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


江良の主な歴史記録




江良の伝説





江良の小字一覧

江良  月ケ谷 仲ケ谷 常宮谷 コシヤ谷 松ケ崎 ワサ田 浜ノ上 村ノ下 村ノ内 滝ケ花 小谷 小合谷 ヒトヲ谷口 小峠 大畑 沖島 堂ノ前 帰山 首取 中林ケ谷 三月田 小山 壱水口 千原 仲田 ミツアカ田 坂ノ尻 堤 油田 鳥越 山ノ花 浦縄手 針ノ本本 コノズ 流田 藤谷 信江 泉海道 川原 口屋敷 登伝 鳥越坂 堂山 大谷 割谷 初瀬谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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