丹後の地名 越前版

越前

疋田(ひきだ)
福井県敦賀市疋田


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福井県敦賀市疋田

福井県敦賀郡愛発村疋田

疋田の概要




《疋田の概要》
市の南部、三方が山地の谷合の集落。当地で国道8号と国道161号が合流する。北東分岐するのが、昔風に言えば東に向かうと江州塩津に通じる塩津道(新道野越)、柳ヶ瀬(滋賀県余呉町)で北陸道に接する刀根越で、南へ向かうのは江州海津に通じる西近江路(七里半越・深坂越)である。古代から交通・軍事上の要所として知られる。車だとアっという間に来てしまうが、敦賀津まで2里の要衝。古代の三関の1、愛発関の所在を当地に求める説が有力であり、芋がゆで知られる越前・能登・加賀鎮守府将軍藤原利仁の館跡伝承がある。利仁の後裔為頼は越前権介、北陸道七ケ国押領使・越前国惣追捕使で匹田斎藤と称した。「源平盛衰記」巻28(源氏追討使事)に「匹壇、三口行越えて、敦賀津に著きにけり」、「太平記」巻17(金崎城攻事付野中八郎事)に「荒河参川守ハ丹後ノ勢八百余騎を率シテ疋壇ヨリ向ハル」とみえる。地名の由来は藤原利仁の孫疋田為頼によると思われる(敦賀旧町村地名考)という。江戸期には若狭小浜藩本陣、女口留番所などがあった。
中世の疋壇(ひきだ)。鎌倉期から見える地名で、匹壇・疋田・引田・引壇などとも書いた。室町期の西福寺寺領分配目録(西福寺文書)によると、道口・鳩原・山志水(山泉)からの年貢は「疋壇舛」によって計量することになっており、当地を中心に谷の出口までを含む経済圏の存在をうかがわせる。戦国期に見える疋壇久保・同亨在・同景保・同干房などは当地を本拠とする豪族と思われる(同前)。慶長3年(1598)の疋壇村検地帳写に田18町2反余・畠2町9反余、屋敷1町3反余となって、畠のうち8畝15歩(5筆)に「茶共ニ」の注記がある。慶長国絵図には疋田村666石余とある、これは疋田郷7か村(疋田・小河口・市橋・追分・駄口・山中・奥野)の総高である。
近世の疋田村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)からは小浜藩領。享保12年の家数84(高持55・無高27・寺2)・人数411、馬40。当村は敦賀から京畿に向かう交通の要衝で宿駅としてにぎわった。疋田宿は小浜藩の本陣も置かれ郡内最大の宿駅であった。伝馬や荷物などを取扱う問屋は、西廻り航路が開かれる以前には敦賀への米穀をはじめとする物資が当地へ大量に流入し問屋数も増加した。女留番所も置かれた。「寛文雑記」には疋田番所は小浜藩京極氏時代に道口から移されたとあるが、酒井氏時代に作成された天保2年の若狭国絵図には道口に番所が描かれており移転はこれ以降のことという。高札場・一里塚もあった。当宿は疋田馬借座200疋のうち最大の95疋の座を占めた。駄口・山中および塩津の3口からの下り荷で疋田から敦賀に至るものは3分の2を敦賀馬借が、3分の1を疋田馬借が取り扱った。また柳ヶ瀬から刀根村を経て敦賀に向かう下り荷もすべて疋田馬借荷であった。文化13年(1816)舟川が開通すると当宿は上り荷の次場となった。明治2年全国の各駅に伝馬所が設置されたが、当村にも疋田駅御伝馬所が設けられ4名の所員があてられた。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に戸数84(農82・工1・商1)・人口398、荷車52。同22年愛発村の大字となる。
近代の疋田は、明治22年~現在の大字名。はじめ愛発村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北5町余、戸数99、人口は男210・女242、学校1。昭和29年疋壇遺跡が県史跡に指定された。同32年国鉄北陸本線のルート変更により新疋田駅が開業。同39年柳ケ瀬線の廃止により表玄関であった疋田駅もなくなり過疎化が心配されたが鉄道線路跡2万4,700mの払下げを受け、過疎化対策として工場の誘致や住宅地造成を図った。


《疋田の人口・世帯数》 279・127


《疋田の主な社寺など》

愛発(あらち)
どの山だと言われてもカメラの向けようがないのだが、敦賀と近江国境付近から北方疋田)辺りまでの山塊を総称したものとされ、諸書により有乳・荒血・荒道・荒茅・阿良知などとも記される。「荒道」と書かれると加佐郡の有道(ありじ)郷を思い浮かべるが、たぶん地名の意味的には同じ、阿利叱智の転化であろうかと思われる。古代の三関の1と称せられた愛発関が、天智天皇6年(667)に近江の大津宮を防衛するために設けられた所である。辺りは野坂山地の要地で畿内と北陸との自然境界をなし越や蝦夷の侵入を防ぐためにも要害の地であった。「帰雁記」に有乳山と見え「近江に境ひてかの国の海津の里と伝所に近し。あさち山ともいへり。古へ山に産の穢ありし故其後荒血といひしなり」とある。また「名蹟考」には「曳田と山中との間西の方の山なり」と記される。白山伝説によれば白山の白山姫は志賀の唐崎明神と夫婦となって懐妊し、産月が近づいて里帰りのため愛発山を越える時、山中で急に産気づき産のあら血を流したからあら血山といったという。「名蹟考」は「義経記」を引いて、源義経が奥州下向の際にこの山の名を問うた時に,荒き山路にて人の足より血出る故にあらち山と名付けたと答えたと記す。愛発山がどの山を指すのかいまだ確定されておらず「衣掛山」「岩籠山」などがあげられている。さらに「名所方角抄」は「近江に境たり、海津の宿より有乳山は一里北なり。京より丑寅に当たる」と記していることから「乗鞍岳」も愛発山の可能性がある。「万葉集」巻10に「八田の野の浅茅色づく有乳山峰の沫雪寒くふるらし」と詠まれて以来、歌枕として多くの歌にも詠まれ、諸種の歌学書にも取り上げられた。代表的歌人のものとしては、西行の「あらちやまさかしくくだるたにもなくかじきの道をつくるしら雪」(山家集)、藤原定家の「有乳山みねの木枯さきだてゝ雲の行くてに落る白雪」(拾遺愚草)などがある。応永34年(1427)越前国に下った飛鳥井雅縁(宋雅)の紀行文「宋雅道すがら之記」(統々群5)に、「此宿(山中宿)を立侍れば山あひの道さかしきに、西の方にあたりて鳥井の立たるを尋はべれば、こゝをなんあらち山と申す」と見え、少なくとも室町期には山中から疋田に向かう七里半越の西側に連なる標高740~780m級の山並みを愛発山と呼んでいたことが知られる。一方軍記物では「義経記」「源平盛衰記」「太平記」「富樫記」などに見えるが、しばしば「荒乳の中山」のように「中山」を伴う。
「万葉集」巻一〇に「詠黄葉一首」として、
  八田の野の浅茅色づく有乳山峯の沫雪寒く零るらし
交通の要衝として軍記物にしばしば登場し、「義経記」巻七(愛発山の事)に、
  判官は海津の浦を立ち給ひて、近江国と越前の境な
  る愛発の山へぞかかり給ふ、(中略)愛発の山と申す
  は、人跡絶えて古木立枯れ、巌石峨峨として、道す
  なほならぬ山なれば、岩角を欹(そばだ)てて、木の根は枕を
  並べたり、何時踏み習はせ給はねば、左右の御足よ
  り流るる血は紅を注くが如くにて、愛発の山の岩角
  染めぬところは無かりける、
とみえ、続けて女神がこの山中で出産した時「産のあら血をこぼさせ給ひけるによりて、あら血の山とは申し候へ」という地名由来を記す。
「源平盛衰記」巻二八(源氏追討使事)の平家軍勢下向の様子を述べたなかにも「海津を打過ぎて、荒乳の中山に懸つて」とある。
また「太平記」巻二七(上杉畠山流罪死刑事)に都から越前までの道行文があるが、ここにも「焼ヌ塩津ヲ過行バ、思ヒ越路ノ秋ノ風、音ハ荒血(アラチ)ノ山越テ、浅茅色付野ヲ行バ」とあり、謡曲「山姥」「安宅」にもうたわれる。


日吉神社

集落のすぐ背後の西側にちょとした小高い山がある、これが疋壇城があった山で、日吉神社は疋壇城跡山の東部に鎮座している。「小丸」という小字だから城の一郭であろう。祭神は大山咋命。
『敦賀郡神社誌』
村社 日吉神社 敦賀郡愛發村疋田字小丸
位置と概況 本區は往古より京都及び江州方面への要衝に當り、藩政時代には、女留番所もおかれた宿驛であった。古書によれば、匹壇・疋壇・引壇・曵田等の文字を用ひた時代もある。今は北陸鉄道本線疋田驛があり、敦賀町より乘合自動車の便もある。又村役場・西愛発尋常高等小學校・郵便局・巡査駐在所等も此地にありて、實に當村文化の中心をなしてゐる。江州街道(舊北国街道)は、區内を貫通し、人家はこれに沿ひて軒を並べ、旅館あり、商店ありて、優に一小都市の形を爲して、宿騨當時の繁盛を偲ばせてゐる。疋田の地名の因するものに二説ある。其は鎭守府将軍越前守北陸道押領使、藤原利仁の後裔、越前權介爲頼が、七ヶ國の押領使にて、疋田齋藤と稱し、又単に疋田氏とも號せしかば、これに因めると云ひ、又一は、崇神天皇六十五年、任那國の王子、都怒我阿羅斯等が、敦賀に來り、其の後裔に辟田首といふがあれば、これによれるといふも、何れも確説がない。當區は、海津街道と柳ヶ瀬街道との分岐するところで、敦賀町より本區に至るまでを、近江街道、又は柳ヶ瀬街道、或は舊北國街道と稱してゐる。鎭守日吉神社は、區の中央より南方の西端にある。境域は之を三つに區劃され、近江街道に沿ひて、社標が樹てられてある。こゝより参道を僅かばかり進み、石階を級すること五十段にて平地となり、更に数級の石段を上りて、拝殿の側に出づれば、こゝでは廣き平坦なる御庭にて、更に高さ六尺の石垣は、大石を積み上げられ、その中央に設けられた、石階数級を上れば、正面に柿葺にて、清明高賀なる、流造の本殿が東面して鎭座し給ふ、社後及び社地左右兩側一帯は、巌々たる杉の密林にて、又域内にも杉・タモ・欅等の大木がありて、一層の荘厳を加へ、閑静静寂を感ぜしめてゐる。
祭神 大山咋命 合祀菅原道眞公
由緒 當社の由来を按ずるに、延暦二年癸亥正月十六日勸請して以来、山王社又は山王権現と尊稱し奉つたが、安政六己未年八月五日、當區大火の際に、古記録一切を焼失した。明治十一年三月村社に列せられ、末社天満宮、祭神菅原道眞公を本宮に合祀した。當地へ天満宮を奉祀したのは、藤原利仁将軍の後裔、匹田齋藤氏が居住して、勸請奉祀したのであらうが、其年月日は詳かでない。大正三年一月十一日、本宮は神饌幤帛料供進の神社に指定せられた。
祭日 例祭五月三日 所年祭 三月十五日 新嘗祭十二月三日
野上祭(ノアガリマツリ) 六月二十五日までに田植を終り、其の本告祭を兼ね、豊穣の所願祭を行ふのであつて、式其他神饌品等に特殊のものはない。
放生會祭 八月十五日・十六日の兩日及び九月十五日には、放生會と稱し、區内の青年達は夕列より神社に神燈を點じ、境内で音頭の聲に合せて踊るであつて、他區のそれと異ならない。
本殿 …
境内神社
八幡宮(若宮とも稱す)祭神 應神天皇
  社殿 石造 …
  由緒
   往時より若宮又は若宮樣と尊稱して、區の北方にあつたが、今より凡そ二十五年前に、當境内に遷宮したと云ふ。〔附記〕 刻銘の河瀨氏は疋田の家臣と思はる。
金比羅宮 祭神 大物主命
  社殿 …
氏子戸数 八十二戸
敬神講 當區では區内を八組に分ち、十二月三日の新嘗祭には、各組の當番は特に羽織袴にて祭典に參列し、撤饌の分配を得て、各自宅に於て各講員に分與し、直會を爲すのが恒例である。
神社附近の舊蹟 疋壇城趾 文明年間の頃、疋壇對馬守久保の築きし城にて、柳ヶ瀨・鹽津・海津方面より來る、敵の攻防に備へたのである。元龜元年に、朝倉義景、織田信長の爲めに攻められた時、遂に此の城も陷つた。其の城趾は區の西南に今も存してゐる、日吉神社境内地一帯を小丸と稱するのは、當時の東郭である。
(疋壇城古井の故事) 朝倉氏の家臣、河合安藝守の妹なね、鳥井與七郎の妻は、年齢年尚若く、眉目秀美にして、容貌端麗なりし爲め、織田の軍卒等、之れを捕へて無情を迫った處、彼女は毫も驚きの氣色もなく、泰然自若、軍卒に告ぐるやう『父は刀根にて戦死し、母と姉は行方知れずなられた、せめては母と姉に、吾身の上を告げたければ、それをさへ傳へらるれば、唯命是れ從ふのみ』と言ひければ、軍卒等初めて意を安んじ、彼女の母姉を尋ねむとした、其の隙を窺ひ、「よにふればよしなき雲ぞおほふらん、いざいりてまし山の端の月」と一首を今世の別れにりして、。點に上れば鳥の兩翅地に居れば連理の枝と、近き邊りの古井戸に身を投じて、亡夫與七郎の許へ走ったと、傳へられてゐる。純情の貞操、百世の亀鑑といふべしである。
(疋壇城址)(敦賀郡誌) 愛発村疋田に在り、邑は西南に存し、今は田畠となりたれども、石壘・塹壕等猶存す。城は文明の頃、疋壇對馬守久保の築きし所〔幻雲文集〕以て刀根坂及塩津方面より來る敵に備へたる一の要塞なり。元龜元年、織田信長、天筒山城を陥れたる時、金崎城と共に此城を破却せり。(信長集)其後朝倉氏は再び此城を修めたるなるべく、朝倉氏の將栂野三郎右衛門尉景仍、藤田八郎左衛門尉の此に陣したるは〔西福寺文書〕此頃よりなるべし。朝倉氏の奉行小泉藤左衛門尉吉統も、亦其頃此に在陣す。〔今泉西野文書平松文書〕今城址近傍の字を、本丸を城、其南郭を南城、東郭を小丸と稱す。城の西を中の切登橋と字す。是も城域なりしならんも、今其址と認むべきものなし、城の東を大倉大門と字す〔今定廣院存する所〕大門より二・三町を隔一てゝ刀根道の左右に、馬場・馬場下・的場等の字を存す。皆當時の遺址なるべし。
疋田長谷川諸事書留に云、南のくるわの内は追分の三山に御座候、おとゝにて則南殿と申、其後南のくるわの内に御座候。定光院寺屋敷は疋田三六殿御こゝに高田庄兵術と申有。さらの山も疋田殿の出城也。其時分は其下鳥越か道、それよりたか廻り申也。いら谷山は金林ほういんと申人出城也。大たけ山はには五郎左衛門殿と申人しろ也云々。さらの山は城の西北、市橋地籍に屬す。大たけ山いら谷山は川を隔てゝ東に在り、城及さらの山に對す。又島越を以て當時の往還たりと云ふは、地理不審なり。大門の東、道を隔てて堀殿と字する所あり。疋田記には疋田城の東隣なりとあり。
 「大岩大権現」慶応二年五月十五日、大洪水あり、山嶽崩壊して、家屋の如き巨石が墜落したが、不思議にも區の南方にて止り、これが爲め山津波も分流して、水勢頓に衰へ、區民大害を免れた。故にこれよりこの岩を、大岩大権現と尊称すとのことである。此の岩は現に追分區に至る途中、権現瀧の附近に在る。
詩歌
  やなが瀬り水せきあげておのが田に
      ひきた乙女が早苗とるなり
         元御歌所長 子爵 高崎 正風

『敦賀郡誌』
氏神、日吉神社、村社。大正三年正月十一日、神饌幤帛料を供進し得べき神社に指定せらる。境内神社、正八幡宮は邑の北端に在りしを、近年此に移したるなり。石堂に永禄八年十一月吉日河瀨左近將監継□造立とあり。其時の勘請にして、河瀬氏は疋田氏の家臣なるべし。河瀬の名、又永祿元年善妙寺々領目緑にも見ゆ。 定廣院、天台宗眞盛派、坂本西教寺末、慶長十六年三月創立。 西徳寺、眞宗大谷派、東本願寺末、舊は敦賀高徳寺末、慶
長二年五月創立。


真宗大谷派西徳寺


天台真盛宗定光院



疋壇(ひきた)城跡

日吉神社のある山一帯が疋壇城跡である。戦国時代に越前の最南端の守りとして疋壇城が築かれたという。
疋壇城

塩山(えんやま)にあった中世後期の城。塩山城ともいう。現在は田畠になっているが、一部石塁・塹壕などの遺構が残る。県指定史跡。疋田は近江・越前を結ぶ三ルート(西近江路・塩津道・刀根越)の集合点をなし、軍事的にも重要な位置を占めた。当城は文明(1469~87)頃、近江方面からの進攻に備える越前の最南端の守りとして、戦国大名朝倉氏が家臣の疋壇対馬守久保に築かせた(幻雲文集)。疋壇氏は越前権介、越前国惣追捕使藤原為頼(匹田斎藤と称した)の系譜を引くという武士。疋田久保は西福寺へ宛てた文明11年12月12日付の疋壇久保安堵状(西福寺文書)が残るので実在が確認される。
元亀元年(1570)織田信長が天筒山城を陥落させた時、当城も破壊された(信長公記)。六代城主疋壇兵庫頭は同年6月28日自刃。その後朝倉氏は当城を修築し、栂野三郎右衛門尉景仍・藤田八郎左衛門尉の諸将を置いた。朝倉氏の奉行小泉藤左衛門尉吉統もこの頃在陣している(平松家文書)。天正元年(1573)8月の織田軍の越前侵攻に際しても攻防戦があったが落城、朝倉氏の滅亡を招いた。
城跡近辺の字に、城(しろ)(本丸跡)、南城(みなみしろ)(南郭跡)、小丸(こまる)(東郭跡)、中(なか)ノ切(きれ)・登橋(のぼりはし)(城の西部)、大倉大門(おおくらだいもん)(城の東部)、馬場(ばば)・馬場下(ばばした)・的場(まとば)(刀根道の左右)などが残る。
『敦賀郡誌』
疋壇城址  愛發村疋田に在り、邑の西南に存し、今は田畠となりたれとも、石壘塹壕塹壕等猶存す。城は文明の頃疋壇對馬守久保の築きし所、(幻雲文集)以て刀根越及鹽津海津方面より来る敵に備へたる一の要塞なり。元龜元年、織田信長、天筒山城を陥れたる時、金崎城と共に此城を破却せり。(信長記)其後、朝倉氏は再び此城を修めたるなるべく、朝倉氏り將栂野三郎右衛門尉景仍・藤田八郎左衛門尉の此に陣したるは(西福寺文書)此頃よりなるべし。朝倉氏の奉行小泉藤左衛門尉吉統も亦其頃此に在陣す。(今泉西野文書平松文書)今城址近傍の字を、本丸を城、其南郭を南城、東郭を小丸と稱す。城り西を中ノ切・登橋と字す。是も城域なりしならんも、今其址と認むるべきものなし。城の東を大倉大門と字す、(今定廣院の存する所)、大門より二三町を陥てゝ刀根道の左右に馬場・馬場下・的場等の字を存す。皆當時の遺址なるべし。 疋田長谷川諸事書留に云、南のくるわの内は迫分の三山に御座候、おとゝにて則南殿と申、其後南のくるわの内に御座候。定光院寺屋敷ハ疋田三六殿御とゝに高田庄兵衛と申有。さらの山も疋田殿の出城也。其時分ハ其下鳥越か道、それよりたか廻り申也。いら谷山は金林ほういんと申人出城也。大たけ山はには五良左衛門殿と申人しろ也、云々。』さらの山は城の西北、市橋地籍に屬す。大たけ山いら谷山は川を隔てゝ東に在り、城及及さらの山に對す。又鳥越を以て當時の往還なりと云ふは、地理上不審なり。大門の東、道を隔てゝ堀殿と字する處あり、疋田記には疋田城の東輪なりとあり。


《交通》
敦賀運河

「愛発舟川の里展示室」かに下流側↑ 上流側↓

これは川や道路の側溝でなくて、運河である。今は幅は1.5mほどしかないが、それは横の道路の拡幅で狭められたためで、元はこの倍で9尺(2.8m)あったという。
「愛発舟川の里展示室」がある。案内板↓

敦賀運河(疋田舟川)
疋田がら小屋川に通ずる川幅9尺(約2.8m)の舟川で、文化13年(1816)3月に起工し、7月に竣工したが、天保5年には馬借座の訴願で廃止された。現在地を流れるこの疏水は、舟川遺構を「水と史の回廊」として整備改修したものである。
 琵琶湖の北より深坂山を開削して、敦賀へ疎水を通す企画は古くからあり、平清暦の命で思盛が着工した跡が深坂峠に残ると伝えられている。近世初頭敦賀郡を領した大谷吉継も計画を立て、また河村端軒も試みたという。
京都の商人田中四郎左衛門は、寛文9年(1669)琵琶湖疏水計画の書類・絵図を敦賀町郡行所に提出し、元禄9年(1696)にもまた企画するが、郡内19ヶ村の庄屋の反対にあって、この計画は中止された。
その後、日本海沿岸への異国船の出没に対し京都の糧道確保のため、文化13年に琵琶湖疏水計画が幕府・藩の手によって具体化し、翌年3月、小浜藩家老三浦勘解由左衛門を普請奉行として、先ず小屋川と疋田間の舟川工事が開始され、4ヶ月後に完成を見た。文化14年8月、川舟数艘に米23俵を搭載し、舟引60人で試運転を行った。上り荷は米・海産物。下り荷は茶などで、疋田よりは牛車にて近江大浦へ輸送された。なお、安政4年(1857)4月、・幕府・小浜藩によって天保5年に廃止された舟川が掘り起こされ、12月再開通された。土橋より下は笙ノ川筋に出て、河口の今橋の下には荷物取扱書が置かれた。この舟河も慶応2年(1866)5月、大洪水で破壊された。
寛文期 (1661~72)以降、河村坏軒による日本海から大坂直航の「西廻り航路」の開発で受けた敦賀港の打撃は、このように琵琶湖・敦賀間の運河計画が部分開に終わったため、回復には至らなかった。
1985年12月気比史学会・敦賀みなとライオンズクラブ
(2001年3月改修 福井県)


琵琶湖と日本海を運河で結ぼうとする計画は古くからあり、平清盛が越前の国司であった重盛に命じて深坂峠を開削しようとしたが工事は巨石に阻まれ中止したと伝える。その時の因縁で造られたのが深坂地蔵で別名を堀止めの地蔵とも呼ぶ。
江戸期に入り寛文9(1669)~10年京都の町人田中四郎左衛門によって琵琶湖疎水が計画された。その後元禄9年(1696)同じ田中四郎左衛門かあるいは子供と思われる田中屋四郎左衛門ら6人が深坂を掘り抜き湖水を疋田川に落とし、川舟で荷物を運ぶことを幕府に訴願、認可された。しかしこれは敦賀郡内19か村の庄屋の連署による訴願と海津の反対により中止されている。文化12年(1815)琵琶湖疎水計画が幕府・藩の手で具体化し翌13年小浜藩家老三浦勘解由左衛門を普請奉行として小屋川と疋田間の舟川工事が行われ幅9尺の舟川が完成し同年8月には川舟8艘に米23俵を積んで舟引60人で試運送を行った。荷物は疋田からは牛車で近江大浦へ輸送した。また疋田総蔵屋敷を舟溜りに作って川舟を回転させた。しかし舟川は川舟運送に荷物を奪われた馬借座の訴願により天保5年(1834)廃止された。のち安政2年(1855)京都町奉行与力両名が大浦・疋田・敦賀間の道路・川筋を検分した。同4年これをもとに天保5年に廃止された舟川を再度掘り起こし開通させた。土橋から下流は笙ノ川筋に出て河口の今橋の下に荷物扱所を置いた。この舟川も慶応2年(1866)大洪水で破壊され川舟もしだいに廃絶していった、という。


旧国鉄の北陸本線疋田駅跡

ここが疋田駅があったところだそう。今道路↑になっている所が線路だったそうで、左手の緑のフェンスの下の石組はかつてのプラットホームのものという。次の駅が刀根とある、かつての北陸本線は今の線路とは違う所を走っていた。こんな峠道を蒸気機関車がまともに走れるのかと思ってしまうようなところである。
『新わかさ探訪』
*柳ヶ瀬線廃線跡 若狭のふれあい第132号掲載(平成14年6月30日発行)
*今も残る明治期のトンネル 鉄道史を物語る道
鉄道のルートは、時代とともに変遷しています。現在のJR北陸本線は、敦賀の新疋田から南下して深坂トンネルを通りますが、明治の鉄道敷設から昭和30年代までは、疋田から東へ向かい、刀根を経て滋賀県の柳ケ深、木之本へとレールが敷かれていました。かつて疋田駅があったところには今、愛発児童館が建っています。そのフェンスの下が、当時のプラットホーム。ぼぼ昔のまま、縁石の石組みが強っています。線路は、レールや枕木が外されて、道路に生まれ変わりました。
麻生口と刀根の間にある「小刀根トンネル」(長さ56m)は、現存する日本最古の鉄道トンネルです。幅は車1台が通れる程度。入り囗に「明治十四年」の石額があり、トンネル上深はレンガを積み上げたアーチ、下部は石積みで、明治期のトンネル築造技術を伝える歴史的建造物です。今は県道の脇道にあり、その先の畑に行き来する軽トラックや、たまに鉄道ファンが訪れるだけになっています。福井-滋賀県境の柳ヶ瀬トンネル(1352m)は、自動車専用トンネルに。ここはかつて蒸気機関車の乗務員から”魔のトンネル”と呼ばれました。疋田からこのあたりまで1000分の25(水平距離千mを進む間に25m高くなる)という上り急勾配で、昭和3年には、貨物列車が柳ヶ瀬トンネル内で立ち往生して、乗務員が窒息、死亡する事故も起きています。そのため、滋賀県側出口の上に排煙用の換気扇を設置、出口そのものを外気遮断幕でふさいで、列車の進行速度より速く煙を吸い出すという対策が取られました。「思い出は、魔の柳ヶ瀬トンネルとの出合い。真夏にあえぎあえぎ上りきって飲んだ炭水車の水のうまかったこと」(終戦のころ蒸気機関車に乗務した敦賀の岩田昭さん〔故人〕)という言葉が実感をもって伝わってきます。
 この路線の歴史をひもとくと--明治2年(1869)、新政府は東京-横浜間、京都-神戸間とともに、港深としての重要性から敦賀-米原間(のちに敦賀-長浜間に変更)の鉄道敷設を計画。やや遅れて明治13年に着工し、翌14年2月には敦賀金ヶ崎-疋田間で不定期の貨物列車を運行、わが国で5番目の鉄道となりました。翌15年、難工事のため未完成の柳ヶ瀬トンネルをはさんで、両側で折り返しの旅客輸送を開始。同トンネルが完成し、当時「敦賀線」と呼ばれた金ヶ崎-長浜回42・5㎞が全線開通しだのは同17年4月です。それまでの2年問、乗客は洞道西口と柳ヶ瀬の間の山道を歩いて行き来したといいます。
 ちなみに、敦賀線全線開通時の列車本数は1日に旅客、貨物それぞれ3往復ずつ。片道2時間余りかかりました。なお、終着長浜からは、湖上を大深と細ぶ連絡汽船が運航していました。
 しかし、輸送量が増すにつれて、急勾配の柳ヶ瀬ルートがネックに。昭和12年以降、路線変更工事が戦争をはさんで断続的に進められました。同32年、深坂トンネルを経由する新線開通および交流電化によって、旧線は「柳ヶ深線」としてローカル化。その後、国鉄赤字ローカル線の代表のごとく取りざたされ、同39年5月に営業を廃止、82年間の歴史に幕を閉じました。

JR北陸本線の新疋田駅



愛発関
奈良期~平安期に見える関の名で、越前国敦賀郡のうち。近江国との国境付近の北陸道に置かれ、東海道の伊勢国鈴鹿関(三重県鈴鹿郡関町)、東山道の美濃国不破関(岐阜県不破郡関ヶ原町)とともに三関と称された。その置かれた場所については古くから諸説がある。琵琶湖北岸の海津から敦賀市疋田に至る七里半越が越前国に入った所の山中、塩津から深坂峠を越える道が七里半越に合流する所の追分、近江国木之本から刀根坂を越える道と七里半越との合流地点疋田、敦賀平野への出口に当たる道口の4か所が比定候補地とされてきた。敦賀市山中より北方疋田辺りまでの山塊を愛発山と総称したので、その間の北陸道沿いにあったと考えられてきた。
郡衙・軍団と同等あるいはそれ以上の規模を有したと見られ、不破関の発掘結果などから、方3~4町規模の敷地を要したと考えられること、また天平宝字8年(764)の恵美押勝の乱の際の愛発関をめぐる状況などから、最近では疋田説が有力とされる。疋壇城のあたりかも知れない。
「令義解」軍防令によると三関は目(国司の第4等官)以上の国司が、関の管理を担当し、天平3年越前国大税帳(正倉院文書)に、越前掾(国司の第3等官)坂合部宿禰葛木麻呂が「監関」として見える。また同令には「鼓吹軍器」を備え、兵士の数は別に定めるとある。当関は北陸道の守りとともに、日本海岸に渡来する渤海をはじめとする外国使節の荷物の検査と政府への報告も任務としていた。三関は中央での内乱、天皇の譲位、天皇・上皇の死没などの時に勅使が派遣されて関を閉鎖、警固する固関が行われたが愛発関での最も著名な例として、恵美押勝の乱の際のものがある(続日本紀天平宝字8年9月壬子条)。反乱の兵を挙げた恵美押勝は、子の越前守辛加知を頼って琵琶湖西岸を北上したが、辛加知は都から下った佐伯伊多智に殺された。このことを知らない押勝は精兵数十を愛発関に送って物部広成らに撃退されたため、身が再度愛発関に向かったが、山道で越前国府から戻った伊多智らに8、9人が射殺され、結局都から下った征討軍に討たれた。延暦8年(789)に、鈴鹿関・不破関とともに防御にさして用いることもなくかえって通行の障害となっているとの理由で廃止され、兵器・食料は国府に、建物は近くの郡に移すよう命じられた(同前延暦8年7月甲寅条)。この後桓武天皇が没した大同元年(906)にも三関で固関が行われているから、平安期初頭のしばらくの間は機能していたと見られる。この4年後の固関では愛発関でなく近江国に使が派遣されていて、この間に愛発関のみが廃されたことがうかがえる。ちなみに平安期には愛発関の代わりに近江国の勢多関を含めて三関と称していた。中世には荒地中山関・山中関があった。


《産業》


《姓氏・人物》


疋田の主な歴史記録



疋田の伝説

『越前若狭の伝説』
大岩大権現  (疋田)
疋田から迫分に至る途中、権現滝の付近に大きな岩がある。慶応二年(一八六六)五月十五日に大洪水があった。山岳が崩壊して、家屋のような巨岩が墜落したが、不思議にも区の南方にて止まったため、山津波もこの岩に妨げられて。水勢が衰えたので、区民は大害を免れた。よってこの岩を、大岩大権現と尊称している。  (福井県の伝説)

横穴     (疋田)
疋田の鳥越に横穴がある。入口は狭いが、中に入ると十畳敷余の広さで、おとなも立つことかできる。むかし、疋田城主が敗れたとき、この穴に隠れたが、馬がないたので発見されたという。  (福井県の伝説)

若宮様    (疋田)
永禄元年(一五五八)の七月、疋田兵庫頭殿が川狩りをした。どうしたはずみが、腰にはいていた正宗の作、浪平の銘刀がさやから抜けて、川に落ちた。家臣どもは驚いて、ただちにさがしたが見当らながった。
ところか、十月になって、越前の浅井九郎、脇本四郎という二人の盗賊がやってきて、刀をさがし出して逃げた。もうすでに、雪が四五寸も積っていたが、賊はあら谷を経て、新道野に出て、小谷城へ行って、売り払った。片目の弥三郎という馬別当が、主命を受けて、賊を追跡したが、途中谷水で足跡が消えているために、見失ってしまった。彼はその手落ちのために、死罪を申付けられた。
 その後大津の逢坂に、浪平の銘刀はふたりの盗人が浅井殿に売り払ったという立札か立てられた。その夜から毎晩、家鳴り震動が打ちつづき、薄気味の悪いことが絶えず起った。持て余した浅井殿から疋田殿へ返して来た。疋田殿は社を建てて、若宮様として祭った。盗人かさがし出した個処は、はじめ落とした場所よりも、三町余り川上であった。それで瀬登りの銘刀と申すようになった。    (山本計一)
註 これは疋田記、敦賀記、敦賀郡疋田村城並年代記聞書によるという。(杉原丈夫)

思いきやとは    (疋田)
 弘治元年(一五五五)の夏「おもいきやとは」と名づけられた有名なうぐいすが山城から出て、坂谷帰山で網にかかった。さっそく殿樣疋田殿にさし土げた。疋田殿はこれを尾州信長公に献土した。
 信長公は珍物として、大いに喜んだ。その返礼として、力士を一人贈ってきた。疋田殿は、熊谷中之助という力士とすもうをとらせた。尾州力士は負けて、夜逃げをして帰った。数十日を過ぎて、また一人力士を送ってきた。
 疋田殿は大事をとって、今度は浅見対島守俊孝に命じて、相手をさせた。双方何れ劣らぬ力量であったが、尾州力士は、俊孝のあばら骨を三枚け破った。怒った俊孝は、尾州力士をさし上げて、ちょうずばち(手水鉢)めがけて投げつけた。頭がみじんに砕けて即死した。俊孝もその日に駄口庄屋助次郎方まで帰ったが、三日たって死亡した。死亡に際して、助次郎に名字をゆずるを遺言した。     (山本計一)

 これは疋田記、敦賀記、敦賀郡疋田村城並年代記聞書によるという。(杉原丈夫)

五位川    (疋田)
延喜のある年の正月、藤原利仁将軍が五位の大夫を敦賀に案内して、いもがゆをごちそうした話は、「今昔物語集」で世に知られている。将軍が五位の大夫を接待したのは、疋田の別館であった。
五位の大夫は、一か月ばかりも疋田に滞在したので、ひまにまかせて、追分の浅瀬や駄口の岩に上がって、魚釣りに興じられた。それでこの川を気位川と呼ぶようになった。   (浅井善太郎)



疋田の小字一覧

疋田  下境 蔭山 向蔭 二俣 筋違 小峯 猪羅谷 鴻ノ巣 向山 尾庵 烏帽子潟 東潟 関ノ前 平瀬 長田 高瀬 盆ノ上 坂谷 喜慶 鳥越 広ノ谷 上山 樋ノ口 猪師谷 登り橋 静沢 小丸 井陳 寺ノ下 的場 馬場ノ下 東河原 コウ羅 高尾 桜馬場 鞍馬谷 東状ケ谷 西状ケ谷 七院 今寺口 堀殿 大門 大倉 城 中ノ切 南城 谷口 大隅戸 下高廻り 新川 今寺 三足富士 ハゲ尻 十一 琴ケ谷 観音田 湯ノ花 古河 八斗田 土高廻 北萩原 細萩 萩ノ原 萩ノ洞 柿田 挧谷 嵐口 上窪 竹ノ越 石寄 琴ケ山 兄尻谷 西状山 鞍馬山 荒谷 高尾山 應庵 川向イ 鴻ノ巣谷 イウ谷 蔭谷 鳥越山 上ケ谷 萩ケ谷 朽ケ岳

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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