井川(いがわ)
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福井県敦賀市井川 福井県敦賀郡東郷村井川 |
井川の概要《井川の概要》 市街地の東部で、北陸自動車道の敦賀インターチェンジがあるところ。「いかわ」とも呼ぶ。木ノ芽道が通る。 中世の井川は、鎌倉期から見える地名で、「源平盛衰記」巻28に「其(敦賀津)より井河・坂原・本辺山を打登り」とある。明徳3年(1392)4月10日の気比大宮司宛青蓮院門跡尊道法親王令旨案に「当社領井河」とあり当地は気比社領であった。明応7年(1498)12月13日の三郎大夫田地売券・永正16年(1519)5月27日の香阿売券(永厳寺文書)では「井川」「井河」とある、永禄元年(1558)6月5日の善妙寺領目録(善妙寺文書)では「井川」とともに「井川村」の表記も見える。同目録に見える当地の小字に「南宮之森・若山かはな・小橋々爪」などがある。天正元年(1573)8月、織田信長が越前に侵攻した時、井川村として信長から禁制を与えられている(新善光寺文書)。慶長国絵図にも井川村と見え高776石7斗6升。 中世は気比社領で「敦賀志」に「此村、元亀以前ハ気比宮司石倉氏の堡地也」と記す。 近世の井川村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、天和2年(1682)からは旗本酒井氏知行(井川領)。 当村内を木ノ芽道が通り、古くからの宿場で、字陣所の氏神皇太神宮の慶長17年(1612)棟札に「茶屋中」と見え早くから宿場町を形成していたことがわかる。寛文年間(1661~73)の小浜藩の触にも「井川茶屋町」と見える。茶屋町は敦賀郷方覚書に無高とあるように領主の保護を受けていた。享保12年(1727)の家数24(高持10 ・無高7・寺7)・人数104、馬9。 天和2年小浜藩主酒井忠隆が父忠直の遺命で当時旗本であった五男数馬忠垠に3,000石を分知し、忠垠は高家格に取立てられた。分知は敦賀郡内で新墾田3,000石と幕府に指定されたが郡内には3,000石を満たす新田はなく、分知当初は忠垠の知行村はなく高のみで本藩からそれに見合う年貢米を得ていた。のち貞享元年(1684)将軍綱吉が諸大名に領地朱印状を発給し本藩である小浜藩領の所付けがなされ、忠垠領3,000石の所付けも明確となり敦賀部内の11か村(新保・葉原・越坂・谷口・井川・中村・吉河・鳩原・古田苅・鋳物師・今浜の各村)が知行地となった。これらの村は以前からあった村で新田村ではない。宝暦7年(1757)小浜藩敦賀代官所で本藩との間に授受を終え旗本酒井氏の知行地支配が始まった。はじめ古田苅村西誓寺で政務をとったが、のち知行村11か村のほぼ中央の井川村に陣屋を設けた。これを井川役所ともいい、その名にちなんで旗本酒井氏3,000石の知行地を井川領ともいった。知行地支配のために代官1人・手代2人を置いた。天保6年(1835)代官所は廃され、再び本藩の支配となるまで80年近く当地で知行地を管理した。明治2年井川領11か村は幕末以来の諸負担に耐えかねて、領主に井川役所の再建と再度の直接支配を願い出ている。明治3年本保県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に戸数24(全戸農)・人口119、荷車14(貨物運送用)、産物は莚720束・桑500貫・桐実50石・割木1万2,000貫・柴1万貫・生柿2,000貫・炭1,000俵・茶葉20貫。また農業の「傍ラ採薪、炭焼、或ハ莚織運送」を行うとある。同22年東郷村の大字となる。 近代の井川は、明治22年~現在の大字名。はじめ東郷村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西2町・南北55間、戸数25、人口は男65・女64。 昭和20年7月12~13日にかけての日本海側最初の焼夷弾攻撃により市街地の大半が焼失したが、当地では咸新国民学校・新善光寺・高福寺のほか民家12戸を全焼し、東郷村最大の罹災地となる。一部が同31年鉄輪町、同32年白銀町、同44年舞崎町2丁目、同49年樋ノ水町・深川町、同55年泉ヶ丘町・若泉町となった。 《井川の人口・世帯数》 124・43 《井川の主な社寺など》 新善光寺の少し北側の山と思えるが、北陸自動車道がすぐ山裾を走っていて、路があるのかどうか、よくわからない。 立洞古墳群は前方後円墳1基と円墳3基で、そのうち丘陵先端部上に所在し昭和51年の発掘調査後復元された帆立貝形古墳の2号墳は県史跡(昭和54年指定)。墳丘は2段築成で葺石をそなえ、きわめて短い前方部を北方に向ける。全長約25m,後円部径約25m,同高約4.6m、前方郡長約1.6m,同幅約7mを測る。埋葬施設は墳丘主軸に斜交する割竹形木棺で、長さ約6.2m,幅0.7~0.8m。棺内東部で朱に混じって素文鏡1面、石釧3個、竹櫛2個、管玉6個、ガラス小玉25個、鉄剣10、鉄斧1個が出土。石釧の副葬から畿内政権との関係を有した4世紀後葉築造の敦賀地域の首長墓で、明神山1号墳に後続するものとされる。 山ノ神古墳群は、6世紀末の円墳2基。 『敦賀市史上』 立洞2号墳
木ノ芽川の左岸、井川区の東北の標高四〇メートル内外の丘陵の先端には四基の古墳が分布している。第1号と第4号は、直径が一二メートル余りの小さな規模の円墳で横穴式石室をもつ六世紀後半のものと思われ、第3号墳は直径一四メートル余りの円墳であり、墳頂部分は平坦面があり、墳丘全体の保存は良好であり、築造年代は不明であるが古い様相を有している。 立洞2号墳は北陸自動車道の建設に伴って県教育委員会が主体となって緊急発掘調査を昭和五十一年(一九七六)に実施したものである。調査後は墳丘の四分の一が工事で削られたが、主体部をはじめ残された部分は昭和五十四年に県の史跡に指定され保存されることになった。発掘調査の結果、墳丘は二段築成で造成されており、自然地形を巧妙に活用する構築方法がとられていることが分った(図48、写真30・31・32)。また上下二段に分けられる墳丘の斜面となった部分にびっしりと葺石が施されていた。葺石をよく観察すると、上段の墳丘の葺石は本古墳の周辺に産出する角礫でほとんどがチャートで、下段のものは地山に含まれている礫が使用され、砂岩が多く使用されていた。さらに埴輪は存在しなかったことが判明している。本古墳の墳丘の北部には上段および下段に造り出し部が造成されていた。調査者は、本墳についてこの造り出し部の解釈を前方部の短い前方後円墳つまり帆立貝形古墳と考えている。つまり、「造り出し部には傾斜があり、墳丘祭祀や埋葬を行うだけの余地がなく、上下二段構築の墳丘に造り出し部が造られている」として、単に造り出し部のある円墳とはいい難く、前方後円墳と理解されると調査者は述べている。そして、本古墳の全長は二四・五メートル、高さ四・六メートルの大きさである。 つぎに内部主体については、墳丘の主軸と斜交し、ほぼ東西に設定した割竹形木棺で、その長さは六・二メートル、幅は中央部分で七七センチをはかる。棺内の副葬品は東寄り地区から出土しており(写真33)、これらのことから被葬者は頭を東にして埋葬されていることも判明している。 立洞2号墳から出土した遺物は、全て主体部から出土しており、おそらく木棺内にあったものと考えられる。これら副葬品は本古墳の被葬者の政治的な位置、あるいは年代決定のもとになる(図49、写真34)。 (1)石釧三 三点とも緑色凝灰岩製で、いずれも外面上半部に限って刻線を施している。 (2)銅鏡一 鏡の内区に模様のない倣製の素文鏡で、復元直径は四・二センチである。 (3)竹櫛ニ ー〇本の細い竹を曲げて作り、漆が塗られている。 (4)管玉六 凝灰岩質頁岩製で灰色の強い薄青灰色の色を呈する。大型のものと小型のものがあり、両面穿孔のものである。 (5)ガラス製小玉二五 型もいびつなものが多く、色調は青色を基色とした色である。 (6)鉄斧一 長さ一〇・七センチをはかり、鉄板を袋状に折り曲げて合わせる。 (7)鉄剣一 五点に折れて茎の末端部がわずか欠損しているがほぼ全景が判明する。現在の長さ六一セッチ、身部の長さ五五センチをはかる。剣の中央部での身幅は三センチ、厚さ六ミリをはかる。鎬は明瞭で、剣身の茎部寄りには絹布がさびついて残り、茎部に木質が残存する。 本古墳の築造年代については、出土遺物から推して四世紀末ないし五世紀初めに比定できよう。前方部の短い前方後円墳、いわゆる帆立貝形古墳という墳形、墳丘の規模、段築による古墳の造成、葺石を有すること、鏡・石釧などの副葬品など古墳そのものの内容からみて、敦賀地方の首長墓と考えられよう。 皇大神宮 当社の鳥居前を左右に通るのか゜旧木の芽道と思われる。当社の裏手を北陸自動車道が通り、新善光寺はその向う側になるが、当社の裏手付近になる。 『敦賀郡神社誌』 村社 皇大神社 敦賀郡東郷村井川字陣所
位置と概況 本區は東南五町餘にて谷口區に、西南九町餘にて中區へ、西北は余坐區・大藏區に隣し、舊北國街道(木ノ芽道)は、區の中央を貫通してゐる。村立咸新尋常高等小學校の所往地にて、校舎は井川代官所の舊趾にある。當區は源平盛衰記に井川と見え、又當社工事の木札中、延寶年間貞享年間のものにも井川とある。然して貞享年間元禄年間の木札には、根本が井川、枝村が谷口村及び井川茶屋町となってゐる。降って延享年間の木札にも、根本井川村、枝村井川茶屋町・谷口村とある所を見ると、當社氏子は、井川・井川茶屋、及び谷口の三町村であったのである。然るに現今茶屋町がない、ただ舊稱が存して居るのみである。これ蓋し、荼屋町は井川に陣屋があったことを物語ってゐるので、もと陣屋のことを、茶屋、又は御茶屋などゝて稱したのである。この陣屋は何時代から置かれたかは明かでないが、既に慶長年間は置かれてゐることが、神社棟札によって明かである。井川領代官所には、代官一人手代二人を置かれたので、當社附近の地は、代官等が使用した地域に屬する。(天保六年小濱藩の支配となりて廃す)、又當社鎭座地も陣屋の名あるはこれ等に關係あるものと思はる。社域は井川區の中央東端にて木ノ芽街道に沿ひ、社標の傍より直に参道を進めば、竹林兩側に蓋はれ、陰鬱を極めてゐるが、こゝを過ぎ、拝殿の傍より進んで、西面の本殿に詣る。社境附近一帶は、善光寺山の麓にて、社後も竹林であり、此の社の域内は殆んど竹藪にて、樹木少なきも幹圍二丈に及ぶ一本の巨松は、殊に異彩を放ちて、神社に古色を呈し、創立の古きを物語つてゐる。 祭神 天照皇大神 由緒 按ずるに、當社は嵯峨天皇の霊夢により、弘仁年間、僧空海此の地に巡錫して、一寺を開基し、金縄院と號し、寺域内に皇大神宮を奉祀した。然るに後世號を新善寺と改めたが、後織田信長の兵燹に羅つたので、慶長年間、皇大神宮を寺域外に遷座した。これ即ち當社である。今現に保存せらるゝ慶長十七年の當社棟社より推考するも、又元禄十六年の棟札に記載せる由緒によるも、其概略を知ることを得る。「此御社は慶長十七壬子年迄新善光寺地内に有之候共寺村出入之上??御宮村へ引取申候社僧大黒殿相□紛極申候□□善藏□御祖也」とあり。この當時祭神五柱鎮座し給ひしことは、他の棟札に拠りても明かである。即ち南無天満大自在天神・気比大神宮・山神・如是牛王・常宮大権現等を祀った。明治維新神社制度確立の際に、主神のみを祀られて、皇太神宮と改稱されたのである。明治十一年八月二日村社に列せられた。 祭日 例祭 五月三日(元舊四月十八日)祈年祭 三月十七日 新嘗祭 十二月二日 特殊神事 宮講、陰暦正月十八日は宮講と稱して、神職は神社で祭典を奉仕し、後に舊慣による直會がある。先づ當日正午、神職と共に當番の家より各戸主が揃うて神社に参拝し、祭典が終ると當番の家で直会をするが、事情により當番以外の家で行ふこともある。當番は一年交替で、上番(寺下出)と下番(茶屋出)とに區別されてゐる。この直曾を行ふ家では、其日は女人禁制で、假令家族のものでも、婦人は總て外出せしめ、賄の駄立調理全部一切が、男子の手に成るのである。扨て真生来は舊習のまゝで、鹽鱒・海鼠・燒豆腐・数子・田作・豆腐と葱の汁を用ふるのであつて、味噌・薪・米は當番の負擔で、この外の費用は一切各自が分擔するのである。この宮講員より、毎年舊正月三日に、抽籤して伊勢兩宮の代参者を定め、當籖者は十七日までに參拜して、當日のこの直會に出席することになつてゐる。 春祭 五月十八日は春祭と稱して、舊習慣の祭禮日に祭典を執行してゐる。 秋祭 九月十八日秋祭と稱して祭典を執行する。 本殿 … 時宗遊行派鳳鳳山新善光寺 新善光寺は空海の開基で、もと真言宗金縄院と称したが、正安3年遊行2代他阿巡化の際,時宗に転じた。戦国大名朝倉氏から寺領300石と山林を寄進されたという。塔頭は7院あったが,明治維新前に廃絶した。 真宗大谷派高福寺 『敦賀志』 井川村 中村の東ニ在
氏神氣比大神宮常常大神、鳳凰山新善光寺〔時宗藤沢清浄光寺末〕塔頭徳生菴・清香菴・増福菴・宝樹菴・善蔵菴・林鐘菴・光仲菴〔近年次第ニ廃 今ハ本坊許也〕 開基ハ弘法大師にて金縄院と云しが、五百年前より時宗となれり、中興上人ハ其阿とバかりにて名ハ伝はらず、元亀の兵火にかゝり古書什物一も遺らず、弘法伝来の本尊ハ、故有て本山藤沢の本尊となれりとそ、南の山根に松の大樹有て、里俗是を五代松と云、五輪の石塔ハ遊行廿五代仏天上人の墓也、織田(信長)の右府及武藤宗右衛門寺内制禁条々の判物有、又野村甚十郎右府の命を受、所二下賜一の畠免除の書翰有、 空印君(酒井忠勝)の御書翰を秘藏す、此村元亀以前ハ氣比宮司石倉氏の堡地也、 『敦賀郡誌』 井川 中の東に在り。源平盛衰記に井川、永正四年金前寺々領目録に井川、永禄元年善妙寺々領目録に井川村、寛文頃の酒井藩の令に井川茶屋町とあり。 咸新尋常高等小學校あり。氏神、皇大神宮、村社、もとは氣比大神宮常宮大権現を祀れり。今皇大神宮と稱するは、維新後祭神を改めたるなり。 新善光寺、時宗遊行派、藤澤清淨光寺末、鳳凰山と號す。元、弘法の開基にて、金縄院と稱したりしを、正安三年、遊行二代他阿巡化の時、時宗に轉ず。中興は其阿といふ。新善光寺の號は、本尊
善光寺阿彌陀如来を安置するが故なり。〔本尊は木田光(何地の人か)の宿願にて模作したる霊像なりと云〕朝倉氏より寺領〔三百石〕山林を寄せられたりと稱す、然れども今其文書を傳うず。織田信長・武藤宗右衛門より制禁の判物を賜はる。塔頭は七院〔…〕ありしが、明治維新以前に既に廃絶す。 高福寺、眞宗大谷派、東本願寺末、もと敦賀高徳寺末。 井川領の役所を置きたりき。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 井川の主な歴史記録井川の伝説井川の小字一覧井川 寸道 村中 絶峯 半河原 若山 北海道 新善光寺 陣所 長畑 五代松 井関 上野 野畑 大生水 笹尾 尻野 稲荷藪 寺下出 下道 琶琵首 柳原 古道 小橋 中河原 石駕籠 向河原 広田 地蔵前 山花 墓ノ下 山花西 向河原下 石ナ田 墓ノ前 茶屋ノ下 野尻 箱田 ヱコ田 丁田 上犬田 尻前田 生水尻 深郷 馬正面 北深川 北下河原東 中島中 名一 二町田 糠塚上 関前 亀田 深川 上モロケ モロケ 新御所 下行司 鳫場 吹寄 田鍬 樋ノ水 宮ノ下 谷ノ口 鳥越 聳谷 黄場原 落シ 真谷 坂尻 奥ノ滑 大洞 立岩 滝矢谷 山ノ神 立洞関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『敦賀郡誌』 『敦賀市史』各巻 その他たくさん |
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