丹後の地名 越前版

越前

金ケ崎町(かねがさきちょう)
福井県敦賀市金ケ崎町


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福井県敦賀市金ケ崎町

福井県敦賀郡敦賀町

金ケ崎町の概要




《金ケ崎町の概要》
市街地の北東部で、国史跡金ケ崎城跡がある。天筒山から北西へ海に延びる尾根が敦賀湾に突き出て小半島をなしている部分に位置する。今の敦賀港があるところになる。式内社に金前神社があり、地名は古いと思われる。古くからの要害の地で、古戦場であった。当地はみどころが一杯である。
金崎は、南北朝期から見える地名で、金ケ崎・金前・鐘崎・鐘が前などとも書かれる。金崎城があり、『玉葉』の養和元年(1181)9月10・12日条に、本曽義仲軍に敗れた平通盛が「津留賀城」に退いて籠城し、やがてここも捨てて逃亡したことの伝聞が見え.る、これは金崎城を指すと見られる。
『太平記』建武3年(1336)10月9日、皇太子恒良親王を奉じて京都を発った新田義貞らは,同月13日300余騎(気比社宮社記は700余騎)を率いる気比社大宮司気比氏治に迎えられて金崎城に入った、という。
建武4年、足利軍は3月2日から連日夜討を敢行し6日城内になだれこみ、尊良親王や気比氏治ら城兵300余人が自害し、蕪木浦(南条郡河野村甲楽城)に逃れた恒良親王も捕らえられた。
建武5年5月4日城に籠った南朝軍数百騎と敦賀津に陣取った桃井直信ら足利軍との合戦があり、暦応2年(1339)5月も足利直義は北近江の武士に「金崎凶徒退治」に向かうよう命じている。『園太暦』」観応2年(1351)8月6日条に、尊氏と不和になった直義が金崎城に拠ったとある。
戦国期には朝倉氏が置いた敦賀郡司が拠城とした。室町期の敦賀郡代(守護代甲斐氏の一族)も金崎城にいたと思われる。
長禄2(1458)~3年に守護斯波義敏と守護代甲斐常治が戦った際、敦賀が戦場となり、「敦賀城」も守護軍から攻撃された。
元亀元年(1570)4月織田信長が越前に侵攻した時は、当城に朝倉景恒、天筒山城に気比社の社家衆らが籠城したが、同月25日天筒山城が落ち、翌日景恒は降伏した。天正3年(1575)信長から敦賀郡を与えられた武藤舜秀は、金崎城を捨て東端の花城山城に移り、金崎城は終わる。
明治15年敦賀線金ケ崎駅の開業と明治32年7月敦賀港開港以来、貿易商社・船会社・運送店・旅館などが開業して繁栄したが、戦後は衰退した。
近代の金ヶ崎町は、昭和31年~現在の敦賀市の町名。もとは敦賀市泉(しみず)の一部。昭和32年泉・境・常盤の各一部を編入した。

(しみず)
今の金ヶ崎町・港町・栄新町・曙町あたりは、江戸期の泉村である。北の東浦方面へは村の東北部の今の国道8号のあたりの谷まった所を抜けてた。この山越路を七曲といい、また東浦道とも呼ばれたという。
応仁2年(1468)海運・太田景家畠地寄進状(永厳寺文書)に「泉寺」(当地の金前寺をさす)とみえるのが初見。慶長11年(1606)頃の越前国絵図は清水浦とし、村高五七二・八石余をあげ、正保郷帳は泉浦とする。享保12年(1727)は庄屋孫左衛門(持高三一石余)、牛馬銀五八匁余、新山手銀八二匁余、塩高一三七俵余、馬足二一疋、家数八六、うち高持三五・無高三五・寺一六、人口三三四(敦賀郷方覚書)。当地でも製塩を行っていたが(敦賀志)、「指掌録」の船道式は塩田廃止の理由を「公領米并公儀御材木船秋之末ニ致着津、此元出船難成ニ付泉浜ニ船ヲ囲、翌年右之御材本并船共囲候場之地子銀ハ、泉浜之塩年貢之内ニ而差引ニ成候書付ヲ相認、小浜江遣候義ハ正徳元年五月之書状ニ相見へ」と、幕府の御城米廻船の舟揚場と御材木置場の設置のためとする。寛文5年(1665)西浜町銀屋惣右衛門舟揚ニ付願書(寛文雑記)に、泉浜(泉村)・今浜・名子浦・縄間浦での囲舟上げ下げの利権を舟囲轆轤役銀年額六〇〇匁の上納を条件に小浜藩より得ている事実から、塩田廃止の時期は寛文頃かと推定される。塩田廃止のもう一つの原因は塩木の問題であった。天筒・金ヶ崎の山は御山(宮山)のため、天正18年(1590)には西浦の手浦山の請山で塩木を得ていた。西廻航路の開発された寛文期は敦賀港の全盛期で、近江琵琶湖への馬背による輸送も活発であった。敦賀馬借は172匹で、座持は18町村に及んだが、当村の34疋(うち6疋借座)が他を抜いている(寛文雑記)。敦賀町の郊外にあたる当村には海運の関連業務が多く、享保期に無高百姓が高持と同数の35軒を数えた。前出敦賀町絵図の泉浜に、材木置場とともに目倉川付近に「石ハイヤキ」(石灰焼)場が描かれる。

《金ケ崎町の主な社寺など》
角鹿津・敦賀津・敦賀港


対岸岸壁の緑地になっているあたりが、近代の敦賀港になる↑。船舶の大型化、コンテナ化などで、港湾の整備が進み港の中心が移動して、もう忘れられてしまったように思われる。どこにあった写真だったかわからなくなったが、↓


古くは少なくとも都怒我阿羅斯等の時代に遡るが、記録としては、天平勝宝7年(755)9月26日の越前国雑物収納帳(正倉院文書)に「敦賀津定米七百卅二石六斗九升」とある。敦賀津は、律令国家のもとで京畿と北陸地方を結ぶ結節点としての重要性を高めていった。「延喜式」主税条によると越前以北の北陸道6か国の官物はすべて海路を敦賀津に運び、ここから琵琶湖北岸の海津に送って湖上を南下し大津から京に運ぶことになっていた。物資だけでなく北に向かう官人も奈良期からこのルートを利用したことは、「万葉集」巻3の「角鹿津にして船に乗る時、笠朝臣金村の作る歌一首」からも知られる。また「日本霊異記」中巻には聖武天皇の時代のこととして、平城京に住む楢磐島なる者が、大安寺から銭を借りて「都魯賀津」に来て交易をした話が見えて、公的な人・物だけでなく私的な人・物の流れも盛んになっていたことがうかがえる。
「和名抄」津守郷の名は、こうした重要性をもつ敦賀津の管理に当たった人びとがいたことにちなむものという。
「津」と呼ばれているから、今の位置ではなく、川の河口、笙の川か児屋川かの河口にあったものと思われる。今の場所は塩浜であったという。
8世紀中頃になると渤海からの使節が相次いで北陸に着岸するようになり、敦賀津にはその接待のための松原客館が設けられて、当津は外国にも門戸を開く、日本海側随一の要港となった。渤海使の渡来は10世紀中頃には途絶えるが、その後も宋の商人が私貿易のため相次いで来航している。元永2年(1119)頃のものとされる某書状(東寺本東征伝裏文書)にも白臘30斤を「敦賀唐人」から手に入れたことが見える。また康和2年(1100)には敦賀津にいた「唐人黄昭」が雇われて「金剛頂瑜伽経十八会指帰」(近江石山寺所蔵・平遺題抜1118)を書写するようなこともあった。治暦元年(1065)9月1日太政官符(勘仲記弘安10年7月13日条)に、敦賀津をはじめ、若狭久々子湖岸の気山津、近江琵琶湖岸の塩津・大浦(大津か)・木津などで刀禰らが公物に勘過料(通行料)を課しているとして越中国から訴えられている。敦賀津の刀禰は敦賀湾岸の浦々の有力者で、鎌倉期には気比社から補任されていたことから、敦賀津の経営に気比社が少なからず関与していたとみられている。
今の敦賀港は、昭和26年指定の重要港湾で、明治32年開港となり、同35年ウラジオストックとの間に定期航路開設、同40年に第1種重要港湾となり、大正7年に朝鮮の清津へ航路を開いた。近代的な港湾修築は明治42年に始まり、大正11年~昭和7年の第2次工事で7.000トン級船舶の接岸が可能となり、昭和18年に始まった第3次工事は戦争で中断、戦災を受けた。戦後は運輸省直轄工事で同28年までに港内船溜を整備し、同33年から1万トン岸壁改造に着手し、昭和62年度末現在川崎・松栄地区に1.5万トン級船舶係留可能の-10m岸壁2バースほか、蓬莱・桜地区に-7.5m岸壁6,000トン級3バースほか、金ケ崎地区に-10m岸壁1万トン級1バースほかの係留施設をもち、金ケ崎埠頭の先に防波堤550mがある。また船舶の大型化、コンテナ化に対応するため昭和52年以来鞠山地区に新港を建設した。


南岸側は砂浜であった様子だが、今は岸壁や倉庫群も作られている。
北には敦賀新港が作られている。

コンテナ埠頭など見たいが「立入禁止」である。

北前船は今の港ではなく、その西になる笙の川の川口に入っていた。

案内板に、
県定史跡
洲崎(すざき)高燈篭(たかどうろう)
江戸時代
指定 平成4年5月1日
高さ6m41㎝
この高燈篭は江戸時代、敦賀で大きな回漕業(海運業)を営んでいた庄山清兵衛が享和2年(1802年)に建てた灯台で、清兵衛にちなんで「荘山(しょうやま)の高燈篭」とも呼ばれています。当時は毎夜この燈篭に火がともされ、敦賀湊に出入りする船の貴重な目印でした。敦賀市教育委員会


今も港で、漁船、遊船や内航路線も観光船などが使っている様子。

おしょうずと延命地蔵

永厳寺の少し南側、国道8号の高い土盛りが山裾を通る、そこに小さなトンネルがあり、それを抜けた所に泉がある。「泉のおしょうず」の案内がある。おしょうずを見守るように延命地蔵が祀られている。泉村発祥地の碑もある。何とも窮屈なことになっているが、このあたりは昔は(しみず)村といった、このおしょうず(御生水・御清水)に基づく名である。この泉は村中を北流して目倉(めくら)川となり敦賀港に注ぐ。この水を積み込まないと舟は出せず、港湾必須の水でもあったと思われる。
『敦賀志』
瞑(メクラ)川ハ御蔵の有しほとりを流し川にて、ミくら用の訛(ヨコナマリ)也とそ、安玉菴の崖下ニ麦飯石有、又舎利の如くにして子をうむ石有、永嚴寺のしミづハ山足ニ在、甚清冷にして涌出る則一小河をなせり、近辺の數十家是を日用とす、しミづ村の名も此水よりおへる成べし、

金前神社(式内社)
敦賀郡式内社43座に金前神社が見える。
『敦賀志』
金前神社〔式内〕ハ建武以来度々の乱に廃絶して、今ハ名残さへもなし、

『敦賀郡神社誌』
金前神社(式内) 祭神及び所在不明である。恐らく金崎宮附近であらう。若しや吉備臣祖若武彦命孫建功狭日命定國造であれば、其れに関係を有する祭神ではないかと思考される。又古墳は其の關係にあるか或は其の時代の豪族のものではないか尚後考に譲る。

一説には、今の愛宕神社(金ケ崎町)といい、山の神神社(天筒町)だともいう。

金崎宮と摂社絹掛神社、(別掲)
延元の役で戦死した南朝方の皇太子恒良親王・尊良親王を祀る金崎宮と摂社絹掛神社

愛宕神社

金崎宮の参道途中に鎮座している。
『敦賀郡神社誌』
無格社 愛宕神社 敦賀郡敦賀町泉字椎原
位置と概況 當社は敦賀町の最東北部なる泉區地籍に鎭座し給ふ。泉區の稱呼は室町時代永正八年朝倉教景の文書に泉寺とある。この泉寺とは今の金前寺の事であらう。されば當時既に泉と稱へて居た樣である。然し往古は湯山に居つたが、鹽濱に移つて農業の傍ら製鹽にも従事して居ったところ、寛文の頃鹽田を海運の材木置場となしたので再變し、更に明治十七年には早くも鐡道開通して、敦賀港驛が建設され、大正三年には築港第一回の工事成り、昭和六年には第二回の工事も殆んど成り、官衙・会社・民家等漸く増加し、地況急變して、今や舊態は想像もつかぬまでに變遷し、全く昔語りとなった。明治七年春に泉村と改稱し、同二十二年四月町村制が實施され、敦賀町に編入されて今日に至ってゐる。當社はこの泉區の北方に位し、官幣中社金崎宮の賽路の上り口に沿ひ、急峻な断崖に高き石垣を築き、これに二十五級う石階を設けてある。先づ鳥居を潛りこの石階を上ると、本殿は山麓に西南面して鎭座し給ひ、その西方脇には祉務所がある。當社の正面に殺けられた参道の石階を上らず、金崎宮参道石階の中程より詣づる間道もある。社域は廣くはないが、社背の金崎宮境内林の桜樹と松を以て尊厳なる背景をなしてゐる。社前には天狗の杉と呼ぶ幹圍十四尺の老杉と、同大の古椎がある。これに次ぐに一丈餘の杉二三株は幹枝共に苔むして、如何にも古社たるかを推想せしめてゐる。境内よりは敦賀市街及び其の港灣の景を眼下に俯瞰し、遙かに松原の翠緑花城山、野坂嶽等の勝をも展望し、金崎の境内と聯接して山紫水明の眺望を恣にする境域である。
祭神 火産靈大神 相殿 伊弉諾命 天熊大人命
由緒 按ずるに、當社は往昔より愛宕大権現と尊稱し奉りて、地方郷土の崇敬が篤い。氣比宮社記によれば「金前神社泉村金崎山に座す。一説に云ふ今愛宕大権現と稱奉る祠是れなり。一説に金前山白岩に座す山ノ神の祠を謂ふ是れなり。(山ノ神は明治の末代頃荒廃し今は金崎宮境内林中に在る)二説孰れも是未だ知らず」とある。社傳に依れば文祿二年九月朔日の勧請とある。又敦賀志稿に據ると文祿二年九月朔日、松原花城山に鎭座し給ふを現地に奉遷せる由を記してあれば、今これに從ふ。當社は昔より火防の神と崇め、領主酒井藩・松平福井藩等より社殿の造営等には、木材金穀の寄進あり、又一郡一町を勧化して修繕したこともあると云ふが、現社殿は文政三年六月鞠山藩主酒井忠言の寄進であると云ひ、明治八年十二月無格社に列せられた。
祭日 例祭 六月二十四日 祈年祭 三月二十四日 新嘗祭 十一月二十四日
特殊臨時祭 五十年毎に鎮火祭と稱し、臨時大祭を奉行するのである。この祭には中瓢(長五六寸)位のものを縱に眞半に等分したるものゝ一半に水分入れ、神饌と共に神前に供へ、又一般参拜者には小瓢(長三四寸)を前述の如く縱に眞半分に割き、所謂瓢杓を作り、火防瓢杓と呼んで授與するのである。
本殿 〔〕
拜所 〔〕

境内神社
秋葉神社 祭神 火産靈神
  社殿 中型御輿に奉祭して拝殿に鎭座す。
金刀比羅神社 祭神 大物主命
  社殿 中型御輿に奉祭して拝殿に座し、秋葉神社と同じく、文久三年三月勧請し奉斎したりである。
愛宕大社略記 明治維新神佛分離の際に於ける愛宕社に對する取扱方の心得を記せる略記を左に示す。
『敦賀志』
愛宕社ハ松原の西花城山ニ坐しを、文禄二年九月朔日今の所へ奉遷、社僧臨海院ハ射場町松ノ下より此処へ移れり、

朝倉神社

金崎宮の境内に鎮座。朝倉統治時代の歴代郡司を祀るのであろう。

高野山真言宗誓法山金前(こんぜん)

金崎宮の登口に建っている。泰澄の創建と伝え、本尊十一面観音。建暦2年(1212)9月日付越前気比宮政所作田所当米等注進状に「金前寺仁王講田」がみえる。中世は気比宮の密言院で、寺内に11坊あったが元亀(1570~73)以後戦乱で廃絶した。その後、安孫子浄泉の女が、もと山腹の桐実畠にあったものを現在地に再建した。鐘は敦賀町代官・町人頭の打它宗貞が寄進し、金林(こんりん)寺と鐘銘にはあるが、その後古名に復したという。お寺といっても今は、この金崎観音堂と庫裡だけのよう、しかもそのご本尊(袴懸観音)は戦災で焼失してしまった。『今昔物語』では成相観音の次だったかに出てくる説話が知られている。
案内板がある。
氣比神宮寺霊亀二年(七一六)創建ゆかりの寺院
 真言宗 誓法山 金前寺
空海、松尾芭蕉も訪れた氣比神宮の奥の院。
聖武天皇の勅願により泰澄大師が天平8年(七三六)に開創した高野山真言宗のお寺。往時は伽藍十二坊を有し、氣比神宮の奥の院として弘法大師空海が、巡錫しました。
南北朝時代、新田義貞が金ヶ崎城を築き、当山は戦いの地の本営となりました。義貞らの南朝軍は足利軍に破れ、後醍醐天皇の皇子・恒良親王は後に捉われて、尊良親王と新田義顕は当山の観音堂で自害したと伝わります。

『敦賀郡誌』
金前寺 敦賀町泉に在り。眞言宗古義派、高野山金剛峯寺末に属す。僧泰澄の草創と稱す。本尊十一面観音は今昔物語集・寶物集等に見ゆる袴懸観音なりと云。〔然らば敦賀某長者の草創ならん〕建暦二年氣比社領註進目録に金前寺仁王講田五反とあり。本寺詳かには誓法山密嚴院金前寺と號す。中古は氣比社の密嚴院なり。延徳二年七月の朝倉貞景の當寺諸役免許状に其事見えたり。又當の諸役免許も其時代よりなり。當寺に弘法筆一大梵字大日如來を藏す、氣比宮奥院なりと傳ふ。寺内に十一坊ありし由なれども、元龜以後廢絶す。本寺は源平盛衰記平家物語〔長門本〕に見えたる金崎觀音堂なり。高倉天皇治承元年、白山の衆徒、國司の改易を請ひ、神典を振りて上洛せし時、此堂に入れ奉る。又寺の記録に據れば、延元の亂に新田一族の、東宮恒良親王・一宮尊良親王を奉じて此に下り、觀昔堂を御座所として、此寺に據りたりといふ。即ち金崎城是なり。今の金崎宮社務所の在る邊に、同宮鎮座以前には僅少の平地ありて、そを觀音堂跡ころび畠と稱す。もと観音堂は此處にありし者なるか。今の堂宇は元龜兵燹後、安孫子淨泉が女の再建なり。鐘は打它宗貞の寄進なり、鐘銘には金林寺と在り、其後古名に復す。
○芭蕉の像及鐘塚  像は本堂内に安置す。寛政五年九月、敦賀人閑鴎亭波靜が芭蕉の百年忌に當り、京都なる許六作の像、湖南木曾寺の像に據りて刻みし所なり。鐘塚は本堂の傍に在り、寳暦十一年十月の建立なり。芭蕉が、北陸遊歴の時、金が崎にての 月いづこかれは沈る海のそこの句を刻す。因て鐘塚と稱す。此句のはし書は仲秋(元祿二年)の夜つるがに泊りぬ、あるじの物がたりに、此海に鐘の沈みて侍るを、國の守のあまを入て尋させ給へと、龍頭下さまに落て引揚べきたよりもなしと聞てとあり。
〔今昔物語〕  越前國敦賀女蒙観音利益語

〔源平盛衰記〕 白山御輿登山事

『敦賀志』
金前寺〔もとの名ハ金林寺〕ハ氣比神宮寺中の密言院也〔今ハ高野山の末寺なり〕、元亀元年迄ハ安玉菴の上のコロビ畠に在て崖の坊といひしか、兵火に焼亡しを、安孫子浄泉か女今の地に再建せり、鐘ハ打它宗貞寄進せり、鐘銘及徠札等ニハ金林寺と有、其後いつの比いか成故にて金前寺とハ改けん、旧址ハ畠と成て今猶字をかげの坊と云ふ、又安玉菴の地を今も大門さきと云、本尊ハ出雲人朝栄か作也、此本尊を宇治拾遺なる袴懸の観音なりと此寺の縁起に見ゆれと、拾遺の文共少し違有、且拾遺には敦賀とバかり有ていつく共なけれハ、いかゞあらんと思ひしか、其後平康幀か書る宝物集と云ものを見れハ、金ケ崎の観音の女に成てむすめに男あはせたる悦びに、むすめ其女に紅の袴とらせたるが、観音の御肩ニかけてたゝせ玉へりと有を見れバ、此本尊の事なりとおぼゆ〔宇治拾遺の文長き故略す〕

裏側に松尾芭蕉の鐘塚の句碑がある。



曹洞宗勝載山永厳寺

立派な参道を国道8号が横切っている。
『敦賀郡誌』
永嚴寺  敦賀町泉に在り。曹洞宗、松島永建寺末に属す。勝載山と號す。應永二十年創立、開基は東渓宗陽、永建寺小室眞宗の弟子なり。寺は元寺屋敷町〔花浪〕に在りて、天満神社より西、梟町迄の間是なり。慶長十二年、打它宗貞、今の地に移す。此地は泉村の田へ入るゝ下草場なりしかば、泉村の者心伏せず、同宗の者は改宗して永覚寺門徒となれりと云ふ。武藤氏・蜂屋氏・大谷氏・京極氏・酒井氏等代々寺内の諸役を免除せらる。されど其免許地は舊寺地にて、泉村の分米は打它氏より泉村庄屋方へ此を納む。依て寺屋敷町に住む者より分米高を石代直段にて銀子を以て打它方に納むる例なりき。現今堂宇の重なる者は本堂・開山堂・庫裡等なり。塔頭は七ヶ院〔梅陽軒・芳樹軒・岸松院・雲月軒・怡本軒・福昌軒・安叟軒〕ありしが、今皆廃す。境内千六百三十五坪、地は天筒山麓なるを以て、甚幽靜にして港湾一眸のうちにあり。慶應元年、水戸浪人武田金次郎等百三十七人、遠島に處せられ、翌年五月赦に遇ひたる時、一統を此寺に引移したり。此時寺内天満宮に奉納せんとて、一同斷髮したるを今猶藏す。

『敦賀志』
勝載山永嚴寺〔禅宗永建寺末〕、塔頭雲月軒・芳樹軒・梅楊軒・岸松軒・怡本軒・福昌軒・安叟軒、開基ハ東溪宗陽和尚〔永建寺開基少室之弟子〕応永廿年建立す、旧地ハ今も寺屋敷とて、梟町より天神の社地迄の間を云ハ、もと泉村の田へ入る下草山流し処へ移せしより、泉村の者心伏せず、遂ニ改宗して永覚寺の門徒と成しとぞ、寺内制禁ノ条々ハ、武藤氏・蜂屋氏・大谷氏・京極家の判物あり、宗祖道玄禅師の真跡、中字十六行の一幅を秘蔵す、珍らしき物也と云、

浄土真宗本願寺派永覚寺


浄土真宗本願寺派浄泉寺



金崎城、金ケ崎古戦場(別掲)

人道の港敦賀ムゼウム

「ムゼウム」はポーランド語(Muzeum)と案内にある、ポーランド国籍ユダヤ人を多数救った縁でポーランド語なのだろうが、たぶんドイツ語(含オーストリア語)のMuseum(ムゼウム)が元でなかろうか。英語も同じ綴りだが、発音はミュージアムとなる。ロシア語はムゼー(музей)、これはフランス語(musée)であろう。
いずれにしても古代ギリシャのミューズ(英語Muse)の女神たちの神殿・ムセイオン(Mouseion)に語源があろう。エジプト・アレクサンドリアのムセイオンがよく知られている。有名な巨大図書館を併設していた。古代ギリシャのデモクラシーを支えた拠点であった。
学問芸術音楽神殿だから日本語の博物館美術館などは舌足らずの翻訳か誤訳か、翻訳不可能語になる。学問芸術は上から押しつけて何とかなったりはしない、カネも出さずに勝手な押し付けをするのではなく、ここに集まってくる市民相互の自主的な研鑽のなかで磨き上げられていくもので、完成はないが、それを援助支援する研究センターになる。市民政治は議会だけではなく、Mouseionも討議の場であった。この施設なし、正確な古今東西の情報や知識・文化なしでは衆愚政治に陥るかも、民主主義か衆愚政治かを分けるかも知れない、質の高い民主主義を支えたものであった。
館の職員はその側面援助が仕事である。神に仕える身のはずが自分が神にでもなったようなアヤシゲな者も見かけるが、解説者とかも必要がない、語部とかは、本当の体験者(その録音)以外がやったりするものではなかろう、語部もどきは必要なし。まことの学芸員やガイドは必要で、求められれば説明するのもよいが、求められもしないのにペラペラやってジャマすることは慎むべきことであろう。資料あつめ、整理、保管、調査研究などがお仕事である。地味な仕事だが、それが大事。資料集めもしない、何十年も新資料がない、研究もない、いつ行っても同じ展示のままで、そして人が来ない、どんどん減少しているとか言っている。それは当り前である、キミらが本来の仕事してない、チイとはやってはいるのかも知れないが、何か勘違いをしているのかサボりまくっているのが原因、世界中をかけめぐって資料の発掘に努めなはれ、そうすれば来館者は増える。(たぶん。入館者減少は他にも要因があろうが、放置すれば民主主義の危機・平和の危機・人道の危機と、危機感をもって知恵を絞って対応していただきたい)
当館がそうしたことだと言っているのではない。素っ気ないほどにほったらかしで、かたってはくれない。自分に学ぶ気がなければ、そうしたものである。
ワタシが訪れた日は、どこの国の人達かはわからなかったが、どこかヨーロッパ系の外国人ばかりであった(ポーランドかも)。そうした人々で溢れるようでないと、やはり三流精神丸出しのまことの世界平和にも民主主義にも何も貢献しない三流館でしかなかろう。言葉ができないと資料も集められないしガイドも務まらない、言葉は世界平和への第一歩であろう。
敦賀港を「人道の港」と呼ぶのは、ポーランド孤児とユダヤ難民の受け入れ港としての実績があるからである。館内は撮影できない。もらったシオリの写真→
どうしたことだったかは、別途いつか取り上げる予定。

あまりに美しい、天国の夢の建物のような、ありえないような、ディズニーの建物群に見えるが、これらは実際に過去(大正時代)にこの地に存在した建物の復元で、どこかのマチのようにありもしなかったものを「復元」した建物ではない。(外見というか外側だけで、建物の内部はmuseum用に作り替えられている)。建物の裏側は、線路になっていて、今も一部が残っている。museumとしては二代目の建物になる。
初代も残されている。→
上陸地点のタイルが埋め込まれている。その案内板に
敦賀港に上陸したユダヤ難民のエピソード〈1940-41年〉
上陸地点
天国に見えた敦賀のまち
1899 (明治32)に開港場(外国貿易港)の指定を受け、日本とヨーロッパを結ぶ交通の拠点として繁栄した敦賀港は、1920年代にポーランド孤児、1940年代にはユダヤ難民の受入れの舞台となりました。まるで悪夢のような体験をした波らは身も心も疲れ果て、受入れてくれた敦賀の人々の温かさに感動し、敦賀のまちを「天国」と表現しました。




muzeumの案内板には


復元建物(4棟)について
欧亜国際連絡列車が運行していた大正~昭和初期にあった建物群(外観)を当時の位置に復元しました。
①敦賀税関旅具検査所
国際航路で荷揚げされる荷物の検査を行う場所として、1913(大正2)年竣工の敦賀港改良工事の際に建てられ、4つの建物のなかで最初に完威しました。
②敦賀港駅
三角屋根が印象的な敦賀港駅は、欧亜国際連絡列車の中家駅として建てられました。1階は旅客用のスペースとして使用され、2階はレストランが設けられていました。
③大和田回漕部
大和田回漕部は1906(明治39)年に建てられ、大阪商船や北日本汽船等の敦賀へ入港する商船会社の代理店として港の荷捌きなどを行っていました。
④旧露国義勇艦隊事務所
ロシアの義勇艦隊の事務所として建てられ、ロシア海軍の補助を目的に組織されて「義勇艦隊」は1907(明治40)年から1919(大正8)年まで敦賀-ウラジオストク間の定期航路を運航しました。また、義勇艦隊撤退後には汽船会社の待合室と日本陸軍の常置員詰所として使用されました。

当時、船が着いた海は、今は埋め立てられて、駐車場や緑地になり、海岸は100メートル以上も沖側になった。


鉄道関係
敦賀駅から敦賀港までの引込線(国鉄敦賀港線)の一部が今も赤さびて残っている。

ユダヤ難民などを乗せた臨時列車が、この線路を通ったのであろうか。

駅舎も残されている。この建物はmuseumにもあって館の入口になっているが、あちらは外側だけの大道具のようなもので、こちらはより本物に近い復元である。


すべての道はローマに通ず。シルクロードの近代版か。
実際に世界につながり、世界地図が頭になければならない。
実際に、こんな切符が買えたのである。→
(羅馬・巴里はおろか、そんな花のミヤコは口にするのも恥ずかしいが、手前が住むイナカ町の市民すら見ていない手前勝手なドクソどもが、平和とかをイッチョマエに口にする。口先だけのハナシであることは見え見え、アホクサ、恥ずかし、やめてくれ、平和はそんなに甘いものではなかろ。どこかのマチのハナシであるが…)

駅舎の左手には
「ユダヤ難民の上陸地 敦賀
杉原千畝夫人・幸子氏来敦記念の植樹
 1940~1941年、ナチス・ドイツの迫害等から逃れようとしたユダヤ難民に、当時の杉原千畝リトアニアカウナス領事代理は、人道的立場から日本通過ビザを発給しました。
杉原氏の発給した「命のビザ」を手に、難民たちの多くは、シベリア鉄逆経由でウラジオストクに向かい、日本海を渡ってここ敦賀に上陸しました。
 2001年7月20日、杉原千畝氏の夫人、杉原幸子氏が来敦されたことを記念するとともに、杉原千畝氏の偉大な功績を讃え、敦賀港が果たしてきた歴史的役割を後世に伝え、リトアニア共和国との友好と交流を希望し、ここに両国の代表的な桜(ソメイヨシノ)と樫の木を植樹しました。      敦賀市」の樫の木と桜がある。
根井三郎さんは、この時のウラジオストックの総領事館代理であった。うまくリレーできたものと驚く、神がついているのかも…
ひとを救う、ということは、何でもない、自分を救うことに繋がる。ひとの命ひとつ救えない者が、国を救えるはずはなく、そのリクツからも、国は滅びてしまった。いまだに立ち上がることができない、同じ愚を繰り返すことなきようにしたい。

金前寺の下、駐車場のわきに、煉瓦造りのランプ舎が残されている。

銀河鉄道ほどではないかも知れないが、ロマンある鉄路であった。敦賀から乗車したかは不明だが、シベリア鉄道で欧州へ向かった文化人も多い。ワタシもハバロフスク駅までは行ったことかあるが、何かヨーロッパの都市の雰囲気で、ここが入口という気がした。
向こうからも来ていて、ウラジオストックから修学旅行生が来ている。
『敦賀市史下巻』
ロシア修学旅行団
日露交通の開始とともに、敦賀に往来する外人客も増加した。明治四十四年(一九一一)六月三十日付の『敦賀新聞』から、夏季休業を利用したロシアの修学旅行団の入港風景をみよう。それによると、一行を乗せた鳳山丸は午前五時入港の予定であったが、ウラジオストクの出航時問が遅れて六時ごろ沖合に現われた。このとき、歓迎の号砲。一発、二発、三発。海岸には早くも見物人が現われ、東京よりきた日露協会・官庁・新聞記者などの出迎え人は曳船若越丸・金勢丸に分乗して出発した。
 海岸へ上陸後、町長の歓迎の言葉があった。一行は歓迎場の第二尋常小学校に向かった。生徒溜正面黒板には色白墨で日露両国旗が書かれていた。町長が改めて歓迎の言葉を述べ、団長のウラジオストクの商業学校の教員がこれにこたえた。学校のなかを参観したいとのことで教室に案内したが、熱心に参観し、なかでも一等大尉ほか四五名の生徒は、講堂における児童の隊形運動を見学し、その無邪気な動作と活発な足並みに拍手を送った。ついで気比神宮に参拝しホテルに入った。茶・パン・バターの簡単な朝食を終えようとしていたとき、敦賀女学校の生徒が訪問した。オルガンにあわせて原語でロシア国歌を合唱したところ、彼らは眼をパチつかせて聴き入った。しばらくして団長より日本の国歌をとの注文があり、女生徒達は待っていましたとばかりに歌った。今度は反対に女生徒達からロシア国歌を注文したところ彼等は大いに喜び歌った。そのあと、いつの日覚えたのか日本語で国歌を合唱した。生徒五二名、教師一七名、軍人三名、ほか父兄付添七名は、午前十時にはホテルを出て汽車で京都に向かった。
温かくお迎えしました、オモテナシでオモテナシしました、どこかのマチのハナシだが、そう一方的にいうが、相手を一方的にコキ降ろすだけの悲しき魂のマチで本当にそんなことができたのであろうか。


赤レンガ倉庫




金ケ崎町の主な歴史記録



金ケ崎町の伝説

『越前若狭の伝説』
鐘が崎  (金が崎町)
 金が崎に築(つき)島という石の島がある。ここに鐘が沈んでいるという。しかし鐘は見えない。この築島のまわりには、今もも(藻)が少しもない。不思議なことだといっている。             (寺社什物記)
 漁夫は常にその鐘を見ており、かつて引き上げようとしたこともあったが、恐ろしいことがあってやめた。常に竜のごときものがいて、これを守っている。   (笈埃随筆)
 敦賀のほとりに鐘が崎という所があり、海底に鐘がある。鐘は竜神が愛するものであるから、鐘を積む船は必ずくつがえるといい、海上をかよう船は鐘を積むことを忌む。         (西遊記)

はかまかけ観音       (金が崎町)
 金前寺の本尊である十一面観音は「今昔物語」「宇治拾遺物語」などに見えているはかまかけ観音である。               (敦賀名所記)
 越前の国敦賀に住む人があった。娘のほかに子がなかった。娘に夫を迎えたが、その夫は去ってしまった。別の夫を迎えたが、同じであった。このようなことか数次あったので、父母はあきらめて、夫を迎えることをしなかった。
 家の後に堂を建て、観音を安置して、この娘を助けたまえと願っていた。その後まもなくして、父も毋も死んだ。財産がなくなるにつれ、従者もおらなくなり、衣食にも窮した。いつも観音に向かって、助けたまえと申していた。すると夢に僧が来て、「夫をあわせてやろうと思い。呼びにやったから、あすここに来る。その人のいうことに従え。」といった。
 翌日家を掃除して待っていると、夕方ごろ馬の足音がして、多くの人が来た。この家を宿に貸してくれという。見れば主人は三十ばかりの美しい男子である。従者など七八十人ばかりはいる。家は広いので、みなはいった。夜になって男が忍んで来た。夢のお告げがあるので、男のいうとおりになった。
 この男は美濃国(岐阜県)の勢徳ある者であった。愛していた妻を失った。再婚をすすめられたが、死んだ妻に似た女があったらといっていた。若狭の国に用事があり、敦賀に来て宿をとった。宿の女があまりに妻に似ていたので、夜を待って近寄ってみると、すべてのことがよく似ていた。
 翌日一行は若狭へ行った。従者二十人ばかりが残っていた。これらの人に食わせるものも、馬の草もないので、困っていると、むかし父母が使っていた女の娘というのが、思いがけなくもたずねて来た。「この人たちは何の人か。」と問うので、わけを話すと、「これらの人に物を食べさせないで、ほっておくのもくやしい。何とかしよう。」と、女は帰っていった。
 しばらくして女は、食べ物や馬の草を持たせて来た。女は「わたしの親が生き返ってご恩返しをしたのである。」といった。翌日若狭から一行がもどって来た。その食事も全部女がしてくれた。夜になって男は、「あす美濃へ連れて行く。」と女主人にいった。
 女主人は助けてくれた女に何かお礼の品をと思うが、何もない。ただ紅の絹のはかまが一着あった。自分は男がぬぎ捨てた白いはかまをはき、女に「これを。」と与えた。女は「あなたこそ貧しく見えるので、わたしから何かあげようと思っているのに。」といって受取らない。「あすは思いがけず、急に美濃へ行くことになったから、これを形見に。」と無理に取らせた。
 翌日出発のときが来て、女主人を馬に乗せようとしたとき、女主人は観音にもお礼をと、参拝してみると、観音の肩に赤いものがかかっている。見ると前夜女に与えたはかまである。さては、女と思ったのは、観音が変じて助けたもうたのかと、女主人は伏しまろびて泣いた。男も事情を聞き、涙を流して喜んだ。
 女主人は美濃へ行き、男と夫婦になり、男女の子どもが多く生れた。つねに敦賀に通って、観音に仕えた。              (今昔物語集)
 金前(かなさき)の観音は、女に変じて、ある娘を男に合せた。越前国の者がこの観音を作ったが、女の子をひとり残してみな死んでしまった。女が出て来て、この娘に男を合せ、美濃国へ連れて行かれることになった。娘は喜んで紅のはかまを女に与えた。出立のとき見ると、観音は肩に紅のはかまをかけて立っていた。      (宝物集)
  註
 「泉村民話集」では、娘は小川長者の娘で泉村に住んでいたという。泉村は今の金が崎町である。また観音の名を「はかまだれ観音」と称している。この観音は昭和二十年の戦災で本堂もろとも焼失して、今は寺はあるが観音はない。(杉原丈夫)

金前寺        (金が崎町)
 泉(金が崎町)に目倉橋という橋かあって、この下の川に落ちたものはメクラになると、昔からいい伝えられている。この川は、今は泥水で濁っているが、昔ここに泉長者といわれる長者が住んでいた。長者には美しい娘があって、長者夫婦は目に入れても、痛くないほどかわいがっていた。けれどもある日、この娘がにわがにいなくなった。大騒ぎしてさがしたところ、金が崎の入口の金前寺という寺の中に、今まで無かった観音様があって、その前に娘の着ていた着物があったので、この娘が観音様の化身であったことがわかった。今もこの着物は、金前寺の宝物として残されてあ
る。
 娘のいたころは、うばが六月十七日に佐渡から必ず会いにきた。その日は午前中は風が佐渡から敦賀の方に吹き、午後はその反対に風が吹いて、うばを送った。
 長者には三つの大きな倉かあったので、ここの橋を三つ倉橋と呼んだのが、いつの間にか、目倉橋と呼ばれるようになった。        (福井県の伝説)

三郎太夫            (金が崎町)
 元治元年(一八六四)の七日京都にどんど焼けという大火があった。この大火で東本願寺もまた灰になってしまった。その後明治維新となって、東本願寺の再建が計画され、寺では全国にわたって、本堂などの丸柱に使用する大けやきを探し求めて歩いた。
 泉村の三郎太夫の屋敷に、回りが一丈余りの大けやきか二本あった。このけやきも東本願寺からぜひにと所望されたので、三郎太夫は心よく承諾して、けやきを切り倒し、これを京に上らせた。いま東本願寺の阿弥陀堂と大師堂の内陣外陣には、数十本の大きなけやきの丸柱が並んでいるが、そのうちの二本は、泉村の三郎太夫のけやきである。         (泉村民話集)
焼け米         (金が崎町)
 金が崎の月見御殿跡の少し西方の土を掘ると、真黒の米の形をしたものが出てくる。これは金が崎城が焼けたとき、兵糧米の焼けたのが、埋まったのであるという。(福井県の伝説)




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん


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