旧・東浦村(ひがしうらむら)
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福井県敦賀市田結・赤崎・江良・五幡・挙野・阿曽・杉津・横浜・大比田・元比田・鞠山 福井県敦賀郡東浦村 |
旧・東浦村の概要《旧・東浦村の概要》 敦賀湾東岸の浦方を、対岸の西浦に対して東浦と呼ぶ。東浦とみえる早い例は寛文4年(1664)8月の山漆改奉行仁左衛門書付之写だが、天正18年(1590)4月29日付の宗策・佐久間政長・蜂屋隆長連署状には西浦の呼称がみえ、その頃には東浦の呼称もあったと見られている。慶長2年(1597)2月の江良浦年貢塩指出状は「ひかしのかわ(東の側)」と記す。江戸時代には田結・赤崎鞠山・江良・五幡・挙野・阿曾・杉津・横浜・大比田・本比田の10ヵ浦と 敦賀港から北端の本比田浦まで海上4里、交通不便な地で、明治11年頃でさえ、「滋賀県物産誌」は、赤崎浦は「道路険悪ニシテ運搬ニ不便ナレトモ海路僅カニシテ敦賀港ニ達スルノ便アリ」、また江良浦は「水程僅カニ二里ニシテ敦賀港ニ達スルヲ得、海運ノ利ニ富メトモ陸路ハ断崖絶壁ノ地ニシテ殆ント往来ス可ラス」と記し、断層海岸の東浦一帯の特色であった。奈良時代には北陸道が敦賀湾に沿って田結・五幡・杉津を経て山中峠(389メートル)を越え、今庄に至った。 東浦10ヵ浦は、寛永元年(1624)まで福井藩領、以後小浜藩領となるが、天和2年(1682)9月に鞠山藩(敦賀藩ともいう)が成立し、以後これに属した。貞享4年(1687)赤崎浦 享保12年(1727)の敦賀郷方覚書に、10ヵ浦の総村高は2.087石余、総家数626(高持480・無高120・寺26)、総人数3.417、牛馬銀130匁余、入木銀261匁余、新山手銀461匁余、雉札銀7匁、馬足193匹、夫米84俵余、総塩高2.444俵余、塩竈屋90、牛162、舟数17、本島手銀45匁、鉄砲11挺、タモ代米約24石など。 同年の西浦10ヵ浦の総村高382石余、総家数166、総塩高463俵、島手銀1貫53匁、舟数68などと比較すると、村高・家数において4~6倍の規模を有するが、同じ浦方でも、西浦が漁業中心の本浦であるのに対し、東浦はほとんど漁業には従事せず、農業への依存度の高い村方的性格をもつ塩浦であることがわかる。 東浦の農業の特色は、棚田と樹木栽培にある。標高400メートルぐらいに達する棚田は30センチほどの沖積土を作土とし、緩斜面に散在する花崗岩を石垣に利用する。水田は表土が浅く、ざるのごとく水は地下に浸透するため、作土の下に不透水性の火山灰質の赤土層を2寸ほど敷きつめて「敷」となし、漏水を防ぐ。典型的断層海岸の地形に加えて、土質が風化した花崗岩のため粘着性に乏しく、雨期にはしばしば山抜けが起こり、田畠への砂入りや家屋の埋没を招いた。新しいところでは明治28年の大洪水、近世では寛永10年・万治3年(1660)・寛文7年・享保13年・安永2年(1773)・同六年・文化4年(1807)・慶応2年(1866)の各年に洪水の被害が出た。北方の四ヵ浦(本比田・大比田・横浜・杉津)は暖流の影響を強く受け、暖地性のタモの木や「ころび」とよばれる油桐の実の栽培が近世初・中期から行われた。蜜柑は当地が北限とされるが、元和(1615-24)頃には福井藩の岡島壱岐守が苗木を大比田浦の中山治左衛門に所望しており、すでに温州蜜柑が栽培されていた。 当地方は、「日本書紀」の武烈紀に載せる「角鹿の海の塩」や「万葉集」の笠金村の歌「手結が浦に海未通女、塩焼くけぶり」の古代製塩の地で、塩浦として知られ、明治中頃まで製塩が行われた。敦賀の塩は古くから江州塩商人により近畿地方に搬出されたが、一方、塩師の他国移住も多く、「稚狭考」によれば、文禄(1592-96)頃赤崎浦の塩師が、若狭国遠敷郡田烏浦の釣姫・谷及・須ノ浦に移住したことを記している。慶安4年(1651)から寛文11年の間は東浦全体で年貢塩を3.253俵ほど生産したが、享保12年には2.321俵(6斗俵)に減っている。秋から冬にかけての季節風による荒波で塩田が破壊され、加えて入浜式製塩による瀬戸内海産の安価な塩の進出に対抗できなかったからである。明治11年には製塩は湾奥の田結・赤崎・五幡の3ヵ浦となり、生産高は550石ほどに減少し、同40年に最後の五幡浦が廃業して製塩の歴史は終わった。なお舟と牛の多くは塩と塩木の運搬用で、塩木は地元の山だけでは足りず、郡内の葉原・新保村から南条郡内や近江伊香郡内で請山をした。 東浦村は、明治22年~昭和30年の敦賀郡の自治体名。西を敦賀湾に面して位置する。田結・赤崎・江良・五幡・挙野・阿曽・杉津・横浜・大比田・元比田の10浦が合併して成立。旧浦名を継承した10大字を編成。役場を阿曽に設置。江戸期に東浦は塩浦と呼ばれ塩業を主とし、明治40年最後の五幡浦が廃業するまで続いた。漁業への進出はほとんど許されない端浦で、地先の漁業は主として町方に属する両浜と呼ばれた漁師町の利用するところであった。大正2年赤崎の一部から鞠山が起立。昭和30年敦賀市の一部となり、当村の11大字は同市の大字に継承された。 旧・東浦村の主な歴史記録『稚狭考』田烏のつるへ(釣姫)他及(谷及)須の浦、塩を煮る所にて、塩は国用の第一と見へて、風波にて塩浜崩るれは銭米を給つて繕はしむ。十年征ありても右の費にはつくなはれす。文禄年中敦賀赤崎浦の塩焼とも爰に来り、地を開き塩を焼といへり。寺も赤崎より転す。伊勢の玉串も、赤崎浦より取伝へておくり来る。寺の名忘れたり。 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『敦賀郡誌』 『敦賀市史』各巻 その他たくさん |
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