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鳩原(はとはら)
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鳩原の概要《鳩原の概要》 市街地の南東部、愛発峠の登り口で、「はつわら」と一般にいう。JR北陸本線上り線のループがある。国道8号から鳩原橋を渡ると集落がある。集落西側の山は衣掛山と呼ばれる。 鳩原は、戦国期に見える地名で、永享2年(1430)5月27日の斯波義淳西福寺寺領安堵状(西福寺文書)に「〈鳩原〉五段〈河瀬仙阿寄進〉」とある。室町期かと推定される年月日未詳の西福寺寺領分配目録(同前)に、「鳩原二段」の分米の計量は疋壇枡を使用することになっていた。大永5年(1525)5月13日の気山権頭学頭職譲状に「はつ原」と見える。また「冷泉為広卿越後下向日記」延徳3年(1383)3月6日条にも「ハツハラ〈里〉」と見える(県史研究3)。慶長国絵図では道口村416石余の一部。 近世の鳩原村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、天和2年(1682)からは旗本酒井氏知行(井川領)。享保12年(1727)の家数12(高持8・無高3・寺1)・人数51(男28・女22 ・ 出家1)、馬4。宝暦6年(1756)の郷指出帳に、村の幅員は東西2町・南北4町、家数10(本百姓6・水呑百姓4、ほかに越石百姓4)・人数49(男29・女19・出家1)。「敦賀志」に、「此里ハ川の西なる山に傍て村居せり、又街道の傍に茶店一軒有しが、今ハ次第に建つゞき数家と成、郡中の人伊勢参宮すべて物詣など必ず爰にて送迎す」とある。明治3年本保県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に、戸数13 ・ 人口75、馬3(貨物運送用)、荷車11、物産は莚2,400枚・菜種2石余・大根450貫目・桑500貫目・繭14貫余。同22年中郷村の大字となる。 近代の鳩原は、明治22年~現在の大字名。はじめ中郷村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北2町余、戸数12、人口は男35 ・ 女44。昭和49年一部が観音町・羽織町となった。 《鳩原の人口・世帯数》 49・19 《鳩原の主な社寺など》 ![]() 集落の西側山麓に鳩原古墳群(2基)。2号墳は石室内に石棚を有し、櫛川の穴地蔵古墳、美浜町丹生の浄土寺2号墳とともに注目される。7世紀初頭。 ![]() ![]() 鳩原2号墳は、鳩原1号墳の50m西方に位置する径8mの円墳です。南東に開口する石室全長3.5mの横穴式石室を持ちます。
これらの古墳はいずれも板石を石棚として横穴式石室の玄室側壁に架け渡しています。また、浄土寺2号墳、3号墳を含めて、とてもよく似た石室の構造を示しています。 敦賀半島周辺に分布する石棚を持つ古墳に共通して言えることとして、横穴式石室に石棚が架般される前、6世紀の終わり頃の時期に先行して造られた古墳が付近にあり(浄土寺1号墳→浄土寺2号墳・3号墳、穴地蔵3号墳→穴地蔵1号墳、尾尻1号墳→白塚古墳、鳩原1号墳→鳩原2号墳)、それらの古墳はいずれもよく似た構造の横穴式石室を持つことが挙げられます。つまり、6世紀後半の段階には既に敦賀半鳥の津々浦々を結ぶ海上ルートがあり、土器製塩や古墳造営などについての技術や情報が共有される基盤があったことを示しています。 この基盤を背景として、7世紀に入ると穴地蔵1号墳に石棚が架設されたことを契機として、これ以後に敦賀半島周辺で造られた古墳の横穴式石室に石棚を架設することが広がりました。各古墳から出土した土器の年代を見ると、時期を隔てずして7世紀初め頃といった極めて短期間に石棚が拡散したことが見て取れます。 また、これらの古墳では古墳が造られた後も幾度か追葬が行われ、7世紀を通じて古墳が墓域として使用されたことが出土した土器やその出土状況から分かります。 ![]() ![]() 『敦賀郡神社誌』 村社 八幡神社 敦賀郡中郷村鳩原字前田
位置と概況 本區は北八町にて道ノ口區に隣し、人家三四戸は柳ヶ瀨街道に沿ひ、こゝより笙ノ川を隔てゝ西約三町餘の里道により本區に至る。笙ノ川に架せる橋を渡りて進めば、北陸鐵道本線を挟んで、本區の人家が在る。東西の二方は悉く山嶽である。氏神八幡神社の境内は、人家より約二丁を隔てたる北方の山麓にて、本殿以下建物の總べては平坦地に東面して在り、社後は直に山林となりてゐる。境内椎の老樹巨木多く、大小の巌石は所々に點々起伏し、恰も大古墳の封土が、破壊したる如き光景を呈してあれども、決して然らず。大水害の砌土砂崩潰して、山骨を露出したのが、多く年月を経て、自然に苔むしたものである。本殿と拝殿の間を流るゝ一小渓澗は、水清く御手洗ともなり、自から神域を清めてゐる。附近一帯の地は、宮下と稱する地にて、松・椎等密生し、鬱蒼たる森林をなし、近時斧鉞を入れざれば、恰も境外地の社有林のに如く見ゆ、其の林聞に参道がありて、丹塗の鳥居は、緑樹重疊の間に隠見し、古椎老松幽鬱として社殿を繞り、社頭いみじく神さびてゐる。 祭神 應神天皇 合祀素佐之男命 由緒 按ずるに、當社の創立時代は詳ならざれど、社域の環境より推考するも、由緒古き社であらう。文化十三年三月本殿の改築をなし、明治十一年二月村社に列せられた。大正十二年十一月二十日同區鎭座無格社熊野神社を合祀した。熊野神社は俗に上社と稱し、祭神素佐之男命である。{附記}明細帳に八幡神社及び熊野神社祭神不詳とあれども本記の如く推定した。 祭日 例祭 五月十日 祈年祭 八月十日 正月祭 毎年舊一月十日を正月祭と稱して、此の年の神事始めとなし、此の祭典の神饌品中に白豆を混したる飯を、黒塗の椀に高く盛り(杉盛又は廻し盛)で献供する風習がある。この白豆を用ふるは一見鳰原の鳩に因める如く覺ゆれども、さにあらず。或は年中マメマメ敷く、忠實に働き得る様の意で年の始めに献るか、正月の惣菜に豆を用ひ、又元旦竃に豆箕を焚く風ある意味の類か、或は田穀・陸穀の代表としで御饌に供へるか、或は邪気を退際するに豆を用ひる古風から轉化しとるか、其の由来は區民も知らずと云ひ、神事は往時のまゝを尊び、存續してゐるのであるとのことなるが、他にも豆飯や献供する所あるを見れば、其の年の五穀成就を祈るための御饌に外ならないであらう。 本殿 … 神社附近の舊趾 古老の口碑によれば、昔時は人家多数ありしが、何時の頃ともなく漸次減少した。當時三寺院ありて、その所在を以て寺の俗稱となし、即ち上ノ寺・中ノ寺・下ノ寺と呼んで居たが、上ノ寺・下ノ寺は既に發絶して、今はその趾地さへ分明でない、獨り中ノ寺のみ現存して西方寺と號してゐる。此の氏神、八幡神社境内に連続せる平坦地一帶が、下ノ寺の寺趾ならんと云ふが、地域廣大で或は然らんと思はるゝ節がある。この寺にありしと云へろ板碑の類数十基は、今猶中ノ寺の西方寺方に蒐集され、其の材料も様式も種々ありて、下ノ寺が如何に古き巨刹であつたかを證してゐる。 神社舊趾 柳ヶ瀨街道より西方を眺むれば、當區の南上方に田と川とを隔てたる山麓、一團の鬱林が見える。これ即も、當厘の上社と稱して、大正十二年十一月八幡神社に合祀した、無格社熊野神社の舊趾である。此の舊社趾にも椎の巨樹多く、八幡神社のそれよりも大なるものがある。老幹半ば腐朽して蒼苔を生じ、大なる藤葛これに絡めるものありて、今猶靜寂神氣に迫る境圸である。 ![]() ![]() 『敦賀郡誌』 鳩原 道口の南に在り。西福寺永享二年寺領目録に鳩原、江村文書〔三方郡向笠〕大永五年五月気山権頭の楽頭職讓状に、ゑちせんつるかのこほりはつ原と見ゆ。民家は川の西の山に傍ひて住み、街道には茶店一軒有しが、のち此處に数軒建ち連なりしなり。鐡道開通以前は此處にて、遠く赴く人など送迎せり。氏神、八幡神社、村社。熊野神社。西方寺、曹洞宗、松島永建寺末、本尊観世音。
![]() ![]() 国道8号ぶちにある。 鳩原水害記念碑
幕末の頃、内憂外患の中で不測の事態に備え各藩は警戒を厳しくしていたが、敦賀郡の農兵隊も藩命を受け要所を固めていた。中でも鳩原は北陸街道の重要な分岐点であり、屯所が設けられていて、昼夜を分かたや警戒巡視を怠らなかった。 慶應二年(一八六六)八月七日、二日前からの大雨で激しい暴風雨に見舞われ、河川が増水し、突然に屯所の裏山が崩れて来た。関口恭孝泰澄は、避難命令を出したが、一瞬遅く、山津波は屯所を押し潰して隊長以下十七名の方々が犠牲となったのである。 天下国家の為に任務に服していた多数の有意の方々が、殉死したのは、誠に痛恨の極みである。この記念碑の移設に際し、協力いただいた方々と共に謹んで追悼の誠を捧げたい。 堰口恭孝は小浜藩士で当時四十一歳。長男の平一郎は明治三十二年敦賀町長に着任。碑文を起草した唐川徹は広瀬談窓の塾に学んだ漢学者、神楽町長賢寺の住職で元華族学校(学習院)の教授。書を担当した河端彦造は気比社の神官。就将小学校創設時の習字教員で、小学准二等教授。 敦賀ライオンズクラブ結成四十五周年記念事業 平成十八年九月二十二日 《交通》 ![]() 《産業》 《姓氏・人物》 鳩原の主な歴史記録鳩原の伝説![]() 鳩原の小字一覧鳩原 万道越 草苅道 林ノ越 外ノ上 山田 前田 村中 村下ノ内 宮ノ下 針木原 関ケ谷 殿山越 村下 からゝく 羽織 ザル 二俣 辻堂 岡山下 五反田 壱町田 高畑 六反田 丸山 剣ケ谷 笹尾 綿襷谷 万道山関連情報![]() |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『敦賀郡誌』 『敦賀市史』各巻 その他たくさん |
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