丹後の地名 越前版

越前

色浜(いろはま)
福井県敦賀市色浜


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福井県敦賀市色浜

福井県敦賀郡松原村色浜

色浜の概要




《色浜の概要》
敦賀半島東部のなかほど、手浦と浦底の間に位置する。「いろ」「いろがはま」ともいう。「種の浜」とも書いている。東は敦賀湾に面し、西方には蠑螺ケ岳がある。当地は平安期以来歌によく詠まれた。「東遊記」に「西行、芭蕉などもあそべる地にて、ますほ貝名高し」とある。松尾芭蕉は元禄2年(1689)8月に当地を訪れ、「奥の細道」に2句を載せている。
ますほの小貝はピンク色をしていて、現在でも当地の砂浜に、白砂に保護されるように散在しているという。
写真は常宮神社に展示してあるもの。大きいので2~3㎝くらいである。この貝一つを使ったネックレスが1万なにがしもする。小貝などいえるものではなく、1万円札が落ちているような宝の浜ではないか。舞鶴の浜でも見たことがあるような貝なのだが、わたしも当地で一つ拾おうかと、海辺をのぞいてみたが、このあたりは砂浜がない。裏山の花崗岩由来の石英の砂で美しい浜なのだが、コンクリート護岸されていて、貝を探せるような具合のいい場所が見つからなかった。
芭蕉は「ますほの小貝」と書いているが、『万葉集』時代はマソホと呼んでいたものである。
14巻3560 真金(まかね)吹く丹生の真朱(まそほ)の色に出て言はなくのみそ我が恋ふらくは
      麻可袮布久 尓布能麻曾保乃 …
西行も真蘇枋と書いていて、朱は今はシュと呼んでいるが、古くはソホであったのであろうか。
言えばいいというものでもなかろう。言えばマコトのものということでもなかろう。丹生の地にある赤土みたいにははっきりは、言葉に出して言わないだけ、私の恋しいこの思いは。とかいったような意味。言葉よりも態度を見れば何よりもよくわかるでしょ。
従って「ますほの小貝」というのは朱色の小貝であろうことがわかる。
朱もいろいろで鳥居の朱色も桜花の色も朱と呼べなくもない。
♪ほのぼのと薄紅染むるは わが燃ゆるさみし血潮よ.
はろばろとかよう香りは 君恋うる胸のさざなみ
(208) さくら貝の歌 - YouTube
ますほ貝も、今いう「さくら貝」の一種でなかろうか。

中世の色浜は、戦国期に見える地名で、天正元年(1573)8月、織田信長が越前に侵攻した際に「色浜」は信長から3か条の禁制を与えられている。同15年4月12日の浦奉行水谷久三良・かしのい弥七郎連署状で「当浦れうは并いそ見まて、上八すゝか崎をさかへ、下八かわこ岩をさかへ」と漁場・磯見の境界が定められている。同18年2月6日、色浜・浦底両浦は敦賀湾対岸の赤崎の左衛門二郎に「島山・とちの木ひら弐ケ所」の利用権を毎年米3斗で認めており、両浦入会地の存在が知られる。文禄4年(1595)11月8日には両浦入会地について色浜惣中と浦底惣中との間で「島手両壱本ニ相たて」ること、どのようなことがあっても両浦として対処すること「そてのあみ」は浦底から立て、もし新たに「島手万之事」を懸けられたら両浦として立てることの3か条を申し合わせている。慶長3年の浦底浦検地帳写に、同浦の田地3町3反余のうち、8反近くを色浜の5人が名請けしていて両浦の間でかなりの出入作があったことがうかがえる。慶長国絵図にも色浜と見えて浦底浦を含んで高93石3斗2升。
近世の色浜浦は、江戸期~明治22年の浦名。はじめは福井藩領、寛永元年(1624)からは小浜藩領。西浦10か浦の1つ。享保12年の家数17(高持9・無高6・寺2)・人数114、塩高77俵余、威鉄砲1、本島手銀7匁余・新島手銀150匁・新山手銀76匁余を負担している。「雲浜鑑」に、家数14(ほかに寺2)・人数106。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。明治7年の戸数15。同22年松原村の大字となる。
近代の色浜は、明治22年~現在の大字名。はじめ松原村、昭和12年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北2町余、戸数17、人口は男68・女64、小船26。一部が同42年明神町となる。


《色浜の人口・世帯数》 62・16


《色浜の主な社寺など》

いろがはま
色の浜ともいい、種ノ浜とも記す。地名はすおう(蘇芳)色(#7E2639)のマスホ貝を産することによるという。当地は中古以来の歌枕で、特に西行法師の「汐そむる真蘇枋の小貝拾ふとて色の浜とはいふにやあるらむ」(山家集)は有名。また当地の名が与える詩的イメージとして寂念法師の「山おろしに紅葉ちりしく色の浜冬はこしぢのとまり寂しな」があげられる(夫木抄)。「奥の細道」の旅の途中に、松尾芭蕉も西行に倣いマスホ貝を拾おうと敦賀から船で渡り、法花寺(法隆寺)に泊まって、「寂しさや須磨にかちたる浜の秋」「浪の間や小貝にまじる萩の塵」などの発句を詠んでいる。

色浜は平安時代以来歌に詠まれる。
  ふる雪の色の浜辺の白妙にそれとも分ぬ群千鳥かな          (中務集)
  山おろしに紅葉散しく色の浜冬は越路のとまりさびしな       寂念(夫木抄)
  汐染むるますほの小貝拾ふとて色の浜とは云にや有覧      西行(山家集)
歌学書も「能因歌枕」ほかがとりあげ、近世には芭蕉も元禄2年(1689)8月に訪れ、「奥の細道」に次のように記す。
「月日は百代の過客にして…」で始まる『奥の細道』の最後である、
(八月)十六日(陽暦九月二十九日)、空晴たれば、ますほの小貝ひろはんと、(いろ)の浜に舟を走ス。海上七里あり。天屋何某と云もの、破籠(わりご)小竹筒(ささえ)などこまやかにしたゝめさせ、(しもべ)あまた舟にとりのせて、追風時の間に吹着ぬ。浜はわづかなる(あま)の小家にて、侘しき法華寺有。爰にちやをのみ、酒をあたゝめて、夕暮のさびしさ感に堪たり。
  さびしさやすまにかちたる浜の秋
  波の間や小貝にまじる萩の塵
其日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に残ス。

「種」と書いて「イロ」とは読めないが、曽良本にはそのようにフリガナがあるという。「種の浜」はおそらく下隣りの手浦のことでなかろうか、芭蕉は間違えたのたが、曽良がそれをムリに訂正しているように思われる。


白山神社

『敦賀郡神社誌』
祭神 伊弉册尊
由緒 按ずるに、當社往昔より白山妙理椎現と尊稱し、明治九年七月無格社に列せられ、同二十八年八月三日、大水の爲め本殿背後の山麓崩壌して社殿損破せしが、同年十月これが造営をなした。これ今の社殿である。
祭日 例祭日 五月一日 秋祭 十一月初句
境内神社 鹿島社
 祭神 武甕槌命
 由緒
   當區明神山に鎮座し給ふ無格社鹿島神社は、浦底區と共同の崇敬社にて、且つ當區よりも相當の距離あれば、往昔當白山神社境内地に、末社として勧請したとのことである。
産屋及び不淨屋 初産は二十日間、次より十五日間産屋に起臥する。建物は問口二間三尺奥行九尺の瓦葺、不浄屋は別棟に建てられてある。
戸数制限 常區も戸数十八戸より増加せしめずと云ふ。
盆踊と郷土民謡 陰暦七月十五日の夕刻より通稱開山堂(日蓮宗)の前で、區民の老若男女が集つて、盛んに盆踊をする。特記する様な風俗奇習はないが、民謠に『色は名所よ後は山よ前は潮海水島や』『色の沖から今出た舟はふくら前垂帆にかけて』などがある。
神社附近の舊蹟 應永三十三年本興寺日隆は、生国越中より歸る途中、八月八日今の南條郡河野村今泉浦より便船して、敦賀に至らんとしたが、風波高く遂に色ヶ濱に着いた、時に此の區内は疫病大に流行して惱んでゐたので、浦人は日隆に疫病退除の祈禱を乞ひしに、日隆これを快諾して、柴田某の家に宿りて、海邊に出で一大岩石の上に端座して、一心正念に法華経の題目を唱へ、祈禱せし所悪疫平癒したので、これより日隆を歸依し、一宇を建て本隆寺と號した。この一大岩石を浦人は祈禱石とも、題目石とも、或は法華石とも稱へてゐる。この岩に南無妙法蓮華経と刻してある。岩の高さ一丈八尺幅九尺。


法華宗本門流本隆寺・開山堂


「奥の細道」に「侘しき法花寺」とあるのは当寺のことで、今は歌碑や芭蕉翁杖跡とする「萩塚」がある。
案内板に、、
法華宗 本隆寺
本隆寺はもと曹洞宗永厳寺(敦賀)の末寺であったが応永三十三年(一四二六年)八月法華宗に改宗す
開山堂
 日隆聖人の祈祷石を囲んで建てられた堂宇である
日隆聖人御謡
 見渡せば眺め妙なる色の浜 村の家居も賑ひて 寺井に絶えぬ 法のこえ
 峰の嵐の誘ひ来る 水の小島に 寄る舟の みあかぬ浦の 景色かな
題目石
 色ヶ浜の鈴ヶ崎地籍に三メートル余の巨石に、墨痕あざやかに七字の題目が刻まれている。これは妙顕寺の開山日像聖人の書と伝えられている
西行「山家集」に
 汐そむるますほの小貝拾ふとて色の濱とはいふにやあるらん
俳聖芭蕉翁と本隆寺
 俳聖芭蕉翁不滅の作品「奥の細道」は色ヶ浜紀行によって飾られている
  寂しさや 須磨にかちたる 濱の秋
  小萩ちれ ますほの小貝 小盃
  浪の間や 小貝にまじる 萩の塵
其のあらまし等栽に筆をとらせて寺に残す。

開山堂。↑
『敦賀郡誌』
本隆寺、本門法華宗、京本能寺尼崎本興寺両末たりしが、今は本能寺末に属す。應永三十三年、本興寺日隆、生図越中の展墓より歸り、八月八日、今泉浦〔南条郡〕より便船して敦賀に赴く。途中風波に遇ひて、色濱に着す。時に村中疫病にて苦めり。日隆、村民の乞に囚で海邉なる一大石〔祈?石と稱して、今猶存す〕の上に座して祈禱す。驗あり七老若悉く平癒し、即ち一浦こぞりて歸依す。因て一宇を建立して本隆寺と號す。廢寺、金泉寺、曹洞宗、敦賀永嚴寺末。題目石、日隆り題目を刻す、南の海岸にあり、海より見るべし。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


色浜の主な歴史記録



色浜の民俗・伝説

産屋(県有形民俗文化財)と、たぶん不浄屋

集落の裏手を通る県道141(竹波立石縄間線)バイパスの山手側にある。白い建物がそれで、もう一つの建物は案内なく、何かわからないが、「不浄屋」かも…。
小川が流れ、墓地や畑地(水田)である。バイパスの反対側には「恵毘須神社」がある。
(県)色浜の産小屋
指定年月日  昭和五〇年六月三日
所有地及び・管理者 敦賀市色浜 色浜区長
この建物は、もと色浜区集落内の海岸近くに在った区有の出産共同施設で、昭和四九年、現在地に移築復元された。
建坪六坪を六畳二室(分娩室と生理室)に仕切り、一部補材を使ってはいるが、内部構造は昔のままで備品等も若干残されている。
区内の妊婦が産気づくと例外無くこの小屋に入り、力綱を握坐産分娩を済ませた。その後も一定期間を家族と離れて、この小屋内で生活する慣例であった。産屋と別火生活の習俗は、赤不浄を忌む風習に由来するもので、発祥は古く分布も広かったが、産院等の普及につれて廃れていった。
敦賀(立石)半島沿岸には昭和六三年当時四区に区有の産小屋が残っていたが取り壊され、現在は二区のみとなっている。小屋内での出産は昭和三九年以後行われていない。
前近代的な遺習と見られがちであるが、存外の合理性を秘めた過去の出産習俗の遺構である。

山手側の小窓のガラスが一枚割れているので、そこからカメラを入れられる。決してのぞくなの禁があろうから、表戸は開いてみなかったが、戸も開くそうである。
天井から「力綱」が下がっている、ここが分別室なのであろう。今はこうした建物は残ってはいないが、ワレラの遠い先祖達も、神様から生まれたのではなく、みなこうした所で生まれたのであろう。
『古事記』に
爾に即ち其の海邊の波限に、鵜の羽を葺草に爲て、産殿を造りき。是に其の産殿、未だ葺き合へぬに、御腹の急しさに忍びず。故、産殿に入り坐しき。爾に産みまさむとする時に、其の日子に白したまひしく、「凡て佗國の人は、産む時に臨れば、本つ國の形を以ちて産生むなり。故、妾今、本の身を以ちて産まむとす。願はくは、妾をな見たまひそ。」と言したまひき。是に其の言を奇しと思ほして、其の産まむとするを竊伺みたまへば、八尋和邇に化りて、匍匐ひ委蛇ひき。即ち見驚き畏みて、遁げ退きたまひき。
ここでワニになって出産したのであろうか。別に日本だけでなく、ミクロネシアでは今も産屋で出産するという。広く中国江南あたりから南の海人族の習俗なのであろう。
ミクロネシアにある産屋
日本もこうした海辺から始まったのであろう。弥生初期の遺跡がありそうに思われる。


『越前若狭の伝説』
祈禱石    (色)
むかし応永三十三年(一四二六)本興寺日隆が、生国越中の墓参から帰る途中、八月八日に南条郡河野村の今泉浦から、船に乗って敦賀へ行こうとしたが、波風が高く船は色が浜に着いた。そのときこの村では、疫(えき)病が流行して苦しんでいたので、日隆は村人の請いによって海辺にある一大岩石の上に端座して、一心正念に法華経の題目を唱えて、祈祷(きとう)をすると、しるしがあって、悪疫もなおった。村人はすっかり日隆に帰依し、一宇を建てて本隆寺と号し、彼の大岩石を祈祷石と称えた。岩の高さは五・四メートル、幅二・七メートル余あって、南無妙法蓮華経と刻んである。祈祷石はまた、題目石、法華石ともいっている。       (福井県の伝説)
祈祷石は高座石ともいう。     (敦賀名所記)

応永三十三年村中疫病にて憂苦のおり、日隆は柴田某の家に泊り、その願いにより村内の大石(幅九尺、長さ一丈八尺ばかり)に坐して祈祷した。そのしるしがあって、病気は平復した。      (敦賀志稿)





色浜の小字一覧

色ケ浜  萩ノ田上 萩ノ田下 中尾 大内山 戌ケ谷 床浦 金浦 山田 根坂 落シヤ谷 握屋田 荘蔵 奥丸三田 馬越 手浦坂 下丸?田 ヲモ田 上岩倉 金浦下 山ノ神 下岩倉 大良 坂ノ尻 フシヤ田 手浦道 蔵屋田 五郎右ヱ門 鎌屋上 山崎田 山ノ口 宮ノ下 松ノ本 鎌屋敷 南ノンコ トチガ峯 小田 鎌屋下 上口ケ鼻 長橋 蒲坂 西浜田 山崎 西田 トカ谷 東中田 東浜田 シル谷 北伊ノ 南伊ノ 中畑 明神崎 北水鳥 鈴ケ寄 手浦道 島越 落シ谷山 間谷 螺ケ岳 上ケ谷 ノレコ シル谷 北明神

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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