丹後の地名 越前版

越前

樫曲(かしまがり)
福井県敦賀市樫曲


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福井県敦賀市樫曲

福井県敦賀郡東郷村樫曲

樫曲の概要




《樫曲の概要》
木ノ芽川を葉原の方へさかのぼる途中の谷合にある集落。市街地の東方。周囲は深く高い山地。旧木ノ芽道や国道476号、北陸自動車道上下線が通る。JR北陸本線の北陸トンネル(13.87㎞)南口には北陸トンネル列車火災事故慰霊碑がある。
地名の由来は南北朝期の金ケ崎合戦に、村人が樫の棒を急造し、その棒が折れるほど奮戦し、南朝軍を救援したことによるとの口碑がある。「太平記」巻17(16騎勢入金崎事)に「深山寺ノ辺ニテ樵ノ行合タルニ」とみえる。集落の西北の内池見の小字大平から東浦海岸の田結に通ずる山道がある。近江・京都へ塩を運ぶ道として利用されたという(東郷村誌)。
中世のカセガマカリは、戦国期に見える地名。「冷泉為広卿越後下向日記」延徳3年(1491)3月7日条に「カセガマカリ〈里ダケ〉」と見え、冷泉為広は敦賀から国府に向かう途中当地を通った。天正年間(1573~92)頃と推定される11月10日の本願寺顕如消息に、当地の真宗門徒が本願寺に懇志を送り、顕如がこれに感謝している(春照寺・宗願寺共有文書)。慶長国絵図には樫曲村と見え高491石5斗9升。
近世の樫曲村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)からは小浜藩領。枝村に深山寺・川北がある。享保12年(1727)の家数84(高持55・無高27・寺2)・人数449 (うち出家2・毛坊主3)、馬22。
開拓地は天筒山の東側で、北から内池見(12町)・中池見(外池見ともいい、25町)・余座池見(9町)からなり、その地形は溺れ谷と呼ばれる埋積谷で、かつては沼湿地であった。近世の開発は当村の久右衛門と五郎三郎が余座池見の開田を行ったことに始まる。万治元年・同2年(1658~59)に7反余・分米4石余を見た。その後中池見の新田開発に移り、寛文3年(1663)25石余をあげた。中池見の本格的な開発は貞享元年(1684)以降である。泥湿地の開発は排水路が不可欠で、貞享元年には200間の井溝を掘り、その後もこれに接続する井溝を設けた。同3年には藩から50俵の拝借米を得て開発を進め、同4年7反余の新田を開いた。元禄元年(1688)には「村中之百姓心付テ、我モ我モト開仕也」の状態となり、同3年中池見・余座池見の新田検地の結果、13町8反余・分米138石余の外高が高請された。開発には庄屋凡郎兵衛が尽力し、村人足を使って自ら新田48枚を開き1町8反余を開発した。延宝2年(1674)、木ノ芽川にかつて架かっていた樫曲橋を、奥5か村(葉原・新保・田尻・獺河内・越坂)が材木代を負担し、当村は人夫を出すことを申し合わせて再架橋した。元禄7年(1694)の大洪水で橋は流失したが申し合わせ事項により、長さ4間・8寸角材3本代など計銀57匁は奥5か村の戸数割で、人夫と橋掛けは当村が担当して架け直された。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に、戸数80(全戸農)・人数350、牛16(貨物運搬用)、産物は桐実42石,櫨実90貫・薪2万束・割本2万5,000貫・柿700貫・桑1,040貫。同22年東郷村の大字となる。
近代の樫曲は、明治22年~現在の大字名。はじめ東郷村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西13町余・南北2町、戸数71、人口は男198 ・ 女219。内池見・中池見・余座池見とも開発以前は老杉・諸樹木が密生していたらしく埋木が深み一面に散在し、耕作に多大の支障をきたした。昭和25年頃には火薬を用いて掘り上げ整地を行った。池見道は狹い一本道で収穫期の稲負い作業は厳しく,足の指を痛めない者はなかった。江が利用できる所は田舟で江尻まで運んだ。大正期に入り大八車の普及とともに道路拡張の必要に迫られ、大正13年車道に改修した。昭和10年頃からリヤカーが普及し同11年には一挙に20台が購入された。昭和55年一部が藤ヶ丘町となった。


《樫曲の人口・世帯数》 151・51


《樫曲の主な社寺など》

八幡神社

少し小高い丘の上に鎮座、右手の高架橋は北陸自動車道。
『敦賀郡神社誌』
村社  八幡神社  敦賀郡東郷村樫曲字稻荷
位置と概況 本區に東西北の三面は山嶺並峙し、僅かに南方の一面開けて木ノ芽道に通じ、北陸鐵道線路及び木ノ芽川に沿ひ、十六町餘にて朶村の川北及び深山寺區に至る、此地附近は、吉野朝時代瓜生の官軍と足利賊軍とが一大接戦を開始し、混戦中瓜生軍衆寡敵せず惨敗し、瓜生保及び弟義鑑、其他里見時成等の将士、相続いで戦死した古戦場である。樫曲の地名は、その當時村民樫の棒を持ちて賊軍と戦ひ、棒の折れ曲るまで奮戦したといふ、史實に起因すると傳ふるは牽強附會の説であらう。當區鎮守八幡神社は、區の南方を流るゝ木ノ芽川に沿ひ、三町餘の東端に稻荷と稱する丘陵がありて、其頂に西面して鎮座し給ふ。域内は獺ノ河内方面に通ずる新木ノ芽道に沿ひ、石階数級にして鳥居を潜り、これより更に曲折して築かれた、石階參道二十段を級し平坦地を進めば、本殿に詣づ。社後は杉林にて、南方は木ノ芽川に迫れる斷崖である。社域廣からざるは、丘陵上の平地のみを言へるものにて、事實は丘陵総體が神域とも稱すべき関係にありて、二十数年前までは松・杉の老樹多かりしが、伐採したとの事である。而かも地域は自から荘重森厳を保たれて、神々しき一境である。
祭神 譽田別尊
由緒 按ずるに、往昔より宇佐八幡社、又は奥宮と尊稱した。
口碑によれば、此の社地は、古来稻荷社の鎭座地であつたが、人皇三十四代、推古天皇の御宇に、池見殿と云ふ貴人この村に居住せられ、その住所附近一帯を池見の郷と稱した。曾々其家に一人の姫君が誕生したが、幼少の頃この地の田稗にて目を損ひ、之が原囚にて終に身まかりければ、池見殿哀愁の情止み難く、遂に病を得て薨去せられた。これより後、此の村人田稗を作れば目を損ふもの多く出で、人々之を池見殿の祟りと怖ぢ惘むので、池見殿の孫なる人が、此地に一宇の社殿を建て、神饌禮奠懈怠なかりしに、尚も目を損ふものが多いので、宇佐八幡大神を相殿に齋き祀りたりと傳へられてゐる。これ當社の宇佐八幡社の起原であるが、其後嵯峨帝弘仁年中區民は池見郷より加比留の奈麻須坂の麓に家を移して祟を避けた時、池見殿の後裔堀井氏を神主と定め、後に荒薦田・放生田を齋田に寄進した。然るに慶長三年諸國検地の時、神領を沒收されたので神主の後胤平太夫と云ふ人、今の地に鎭り給ひし奥宮稻荷社に奉遷して、區民と其に宇佐八幡宮を尊崇するに至ったので、稲荷の社名は何時しか消滅した。當社を奧宮と呼ぶは、當區入口に大照宮あるに封しての稱であつたが、此の大照宮も、明治の初年當社の境内に遷宮され、明治十一年八月二日村社に列せられた。
祭日 例祭 五月三日(元舊四月三日) 祈年祭 三月十七日 新嘗祭 十二月二日
本殿 …
境内神社 日月ノ宮 祭神不詳
 由緒
  元天筒山の中腹に座せしを、何時の頃にか八幡神社境内に奉遷したと云ふ。社殿方六尺流造平入瓦葺にて、殿内に更に笏谷石造の高二尺間口二尺五寸、奥行一尺五寸、これに二枚の石扉を附したる石祠がある。
 大照宮 祭神 天照皇大神
由緒 往昔より大将軍社、又は大縄宮とも稱した。當區入口の木ノ芽川に架せられた、大橋の側に欅の大樹がありて、その根本に石造の祠があつたが、明治の初年、水害其の他の故にて、八幡神社域内に奉遷した。氣比宮社記に諏訪八幡大将軍奉祭祀也とあり、敦賀志稿に氏神宇佐八幡社・稻荷社・大将軍社とあり。更に『此の村の北なる坂を土人かひるのなます坂と云ふ (同村越坂に越ゆる坂にて舊北国街道筋) 式に所載加比留神社の趾ならんか、今は社もなし』とある。本宮由緒參照、社殿方二尺石造祠造平入

傳説口碑 往古當區に、池見四位殿と呼びし貴人が住せられ、田稗に災されたとの説は、由緒に記した如くであるが、今も池見屋敷、池見の宮の馬場等の地名があり、又此の附近を池見郷と稱し、一帶の水田を池見田ともいつてゐる。元来此の邊の水田は、冷水湧出して、泥濘深く脛を沒する土質なれば、寧ろ田稗に適すれども、未だ曾て作りしことなきは、全く此の古事あるに由ると傳へられてゐる。(因に余坐附近にも池見と稱する地名があると)嵯峨天皇弘仁年中、池見郷に住せし土民等、居を附近の現地に移し、池見四位殿の子孫堀井氏を、祖神及び宇佐八幡神を祀る社の神主に定め、神田を寄進した。然して池見殿五十有餘世の孫、神主大屋太夫は、天正三年乙亥五月十日の夜、越前國一揆と交戰し、太夫共に十六人討死し、八人は傷を負ひて遁れ、其中に太夫の子にて、八歳の男吉家殘りて、池見大屋太夫の後を継ぎしが、慶長三年國々検地の時、神領を沒收されたれば、神主の子孫平太夫は、祖神及び八幡宮を樫曲の稲荷宮に奉遷したと云ふ。池見殿とは何れ縉紳貴族の後ならんも、年代其他詳でない。
神社附近の舊蹟 當區より西方數町の雄彦山上に、瓜生判官保公の墳墓がある。明治三十四年、末裔瓜生寅氏等此の地の史實を探りて之を建設した。


単立金鶏山深山寺(深山寺)

深山寺集落の木ノ芽川対岸、国道476号沿いにある。
深山寺集落は明治初期は、通称お山と呼ばれる標高165mの小山の東部平坦地に立地していた。第2次大戦後はこの山地から、木ノ芽川右岸の平地に移動した。最後まで残った願教寺本堂も昭和35年現在地に移築し、観音堂と願教寺の鐘楼のみが残った。しかし北陸自動車道が通過することとなり昭和50年頃を最後に旧集落の屋敷は跡形もなくなった。弘法大師開基と伝える観音堂は深山寺といい県道沿いに移築された。深山寺の世帯数・人口は、昭和12年16 ・ 91。

浄土真宗本願寺派願教寺(深山寺)

深山寺の願教寺は、眞宗本願寺派、西本願寺末、永正三年三月實如の弟子粟新創立、明治十二年十月二十九日寺號許可。

浄土真宗本願寺派遠慶寺

遠慶寺は、眞宗本願寺派、西本願寺末、永正七年十二月十日、實如の弟子宗悦創立。

浄土真宗本願寺派春照寺

春照寺は、眞宗本願寺派、西本願寺末、永正三年三月實如の弟子榮春創立、明治十二年十月二十九日寺號許可。

浄土真宗本願寺派即願寺(川北)

川北の即願寺、眞宗本願寺派、西本願寺末、天文十九年五月九日、證如の弟子祐玄創立。


瓜生保の墓

案内板に、
敦賀市指定文化財
史跡 瓜生保戦死の地
指定年月日 昭和三十六年三月三〇日
管 理 者 樫  曲  区
 瓜生保は、南北朝時代の武将で瓜生判官とも呼ばれ、南条の飽和(現・南越前町阿久和)の杣山城を根拠地としていた。
 延元元年(一三三六)新田義貞が後醍醐天皇の皇子である尊良・恒良両親王を奉じて越前に下ると、瓜生保は南朝方に属して戦功を挙げた。一度は北朝方の策略によって金ヶ崎城に立て籠もる南朝方を攻撃したものの、弟で僧の義鑑房らが杣山城で挙兵したことを知ると、再び南朝方に味方し、延元二年(一三三七)一月、五千余の軍勢を率いて金ヶ崎の救援に向かった。瓜生勢は北朝方の今川頼貞軍二万余騎と対峙し、激戦を繰り広げた。しかし、多勢には及ばず、保や義鑑房らは樫曲付近で非業の最期を遂げたという。
 王政復古後に南朝方の「忠臣」顕彰が進む中で、保をはじめ南北朝争乱の際に金ヶ崎で犠牲となった三二一人を祭神とする絹掛神社が建立された。そして、ここ雄彦(ゆうげん)山の一隅には、保の末裔で官僚・実業家として活躍した瓜生寅(はじむ)が、先祖をしのんで明治三十四年八月に墓碑を建立し、今日に至るまで地域の人びとの手によって守り伝えられている。
平成二十七年二月二十七日
敦賀市教育委員会


《交通》
かひるのなます坂・樫曲峠
八幡神社の先から左ヘ入ると「鹿蒜のなます坂」になり、その先に尾坂の集落がある。

写真は南向き、左を行くと樫曲の八幡神社へ出る、かひるのなます坂の途中か。右ヘ行くと田結へ出るのか、地図にもない道なので確かではないが樫曲峠というものかも知れない。もしそうなら塩の道である。


北陸トンネルと火災事故
北陸トンネルの南口は川北にある。福井県を嶺北・嶺南に分ける、その「嶺」を掘り抜いた総延長13,870m、出来た当時は、日本一長い鉄道トンネルだったが、その後に、どんどん長いトンネルができて、今では10位という。
このトンネル内で、昭和47年11月6日深夜に列車火災事故が発生した。当時は国鉄だったが、世界に誇る国鉄がその技術の粋を結集した交流電化複線の長大トンネルであり、最新鋭のものでその安全性は極めて高い、そのトンネル内で火災なんか発生するワケがないでしょう、安全安心に決まっとりますやろ、と列車火災対策がオソマツというより設備不備のにより、乗客乗員に死者30、負傷者714を出す大惨事となった。この事故が発生する3年前にも、このトンネル内で列車火災が発生し、機関士はトンネル内での停車はかえって危険と判断し「運転規則」(事故発生時は、それがどこであれ、その場で即時停車)に反して、トンネルを出てから停車し消防の応援を得て負傷者なく消火していた。これに国鉄当局は何も学ばず、かえって機関士を規則違反として処分していた。
昔の人はオロカやったんやと、笑えない、世界の最先端を行ってるつもりの現代人も同じである、何千回と大惨事を繰り返えしても、それでもまだわからない。少しばかりの技術力とサルより少しマシ程度の知恵をもっていたとしても、そうしたものは過信してはならない。現実はそんなに甘いものではない。短いトンネルしかなかった時代の安全神話のままで、長大トンネル時代も通用するものかと考えてもいなかった。
事故はだいたい次のようなものであったという。
下り夜間急行「きたぐに」が北陸トンネル内を走行中、15両編成の客車の11両目の食堂車から出火した(原因は暖房用ヒーターの漏電)。1時10分頃に車掌が乗客から出火を知らされ、直ちに非常停止の手配を取り、1時13分頃、敦賀口から5.3kmのトンネル内で停止した。 乗務員2名が消火器によって消火に努めたが火勢は衰えず、消火は困難と判断した。火災を起こしている車両を切り離して脱出することとし、1時24分頃、11両目の食堂車と12両目客車との間を60m切り離した。
1時29分頃、トンネル両端駅である今庄、敦賀両駅に救援を依頼するとともに、さらに9両目と10両目を切り離そうとしたが、1時52分頃火災の影響のため、下り線の架線が停電し、運転は不可能になった。
長大トンネル内であるため、約760名の乗客の避難誘導は困難を極めた。一部の乗客は、火災のためトンネル内に停車していた上り急行「立山3号」に乗り移り、今庄方面に脱出した。一部の乗客は徒歩でトンネル内を避難。また一部の乗客はいったん車外に誘導させられたものの、煙がひどいため客車内に戻り待機させられた。
2時43分に第1次救援列車、6時43分に第2次救援列車を敦賀駅から現場に送り込んだが、煙がひどくて近寄れず、トンネル内を避難する乗客を乗せて引き返した。残された者の中に犠牲者が出た、死因は一酸化炭素中毒などによる有毒ガスによるものであった。
列車の停止した箇所がトンネルのほぼ中央で乗客が徒歩で脱出するにはあまりにも遠かったこと、消火器以外には消火設備もガス対策も皆無で、管轄の消防組織には排煙車の配置もなく、またホースをトンネル内に延展することもできなかったことから、消火作業は何もできず、歩いて救助に行くことしか、しかも火元の列車には煙に阻まれるなど二次災害の恐れがあったことから、近づけないまま、恐らく何名もの人を残したままやむなく引き返すことになった。
排煙設備や消火設備を一切設置せず、別経路の避難口もなく、トンネル内の照明も運転の妨げになると消灯していた。一斉点灯させる回路もなかった。500箇ものスイッチを一つひとつ押していくより手がなかったという。
儲け優先でこうなったわけではないようだが、技術力過信の意外な盲点で発生したものであろうか。


《産業》


《姓氏・人物》


樫曲の主な歴史記録

『敦賀志』
樫曲村 小村深山寺川北、谷口村の北に在
 氏神宇佐八幡社・稲荷社・大将軍社、高福〔照〕寺〔東本願寺派高徳寺末〕・遠慶寺〔西本願寺末両寺共深山寺にあり〕道場春照・同願教〔西本願寺末〕・同宗願〔西本願寺派浄蓮寺末〕 此村の北なる坂を、土人かひるのなます坂と云ハ式ニ所載加比留神社の跡ならん歟、今ハ社もなし、太平記ニ義助義顕僅ニ十六騎に成にけり、深山寺のほとりにて、木樵の行逢たるに、金ケ崎の様を聞給ヘハ云々、此村薪を町に鬻を業とす、

『敦賀郡誌』
樫曲 谷口の北に在り。小字に川北・深山寺あり。深山寺は太平記に高師泰、金崎の寄手の國々へ逃歸るをとヾめん爲に、此處に關を置きたる事見えたり。又同書に義助・義顕僅十六騎にて杣山より歸りたる條に、深山寺のほとりにて、木樵の行逢たるに、金崎の樣を聞給へば云々とあり。日本行脚文集に深山寺、古戦場と見ゆ。〔古戦場に非ず〕 氏神、八幡神社、村社、境内社、大照宮、〔もとは大将軍社とも稱す。〕
春照寺、眞宗本願寺派、西本願寺末、永正三年三月實如の弟子榮春創立、明治十二年十月二十九日寺號許可。 願教寺、同派同末、永正三年三月實如の弟子粟新創立、明治十二年十月二十九日寺號許可。 宗願寺、同派同末、もとは敦賀淨蓮寺末、文龜三年十一月實如の弟子宗誓創立、明治十二年十月二十九日寺號許可。同十年 明治天皇御巡幸の際、御休憩所に充てらる。 即願寺、同派同末、川北に在り、天文十九年五月九日、證如の弟子祐玄創立。 遠慶寺、同派同末、永正七年十二月十日、實如の弟子宗悦創立。 高照寺、眞宗大谷派、敦賀高徳寺支坊、元禄二年三月創立、明治十三年二月支坊及寺號許可。 観音堂。 邑の北越坂へ越す坂をかへるのなます坂と稱す。


樫曲の伝説




樫曲の小字一覧

樫曲  獺谷口 向イ 堀 稲荷 水上 村上 東本庄 西本庄 ガケ下 湯田 上高木 中高木 加無呂坂 下高木 南走出 真内 連谷口 一曲 西谷口 川北 神田 経ケ鼻 井川瀬 大坂 三反田 小岩下 下猪鼻 上猪鼻 野瀬 細谷口 坂ノ尻 笹谷 折柳谷 折越谷口 庄谷口 峠谷 峠谷前 割谷口 梅木谷 西梅木谷 東梅木谷 割谷 藤右ヱ門谷口 大松谷口 五良兵衛谷口 甚九郎谷口 真谷 奥大平 口大平 コモ田 椿元 山鼻 狸田 〆田 八反田 金糞 狭間 口池見口 中池見口 後谷 勝屋谷口 江尻 分田 蛇谷 鳥越 支洞 新田 ダコノ本 三ツ又 四反田尻 中四反田 四反田 北七曲 南七曲 笹鼻 北堀切 栗水谷 中堀切 奥堀切 畝開 取合 干丈谷 西山 東走出 北走出 馳セ出南 馳セ出北 割谷 細洞 槻谷 大平 縄方 井口谷 兵ケ谷 前谷 広畠 馳谷 クルビヤ谷 ヲジヤ谷 滝ヤ谷 ミチコ谷 寺尾口無山 獺谷小林 大田ケ谷 横欠 二道ケ谷 横尾ノ首 堀田 北水上 一ノ谷 二ノ谷 狸岩 青焼田 三ノ谷 四ノ谷 又ケ谷 堂山 ユウゲン 深山寺 東千丈 西千丈 西谷ノ内 割谷 西谷ノ内狼谷口 西谷ノ内狼谷 西谷ノ内御時 西谷ノ内丑ケ洞 西谷ノ内滝谷 西谷ノ内キケウ 西谷ノ内コラ谷 西谷ノ内沓掛 西谷ノ内穴谷 西谷ノ内滝ノ平 西谷ノ内荒谷 西谷ノ内鉄炮洞 西谷ノ内直谷 西谷ノ内直谷口 火ノ水 西谷ノ内横井谷 西谷ノ内実ヤ谷 西谷ノ内ヤシラ畑 西谷ノ内伊ラ谷 フタ又谷 西谷ノ内フタマタ谷口 西谷ノ内雛ケ洞 西谷ノ内マムシ谷 西谷ノ内マムシ谷口 西谷ノ内ケイセ谷 西谷ノ内ケシヤ谷 西谷ノ内戸谷 西谷ノ内猫谷 西谷ノ内鼡谷 西谷ノ内鼡谷口 西谷ノ内ジヤケツ洞 西谷ノ内新林 西谷水上 経ケ鼻 長者藪

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん


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