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福井県敦賀市金ケ崎町 福井県敦賀郡敦賀町泉 |
金﨑宮の概要《金﨑宮の概要》 金前寺から、裏山を少し登ったところにある。境内に400本のソメイヨシノの木がある。案内板に、 金崎宮縁起
祭神 本宮 金崎宮 尊良親王 後醍醐天皇弟一皇子 恒良親工 後醍醐天皇皇太子 摂社 絹掛神社 藤原 行房 新田 義顯 氣比 氏治 氣比 斎晴 瓜生 保 瓜生 義鑑 里見 時成 里見 義氏 由良 具滋 長浜 顯寛 武田 與一 以下殉難将士 由緒 當宮は敦賀市の市街地の東北に位置し、元官幣中社の社格である。 この金崎山は氣比大宮司氏治の居城でもあり延元二年(一三三七)三月六日落城す。その時城中に在られた尊良親王は自刃され、義顕、氏治らの将兵三百余人も殉じ果てた。皇太子恒良親王は逃れられるも後に幽閉され、翌年京都にて他界される。 金崎城落城後五百五十六年を経て明治二十六年(一八九三)、敦賀の人々の熱烈なる請願によって尊良親王、恒良親王を祭神に社号を金崎宮として鎮座されたのが本宮である。 又落城の時、殉難した将士を祀る絹掛神社は、これら将士の子孫が有志を募り手続きを経て明治三十年(一八九七)創立認可を受けて設立されたお社である。 この金崎城趾は昭和九年(一九三四)史蹟として文部省より指定を受け、月見御殿の旧趾、焼米出土地、経塚のあと、木戸掘切の旧趾などあり、由緒の地である。 金崎宮 『敦賀郡神社誌』 官幣中社 金崎宮 敦賀郡敦賀町泉
位置と概況 當社は敦賀町の東北端に位し、天筒山(標高百七十米突)の北方敦賀灣に臨める景勝の地に鎭座し給ひ、北陸街道より參道に入り八十數級の石階を登りて一の鳥居を潜り右に社務所及手水舍を經て二の鳥居に入り拝殿に到るのである。本殿は元二十數階の高所に鎮座し給ひしを明治三十六年二月二十八日敦賀大火の際類焼御炎上の事ありて、同三十九年三月現地に再建せられたのである。舊殿は流造であつたが此の時神明造りに改め、藤原時代の様式を參酌しか錺金具が鏤められた。本殿の西方に相並んで攝社絹掛神社が本宮と同じく東南面して鎮り、宮域は紺碧の灣に臨み常緑の山を負ひ、歐亞聯絡の要津として著名なる敦賀港を眼下に俯瞰し、社務所前より南方及び西方を望めば、灣内の一部と敦賀市街・松原村・粟野村・中郷村等の殆ど全部が、恰も俯瞰圖の如く展開しで視野に入り、又これより百二町の出崎鴨崎に出づれば煙波渺々たる敦賀灣の内外及び封岸松原村の西浦方面、遠くは南條郡河野村、丹生郡城崎村米ノ浦方面をも遙に望見し得て、奇岩點々山水の美を盡し、風光明媚書圖の如く特に水清く波靜にして海水浴に適し、盛夏三伏の候内外の洛客群集を爲し花時に亞ぐ繁盛を呈する。こゝより西北方約三町餘の山上を月見崎と云ひ、(俗に月見御殿とも云ふ(標高八十餘突)その頂上は城址中第一の奇勝地で、而も東浦海岸の長汀曲浦及び敦賀全體を指顧の間に見るので、延元當時敦賀郡方一里に號令を下すに最適の要害地であつた亊が考へさせられる。當時こゝに本丸があつたと云はれ、今猶やゝ廣き平地が存して、南北朝時代の築城術の一端をも窺ふ事が出来る。尚こゝより南方約二町を降り三ノ木戸、及び焼米の出土地、二ノ木戸等の激戰の舊蹟を經て社務所の南側に至る。これで常宮の重要なる史蹟の大半を一巡し得るのであるが、これ等の史蹟に就いては、項を改め更に詳記する亊とする。宮域には櫻樹数千株を栽植し、特に本殿・社務所附近の境内一帯には大幹多く、その幹圍丈に近きものも多数ある。且つ晩春遠山に殘んの雪を賞しつゝ月下に笑ふ花を觀るの情景は、當境内獨特の眺めなれども、又其間に綴り込まれた幾多壮烈の南朝悲史を追懐すれば萬斛の涙なくして已むべきでない。 祭神 尊良親王、恒良親王 由緒 謹みて、金崎宮並に攝社絹掛神社の御創立の起源を按ずるに、延元元年(紀元一九九六年)後醍醐天皇は一旦足利尊氏の降を納れ、京師に還御し給ひ、別に新田義貞に命じ、皇太子恒良親王、皇子尊良親王を奉じて、北陸道を鎮撫せしめられた。當時に於ける氣比神宮の宮司氣比氏治、勤王の志深く、神領十八萬石を擁し、一族一門三百餘騎にて、己の居城とせし金崎城に、両親工及び義貞等を迎へた。是れ實に延元元年十月十三日の事であった。氏治は竊に杣山の城将瓜生保と應援を約し、以て逆賊を討滅し、皇威の挽回を計つた。時に賊将足利尊氏は、侍所高師泰を大将とし、越前守護尾張高經、其の他仁木頼章・細川頼春・村上信貞等を遣して、兵六萬餘を以て、海陸より金崎城を攻撃した。されども、城兵天險に據り奮戦して、毎戦賊數百を斃し、まだ一回だも賊兵をして城中の尺士を踏ましめなかつた。茲に於て、賊兵等力戦以て抜くべからざるを察し、遠攻長圍の策を以て、糧道を斷ちて城兵を苦しましめた。翌延元二年正月十一日、瓜生保・里見時成以下兵五千餘人を率ゐ、杣山城より急を救はんとせしも、敵勢これを敦賀郡東郷村越坂の阪上に迎へ戦ひ、保・時成・義鑑等大いに奮戦し、賊軍を阪上より迫ひ降すこと数囘に及びしも、衆寡敵せず、應援其の効を奏せず、終に樫曲に於て、保・時成・義鑑等皆戦死した。是より後は外援全く絶え、金崎は弾丸黒子の一孤城となりたるのみならず、城中の兵糧尽きて、軍馬をも食ひ盡し、夜間密に海藻を取り、或は木實草根を食して、身命を保つの状態に陷つたが、再度杣山城の殘兵をして應援せしめ、糧食を得んと欲し、新田義貞・同義助以下七名は、二月五日夜に乗じて竊に城を出で、杣山城に赴き應援の計をなし、一方金崎の城兵死力を盡して防戦した。されど敵の攻繋激しく援軍は待てども來らず、飢渇に迫る兵益ゝ多く、勢力次第に哀へたれば、此の機に乘じ、敵軍三月二日頃より総攻撃を開始し、水平的一大混戦は、轉じで上下戦となり、白晝戦より夜襲に夜襲を以てし、終に三月六日一ノ木戸・二ノ木戸は破られ、三ノ木戸に火を放たれ城砦は全く陷落した。此の時、畏くも尊良親王は自刄し給ひ、藤原行房・里見義氏・武田與一・氣比氏治・等以下在城の将士三百餘人、親王に殉じた。恒良親王は氣比氏治の子齊晴供奉し、捨小舟に東宮を乘せ參らせ、櫓櫂なければ舟綱を己が躬に結け、海上二十餘町の間泳ぎ渡りで、蕪木浦に御避難せしめ參らせ、親王を浦人に託し參らせて、齊晴自身は再び泳ぎ歸り、父氏治が割腹せる傍に殉死したのである。 今尊良親王が御大事の場合に於ける御有様を謹記せんに、新田義貞の子義顕は城兵力尽き今は是までなりと覺悟し、親王の御前に參り申しけるは・「事茲に至る亦止むを得ざるところ、臣等は武門の身斷じて敵に降るべからず、殿下は金枝玉葉の御身にましませば、如何に逆賊たりともよもや御危害を加ふる如き事あるまじ、唯此の儘にて御在しませ」と言上しければ、親王は平常よりも事の外御快げに打笑ませ給ひで、申されけるは「主上帝都に還幸あらせし時我を元首の将となし、汝を股肱の臣と爲せと宣はれた。今股肱を失ひて、元首獨う存するの理あらじ、抑ゝ自害とは如何すべきものぞ」と仰せられければ、義顕感泣して申し上ぐる言葉さへなく、直に自ら割腹して、其の刀を捧げたので、親王其の刀を取らせ給ひしに、血塗れて、把握に御不便なりしかば、御衣の袖を以て之を巻き給ひ、遂に御最期を果させ給ひしと傳へてゐる。御年二十七歳に御座した。 恒良親王は、氣比齊晴が蕪木浦に御避難致し參らせしに、落城の翌七日賊軍の知る所となりて、虜へられ給ふ事となつた。然るに高經は、城陷り諸將の首を檢せしに、義貞・義助等の首なきを怪みて、之を親子に訊ひ奉つたところ、親王は若し實を告げなば、賊徒等急に杣山を攻め、官軍の爲め惡しかるべしと思召し、「昨夕二人共自害せしを火葬にすとて言ひ騷ぐを聞きたり」と眞を仰せられなかったので、賊徒意を安うして、深くも探らず、親王を京師に護送して、御弟成良親王と共に右大臣家定の花山院の第に幽し奉つた。其の後尊氏は、曩に親王が義貞等死せりと申されしは、偽り給ひしものにして、義貞等は杣山の殘兵と共に、蟄龍の態を以て、風雲の至るを待ち居りしものなる事を探知し、大いに怒りて恐れ多くも、親王に毒を進めしかば、親王はそれを毒薬と知りつゝも、從容として之を仰ぎ給ひ、幾何もなくして、申し上ぐるだに忍び得ざる、御最後を遂げさせ給ふたと傳へてゐる。御年十五歳時に延元三年四月十三日であった。謹みて惟みるに尊良親王は、王種を以て武臣と進退を共にせられ、遂に御身を白刄の上に横へ、永く英魂を金崎に留め給はつた。其の勇武壮烈之を稱へ奉るべき何の辭みない。恒良親王は皇儲の尊を以て、遂に逆賊の毒手に薨じ給ふ。何ぞ事の悲壮なる、此れ金崎宮を創建し、永へに英魂を鎭祀し給ふことゝなった所以である。 沿革 金崎宮の創建は、兩親王の英魂を鎮祀し給ふ聖慮に出でたことは、由緒所記のに如くであるが、金崎の戰にて時と所を異にすと誰も、之が難に殉じたる者、悉く盡忠の將士所謂斃れて後已みたるもののみなるが、就中氣比氏治の如き身一社の神職にして、此の時代、この場合慨然として、勤王の大義を唱へ、正義人道の爲めには、勝敗を度外に措きて、其の進退を過らず、その他の将士亦忠勇義烈、克く萬世に人臣たるものゝ範を示せるものであるが、爾来星霜を經ること五百有餘年にして、王政維新の鴻業成り、明治の聖世に及びて、畏くも尊良親王・恒良親王を御祭神とし、金崎宮と稱し官幣中社に列せらるべき旨仰出され、後又攝社絹掛神社に當時の殉難将士を合祀せしめ給ふることゝなつた。是に於て初めで兩親王及び殉難将士の英魂を慰め奉るを得たのである。今左にその沿革並に重要事項を列記せん。… 元弘3年=正慶2年(1333)、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒して京都に還幸し、天皇親政を復活した。翌年建武と改元して公家一統の政治を図ったが、足利尊氏の離反にあい、2年半で崩壊、天皇は吉野に移って南北朝時代となる。(建武中興・建武新政) 延元元年(1336年)5月、九州で再挙した足利尊氏が京都に攻め寄せると、後醍醐天皇はこれを比叡山に避けたが、同年10月に至って一旦尊氏の請を容れられ、京都に還幸されることになり、その際天皇は別に新田義貞に命じ、尊良親王・恒良親王を奉じて北陸道の鎮撫、官軍再興のために下向せしめた。 新田義貞一行は雪中の木の芽峠を越えて敦賀に着き、氣比神宮の大宮司氣比氏治に迎えられその居城、金ヶ崎城に入った。一方足利尊氏は高師泰を総大将として兵6万余もって陸海より金ヶ崎城を攻撃、延元2年正月、 杣山城の瓜生保、里見時成等兵5000余も金ヶ崎の急を救わんとしたが、迎撃に遭い、保、時成等戦死、3月6日落城、尊良親王は新田義顕(新田義貞嫡子)以下将士300余人と共に亡くなられた。恒良親王は、氣比氏治が子息斎晴によって脱出されたが、後に捕らえられて京都に幽閉され、延元3年4月毒薬を盛られて亡くなった。御年15歳であったという。 明治に至り、敦賀の人々の請願により、明治23年9月尊良親王を祭神とし、宮号を金崎宮として官幣中社に加列せらるる旨仰出された。同25年11には恒良親王を本宮に合祀。 尊良親王御陵墓見込地金崎宮の裏山を少し登ったところに、グリーン・タフの石碑がある。 案内板に 「尊良親王御墓所見込地」
安政年間(江戸時代末期)この地付近より経塚が発見され、石室からいずりも銅製の経筒、円鏡、椀(三点とも敦賀市指定文化財・金﨑宮所蔵)が出土した。当時は殆ど話題にならず、遺物は埋め戻されたという。 明治維新後、建武中興に関する史実の全国的な見直しが行われ、湊川神社や鎌倉宮、藤島神社などが創建された。 当地においても、金﨑城合戦より五百五十余年を経た明治二十三年、金﨑宮が官幣中社に列せられ、同二十六年に社殿が竣工、鎮座祭が斎行されたが、それに先立つ、同九年経塚出土品からこの地を尊良親王御墓所と解し「墓所見込地」の碑が建てられた。しかし、他に立証する史料に乏しく、また京都市内(左京区南禅寺下河原町・永観堂そば)に同親王の御墓所が指定されていることもあって、現在では親王御台臨、自刃の地として大切に保存されている。 花換祭の恋の宮南朝悲史の史実に基づく宮ではあるが、何か時代錯誤のようなハナシに聞こえるためか、こうしたハナシはそこそこにして、今は「恋の宮」といって、桜の季節の「花換え祭」で知られる。 いずれも「みなとつるが山車会館」の映像より↑ 花換祭が行われるようになったのは明治40年代という。当時は男女間の交際のきっかけがあまりない時代で、花換祭は縁を取持つ格好の機会となったとか。神社で受けた花を持ち、お目当ての人の前に行き「花換えましょう」と声を掛ける。もし、その人が思いに叶った人ならば「花換えましょう」と返答し、それぞれの花を交換してお付き合いが始ったという。もしや「ダレが換えるものか」とか不成立ならば…、神様の決められることゆえ文句はいえない、何がいいかわるいかは人には簡単にはわからない。そしていつ何時しか金崎宮は「恋の宮」と呼ばれるようになった。戦後は男女の縁を取り持つ場から縁を願う宮へと変わりつつあるとか。 すごい発想の転換。難関突破にロマンスの方向へ舵を切る。次元がまったく異なる方向へ向かう。もしかすると悲恋の宮となるかも知れないが、ものすごい市民の知恵。知恵の厚さが異次元のレベルである。 絹掛神社金崎宮の左に、摂社・絹掛神社がある。案内板には 摂社 絹掛神社の由来
延元二年(一三三七)三月六日金ケ崎城の落城の際、尊良親王に殉じて総大将新田義顕以下三百二十一名の武士が自刃した。祭神はその人達である。氏名の判明する者僅かに十数名、大半の人は近畿、中国四国地方の出身であり、敦賀を中心とする北陸各地からの無名戦士も少くはない。籠五ヶ月糧食全く尽き果てて、尚数十倍の賊軍に立向った壮烈な敢闘精神は、日本武士道の華と謳われた。 『敦賀郡神社誌』 境内神社 攝社 絹掛神社
祭神 贈從二位藤原行房 贈從三位新田義顯 贈正四位氣比氏治 贈從四位氣比齊睛 贈從四位瓜生 保 贈從四位瓜生義鑑 贈從四位里見時成 里見義氏 由良倶滋 長濱顯寛 以下殉難將士 由緒 本宮由緒及び沿革所記の如くである。 社殿 〔〕 … 金ケ崎城、金ケ崎古戦場金崎宮の裏山一帯が金ケ崎城である。有名な城であるが、特に城らしき遺構は何もない中世の山城で、案内なければ普通の山である。 金崎宮の脇から道がある。86メートルの頂上(月見御殿跡)まで、若い人なら走ってでも登れる坂道になる。 頂上近くの「金碕古戦場」の碑。碑文は漢文で記されている。 この碑の少し先が頂上で、月見御殿跡という。 案内板に、 月見御殿
広い場所ではないが、この辺りに本丸があったと見られている。この付近は金ヶ崎の最高地(海抜86メートル)で月見崎といい通称月見御殿と呼んでいて、南北朝時代の金ヶ崎城の本丸跡といい、戦国時代などにも武将が月見をしたと伝えている。 付近の石は石灰岩だそうで、下にセメント工場もある。 山の斜面は垂直に近い、足を踏み外すと命を一つ失いますぞ。こちら側や西側からは攻められない、難攻必至の山城、というか海城。 案内板に 金ヶ崎城跡(昭和九年三月十三碑国の史跡に指定)
どこにでもありそうな山ではあるが、軍事上の重要拠点となった山であった。北陸道の入口を扼する当地は、越前が幾度か戦乱に巻き込まれるたびに、その舞台となってきた。金ケ崎城は「大平記」に「かの城の有様、三方は海によって岸高く、巖なめらかなり」とあり、この城が天然の要害の地でてあったことがわかる。 南北朝時代の延元元年(一三三六)十月、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞が尊良親王・恒良親王を奉じて当時氣比氏冶の居城であったここ金ケ崎城に入城、約半年間足利勢と戦い翌二年三月六日遂に落城、尊良親王、新田義顕(義貞嫡子)以下将士三〇〇余名が亡くなったと伝えられる。 戦国時代の元亀元年(一五七〇年)四月には、織田信長が朝倉義景討伐の軍を起して徳川家康、木下藤吉郎(豊臣秀吉)等が敦賀に進軍、天筒城、金ケ崎城を落とし越前に攻め入ろうとした時、近江浅井氏が朝倉氏に味方するとの報告、信長は朝倉氏と浅井氏との間に挟まれ窮地に陥り急遽総退却、この時金ケ崎城に残り殿(しんがり)を務めてこの難関を救ったのが秀吉で、その活躍で無事帰京できたと伝えられる。またこの殿(しんがり)でこの危機を救ったのは家康で、後の天正十四年(一五八六)家康上洛にあたり、秀吉は金ケ崎での戦いの救援に謝意を表したとさかている。すでに十五、六年前のことで、天下人に一歩近づいた秀吉からすると、金ケ崎の戦いはその後の二人の関係に大きな影響を与えたといえる。 現在は三つの城戸跡などを残し、急峻な斜面は当時の面影を偲ばせる。また、最高地(八六メートル)を見物御殿といい、近くには金ケ崎古戦城跡の碑があり、この辺り一帯の平地が本丸の跡といわれる。ここからの眺めは素睛らしく天候がよければ越前海岸まで望むことか出来る。 中腹には金崎宮が創建されていて毎年境内の桜が咲くころ桜の小枝を交換して幸福を願う全国的にも大変珍しい「花換祭」が開催されている。 養和元年(1181)北陸道を南下する木曽義仲を迎え撃とうとして越前に出兵した平通盛は杉津での合戦に敗れると退いて敦賀城(金ケ崎城)に拠った、という(玉藻)。 建武3年(1336)新田義貞が恒良親王を奉じて敦賀に下り、気比社神官らの待つ金ケ崎城に入った。足利軍との攻防は翌年まで続いたが3月6日落城し、義貞は城を逃れた。 足利尊氏と不和になった弟直義が、観応2年(1351)敦賀に走って同城にこもったり、康安元年(1361)には幕府に背いた細川清氏と討手の斯波氏頼が敦賀で交戦し、海岸の民家が焼かれた(太平記)。 室町期にも長禄2年(1458)から翌年にかけて、越前の国人領主が守護斯波義敏と守護甲斐常治の両派に分かれて合戦を展開したが、その時も甲斐方の拠点であった敦賀が交戦の舞台となっている(大乗院社寺雑事記)。 朝倉氏統治期には、文亀3年(1503)の敦賀郡司朝倉景豊の反乱以外目立った合戦はみられない。しかし、元亀元年(1570)になると織田信長の大軍が敦賀に侵入し、郡司朝倉景恒の拠る金ケ崎城を落とした。この時は近江の浅井氏の寝返りで信長はいったん退却したが、天正元年(1573)浅井氏支援のため近江に出兵した朝倉軍を破ってこれを追撃し、刀禰合戦で朝倉軍に致命的打撃を与え、同年8月14日信長は敦賀に入った。その後越前を制した一向一揆は、信長の来襲に供えて杉津・鉢伏山・木ノ芽峠に防衛線を構築したが、天正3年8月14日敦賀に進んだ信長は、海路から府中を陥れて一揆の退路をふさぎ、たちまち一揆方の諸城を落とした(信長公記)。 よく知られた山城なので、資料を付け加えれば、 天筒山(171・3メートル)から北西の敦賀湾に向かって延びる尾根の先端にあった中世の城で、金前・鐘ヶ崎とも記され、敦賀城ともよばれた。空堀跡などが一部残るだけで、城郭配置をうかがわせるだけの遺構はない。所在地からは敦賀湾のほとんどを一望でき、天筒山に設けられた支城からは敦賀平野および木ノ芽越が通る樫曲辺りまでを見通せる。 築城時期・築城者は不明。養和元年(1181)9月木曾義仲を討つべく越前に下向した平通盛が義仲軍と戦った時のことを記す「玉葉」同月10日条の「津留賀城」は当城のこととされる。「通盛朝臣之軍兵、為二加賀国人等一、被二追降一事一定云々、仍引二籠津留賀城一」とあり、12日条に「伝聞、通盛逃二津留賀城一、交二山林一了云々、但実説難レ知」とみえる。 その後、延元元年(1336)10月、足利尊氏に追われた新田義貞は恒良・尊良両親王とともに敦賀に来て、当城を拠点とした。これは当地に古来朝廷の厚い崇敬を受けてきた気比宮があり、祠官らは早くから後醍醐天皇を支持していたからであった。 「太平記」巻一七(北国下向勢凍死事)は義貞入城の様子を記す。 同十三日義貞朝臣敦賀津ニ著給ヘバ、気比弥三郎大夫三百余騎ニテ御迎ニ参ジ、東宮・一宮・総大将父子兄弟ヲ先金崎ノ城へ入奉リ、自余ノ軍勢ヲバ津ノ在家ニ宿ヲ点ジテ、長途ノ窮屈ヲ相助ク、爰ニ一日逗留有テ後、此勢一所ニ集リ居テハ叶ハジト、大将ヲ国々ノ城ヘゾ被レ分ケル、大将義貞ハ東宮ニ付進セテ、金崎ノ城ニ止給フ、 足利尊氏は侍所高師泰を大将として、越前守護尾張高経、そのほか仁木頼章・細川頼春・村上信貞らをして当城を攻めさせたが、攻防は翌年3月まで続いた。落城に至る経過は「太平記」巻一七、一八に詳しい。 城の形勢と戦の様子は次のようであった(同書巻一七「金崎城攻事付野中八郎事」)。 彼城ノ有様、三方ハ海ニ依テ岸高ク巌滑也、巽ノ方ニ当レル山一ツ、城ヨリ少シ高フシテ、寄手城中ヲ目ノ下ニ直下ストイへ共、岸絶地僻ニシテ、近付寄ヌレバ、城郭一片ノ雲ノ上ニ峙チ、遠シテ射レバ、其矢万仞ノ谷ノ底ニ落ツ、サレバイカナル巧ヲ出シテ攻ル共、切岸ノ辺マデモ可二近付一様ハ無リケレ共、小勢ニテ而モ新田ノ名将一族ヲ尽シテ被レ籠タリ、寄手大勢ニテ而モ将軍ノ家礼威ヲ振テ向ハレタレバ、両家ノ争ヒ只此城ノ勝負ニ有ベシト、各機ヲ張心ヲ専ニシテ、攻戦フ事片時モタユマズ、矢ニ当テ疵ヲ病、石ニ打レテ骨ヲ砕ク者、毎日千人・二千人ニ及べ共、逆木一本ヲダニモ破ラレズ、 義貞脱出後の3月6日ついに落城、尊良親王は自害、新田一族の10余人、少納言一条行房ほかは殉死、恒良親王は蕪木浦に落ちて尊氏軍に捕らえられた。 7日尊氏は当城落城を「越前国金崎城凶徒事、今月六日卯時、義貞已下悉加誅伐、焼払城郭了」と諸将に告げている。 しかし興国4年(1343)5月には再び南朝方が当城に拠ったらしく、同月3日付朽木頼氏宛の足利直義御判御教書に「越前国金崎凶徒退治事、所差遣尾張左近大夫将監也、依之佐々木五郎并浅井・伊香・坂田郡地頭御家人等同令発向畢、急速馳向、可致軍忠之状如件」とみえる。この時の攻防については史料を欠いてつまびらかでない。その後尊氏と不和となった足利直義が当城に拠ったことが「園太暦」観応2年(1351)8月6日条にみえる。 室町時代には越前守護代甲斐常治が居城し、文明3年(1471)朝倉景冬が敦賀郡司となってよりは郡司歴代の居城となった。 織田信長が朝倉氏を攻めた時には天筒城とともに朝倉氏の前線基地となったが、元亀元年(1570)4月両城を明渡した。この間の動きについては「朝倉始末記」「信長公記」等に詳しい、同年7月10日織田信長書状案(毛利家文書)には「金前城ニ朝倉中務太輔楯籠之間、翌日可攻破覚悟候処、懇望之間、加用捨追出候、両城共以任存分候」とみえる。当城はこの後廃棄されたと伝える。 『敦賀郡神社誌』 金崎城趾 金崎城址は南北朝時代及び戦國時代の古戦場であつたことは明かな事實であるが、この二時代の城址を夫々區別することは出来ない、たゞ南北朝時代の築城法は、多く要害天嶮の山地を利用し、多少人工を加へて城塞地帶を形成し、削平地を作り其の地に於ての戦爭の目的を逹するに足る設備のみで、所謂一時的のものである。太平記などの文献に徴して見ると一・二ノ城戸や、大手城戸口・大手矢倉下・柵・塀・逆茂木等の防禦術が判る。又現在地勢は變化してゐても略ゝ想像が出来るのは、敦賀一里方平野に號令を下すに適地であり、三方は遠近山を以て繞り、近くは海湾及び裹の福浦の湾を利用し、天嶮要害であり、又城塞上最も必要である。道路・飮用水等を考慮されてゐた、尚且つ南條郡杣山城との連絡をなし、金崎が前衛とせば、杣山は後衛であるので、決して退嬰的守城本位の防術策戰ではない。常に進取的精神で攻勢に出てゐたことが、最後の落城まで敵をして、城土を踏ましめなかったことでも想像出来るし、廣い地域で兵力及び實力が少なくて、攻勢戦鬪は不利にて、守禦困難の止む得ざる事になり、遂に山上に退避して守城に努め、最後の據戦地とした。然して更に杣山の瓜生軍の援勢によりて、城の運命を打開する、策戦の趾が窺はれるのである。然り而して遂に瓜生援軍の勝敗は、金崎の運命を左右してゐたのである。故に瓜生軍の援兵敗戦するや、孤城となり遂に落城の慘を見たのである。特に南北側時代の戦爭は、常に進取的攻撃戰闘に出石を以て一貫してゐて、退守的な戦略は、萬策盡きなければ行はなかったことが、金崎戦史によっても明かであり、又杣山・藤島に於ける戦闘によっても、その當時の軍人精神の進取的で、活々してゐたことに大なる訓育を得らるゝのである。
金崎宮の登り口駐車場にも案内石碑がある。 金ヶ崎城跡・天筒山城跡碑
金ヶ崎城は敦賀湾に突き出た丘の上に築かれた中世の城である 現在は周囲が埋め立てられたが 北・西・南の三方を海に囲まれ 東に連接する天筒山城に続く尾根にも要害(城戸)を設けた難攻不落の城であった ここで二度 歴史を動かす合戦がおこなわれた 一度目は南北朝時代 二年あまりにわたる金ケ崎城争奪戦である 一三三六年(建武三/延元元) 足利尊氏が京で光明天皇(北朝)を擁立して室町幕府を開創し 後醍醐天皇は吉野に下る(南朝) そして 新田義貞は後醍醐天皇の皇子尊良親王・恒良親王とともに金ケ崎城に籠城した 一三三七年(建武四/延元二)正月 幕府軍の主力を投入した攻撃が開始された 義貞は城を脱出し 杣山城(南越前町)の軍勢を率いて幕府軍を攻撃したが 敗れて撤退 三月 金ケ崎城は落ち 尊良親王と義貞の子息義顕は自害 恒良親王も捕らえられ 城は幕府軍に接収された 一三三八年(暦応元/延元三) 義貞らの反撃により 金ケ崎城を奪還越前は南朝優勢となる しかし 長期戦の末 翌年幕府軍が取り戻し その後南朝軍は奪い返すことはできなかった 二度目は戦国時代 「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる織田信長の撤退戦である 一五七〇年(元亀元) 信長は京から近江・若狭を経て越前に侵攻した激戦の末 天筒山城を陥落させ 金ヶ崎城の朝倉景恒に降伏を迫り 城を接収した 信長は城を修築し 朝倉攻略の拠点とする構えをみせたが 近江の浅井長政が反旗を翻して越前国境に迫ていると知り撤退した 信長はわずか十人ほどの供と京に帰還したという また後世 信長の妹で長政の妻となっていたお市が 両端を紐で固く結んだ小豆袋を届けて危機を知らせたという逸話もうまれた 信長軍にはのちに天下人となる木下(豊臣)秀吉 徳川家康 本能寺の変で信長を斃す明智光秀もいた 信長とともに 彼らも九死に一生を得た 信長が再び敦賀に来るのは 一五七三年(天正元) 朝倉を滅ぼす年である 金崎宮の主な歴史記録古戦場の碑のすぐ脇に古墳が1基ある。 『敦賀郡神社誌』 古墳 山上月見御殿の附近にありて、圓塚である。明治四十二年六月道路開鑿の際發見したので、石室幅一尺二寸、長四尺九寸五分、天井石五枚を以て蔽はれてゐた。棺中より直刀一振漢式鏡一面を發掘した。
『敦賀郡誌』 恒良親王 後醍醐天皇第六の皇子、母は藤原廉子。元弘元年、天皇、隠岐に遷奉ありし時、親王は幼ければとて、藤原公宗に預けられ、後に但馬に遷され、守護大田守延の家に囚へられ給ふ。三年、守延、親王を奉じて兵を舉げ、源忠顯に丹波篠村に會す。忠顯即ち親王を上将軍として、令を下し、兵を集め、進んで六波羅を攻む。利あらず、退いて男山に陣せり。建武元年正月二十三日、皇太子に立ち給ふ。延元元年十月、天皇、叡山より還幸あるに先だち、權に受禪あり、尊良親王と共に、洞院實世・新田義貞等を率ゐて北國經略の爲め越前に下られ、金崎城に據り給ふ。二年三月、城陷る時、蕪木浦の民家に脱れ給ひしを、足利方の兵、執へ奉る。守護足利高經、新田義貞・同義助の行衞を尋ね奉りしに、親王は實を語らば杣山に寄する事もやと思召し、兩人は落城に先ちて自害したるを、火葬にしたりと欺き給へり。かくて親王をば張輿にて京師に送り參らせ、成良親王と共に一室に幽し奉る。三年春、義貞・義助杣山より出でゝ數城を拔きしかば、尊氏は親王に紿かれたるを怒りて、粟飯原氏光として酖毒を進めまゐらせ、親王は四月十三日薨じ給ふ。御年十五。〔太平記成良親王も、同時に害に遇ひ給ふと云は誤なり。○大日本史、南山皇胤譜。〕
尊良親王 後醍醐天皇第一の皇子、母は藤原爲子、幼より聰慧にましまし、詩歌を能し給ふ。嘉暦二年、中務卿に任じ給ひ、元弘元年、天皇笠置山に潜幸ありし時は親王も從ひ赴かせられ、尋で護良親王と共に楠木正成が赤坂城に籠らせ給ふ。程なく笠置陷り、天皇京都六波羅に幽せられ給ひしかば、親王も都に歸り給ひ、佐々木判官時信の家に拘へられ給ふ。翌年三月、天皇、隠岐に遷幸ありし翌日、親王も土佐の畑へ遷され給ひしが、三年、土佐を脱して兵を肥前に擧げ、太宰府に御座あり。北絛氏亡び、天皇、還幸ありしかば、親王も歸洛し給ふ。建武二年、足利尊氏、東國にありて叛す。親王は東國の管領となりて、新田義貞等の諸将を率ゐで追討の爲に東國に下り、十二月、脇屋義助等を率ゐて箱根竹下にて尊氏と戰ひ給ひ、敗れて京に退き給ふ。延元元年、尊氏、西國より京に逼り、天皇は叡山に行幸あり、親王亦從ひ給ふ。冬十月、皇太子恒良観王と共に叡山を出でゝ金崎城に籠らせらる。二年三月、城陷り、親王は自害し給ふ。御首は京に傳へ、尊氏、僧疎石をして禪林寺に葬らしめ奉る。子二三人ましますなるべし。第一宮は延元三年九月、遠江井伊城に入らせらる。〔大日本史、南山皇胤譜〕) 氣比氏治 彌三郎大夫と稱す、氣比宮の祠官なり、大宮司に任ぜらる。延元元年、後醍醐天皇の延暦寺に行幸せらるゝや、城を金崎に築きて以て官軍に應ず。冬、新田義貞、皇太子及尊良親王を奉じて越前に下る。氏治、子齊睛と、迎へて金崎城に入れ奉る。敵将小笠原貞宗、来り攻む。齊睛、素より多力なり、矢島七郎・法眼賢覺等と撃ちて之を卻く。既にして翌春三月、城陷り、尊良親王自害し給ひ、氏治等殉死す。齊晴、舸舟を索めて皇太子を乗せ參らせ、無木浦に落し、土人に囑して杣山に入れ奉らしめ、復還りて城に入り、氏治の屍に伏して自殺す。〔大日本史〕明治三十年十月、父子、絹掛神社に祀肥らる。 ○延元の時、勤王の氣比祠官に兼代・忠宗・資宗・時直・忠久等あり。皆、其傳詳ならず。 金崎宮の伝説『敦賀郡神社誌』金崎怪異傳説 延元二年三月金崎落城後、風雨烈しき日は常に戦争の状景叫喚の聲が聞ゆるので、郷民等は恐怖して登山する者がなかった。時に應永二年加賀永安寺の小室眞宗此地に来りて、この由を聞き城址に登り、石上に端座して亡魂を供養し、自今亡魂出でず怪異あるべからずと言明した。郡司郷民等之を徳とし島明神の西南に一宇を建てて眞宗を居らしめた。因で眞宗は其の師匠の寳山宗珍を請じて、開山とし眞余は二世となった。これ今の永建寺にて開山忌に二代忌と稱する所以もここに存してゐるのであると。
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『敦賀郡誌』 『敦賀市史』各巻 その他たくさん |
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