池河内(いけのごうち)
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福井県敦賀市池河内 福井県敦賀郡東郷村池河内 |
池河内の概要《池河内の概要》 池河内は旧・東郷村といっても、ずいぶん東ヘ離れた周囲を山に囲まれた小台地上にある。東は山嶺を越えて滋賀県余呉町に接する。標高約400mの小台地南端に集落を形成し、市道が刀根から杉箸を経て地内に入り、北西の樫曲の国道476号まで通じる。 その国道476号から、池河内への入口↑ 市道池河内樫曲線は通行止であった。工事期間は過ぎているが、通れないらしい。通れるようになるのは未定とのことである。 南の愛発村の刀根側からは入れるようで、先だってそちらへ行った時は、池河内方面から出てくる大型の観光バスを見た。次は何時になれば行けるかわからないので、当地へは足を運んではいないが、手元の資料の紹介のみ記してみる。 集落の西に阿原池と湿原があり、ここに周囲の水を集めて笙ノ川の水源がある。地名の由来は、この池と山間の小盆地または谷奥の平地の意の「河内」を関連づけたものという。先祖は大飯郡内浦村田ノ浦(高浜原発のあるところ)から移住したとの口碑がある。往時は産婦が本家を離れて産小屋に籠る習俗があったという。慶長国絵図には池ケ河内村と見え、高58石6斗6合。 近世の池河内村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、天和2年(1682)鞠山藩領、明治3年小浜藩領。享保12年(1727)の家数34(高持16・無高17 ・ 寺1)・人数158、牝馬18。天保(1830~44)飢饉によって住人が激減した。 明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。当村は明治初期には愛発地域の区分に所属し、明治11年郡区町村編制法施行の時も、疋田村外12か村の内に入れられた。「滋賀県物産誌」に戸数13(全戸農)・人口63、牛12(貨物運搬用)、産物は桑1,000貫・麻10貫。これら物産は、谷口から当村を経て近江中河内で北国路と出会う長野尾峠越えを利用して伊香郡(滋賀県)各村に売りさばかれた。同22年東郷村の大字となる。 近代の池河内 明治22年~現在の大字名。はじめ東郷村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西1町・南北50間、戸数13、人口は男34・女37。製炭を副業とした。昭和14年出火し12戸のうち7戸を全焼。池河内~獺河内の獺谷道が改修されて国道と結ばれた。 《池河内の人口・世帯数》 5・3 《池河内の主な社寺など》 池河内湿原 寒冷気候と火山地形によって形成された東西150m、南北500mの池河内湿原には北限・南限および地内独自の植物などが分布上注目すべき植物群が群生する。南東に流れる笙ノ川は地内阿原地を水源とする。冬季には鴨が池に飛来し、鞠山藩では「池河内の小江戸」と呼んで重宝がり、藩主は鴨を賞美し、暇さえあれば鴨獲りをしたという。 諏訪神社 県無形民俗文化財太鼓踊りが伝承され旧盆に神社境内で奉納されていたが、後継者難で昭和61年より中断している。 『敦賀郡神社誌』 村社 諏訪神社 敦賀郡東郷村池ノ河内字村上
位置と概況 本區は本村役場在地の谷口區より、一里七町の阪路を上りたる高嶺であって、連山蜿蜒として西南北の三面を囲繞し、東方の一部は僅に田畝が開けてゐる。當村の最南端に位し、又本郡の最東南端である。昔時は愛發村に属せし事もありて、愛發村の杉箸區に達する。一里二町の渓間に通ずるなだらかな阪路は、車馬の交通も容易なれども、敦賀町へは反対の方向にて、甚だ不便である。當區には阿原池と稱する沼池ありて、笙ノ川(疋田川)の水源を為し、流域五里十六町にて敦賀灣に注ぐ、此の池は當郡第一の鴨場であって、舊時は禁猟地となってゐた。冬期間鴨猟の数も相當多額を算してゐる。氏神鎭守は、區の南端東方の山麓にて、區内を貫通する道路より直に域内となり、社域は高二三尺の土墻、又は石垣を築き、これに石階五六級を設けて、四囲に劃し、萱葺入母屋造の床割式拜殿を参進し、石階を級して、西面せる本殿に詣づるのである。社域は甚だ廣く、欅の老樹大木多く、又隣接せる地域には、ブナ・杉・藤等の大幹老莖、鬱々蒼々として枝を交へ幹を接し、社後の山林又常緑樹に蓋はれ、一條の溪流は清冽玉の如く、四隣靜寂、殿舎の古風と相調和して、その崇高言はん方なく、全く現代の神代かと魅惑せらるゝばかり、莊厳な神域である。 産土の森は神代のまゝならむ みやこにとほきこれの山里 左近 祭神 健美那方命 由緒 按ずるに、當社は往昔よりスゴ大明神と奪敬し奉った。當區の口碑に據れば、阿原池と稱する(今は諏訪池とも呼ぶ)大なる池に、大蛇棲息して、常に區民に害を被らしめたので、人々恐怖の餘り社地を設け、殿堂を建てゝこゝに大蛇の精を封じた。これが當社創立の起原であると傳へてゐる。天保年間の當社鰐口に子王大明神とある。スゴ及び子王は、諏訪又は守護の轉訛せる口音なるか詳かでないが、明沿維新神社制度改新の際に、社號を諏訪神社と定め、祭神を健美名方神と尊祀した、明治十一年三月村社に列せられた。 祭日 例祭 舊九月九日(秋祭と稱す) 祈年祭 舊三月三日 新嘗祭 舊十一月三日 特殊神事と神饌 陰暦正月五日には粢(シトギ)(白淅(シラトギ)の略かと思ふ)と稱して白米三合三勺の粉で長卵形の餅(古代の神饌風俗)を作り氏神に供へ更に山漆の木(黄櫨(ハジ))で口寵一個を作りこれに白紙を張り藁にて一升・五合・一合の各の桝形を外側より順次に画いて的となし、これを境内の一隅に置き、竹の弓で竹矢五本を射る行事があり、この射手には男子の戸主の中にて、身體強壮の者がその任に當る。この行事が濟むと直會をなし、撤下の粢を各戸へ分與するのである。同十一日には回じ行事を神社で行ふが、此の日の的になすものは、栗板を用ふるのが慣例であって、行事後に直會はせぬが、粢は各戸に分與する。 〔附説〕 弓を正月に射ることは、本郡では本村の高野區の白山神社でも行にれてゐる。これは破魔弓から起つたか、或は武家の正月行事が移つたのである。又正月に弓を射ることは、邪気不浄を祓ふ信仰風俗であり、又一面武家では尚武の精神でもあらう、シトギ祭と云ふよりも御弓神事と云ふのが至當と思はるる。 太皷踊 (一名雨乞踊) 陰歴七月十六日・十七日の兩日と、同月二十三日の三度、神社で太鼓踊が行はれる。今その大要を記さんに、十六日午後三時頃より、戸主及び青年團員は、神社へ集合して、幕を張り、提灯を吊りて、社殿及び境内の裝飾をなして、踊りの準備をなし、猶短冊竹と縒して、徑一寸二・三分の青竹二本を用意し、約三・四尺より五節の枝を殘し、其各節の枝に小牧三本を残し、これに宮番(區長)の家で、赤白の短冊形の紙片を枝毎に多数吊り下げ、竹幹の先端には白幣を附す。この短冊は、十六日の初日には白の半紙七帖赤紙(半紙形)二十枚を用ひ其各一枚を十枚の短冊に截ちてこれを吊う下げる、吊り下げ用の紙縒は白紙を用ふ。第二日の十七日は白紙四帖赤紙二十枚を前日同様に截ちて、前日使用の竹に吊り下げるのである。二十三日は前の短冊竹に、白紙二帖を截ちて前同様に吊り下げるが、この日は赤紙を用ひない。踊子の中、太鼓打二人の扮装は、頗る輕装奇抜にて、白半袖シヤツに、紺の袖無襦袢を着け、手には紺の小手をつけ、足には紺のパッチ(股引)に紺の脚絆、紺の甲掛足袋に、草鞋を穿ち、襦袢の肩に赤と白を、裾には白を、小手の手頸には赤と白の短冊を多数に結び附け、白木綿の後ろ鉢巻に、白襷を掛け、短冊竹を背負ふ爲めには白木綿を巻いた二個の小枕を背に入れて、短冊竹を背負ひ、黒朱子帶二本を肩より一つ折りとして、竹を結んで背後に長く垂らし、更に此帶から玉襷と稱して、白木綿の長さ一丈位を襷となして、黒朱子帯と共に背後で結び房の如くなし、太鼓は腹の邊に附けるのである。又音頭取る人と鉦叩きの人は各一人で、たゞ羽織を着けるのみである。かくて踊りは午後八時頃より始まる、この時神社境内の神燈提灯に點燈し、篝を焚き、太鼓打ち二人、音頭取り鉦叩を待つて、宮番の門前で一段踊て、神社に来るのである。然し太鼓打二人を中心に、區民男子十五歳以上は、事故なき限り全部が加はり、圓陣を描いて、音頭取りの謠に習ひ、歌ひつ踊りつ靜かに廻るのである。太鼓打は、手拍子足拍子面白く、長い短冊竹を、背負ひ前には太鼓を打ちながら、屈伸自在翩々として、活溌な踊をなすのである。此の踊には女子は絶対に参加せしめないが、金戸の老若男女は、家を留守にして神社に集ひ、莚を敷いて、踊の拜觀をなすのである。踊りは四種で歌詞全部で十七節ある。一節を一段と稱して、これを十六日に五段、十七日に七段、二十三日に五段と決ってゐて、三日共に初め一段踊ると、太鼓打二人は神前に進んで拝禮し、區民と其に神酒を戴く、それまでは拝観人は歸宅せね習慣である。次に二段続いて踊り、更に神酒を戴くのであつて、踊りを始めた以上、此夜若し雨が降っても終りまで決行し、踊る人は一切雨具を用ひ得ないのである。又一家の主婦たるものは、最後の一段になるまでは歸宅することが出来ない習しである。 〔附説〕 この太鼓踊は當區独特のもので、踊り方・歌詞・扮装・持物等、或ひは鉦叩など出色の點があって、近郷には曾て其例がない。これは九州地方(宮崎縣日向地方)で行はれてゐる、白太破踊と酷似したもので、扮装から背に一丈餘りの長い短冊幟を負ひ、前に太皷を附る點、又雨乞などにも雨乞踊をなし、更に念佛踊を加味した樣な鉦叩(親鉦)がある點など殆ど同じである。舞踊の所作もよく似て、変化も多く。軍事的舞踊を想像させる節もある。この踊は手に持りあり、高いも心を背負ふ、扮発者の定数から推して雨乞踊に属するものである。今その歌詞の例を左に記して置く。 お伊勢(拍子踊)六節の内 … 秋祭 舊九月九日は秋祭と稱して、特殊の神饌を献ずるのである。山漆の木で籠皿と云ふもの十二枚を作り(木を曲げ圓を作り中央に木皮で十字形を作る) 一皿毎に木箸一膳を付け、各皿には一皿毎にトコロ(山芋に似た葉にて根は生姜に似たり)一本、莢豆一枝、田芋(ずいき芋の子)数個、白蒸少量づゝを盛り、全部を廣き供臺(幅三尺長五尺)に載せて、羽織袴の四人が跣足で、普通の神饌獻供、祝詞奏上の終了まで、肩に荷ったまゝ供へてゐるのである。この特種神饌は、祭典後殿側の樹下に積み上げて置く、同じ特殊神饌を十二皿献するは、當區が十二戸あるが故であると。 本殿 … 境内神社 山神社 祭神 大山祗神 … 風俗 此區の戸数は昔より十二戸に制限して、増減せぬことになつてゐる。蓋し生活の安全を期する爲めの古代の遺習であらう。婦人は古来歯を染めず、眉を削らずと云ふこと、敦賀志稿に見えてゐる。一月元且未明、神社に参拝するまでは、途中誰人に會ふとも、決して言葉を交さないことになつてゐる。蓋し敬神の念深く神を先にし、人を後にする禮儀であらう。區民は當社拝殿より本殿までは、雨雪と雖も神職以外は必ず素足にて、一切履物を用ひない風がある。 浄土宗蓮池山昌福寺 浄土宗鎮西派(もと天台宗・慶長元年改宗)昌福寺がある。もと原の西福寺末。 『敦賀志』 池河内村〔谷口の東山へ入事凡二里に在〕
氏神守護大明神社、昌福寺〔浄土宗西福寺末〕此村の婦人眉をそらず、歯をそめず、故有事とそ、村の北の山中に大成池有、冬春の間ハ雁鴨むれ遊ふ、夕方より山を出田面に下りてあさりす、市中所用の鳥多くハ爰に獲、夏の初ハ満面の燕子花、深紫厚白打敷たる如く咲乱ていと麗し、虎班竹(トラフタケ)此ほとりに生ず、村人日毎に炭薪をかづきて市に鬻を業とす、 『敦賀郡誌』 池河内 谷口の東に在り、谿間二里許を隔つ。 氏神、諏訪神社、村社、舊、スゴ大明神と稱す、祭神不詳。境内神社、山神社一社。 昌福寺、淨土宗鎮西派、原西福寺末、慶長元年寂譽開基。
阿原池、笙の川の源なり。池には初夏の候、燕子花咲き乱れ、冬春は雁鴨多く集ふ。昔は禁猟の地たり。又池の汀に虎斑竹を生ず。 長野尾峠、近江中河内へ出づ。 此邑の婦人は昔より眉をそらず、齒をそめずとぞ、故あるよし。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 池河内の主な歴史記録池河内の伝説池河内の小字一覧池河内 道の上 阿原 大苗 桜木 小苗 森ノ上 岩ノ谷 村中 川向 朴木谷 上出 奥古屋 コベラ谷 杤谷 前田 村上 三谷 シダ原 ガケノ鼻 文造 文造谷 与茂佐川 杤洞 大近関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『敦賀郡誌』 『敦賀市史』各巻 その他たくさん |
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