丹後の地名 越前版

越前

市橋(いちはし)
福井県敦賀市市橋


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福井県敦賀市市橋

福井県敦賀郡愛発村市橋

市橋の概要




《市橋の概要》
近江へ続く愛発峠の登り口の旧道沿いにある集落。野坂山地東部、笙ノ川中流右岸に位置する。
中世のイチノ橋は、戦国期に見える地名で、「冷泉為広卿越後下向日記」延徳3年(1491)3月6日条に「イチノ橋〈地蔵堂アリ〉 此所ニ竜岩トテ山アリ」と見え、冷泉為広は近江から越前に入り当地を通っており、当地には地蔵堂と竜岩山があった(県史研究3)という。下って慶長3年(1598)の市橋村検地帳写によると、当村の田畠合計4町3反3畝、分米49石8斗8合。慶長国絵図では疋田村666石余の一部。
近世の市橋村は、江戸期~明治22年の村。市ノ橋村ともいった(名蹟考)。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)からは小浜藩領。享保12年(1727)の庄屋は形部、家数31(高持18・無高13)・人数171、馬15。当村の馬借は馬20匹を持ち諸荷物を運搬した。承応元年(1652)山中村国境から道ノ口村に至る間の西近江路を改修しこの時市橋・小河口両村間の廻り地蔵と称する険道を開削し平坦にした。文化13年(1816)には疋田から小屋川に通じる幅9尺の舟川の開削を始めたが、当村の上手、舟川と疋田川と交差する場所は疋田川の上に長さ14間半の筧桁を架して通した。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に戸数27(全戸農)・人口142、馬1、荷車18。住民の中には農業のかたわら莚を織り、あるいは荷車などで稼ぐ者もあった。同22年愛発村の大字となる。
近代の市橋は、明治22年~現在の大字名。はじめ愛発村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西2町余・南北44間、戸数26、人口は男74 ・ 女79。


《市橋の人口・世帯数》 54・23


《市橋の主な社寺など》

日吉神社(敦賀郡式内社・市振神社説がある)
祭神は大山咋命。旧称山王権現、旧村社。

集落の中央付近、街道から北側へ少し山麓を登ったところにある。
『敦賀郡神社誌』
村社 日吉神社 敦賀郡愛發村市橋字上ノ山
位置と概況 本區は南五町にて疋田區に隣し、北は六町にて、中郷村小河口區に隣接してゐる。疋田驛を下車して、江州街道を北方約五町にて、笙ノ川上流に架せられた橋を渡れば、人家は街道に沿ひ、兩側に軒を並べでゐる。敦賀町より陸路によれば、愛發村の門口に富る。橋は當村の第一橋であって、區の南端にある。區内の中央東端の山麓に、コンモリした森林が見える、これが當區の氏紳、日吉神社の堺域であって、街道より人家の間を通ずる参道、約半町餘にて社域に入る。社地は山に據り、境内は高六尺位の石垣七以て、三區に劃され、入口の社標の邊より、十級餘の石階を上れば、第一段の平坦地の北側に拜殿がある。更に進んで教級の石階を上り、更に區劃されて設けられた数級の石階を上れば、本殿は殆んど南面して鎭座し給ふ。その背後及び東北方は山林にて、西南の一部は竹林である。北方に大なる老椎あり、その附近には、板碑二・三十基が亂立されてゐる。社殿は人家に接近するも、區の南方を貫流する笙ノ川の清流、岩を噛んで走り、潺々たる水音、鎭守の森の木魂に響きて、寔に森閑古雅の情趣をなしてゐる。
富區の口碑によれよ、延喜式神名帳に、越前國敦賀郡市振神社とあるは當社であると云ふが、此の説或るは信ずるに足るべきも、未だ其の確證なければ之れと定め難い。されど、神域の風致と、地理的環境より見るも、又鬱蒼たる大樹ありて、社地が何んとなく神さび、神代の昔を想はしめてゐるよう察するも、式内社たることは、首肯するに難くない。
祭神 大山咋命
由緒 按ずるに、當社は昔時より、里人山王権現と尊稱し、日本名蹟圖誌・若越寳鑑等には、市振神社愛發村大字市橋にあり、又敦賀神社考、並に越前名蹟考には、市振神社式内『今在市橋村社或是歟云々』とある。神社覈録に、『官社考云郡中に市橋村あり、振と橋とは、字形相似たり、転字せしや、又市振を市橋と改めしや、此外似たる所なし』とあり。又當區の口碑に、延喜の古宮なりと傳ふれば、尚考究すべきも、今はこれ等の所説に從ひ、延喜式の市振神社が、此の日吉神社で、異名同社と思はるゝ、明治十一年月村社に列せられた。
〔附記〕當社を延喜式内社と云へば、何時の頃にか社名を改稱せしにや、現に隣區小河口區・疋田區の鎭座及び其の附近に日吉神社祭神大山咋命を祀れるもの多ければ、或る時代に社名を改めたものゝ如く、尚現明細帳にも祭神不詳とあれど、古くより山王権現と稱し、且つは社名を日吉と稱すれば、祭神大山咋命と推定したのである。
祭日 例祭 五月三日(元薦四月三日) 祈年祭 三月二十一日 新嘗祭 十二月三日
祭禮風俗 八月十五日・十六日の兩日及び九月十五日は、夕方より區の青年等は、當社の境内に参集し、神前に燈明を黠じ、社域の彼處此處にも神燈を點じ、齋庭の中央に、長さ七・八尺の太き竹を細かに割き、これに紙の櫻花を附したろものを高く立りれば、割竹は撓んで、恰も花傘を開いた如くなる。これを中心に、區民は圓陣を描いて、帳りの高い踊り唄と、太鼓に拍子を合せて、老も若も男も女も、嬉々として踊るのである。かうした長閑な、村の祭の踊りの裡に、純朴な郷土藝術は、細長い餘命を保持され、自然健實な愛郷精神が、培養されで行くのである。
本殿 …

氏子戸数 二十二戸

加佐郡に伊智布西神社という式内社があり、敦賀郡の市振神社神社が引き合いに挙げられる。まったくもってわからんワイという。
隠岐島に知夫里(ちぶり)島がある。チブリに接頭語のイが付いてイチフルとなったものか。チフルはシフルでソフル、新羅のことで、市振神社とは新羅神社の意味かも…


逆さ地蔵



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


市橋の主な歴史記録



市橋の伝説

『越前若狭の伝説』
割れ地蔵  (市橋)
むかし石工の某が、河の中の石を割ったとき、五体がしびれて卒倒した。驚いてその石の裏面をみると、地蔵が刻まれてあった。地蔵尊の肩から胸に割れ目があったので、直ぐに割れ目を合せてくくり、堂に祭ると、石工の容体は常に復した。今、市橋の西端に祭られてある割れ地蔵がこれである。     (福井県の伝説)

逆地蔵  (市橋)
市橋の東端に逆地蔵がある。市橋にかかる道路のカーブがすこぶる急なため、折々人畜か河中に落ちることがあるが、不思議にも死者が少ないのは、この地蔵が万人にかわって、逆行をつづける功徳による。
市橋区は、両端を割れ地蔵と逆地蔵に守もられているために、平穏である。大水のとき、溺死人があると、その死体はかならず割れ地蔵の前にて発見されるという。両地蔵とも子どもの病にはご利益が大であるという。   (福井県の伝説)



市橋の小字一覧

市橋  下之谷 立岩 上ノ段 松原口 小畑 湯向 小岩 打ケ越 水谷 鳥谷口 馬コバ 向林 岩中 林ノコシ 奥田 岸ノ上 河原田 上ノ山 坂谷 上ノコウ カゲ山 鳥越口 ハヅ原口 鳥越 ハゲノ谷 馬原谷 奥ノハツ原 大モチ 小嶺口 小嶺 堤谷 小嶺山 堤谷ノ奥 イシ山 瀬戸山 地蔵ケ谷 立岩 向山 岩篭山 鳥越谷 奥ハゲノ谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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