丹後の地名 越前版

越前

常宮(しょうぐう)
福井県敦賀市常宮


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福井県敦賀市常宮

福井県敦賀郡松原村常宮

常宮の概要




《常宮の概要》
常宮神社の鎮座地である。敦賀半島南東部に位置する。東は常宮湾に面し、北西には西方ヶ岳がある。集落の南に常宮神社がある。古くは沓浦の地であった。

当社は、「延喜式」神名帳に天八百万比咩神社として見え、創建は大宝3年(703)といわれる。気比神宮の奥宮で、第一の摂社である。本宮に天八百万比咩命・神功皇后・仲哀天皇、東殿に日本武尊、惣社に応神天皇・気比大神、平殿に玉妃命、西殿に武内宿禰を祀る。社名は、神功皇后の神託に、「つねに宮居し、波風静なる哉楽しや」とあることから、これが地名になったという。
当社には社家がなく、社僧が神事にあたった。宝蔵・宝泉・光乗・泉蔵・成就・常蔵・大乗・持養・円蔵の9坊があった。往古から常宮大権現と称したが、明治9年独立し,常宮神社となった。国宝朝鮮鐘があり、この鐘は豊臣秀吉が朝鮮の役で得た戦利品といわれ、秀吉の命により当時の敦賀城主大谷吉継が奉納したと伝えられる。総高112cm、口径66.7cm、口厚6㎝で、わが国最古の朝鮮鐘である。同社の例祭は7月22日、気比神宮の総参祭にあたる。気比神宮の祭神仲哀天皇が常宮神社の祭神神功皇后を訪れるため船渡御されるという神事である。西方ヶ岳中腹には、市史跡名勝の鸚鵡石(言葉石)がある。この大岩に向かい声を発するとものを言うといわれている(東遊記)。慶長国絵図には常宮浦と見えて、高33石4斗6升。
近世の常宮浦は、江戸期~明治22年の浦名で、慶長8年(1603)福井藩領主結城秀康が当浦高のすべてを常宮社に寄進した。それ以後常宮社領。高は「正保郷帳」では常宮大権現社領と見え33石余、「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」でも33石余。西浦10か浦の1つ。常宮社領として除地されたため年貢は藩に納めなかったが、小物成は藩に納め、その支配を町人頭の打它氏が執った。集落の西方にある山は御山として伐採が禁じられ、東方の海は沖6町・東西3町での漁猟を禁止された。享保12年の家数24 ・ 人数118、塩竈屋2、塩高36俵、船2、本島手銀30匁・新島手銀3匁を負担している。「雲浜鑑」に、家数15、ほかに寺1、神社1、人数79。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。ただし常宮社領は宮地とされた。明治7年の戸数18。同22年松原村の大字となる。
近代の常宮は、明治22年~現在の大字名。はじめ松原村、昭和12年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北2町余、戸数17、人口は男59・女54、学校1、小舟13。


《常宮の人口・世帯数》 83・29


《常宮の主な社寺など》

常宮神社



案内板に、
常宮神社
一、御祭神   天八百萬比咩命
     本殿 神功皇后
          仲哀天皇
一、例祭 七月二十二日     十一時
  総参祭(そうのうまいり) 〃 正午
   気比の神々が一年に一度海上渡御をされ、当神社へお渡りになる。別名、七夕祭とも称される。
一、由緒
天八百萬比咩命は上古より養蚕の神とて霊験あらたかに此の地に鎮まり給い、今から約二千年前、仲哀天皇の即位二年春二月に天皇、皇后御同列にて百官を率いて敦賀に御幸あり笥飯の行宮を営み給うた。その後、天皇は熊襲の変を聞こし召され、紀州へ御巡幸せられ陸路山陽道を御通過、山口県へ向はせ給う。皇后は二月より六月まで此の常宮にとどまり給い、六月中の卯の日に海路日本海を御渡りになり、山口県豊浦の宮にて天皇と御再会遊ばされ給うた。此の由緒を以って飛鳥時代の大宝三年(七〇三年)勅を以って神殿を修造し、神功皇后・仲哀天皇・応神天皇・日本武命・玉妃命・武内宿禰命を合わせまつられた。爾来、気比神宮の奥宮として一体両部上下の信仰篤く、小浜藩政まで気比の宮の境外の摂社として祭祀がとり行われた。明治九年社格制度によって県社 常宮神社となって気比神宮より独立いたした。
一、御神徳
天八百萬比咩命は常宮大神ととなえまつり、養蚕の守り神として敦賀は勿論県内南条郡、又三方郡、滋賀県北部の人たちの信仰をあつめ御神徳をたれ給うた。
神功皇后は三韓征戦の前、この地にて御腹帯をお着け遊ばされのち福岡県宇美市にて応神天皇(八幡大神)を御安産遊ばされた故事によって、古くより安産の神として御神徳をたれ給い、広く国内よりの参拝者多し。又皇后は此の地を御船出されるとあたり、海神をまつり海上の安全を御祈願され、はるばる日本海をわたって、遠く朝鮮までも無事航海された由縁により海上の守り神として漁業者・船主・船乗の深い信仰をあつめている。





荘厳な大社で、式内社が5社(天八百万比咩、天国津彦、天国津比咩、天鈴、玉佐々良)も祀られている。旧県大社。祭神は本殿に仲哀天皇・神功皇后・天八百万比咩尊、東殿に日本武尊、惣社に応神天皇・気比大神、平殿に玉妃命、西殿に武内宿禰命を祀る。「延喜式」神名帳の敦賀郡の一座で、天八百万比咩神社に当社を比定する。
「敦賀神社考」では、式内社の天国津彦神社・天国津比咩神社・天鈴神社の3社は常宮社内にあるとする、「文徳実録」斉衡3年(856)9月17日条に、八百万比咩神に従四位下、天国津彦神・天国津比咩神・天鈴神に従五位下が授けられている。「気比宮社記」は、大宝3年(703)気比神宮の奥宮第一の摂社として創建されたとし、常宮とは、神功皇后の神託に「つねに宮居し波風静なる哉楽しや」とあることによると伝える。
享禄2年(1529)朝倉孝景・敦賀郡司朝倉景紀が東殿を造営したが、天正2年(1574)8月11日炎上、文禄4年(1595)敦賀城主大谷吉継が仮宮を、慶長7年(1602)結城秀康が本宮を建立して、翌年常宮浦(高33石余)を社領として寄進した。
毎年6月初卯の日を総参祭と称して、気比神宮より宮司・船司以下が船形の神輿を奉じ、御座船で当社に至り神事を行う。当社に慶長2年2月大谷吉継が奉納した朝鮮鐘(国宝)がある。銘文に「太和七年三月日菁州蓮池寺」とあり西暦833年鋳造で、わが国に伝存する最古の朝鮮鐘である。
背後の常宮山は御山として百姓の伐採を禁じ(天正16年5月7日付「隆長判物」常宮神社文書)、海境は「沖六町東西へ三町宛、殺生禁断場所也」(常宮本紀)とされる。社僧は、円蔵・光乗・泉蔵・宝泉・宝蔵・常越・成就・持養の諸坊があって(本宮棟札)、天台宗叡山惣持坊末に属し、上座三人は権大僧都法印、中座三人は権少都法眼、下座は大徳に叙せられたという。

国宝の朝鮮鐘


〔国宝〕朝鮮鐘(太和七年三月青州蓮池寺鐘在銘) 一口
指定年月日 昭和二十七年十一月二十三日
所在及び管理者 敦賀市常宮 常宮神社
時代      太和七年(八三三年)
総高一一二センチメートル 竜頭高二二・四センチメートル
口径六六・七センチメートル 口厚六センチメートル
 本鐘は、銘文によれば八三三年に朝鮮半島の青州蓮池寺の鐘として製作された、青銅製の鐘である。蝋型鋳物の焼き流し技法によって製作され、文様、形態は古様で、日本に伝来する朝鮮鐘のうち最も古く大形のものに属する。
 和鐘は鐘身に袈裟襷という大小の区画を施したものが多いが、本鐘には上下に荒磯文の帯が施されており、これが朝鮮鐘の特徴の一つである。笠上には音筒と竜頭が付けられ、竜は笠上の珠を咬み、両肘を左右に張っている形状である、鐘身の上部四箇所に乳廓、各乳廓には花座を伴う乳が三段三列に配置され、現在でもその一郎が残存している。鐘身下部には二箇所の撞座と、二体の天衣をなびかせた天女が描かれている。
 慶長二年(一五九七)敦賀城主・大谷吉継(吉隆)が、豊臣秀吉の命により、当神社に奉納したと伝えられているが異説もある。
令和四年三月一日   敦賀市教育委員会
神話が伝わらないが、神功皇后や仲哀天皇などは後に習合した祭神であろうか。
元々の祭神の、天八百万比咩は天照+豊受のような神様か、天国津彦・天国津比咩はアダムとイブ、天鈴・玉佐々良は金属神だろうか、これらの神々が降臨した山が近くにありそうと思える。


浄土宗常照山真福寺

背後の三角形の山は西方ヶ岳(さいほうがたけ)、登山道がお寺の脇を通る。山頂には花崗岩の大きな岩が見えて、神々しい姿である。鉄塔が古い歴史を台無しにしているが、道途中に「奥院展望所」があるとか。
この山はクシフル岳と思われる。「西方」は、サイホウとかセイホウの発音でなかろうか、こんな解釈をする人がないようだが、恐らくはサホル、セホルの意味であろう。すなわちソウルのこと、新羅のことであろう。ここへやってきた渡来人たちの聖山であろう。
天国津彦・天国津比咩はここへ降臨したのでなかろうか。
沓とか常宮とかは、ここから出た名であろうか、この山に降臨した祖神を祀るのが常宮であろうか、このあたり一帯は渡来人の古い聖地の一つか。
ソフルは、徐伐、徐耶伐、所夫里などと記されるが、その「除」「徐耶」「所」などを当地では「常」と記しているのであろうか。ソフルは新羅の首都の名であり新羅を指すこともあるが、古くは「ソの村」ということで、ソ族一般の村名で、朝鮮(チョソン)のソであろう。
『敦賀郡誌』
常宮  縄間の東に在り。住古は沓浦の内なりき。〔気比社記〕明治四年までは浦高は總て常宮神社の社領たり。山林も亦同社の支配たりき。常宮尋常小学校あり。氏神、常宮神社、縣社。 金比羅神社、相殿國主大明神。 (ママ)福寺、淨土宗鎭西派、原西福寺末、天和二年長譽創立。 廃寺、吉詳院、天台宗延暦寺末。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


常宮の主な歴史記録

『敦賀郡誌』
常宮神社  松原村常宮に鎭座す。縣社。式内天八百萬比咩神社なり。齊衡三年九月十七日宮社に列し、同二十八日從四位下を授け奉る。創建は詳ならず、或云、大寳三年、或云、推古天皇の時、或云、桓武天皇の時、又云、承和十一年十一月朔、神功皇后の神託にて勸請すと。常宮とは神功皇后の神託に、つねに宮居し波風靜なる哉樂しや、とあるに因ると云ふ。享祿二年八月、守護朝倉孝景郡司朝倉景紀、大に營繕を加へ、翌九月又東殿を營繕す。〔気比宮社記〕天正二年八月十一日炎上し、文祿二年領主大谷吉継小祠を造營し、重て慶長七年結城秀康本殿を造營す。〔郷方覚書〕この時の造營には氣比宮本殿の如く郡中を勧化したる者なるべし。同八年正月、秀康浦高三十三石餘を社領としで寄進せらる。又常宮の山は御山として百姓の採伐を禁じ、〔常宮文書〕海は拝殿の東西各三町沖六町に於て漁獵を禁ず。〔気比宮社記〕元祿十五年八月九日より十五日に至る、千年祭を行ふ。〔竹中覚書〕維新前は常宮大権現と稱す。
中門に打ちたりし常宮大権現の額は、輸王寺座主公澄親王の筆なり。〔今は掲げず。〕古來本宮には社家なく社僧を以て神事を行ふ。社僧九坊あり、寳蔵坊・寶泉坊・光乘坊・泉藏坊・成就坊・常藏坊・大乘坊・持養坊・圓藏坊是なり。天台宗叡山惣持坊末に属し、〔一書に宮を遍照山海藏寺とあり〕上座三人は權大僧都法印、中座三人は權少僧都法眼、下座は大徳に叙せらる。明治元年四月、神佛分離の際、宮を神社と改め、社僧等復飾して、上座三人を神主、中座三人を禰宜、下座二人を祝と改む。四年三月、小濱藩より氣比宮摂社と定めらる。囚て社司等ブ。気比宮は粟田青蓮院の配下にして、常宮は叡山配下たり、古來気比宮の摂社たる事實なき旨を訴ふ.九年五月三十日、縣社に列せられ、十年三月二十一日、内務省にて本宮及本宮の末社玉佐々良彦神社・天鈴神社・天国津比咩神社・天國津彦神社を氣比神社の境外摂社と定めらる。四十一年四月、神饌幣帛料を供進し得べき神社に指定せらる。境内四千四百五十五坪。地は山を負ひ海に臨み砂白く浪穩に、老松枝を垂れて風清し。一の華表の側に龍燈松あり。毎年陰暦正月元日の未明に、一團の神火海上に浮び来りて、此松にとどまるを、取りて元朝の燈明を献ずと云ふ。敦賀町民、海濱に出でゝ之を見る。年中行亊の一たり。陰暦六月卯〔二卯の時は初卯 三卯の時は中卯〕の日を總參祭と稱す。此日気比神宮より宮司以下船形の神輿を奉じ、艤船〔御座船と稱す〕に乗じて當社に至り、神事あり。御座船の挽船は各浦及碇泊の諸船より之を出す。例祭は七月十七日なり。こは明治四十一年幣帛供進使の事定まりてより初る。大正二年、七月二十二日と改め、此日を又總參祭とす。
○祭神
本殿  祭神三座〔中央〕神功皇后〔右〕仲哀天皇〔左〕天八百萬比咩尊。
 氣比宮社記には神功皇后、即ち天八百萬比咩尊なりとし、二座とす。常宮本紀〔享保三年藤原重孝写〕及明治三年社司書上三座とす。天八百萬比咩尊の傳詳ならず。
東殿  祭神日本武尊。
惣社  祭神二座、應神天皇・氣比大神。
平殿  祭神玉妃命。右三社本殿の東に在り。
西殿  祭榊武内宿禰。本殿の西南に在り。以上大座五社と稱す。
二兒(フタミコ)神社  祭神二座蛭子神・素盞嗚尊。
天國津比咩神社  常宮本紀曰龍女神。氣比宮社記云天國津比咩神社。以上二社、本殿の西北方に在り、南面す。
天國津彦神社  常宮本紀云磯良神。気比宮社記云天國津彦神社。
天鈴神社  常宮本紀云住吉大明神。氣比宮社記云天鈴神社。
玉佐々良彦神社  常宮本紀云、高良大明神。氣比宮社記云、若宮神社仁徳天皇。社司書上にも若宮、式外、祭神大鷦鷯天皇一座とあり。古来玉佐々良彦神社といふ傳なし。然に同社なりといふは、高良玉垂命を祀ると云ふに據れるなるべし。又書上云、西殿社一説云、玉佐々良彦神社是也。以上四社式内。文徳實録曰、齊衡三年九月丁巳二(十七日)越前國天八百萬比咩神・天國津比咩神・天國津彦神・天鈴神・玉佐々良彦神・信露貴彦神等、頂二官社一、戊辰、(廿八日)授二越前國天八百萬比咩神從四位下、天國津比咩神・天國津彦神、天鈴神・玉佐々良彦神・信露貴彦神、並從五位下一。
伊登神社  常宮奉祀云彦瀨大権現、所祭不委。氣比宮社記云伊登神社、或説是筑紫伊覩縣主祖五十迹手崇祀社乎。(書上云、社傳曰、彦神社は是信露貴彦神社是也云云。)以上本殿の西に在り、東面す。以上十社、御子社十社とす。
境内に猶、神明兩宮〔享保勧請〕・猿田彦神社・竹生島姫神社あり。境外末社に金刀比羅神社あり、常宮字西山に鎮座す。以上各末社、鎭座年代詳ならず。
○國寶  銅鐘指定明治三十三年
四月七日。等級甲種四等、鐘は新羅の古鐘なり。高さ龍頭より三尺八寸、廻六尺九寸五分、懸頭獣形面を附し、又空穴あり、身の上方四面に乳起あり、各面九乳、合て三十六、其間に方形を畫して銘文あり、身には兩側に天女を附す。銘文漫?して讀むべがらざる文字多し、曰く、…
鸚鵡石 …

『敦賀郡神社誌』
…區内山林には、横穴式古墳が群在して、上代遺蹟を物語り。又東遊記等で知られた言葉石があり(鸚鵡石とも云)又西國六十四番岩屋観音などの名所がありて、敦賀と常宮とは疾くより人口に膾炙した著名の地である。鎮守常宮神社は、古来西滿各部藩の總氏神にて、宮域は當區の中央部の東南山麓にあり、海に面し、拝殿は海岸に臨みて高く石垣を築きて建てられ、滿潮時は恰も浮御堂の如き壮観を呈したが、今は潮流の變遷に依り、海岸は砂濱となった。

本殿の前方右側及び後方数歩の地點に、数千貫の磐石が蹲踞してゐるのは、明治二十八年七月の未曾有の大洪水に、山林より轉落して境内上段の全面に大石山を築き、其餘波がこゝに止まりたるもので、當時の惨状を物語りて居る。此等の大磐石が今一囘轉せば、畏くも本殿を粉摧し、一大惨事を惹起せしならんに、石にも心ありてか、恐懼措く所を知らざるものゝ如く慴伏した。此の一事は單に天災とのみ片附けるに忍びぬ、乃ち神威の赫々たるが粛然として窺はれる。水害以来後方山麓は防砂風致の兩目的にて、杉・欅を植栽し、西南方の社域は、老樹蓊鬱として晝尚暗い。其渓澗は巨岩大石點綴して奇勝を爲し、渓流懸りで瀧となり、水が清澄で、當時は禊によろしく、夏時は銷夏によろし。世人之を常宮の瀧と呼んで居る。此の瀧の幽響を傳ふる附近一帶の社域は、生ひ繁つた老樹喬木に包まれ、且つ其邊には、古墳の一部と覚ゆる、大なる石槨があつて、之れに石佛(地蔵尊)が安置され、又東南方の海岸には、屈曲繪書の如き老松が、各自姿態を恣にし、其樹間には、許多の苔むしたる石燈籠が、潮風に吹かれりつゝ立も並び、特に龍燈の松と呼べる老松の如きは、古来神祕的傳説も遺さるゝので、先づ一の鳥居に入て、自から身に犇々と迫まるものは、清新の空気よりも、寧ろ神代ながらの、神祕に包まれた霊気である。されば古き神域としてり常の宮と、清き勝地としての常宮とが渾然として、文人墨客の間にも、常の宮は北國の嚴島とさへ稱へらるゝに至ったものである。近来隣區縄間には、移入畜牛の検疫所が出来、沓には敦賀築港材料製造工場があって、常宮の靜閑を破った恨なきにあらざれども、一面之が爲めに文化の設備が進歩し、自から神社も繁榮を加へられた。昭和三年一郡を勧化して、本殿以下中門並に末社等の屋根葺替を奉修して、大に崇嚴を加へられた。當社は養蠶及び安産の霊驗著しき大神として、民間の崇敬厚く、社頭常に遠近の賽客が多い。

祭神 天八百萬比咩神
   神功皇后 仲哀天皇
由緒 當社の由緒を文献に求むると、延喜式神名帳に、越前國敦賀郡、天八百萬比咩神社とあるは、即ちこれ當社にて、往古より鎮座し給ひ、文徳實録に、齊衡三年九月十七日、官社に列し、同二十八日從四位下の神階を授けられ給ふたことが載せられてゐる。文武天皇大寶三年に、仲哀天皇・神功皇后を奉祀せしは、往昔仲哀天皇即位二年二月、皇后と共に角鹿に幸し給ひ、三月天皇は筑紫に巡狩し給ひしも皇后は尚角鹿に駐り給ひて 當社を所謂御旅所として、外征の謀をなし給ひしが、天皇四月長門に行幸ましまし、皇后を召さし給ひしに依り、六月此地を解纜し、一路平安長門に向はせ給ひ、海中に涸珠満珠を得て、天皇に奉り給ふたとのことである。而して當社を常の寓と尊稱するは、神功皇后の御神託に「つねに宮居し、波風靜なる哉樂しや」と宣り給ひしとの故事に囚んだ社號で、常宮大権現、又常宮御前と、尊稱する所以であると傳へられてゐる。又氣比宮註記に『古傳謂二常宮皇后一此訓二津禰之美屋乃於保基佐比乃嘉美一也』とあり。長和四乙卯年、比叡山の僧圓秀大僧正、社頭を修補したと傳へ、享祿二年八月、守護朝倉孝景、郡司朝倉景紀大營繕をなし、同三年九月、更に東殿の修繕をなし、而して天正二年八月十一日、御炎上の事ありて、文祿四年、敦賀城主大谷刑部吉継、小社殿を奉造した。又慶長二年二月二十九日、豊臣秀吉は大谷吉継をして、征韓の時に得た、梵鐘一口を奉納せしめた。これが明治三十三年國寳に指定せられた鐘である。慶長七年、福井城主結城秀康本殿を造營し、一郡を勧化して社頭の備へを整へた。同八年正月、秀康は當浦高三十三石餘を神領に寄進せられた、又當社附近一帯の山は、御山と稱して、百姓の伐採を禁じ、海は拝殿の東西各三町、沖合六町に於て、漁獵を禁じられた。
氣比社記に『寛永中社頭日記云常宮御前御境内ノ事從二拝殿一南江三丁北江一丁南北合六丁但御前通海上亦同前右令三禁二制獵場一候手浦綱場ノ堺、格別之平候磐窟者自二御本社一八丁右自二往古一定處也』とある。元祿十五年八月九日、千年祭を行ひ、寛政十一年七月、輪王寺座主公證親王より、當常大権現の社號額を奉獻され、享和二年戊四月、千百年祭を行ひし事が、社記及敦賀一目鏡にある。又越前名蹟考に『遊行上人など、この國経歴の時も、かならず此社へ諧でらるゝ事也とて、遊行上人代々奉納の和歌などあり』とある。嘉永五年正月、正三位千種有功參拜して和歌を獻ぐ、明治四年三月、小濱藩より氣比宮攝社と定められ、明治九年五月三十日、縣社に列せられ、同十年二月二十一日、本宮及び末社玉佐々良彦神社・天鈴神社・天國津比咩神社・大國津彦神社を氣比神宮の攝社と定められた。明治二十八年七月二十九日、大洪水にて後方の山嶽より巨岩轉落し、大石流出して、末社の全部に被害あり、繪馬殿は海中に流失し、本殿の大床まで浸水したが被害がなかつた。明治三十五年七月千二百年祭を挙行した。同四十一年四月神饌幤帛料供進の神社に指定された。社傳に
  文武天皇御製
     大名古也喜佐比能神乃跡垂之
     常能宮居波志都氣久母見由
祭日 例祭 七月二十二日(元舊六月初卯日 三卯の時は中卯日)明治四十一年より七月十七日の所大正二年七月二十二日と定む。
   祈念祭 三月三十日  新嘗祭 十一月三十日
氣比神宮總參祭と當社例祭
 當社の例祭當日の七月二十二日は氣比神宮の總參祭である。古来敦賀郷土の有名な祭事で、此の日午前十時頃、氣比神宮から御鳳輦に、神霊代を移御し奉り、宮司以下職員及び助勤神職並に世話掛區長、其他官民多数供奉し、古式により、神宮裹から伶人の樂音床しく、兒屋川河口に進御、こゝに用意された、神宮所有の御座船と稱する、鶴首の艤船に御鳳輦を移御し奉り、宮司以下職員奏樂員等之れに供奉し、世話係等は他の供奉船に乘る。この船をば敦賀町の漁業者と、松原村松島の漁業者が、自己の小船数隻に、祠宮から授與された白幣を高く掲げ、尚國旗をも翻して、赤鉢倦の水手の櫂収る音も勇ましく曵き奉りて、常宮拜殿附近の棧橋に着御の上、官民多数の奉迎裡に、御霊代を當宮本殿に奉遷し、嚴かな祭典を奉仕して、少時御神慮を奉慰し、午後四時頃、還御り途につかせ給ふのである。此の日此の盛儀を拝観せん爲め、各方面よりの賽者、海陸より集ふので、海には多欲の船が往来ひ、陸には徒歩者引きも切らず、さしもの社域も一時は人山を築き、雜沓を極める、最も盛んなお祭である。

境内神社(末社)
二兒(フタミコ)神社 祭神 蛭子大神 素盞男命
天國津比咩神社 祭神 龍女神 
由緒 文徳天皇斉衡三年九月丁已天國津比咩神預官社同月戊辰授越前國大國津比咩神從五位下とあるは當社である(社傳による)。
天國津彦神社 祭神 磯良大神
由緒 文徳天皇斎衡三年九月T巳越前國天國津彦神預官社同月戊辰授越前國天津國彦神社従五位下とあるは是れ即ち當社である(社傳による)。
天鈴神社 祭神 住吉大神
由緒 文徳天皇齋衡三年九月丁巳天鈴神預官社同月戊辰授越前國大鈴神社從五位下とあるは當社であると(社傳による)。
玉佐々良神社 祭神 高良玉埀命
由緒 文徳天皇斉衡三年九月丁巳玉佐々良彦神預官社同月戊辰授越前國玉佐々良彦神從五位下とあるは即ち當社である(社傳による)。
附説 祭神は水佐々良彦神なるが如きである。延暦大神宮儀式帳に大土神社一處稱園生神兒大國魂命次水佐々良彦命次佐々良比賣命とある玉佐々良彦神の神系とせば未詳である。又高良玉垂命と申せば尚考ふべきである。
伊覩社 祭神 信露貴彦神 伊覩縣主の祖 五十跡手神
由緒 當末社は彦瀬大権現、又は彦神社と尊稱し、氣比社記には、伊登神社と見えてゐのは、
即ち當社の亊である。元は信露貴彦神社と申し奉りたとも傳へてゐる。
神明神社 祭神 天照皇大神 豊受大神
由緒 享保年間に勧請し奉つたのである。
佐田彦神社 祭神 猿田彦命
竹生島神社 祭神 市杵島姫神
境外神社 無格社 金刀比羅神社
    祭神 大物主命 崇徳天皇
概要 當社は常宮神社々地にて、境内に連接してゐる、西山地籍の山頂に鎮り、明治九年七月無格社としで存置され、社殿は東南面して鎮り、境内は七十坪あり、氏子は常宮一區である。
常宮海と殺生禁断 由緒の條に於ても簡略に述べたが、元文四年四月當常の海、殺生禁断の區域にて、拝殿より東西各沖合三町の間は大権現の海とて、殺生禁断の場所となってゐた(附記元文四年とあるが、氣比宮社記には、寛永年中、社頭日誌云々)とあろことより見れば、その以前よりこの掟があったのであらう。又常宮の山は御山と稱して百姓の伐採を禁じてゐた。
社領 慶長八年正月福井城主秀康富浦高三十三石五斗七社頭に寄進されてゐたが明治初年宮地に變更された。
龍燈の傳説 「敦賀志稿」毎年正月元日の曉、出處はしらず一團の靈火遙かに海面を照し、波上一尺許にして、高低のまにまに、いと穩かにして、海門よりまげて本社の前に至り。稍久しく復もとの如く歸り去る。是を龍燈と稱して、大晦比夜半過より、皆濱へ出、むれ觀る事なり、いかなる風雪誨運の夜といへども、古より終に闕事なし、是神祇の所貴、豈凡慮を以で、天地の機をはかる事を得んや』とあり。氣比宮社記に「常宮神前有下于二磯崖一神樹上古老相傳自二上古一及二深夜一從二海中一捧二燈明一仍俗是謂二龍頭松一又於二山中一生二水晶瓊瑤一於レ濱出二眞蘇枋貝一」とある。此傳説につきては本誌附録參照。
榮螺嶽は花崗岩系に屬するから、今尚岩石の罅隙に、烟水晶や色淡き紫水晶を見る。又眞蘇枋貝は色ケ濱にあることは、古くより著名の事實なれば、從てこの地にもあるべく、今も注意すれば偶々採収することが出来る。
言葉石(又は鸚鵡石) 當社背の山上二十町許りを登った處に、花崗岩の大岩壁がある、之に向ひ聲を發すれば、石の物言ふが如く聞ゆ、これ寶暦年中頃に樵夫の発見したる所と云はれ、古人の紀行文にまで書かれて、一名所となりしが、これ所謂山彦「こだま」にて、反響に過ぎぬ。今も實際明瞭の反響ありて、遠近より観者時々あり。この鸚鵡石のことを記した橘南渓の紀行文東遊記の一節を左に採録す

神社附近の遺蹟 薬研谷の古墳
この古墳は、山腹に段階的に設けられた、横穴群集地である。一例を舉げると、入口は徑三尺位の垂直の圓筒形をした竪穴式で、深さ三四尺から十尺のものもある。この竪穴から、更に横穴になつてゐるので、入口は小狹で、深室は廣くなつて、楕圓の穴形であるが、又段階的に穴を設けたものもある。今は雑木雑草で蔽はれ、又は自然に竪穴の陷沒したものが多いので、その数を定めることが出来ないが、概略三十個位は存在する。
産屋と不浄屋 當村中でも、西浦各區に於ける、産屋及び不浄小屋に對する古俗の嚴守は、共通的に行はれてゐるが、産屋に居留する比数が異なつてゐる。常宮區は、西浦海岸各區のそれよりも最も日数が長いので、其期間は三十日であるから、家に歸るのは三十一日目である。歸宅してからも、母屋にて寢食せず、下屋卯ち庇の間に二十日間居るので通じで五十比である。其期は特に食物に注意し、鯖の如き青色の魚類、植物性の油、又は酢物・鶏卵等は一般に食はうとしないのが慣習である。
舊社家 富社々家は、元九軒あつで、天台宗叡山惣持坊末の社僧であつた。上座三人は権大僧都法印、中座三人は権小僧都法眼、下座は大徳に敍せらる々例であつたが、明治元年四月、神社制度改新と共に、社僧は神職とたつて、上座三人を神主、中座三人を禰宜、下座を祝と改められた、後社司礼掌の職制發布されて、現今に至つてゐるが、當社々家中存続して現職にあるは宮本家一戸のみで、元寳藏坊と稱した上座であつた、舊社家九坊の坊名を記すと。
寳藏坊 寳泉坊 光乗坊 泉藏坊 成就坊 常藏坊 大乗坊 持養坊 圓藏坊


常宮の伝説

『越前若狭の伝説』
常宮大権現   (常宮)
天平二十年(七四八)十一月蒙古(もくり)がこの国へ攻めて来たとき、権現は石の楯(たて)を築き、矢石を放って追い返した。このとき気比太神宮の神勅として白さぎが飛びひるがえったので、蒙古の眼には白旗に見え、また櫛(くし)川の松原が一夜にはえて出て、数万の軍兵に見えた。よって外敵はことごとく退散した。かの石のたてを築いた所を楯石(立石)浦という。   (寺社什物記)
参照 蒙古来攻(三) (敦賀市曙町)

竜灯の松   (常宮)
常宮の卯(う)右衛門という人が、元日の朝早く、除夜が過ぎたか過ぎぬころ、第一番に初もうでをして、ことしの幸運にあずかろうと、磯べで海水にて身を清め、お宮の方へ歩いて行くと、美しくけだかい女の人が松の根に腰をおろして休んでいた。
「あなたはどこからお越しになりましたか。」と問うと、女人は、
「わたしは大神にゆかりのある者で、毎年元日の朝お参りしているが、ことしはあなたに姿を見られ、いと口惜しい。」と答え、海上に浮び出て、東の方に姿を消した。彼女は竜宮の乙姫であったのだろうと人はいった。それ以来元日の早朝に神火が海上に現われ、竜灯の松にかかるのである。     (伝説の敦賀)
常宮神社の社頭の前にさがり松という松がある。枝が海へさし出ている。これは海中がら竜灯をささげるとき、この松の枝へ火が上がり、それから内陣に移る。    (寺社什物記)
毎年正月元日のあかつき一団の霊火がはるか海面を照し、波の上一尺ばかりにて、高低のまにまに、おだやかに海門より本社の前に至り、久しくしてまたもとのごとく帰る。これを竜灯という。大みそかの夜半からみな浜へ出て見る。(敦賀志稿)
むかし常宮の付近に年をとった母と、気立てのやさしい娘とが住んでいた。あるとき母は病床についた。娘はいろいろと手をつくしたが、母の病気は次第につのるぱかりであった。
ある夜夢の中に、白衣の仙(せん)女か現われて、「常宮神社へ毎日もうでよ。そのうち何か変ったことがある。それを見たら、母の病気は全快するであろう。」と教えた。娘はその日から毎日常宮に参拝した。
その年も暮れて、正月元旦のこと、いっもの通り参拝を終えて、帰ろうとしたとき、全身白衣の気高い天女が現われて、松の木の上に御灯明をあげると、海中に消えてしまった。その日から母の病は、よくなった。このことを聞いた人々は、娘の孝行をほめ、また海中から現われた天女は、竜宮の乙姫様が元旦のお祝いにお灯明をあげにこられたのであろうと、その松の横に「竜灯の松」と書いた石碑を建てた。  (福井県の伝説)
   註
この松は昭和四十三年に、老朽がひどいので切ってしまった。写真の松は別の松である。(杉原丈夫)

からひつ岩    (常宮)
常宮の山に御具足からひつ岩という大石がある。ときおりこの石が泣くという。また勤行(ごんぎょう)石というのがある。弘法大師・伝教大師・泰澄大師が行をした岩屋である。礼拝石、烏帽子(えぼし)石という大石もある。  (寺社什物記)
海底の鐘   (常宮)
むかし神功皇后か新羅(しらき)を征伐されたとき、朝鮮から釣鐘をもらって来たが、常宮の近くで海中に落としてしまった。以後漁夫が朝早くその近くに行くと、海底から鐘の鳴る響きが聞えて来る。また、海底に入ってさぐると、どんなに澄んでいた海水でも、黒く濁って底が見えないということである。 (福井県の伝説)
 参照 鐘が崎(敦賀市金が崎)




常宮の小字一覧

常宮  今安 寺ノ後 山崎 彦ノ鼻 小樋山 山名 北屋敷 中開 北谷 薬研谷 新田 平 西ノ前 西山 山ノ神 奥通 谷田 獅子越 長谷渓 彦鼻山 小樋谷 上北谷 上薬師研谷 地蔵ケ尾 哂谷 ハチノス フシガ谷 鸚鵡石 西方獄 大平 平岩 西長谷渓 西奥道 西山ノ神 上西山 南平


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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