丹後の地名 越前版

越前

古田刈(こたかり)
福井県敦賀市古田刈


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福井県敦賀市古田刈

福井県敦賀郡中郷村古田刈

古田刈の概要




《古田刈の概要》
金山バイパスが笙の川を渡る東側一帯。笙の川と黒河川との合流点付近の笙の川右岸に位置する。東側に中郷小学校があるが、その裏山は岡山と呼ばれる小独立丘で、この山について「敦賀志」に「平田中に孤立す、周囲十丁余、或人是ハ古墳可成と云り、畿内の国々に在陵墓に類せり、神代の人の墓なるへし、此山の木を切とれハ祟り有とて諸人恐怖して今尚不切」と記す。
中世の古田苅は、室町期から見える地名で、永享2年(1430)5月27日の斯波義淳西福寺寺領安堵状(西福寺文書)に見え、「〈古田苅内〉壱段小〈実吉名免田〉」とあり、西福寺領として安堵されている。文亀3年(1503)9月10日の西福寺寺領目録に「弐段小田苅」とある。慶長3年(1598)の道口村検地帳写には「こたかり」からの入作五郎三郎が見える(石井左近家文書)。
近世の古田苅村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、天和2年(1682)からは旗本酒井氏知行(井川領)。享保12年(1727)の「敦賀郷方覚書」に、家数62(高持27・無高33・寺2)・人数317 (男152 ・ 女160 ・ 出家5)、馬24。また「敦賀志」に、「此村蕪を産す、甚甘美にして郡中第一と袮す」とある。明治3年本保県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に、戸数59・人口98、荷車31、産物は莚4,000束・菜種50石。同22年中郷村の大字となる。
近代の古田刈は、明治22年~現在の大字名。はじめ中郷村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西3町余・南北2町余、戸数57、人口は男145 ・女174。


《古田刈の人口・世帯数》 1623・743


《古田刈の主な社寺など》

八幡神社

『敦賀郡神社誌』
村社 八幡神社  敦賀郡中郷村古田苅字上出
位置と概況 本區は東北九町の啜道を經て長澤區に隣し、西は笙ノ川及び黒河川の二川を隔てゝ、粟野村野神區和久野區と境し、四方は田野に圍まれてゐる。氏神八幡神社は區の南端に當り、社域の東北附近には人家がある。社地と道路とは、高さ二尺ばかりの石垣を優美に築き、境を劃してゐる。社域は低き石垣にて三區に劃され、中央の低き石垣を上りて、更に高さ約三尺の石垣を築かれ、この中央に設けられた數級の石階を上れば、本殿は北面して鎭座し給ふ。其の後方僅かの森を隔てゝ田園となれども、大小の樹木繁茂して神厳を保ち、防風林を兼ねてゐる。東西北の三面は道路を隔てゝ人家の耕地である。本殿は大正の御大禮記念としで改築せられ、社標・石燈籠、其の他も同時に建設せられて、域内の統一整備に力を盡したる爲め、近時その面目を一新し、日に月に神厳を加へつゝある。鎭守の森は一區の望みを娶め、殊に初秋には氏子の集團が単位となって、この社域に簡素なる飾りをなし、神燈を點じ青年男女が團陣を作って、所謂無垢な郷土芸術盆踊が、古風のまゝに行はれる。
祭神 應神天皇
由緒 按ずるに、當社は岡山と稱する、東方數町の田圃の中に孤立せる瓢形の丘陵の頂上に、往古より鎮座し給ひしを、中古村人某に霊夢がありて、神慮のまゝに、今の地に奉遷したと傳へてゐる。その年代は詳かでないが、傳ふる所によれば、永徳年間なりと云はれてゐる、明治十一年三月村社に列せられた。
  〔附記〕 敦賀志槁によれば、「或人是は(岡山)古墳なるべしと云へり。畿内の國々に在る陵墓に類せり。神代の人の墓なるべし。此山の木を切りとれば祟り有りとて、諸人恐怖して今尚切らず」とあり。岡山は陵山とも書いたと言へば、古墳の如くなれども、尚地質より考察すれば、多くの疑問も存し、考證の據るものなきを遺憾とする。
祭日 例祭 五月十目(元舊四月三日)
放生會 今は九月十五日なるも、元は舊八月十五日放生會と稱して祭典を行ひ、境内で太鼓を叩き、又神前其の他に多数の神燈を點じ、細き割竹に紙造花を附して、枝垂櫻の如くにした傘鉾を、廣場中央に高く樹て、之に裝飾を施し、之を中心に團陣を作りて、踊り明すのである。踊子の中には単調なる變装をなすものもある。囃や歌は他地方のそれと同じで、別に特色はない。多くは軽い里謡で、「盆の十六日二度あるならば、背戸の枯木に花が咲く」と云ふ樣な調子のが用ひられてゐるが、又段物をも用ひることになつてゐる。
本殿 …
産土社 本殿の外殿向つて右側に、方三尺の一社殿がある。これは明治維新の神社調査の際、神體が佛形なりとして改められたので、其の佛形木像をこの殿に奉安したのである。區民は産土社と尊稱してゐる。故に今は寶物としての記述を避けて、産土社としたのである。

境内に「古田刈かぶら発祥の地」の碑がある。
古田苅かぶらの歴史は古く一九七五年頃まで各農家て散培されていました。葉はやや大きく、玉は艶のある色白で皮薄、形は丸く平べりたい。種子は代々自家裂で早生稻を刈り取った後に蒔き、肥料のほとんどは下肥をやり、間引き菜を束ねて籠に入れ近くの町へ売り歩いて生活の支えにしていたのです。
その後農家の人手不足やかぶらに根コブ病の発生などから作付けが次第に落ちこんでいった一九八五年、復活をかけた研究グループが発足、以後五年間、敦賀市や普及センター等の協力を得ながら取り組んてきましたが、思わしい成果は得られず今日に至っております。
しかし、先人逹が苛酷な中から築き上げ今でも味の良い特有の風味を懐かしむ人が多い。この幻の特産を末永く後世に伝えろために建立したものです。
古田苅農家組合・古田苅かぶら研究会 平成九年十一月吉日


真宗大谷派燐岡山隆法寺


真宗大谷派指月山西誓寺
西誓寺は、隆法寺と境内が同じなのか、地図によれば、写真の左奥にある。

『敦賀郡誌』
古田苅 長澤の西南にあり。西福寺永享二年寺領目録に古川苅とあり。 氏神、八幡神社、村社。 西誓寺〔指月山〕、眞宗大谷派、東本願寺末、もとは旭無量寺末、開基西賢、正保元年創立。 隆法寺〔隣岡山〕、同派同末、本願寺九世實如巡化の際、村民歸依して一宇を建立せんことを請ふ。寳如因て弟子信念をして當寺を創建せしむ。東に小丘あり、岡山と云ふ。〔此山の木を切れば祟ありとて、諸人今に切らずと云ふ〕。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


古田刈の主な歴史記録



古田刈の伝説





古田刈の小字一覧

古田苅  岡山 岡山前 岡山下 蛇田 村東 畑ケ田 別道 上出 東出 北出 村下 尻細 蕃フゴ 岸ノ上 稲葉尻 水掛 大田 蛭田 西出 出義 上河原 砂子田 外河原 小松原 葺木 梁場 中川原 三反田 小野田 庄堺 下河原 ?窪 下丹蔵川原 土山 向川原 上丹蔵川原 御所尻 柳原 岡ノ腰 鴻ノ巣 河原 大土居 丸山 六反田 厚街道 西街道 高畑 加良加良 ザル 岡山北 辻堂前 辻堂 乞喰作 石ケ町 壱丁田 南海道 五反田 高岸 石川 瀬戸川 堅梨子 砂瀬 美ノ渕 東中川原 剣先

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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