丹後の地名 越前版

越前

御名(ごみょう)
福井県敦賀市御名


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福井県敦賀市御名

福井県敦賀郡粟野村御名

御名の概要




《御名の概要》
市街地の南方、黒河小学校があるあたり。北に砂流、東は公文名で、このあたりは『今昔物語』『宇治拾遺物語』やそれを題材にとった芥川龍之介の小説「芋粥」の舞台である。『敦賀志』に、
御名村
氏神山王社、春日野春日ノ杜ハ共に社ハなし、法國寺・宝泉菴・圓通院(共ニ浄土宗原村西福寺末)此村の南の端に春日野(甚右衛門と云農民の居を土俗字して春日のと云)と云処あり、小高き所にて遙に入海を望ミ郡中過半を見おろせり、是越前守兼北陸道押領使藤原利仁朝臣の館舎の跡なり、春日ノ杜ハ祖神春日大明神を祭祀せられし址成へし、今ハ御社ハなし、
宇治拾遺ニ曰、今ハ昔利仁将軍の若かりし時、…
大日本史伝…
然るに千歳を経ぬれハ、此人の館の有けん所ハ、何れの地なりしといふ事知人なし、資元つらつら考ふるに、粟生野郷に此人の郎等の裔也とて、藤原氏を称する農民卅余家今尚あり、又薯蕷粥の事など合せ考ふるに山際成へく、年ころゆかしく思ひ居しが、今年彼地に至りて此処彼処旧址を探り村翁にとひて漸其館址を知得ぬ、其後又此里の宝泉菴の縁起の中に其よすかを得たり(縁起といふもの大かたは後より作り設けたる物にて拵へ出たる偽也、され共稀には一ツ二ツ事実を伝えたるも有て捨かたき物也) 其文ニ曰、中世藤原氏の某卿といへる雲上の花族、故有て当地に住居し給ひしか、此諸薩?を将来し、則当寺に安置し、晨夕崇信し玉ひ、且村民卅人を撰んて被官となし、藤原氏をゆるし与へ給ふ、其子孫たえず云云、此村民卅人云云、藤原氏の姓をゆるしと有ハ例の杜撰なり、もとよりの家人成へし、且此作者利仁朝臣の事を露しらずして、聞伝へのまゝ云々と書たれ共、としひとあそんなる事をおのつからまきれなし、館址ハ今ハ田と成て、一丈四面許除地として不浄を忌しるしの祠あり、実に利仁朝臣の住れたらんとおぼしき処也、九百余歳絶て知かたかりし館舎の址を探り定めぬる事いとく嬉しくなん、…
今昔物語
宇治拾遺物語
芥川の小説「芋粥

「御名」は、名田(みょうでん)を尊んで呼んだもので、「名田」とは、平安中期から中世全般にかけて国衙領、荘園において、(みょう)に編成され名主によって管理・統轄された田地をいう。古くは土地の私有はなく、すべて国のものであったが(公地公民制)、開墾などで得た土地の私有が認められるなどして、土地の私有化が進んでいく、当時の土地制度の基本的単位であった。尊い誰々様の名田を「御名」と呼んでいたものと思われる。太閤検地で名田制は終末を迎え、近世の土地制度へ移行していく。

当地に鎮守府将軍藤原利仁の館があったという伝承がある。「敦賀志」も記しているが、確証はない。疋田に比定する説もあり、また疋田は別館で本館は御名とする説などもある。藤原利仁は藤原魚名の後孫で、鎮守府将軍時長の子、母は越前の人秦豊国の女。延喜11年(911)上野介、翌年(16年とも)上総介、同15年鎮守府将軍となった。彼の子孫は斎藤を称し、越前・加賀・美濃の有力武士団を形成したという。

中世の御名。室町期から見える地名。敦賀郡粟生野郷のうち。応永27年(1420)3月28日の片山重信田地寄進状(西福寺文書)に「合壱段者 在所御名内 観音堂下水口」とあり、この地が西福寺に寄進されている。大永2年(1522)12月27日のさ近大郎田地売券(永厳寺文書)に「あわうの御名」とあり、粟生野郷に属したとみられる。永禄元年(1558)6月5日の善妙寺領目録には寮舎玉照軒領として「東ハ五名分」とある。慶長国絵図では粟生野郷1,911石余の一部。
近世の御名村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、寛文8年(1668)からは安房勝山藩領。明治4年加知山県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に戸数45・人口215、産物は筵4,000束・菜種28石・縄110束。全戸農家であるが、同書に「傍ラ牛馬を役シ或ハ自ラ負担シテ敦賀・塩津ノ間ニ物品運送ヲ事トスル者アリ。又或ハ縄及ヒ筵等を製スル者アリ」とある。同22年粟野村の大字となる。
近代の御名は、明治22年~現在の大字名。はじめ粟野村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西3町・南北8町、戸数40、人口は男124 ・ 女122。


《御名の人口・世帯数》 468・140


《御名の主な社寺など》

古墳群
黒河川小学校の敷地内にはかつて2基の古墳があり、1基は明治29年に発掘された。大正9年「若狭及び越前に於ける古代遺跡」には「大石を以て築造せる石室あり。石室の内部に刀の破片及び祝部土器(須恵器)、金属環(金環・銀環)二個あり」とある。ともに6世紀築造の後期古墳とみられている。

日吉神社

日吉神社。祭神大山咋命。境内社に稲荷神社がある。もとは山林の間にあったが嘉永元年(1848)現在地に移ったという。
『敦賀郡神社誌』
村社  日吉神社   敦賀郡粟野村御名字宮ノ前堂山
位置と概況 本區は西北に山を負ひ、東方三町にて公文名區に、南方八町にて山區に、西方は長谷區に、北方は砂流區に隣して、助高川は區内を貫流してゐる。黒河尋常小學校の所在地にて、氏神日吉神社は、堂山と呼ぶ孤立した周圍二十町餘の丘陵の麓に鎮り、往昔は中腹に法泉寺福地院の七堂伽藍があって、今も其の當時の礎石が存してゐる。此の廃寺の際御名區へ地蔵尊を、砂流區へ薬師如来を、山區へ阿彌陀佛を、公文名區へは毘沙門天を、其の他は敦賀町津内區の法泉寺へ分たれたと傳へてゐる。當社はこの舊蹟地に鎭座されて、社地は宮ノ下及び堂前の地籍にある。社前の高き石垣上には、石玉垣を廻らして二區に劃され、即ち鳥居を入り社務所の左側を進むと、高さ二間餘の石垣には二十級の石段を設け、これを上ると本殿は南面して鎮り給ふ。石段には拜所がありて降雨の際などは雨具を要せず、本殿に詣づることが出来る。末社稲荷神社は本殿の東方に座す、社地は當區の略中央の西端に位し、本殿背後の丘陵には、椎甚だ多く松之に次ぐが老樹として數ふべきものはない、唯一株の巨杉は俗に「お宮の杉」と稱し、本殿の南東側の石垣の上に、亭々とし天窓に聳へ、根幹數尺の所より二股となり近郷稀に見る老樹で、幹圍三丈に及び、千古の靈域たる表徴として唯一の名残である。この境域に連続した西方には、彼の福地院の地藏尊を安置した堂宇があり、その南方に一戸の人家があるのみで、東方約一町餘にて、氏子の集團が介存してゐる。
祭神 大山咋命
由緒 當區の由来を按ずるに、人皇第十四代仲哀天皇當郡へ御幸の砌り、當區に臨御在らせ給ひし時に、村民某が御饌を捧げ奉つた其の當時の御休憩の地で、景勝の丘陵であるが而かも山林であつた。後世里人、この御座所に社殿を建てゝ天皇を祀った。それが何時の頃よりか、山神と尊稱し奉り、遂に山王神としで崇拝するに至り、明治維新神社制度確立の際、山王社と尊稱する處より日吉神社とし祭神大山咋命を奉齋することゝなった。堀河天皇の御宇、喜承元年四月現今の地に奉遷し、新に社殿を建立せりと傳へられ、その創始當時の古宮地は今も尚存してゐる。舊記に依ると明應七年秋大地震の爲め神殿御炎上の御事があつたと傳へられてゐる。明治九年七月十七日村社に列せられた。
祭日 例祭 五月十日 所年祭 三月二十五日 新嘗祭 十一月二十四日
正月祭と特殊行事 毎年正月七日に區協議員及び氏子惣代が、會合して協議會を開く、此の日區内の者で、長男の烏帽子着の式を行ひたき旨を申出づると、其の家の身分格式に應じ、醵出すべき米の量を決定されるので、最低一俵であるが夫々異ってゐる。この烏帽子着の式を行ふ資格者は、一戸の長男に限られて、生れた年より加入することも出来る。其他養子も加入出来るが、そは一戸の相續者となった男子に限られてゐる。而して十一日には、烏帽子着の儀式に加入の人は全部集合し(喪あるものは出席せず)神社に参拝して、正月祭を奉行し、新加入者は、此の時神職によって神前に奉告され、後直會の席で披露するのである。
本殿 …
神社附近の遺蹟
春日野 區の最南端の館趾なりと、語り傳へてゐる一區域がある。此の地は越前守兼北陸道押領使藤原利仁將軍の居仕せし館趾なりと傳へてゐて、今は四圍田畑にて一本の古き榎と、二尺許の石に佛像と認むべき形像を陽刻したものが樹てられてある。
春日大明社趾か 區の東方に古樹数十本が、密集して鬱蒼たる一團の森林がある。此の地を往昔より春日森と稱へて、春日大明神を祀りたる社趾なりと傳へてゐる。今は社もないが、其の地理的環境と古傳とにより更に深く、此の地方一帯の史的考査をするは、郷土史研究に趣味津々たるものがあるであらう。
古墳 當區日吉神社を去る東方二町餘の地に、黒河尋常小學校がある。この敷地から明治二十九年及び大正元年の兩度に、刀の破片・金鐶・銀鐶・祝部・土器数個を發掘して、今は此の地の學校に保管されてある。これ二個の古墳にて一は大石を以て築造された石室あり、一は元圓通院跡にて地下二尺に溝状に石を積みて築かれ、其り中より土器數點を發掘したのである。


浄土宗光明山宝国寺

創建は応安3年(1370)で開山は良如と伝える。

菓岡山弘福寺脇之堂

日吉神社の脇にある。
弘福寺は地蔵堂と称されて、はじめは観音堂であった。その後無本尊であったがいつの頃からか地蔵尊が安置されるようになったという。もとは日吉神社の宮守であった。明治期に廃寺となったという。こんな案内板がある。



『敦賀郡誌』
寶國寺、浄土宗鎮西派、原西福寺末、建徳元年(應安三年)七月十四日、良如創立、後良如此寺に隱棲して寂す、墓あり。慶長二年二月十四日類焼、同五年八月二十五日、僣霊道再建。地蔵堂初は觀音堂なり、弘福寺と稱す。西副寺應永廿七年三月の寄進状に御名内観音堂とある素之なるべし。享保頃には無本尊にて燈火を點し來りしを、何時よりか地藏尊を安置す。明治に至りて廃して寶國寺の掛所とす。舊は山王舎の宮守在りしなり。廢寺、寳泉庵、應永十八年三月十八日、良如創立、明治六年六月廢す。圓通院、共に淨土宗鎮西派、原西福寺末。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


御名の主な歴史記録




御名の伝説

『越前若狭の伝説』
利仁将軍    (御名)
利雄将軍の子利重将軍は、越前の国気比の郡(こおり)に住んでいた。この将軍に世継ぎの子かないので、次々と女房を取りがえ四百六十余人に逹したが、ひとりも子どもかできなかった。それで京都に出て、五条のあたりに住み、諸社諸寺へ参けいした。
 秋の半ばのころ、弱りゆく虫の声のものさびしい明け方に、若い女の声で
  草むらに嶋く虫の音を聞くからに
   いとど思いやまさりゆくらん
というのを聞き、とりあえず
  ほのぼのと明くるあしたのしののめに
   誰とも知らず人ぞ恋しき
と返歌して出てみると、十七八才の女房であった。過去の昔からちぎりおかれた事なので、ふたりは夫婦となり、やがて懐妊の身となった。九か月たったのでうぶ屋を作ろうというと、女は「わたしは九か月では産まない。また陸地では産まない。三十六重の建物の上で産む。」といった。よって三百三十三人の番匠を集め、二年かかって三十六重の楼門を造った。女房は「忌みは八日間である。八日うちは人が来てはならない。」といって楼門の上に登った。
 利重は、八日を待ちきれず、七日目に楼門を登り、すき間から見ると、長さ八十丈(二百四十メートル)もある大蛇)が三才ばかりの子どもを七巻きして眠っていた。利重は、神が守護に立ちたまうのであろうと思って下へ降りた。
 八日目に女房か降りてきて、「八日が満ちてから見れば、天下の大王になったものを、七日で見たがら、天下の大将になるであろう。わたしはますたの池の大蛇である。神仏の仰せによりお前と夫婦になったのである。この子の名を日竜と呼べ。この子が三才のとき、お前は死ぬであろう。七才のとき天皇の命を受けるであろう。」と予言して姿を消した。利重は子どもに「お前の母はどこへ行った。」とたずねると、天を指さした。
 三才のとき利重は死んだ。七才のとき、越前の国なおつ河のくしの助という大蛇を退治せよという勅命を受けた。日竜は「わたしは生れて八日で母に別れ、三年で父を失った。今また七才で宣旨を受ける悲しさよ。」と嘆いた。そのときうばが、「あなたの祖父は、才で大蛇をだき殺した。あなたは七才だからできぬことはない。」といい、先祖の宝とて角(すみ)の月弓、神通のがぶら矢をそろえて与えた。
 さて日竜は百万騎を従えて出発し、なおつ河に着いてみると、川霧が立ちこめていた。日数がたっても敵は姿を見せない。そこで日竜は大小の神々に、河上を切って水を干させたまえと祈った。すると河上の淵の底から長さ八十丈の大蛇二匹か現われ、「お前はわたしらの孫であるのに、わたしらを害してどうするのか。」といい、炎を出してかかつて来た。角の月弓・神通のかぶら矢をよく引いて放ち、この大蛇を退治した。これを油にして都へ持ち帰った。
 日竜は元服して利人(利仁)の将軍といった。二条の大納言の娘に照日の御前という有名な人があった。利人は聞き伝えて、文を送った。利人も有名な人であったから、娘はなびき、利人をむこにとって。二条に住んだ。       (有馬系図次第)

利仁将軍   (御名)
 鎮守府将軍藤原利仁という人がある。武勇すぐれ、将たるにふさわしい人であった。下野国(群馬県)高坐(たかくら)山のほとりに群盗がありのように集り、千人が党を結んでいた。関東からの朝廷用の雑物は彼らの党類によって常にかすめ収られた。
 ここにおいて公家は評議し、人を選んだ。みなの人は利仁をおした。異類を罰するよう宣旨が下った。利仁は選ばれたことを喜ぶとともに、勝ちがたいことを恐れ、鞍馬山に参ろうして立願祈誓した。しかるところ示現があった。
 下野国に進発し、高坐山のふもとに達した。時に六月十五日である。部下に命じてそりを作らせた。夜ふけて腹心の武士を呼び、 「雪か降っているか。」と問うた。家来は将略を知らず、「天は晴れている。」と答えた。将軍は怒って、ただちに剣を与え殺させた。
 しばらくして他の勇士を召し、前のごとく問うた。今度は前車のいましめを思い、いつわって、「雪が降っている。」と答えた。利仁は喜んだ。夜半になって雲が天をおおい、白雪が高く積つた。これにより山と谷の高低のへだてがなくなった。
 朝になり天は晴れて、雪はやんだ。利仁は兵にかんじきをはかせ。雪をおそれずに進んだ。賊徒は、うえこごえて進むことかできなかった。利仁は勝に乗り、逃げるを追って、凶徒を切り。その首を献じた。これにより名威天下に振った。
 利仁は宿願をとげるため毘沙門大王の像を造り、鞍馬寺で開眼供養した。おびていた剣をといて、毘沙門天の剣として持たした。すると夢の告げがあり、「わたしはこれを受納しない。かの千人の首を切った剣をわたしの剣とせよ。」といった。よってこの剣を施入した。
 徒兵の中にこの剣を好む者があった。夜中にひそかに宝殿を開いて、天王に近づいた。しかるに腰の剣がおのずと夜じゅう昇降し、取ることができなかった。よってこの尊像を剣惜しみ天王と号する。その神剣は今もある。         (鞍馬蓋寺縁起)

利仁将軍   (御名)
 文徳天皇のみ世に新羅国か朝廷のいうことをきかないので、かの国を罰すべしとて、鎮守府の将軍藤原の利仁を新羅国につがわした。利仁は心たけく、その道に達した者で、仰せを受けて、軍兵を集め、多数の船に乘った。
 新羅ではさまざまの怪しい事かあるので、占ったところ、異国の強い軍が攻めて来るとのことであった。国王は、手向がいしてもささえようがないので、この上は三宝の霊験にたのもうと、法全阿闍梨という人を唐から招いて調伏の法を行なわさせた。
 三井寺の智証人師は若くして宋に渡って、この阿闍梨を師として真言を学んでいた。智証もいっしょに新羅に渡り、日本のこととも知らず、調伏に従っていた。調伏の法が七日に満ちる日、壇の上に血が多くこばれた。阿闍梨は、法のしるしであるといって、結願して唐へ帰った。
 利仁将軍は出立して、山崎で病気になり、寝ていたが、にわかに起き出て、空に向がって太刀(たち)を抜いておどり上がり、おどり上がりして、たびたび切っていたが、倒れて死んだ。それで他の人をつかわすことなくして、出兵はやんだ。
 その後智証大師が唐から帰り、新羅へ行ったことを話したので、日本の人は、利仁将軍の死んだのはその調伏によるのであると知った。しかし利仁将軍もただの人ではない。空に向かって切ったのは、さだめし目に見えたのであろう。  (今昔物語集)

 宇多天皇のとき、利仁将軍は新羅を打ち、かの国の海上でにわかに死んだ。これは智証大師が唐に渡り、かの国のことばで調伏を行なったためであろうか。   (古事談)

利仁将軍   (御名)
 利仁は海上を飛ぶことまるで羽があるようであった。人は利仁を神が人に化したのであろうとした。異本によれば、海路を飛んだのは利仁でなく、彼の父である。 (尊卑分脈)

粟野    (御名)
 御名区に田中兼松という家がある。この家の家号を佐小次郎という。むかし藤原利仁将軍が北陸追討のとき、御名の春日野で休憩された。佐小次郎家では将軍のもてなしにもちをさしあげた。将軍はことのほか満足されて、「このもちは、何という名じゃ。」とたずねられた。佐小次郎は、「これはこの付近にできまするあわもちにございます。」と答えた。すると将軍は、「なかなかよい味じゃ。」といわれた。それ以後村名を栗野(あわの)というようになった。   (黒河校下史跡調査録)


ぜにつぼ谷  (御名)
 御名区字宮の前に、堂山という周囲二十町あまりの孤立した山がある。この山頂には、むかし福地院という寺があった。七堂がらんが備わり、僧兵もいて、勢盛んであった。天正のころ、織田信長が北陸征討に来るのを聞いて、その難をさけるため、宝物および金をつぼに入れて、野坂の山中に埋めた。その谷をぜにつぼ谷という。埋蔵地というところに現在大きな岩がある。岩を打ってみると、中に何かあるような音がする。埋蔵地を示す古歌として、朝日さすの歌は、ここにもいい伝えている。
  (黒河校下史蹟調査録)


 むかし堂山の中腹に法泉寺福地院の七堂がらんがあった。廃寺の際に地蔵尊を御名へ、薬師如来を砂流へ、阿弥陀如来を山村へ、毘沙門天を公文名へ、その他は敦賀の津内の法泉寺へ配分したといわれ、現在は磯石や五輪の塔、金比羅堂などが、所々に残っている。       (福井県の伝説)



御名の小字一覧

御名  中川 橋詰 二夕又 道別 馬道 大水口 野畠 中井口 井口 川西 ヲトヱ 林屋ノ上 天神林 宮ノ森 森ノ上 上町 繩手 中筋 下フムロ 西河原 西山口 東原 坂ノ下 笹山口 深谷 堂田 宮ノ前 深谷口 堂河原 出口 川東 條原 山神山 ナカヲサ 山神前 大塚 下野 森ノ下 森東 堂ノ前 上良 田尻 清水端 中道 校野 ヲリト 下ヲリト 十枚田 池田 井川 下田 狐塚 捨鷹 ?山  トキシケ 三反田 爪屋 下捨鷹 又木田 飛下野 小海道 辻川 良方 長塚 山橋 向原 上ケ谷 長谷口 宮山


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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