丹後の地名 越前版

越前

公文名(くもんみょう)
福井県敦賀市公文名


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福井県敦賀市公文名

福井県敦賀郡粟野村公文名

公文名の概要




《公文名の概要》
市街地の南部、粟野南小学校があるあたりになる。公文とは荘園で公文書を扱う役職の人で、荘園の公文サンの名田があったことに由来するのであろう。舞鶴市にも同じ公文名(くもんな)の地名がある。クモンとかクモンナとか呼んでいる。
中世の公文名は、室町期から見える地名で、応永23年(1416)4月25日の田井行久寄進状(西福寺文書)に「合壱段大者〈在所公文名之内、真福寺之東大垣のそへ〉」とあり、この地が真福寺に寄進されている。田井行久は同25年12月24日にも公文名のうちを西福寺に売却している(同前)。同27年11月22日の真福寺敷地寺領目録并外題安堵(京大古文書集)に「六段 公文名内真福寺東北山王馬場内」と見える山王は、現在の日吉神社のことであろう。以後戦国期にかけて「新道公文名」「公文名貞重」「道口公文名」などと見える(西福寺文書)。慶長国絵図では粟生野郷1,911石余の一部。
近世の公文名村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、寛文8年(1668)からは安房勝山藩領。宝暦7年(1757)の公文名村指出帳に家数73(寺3・山伏1・高持61 ・ 隠居6・無高2)・人数237 (男107 ・ 女128 ・ 出家2)、馬17 ・ 牛1。明治4年加知山県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に戸数66・人口282、牛3・馬17、荷車5、産物は菜種23石、莚3,200束、縄150束。同22年粟野村の大字となる。
近代の公文名は、明治22年~現在の大字名。はじめ粟野村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西3町・南北10町、戸数62、人口は男176 ・ 女169、学校1。第2次大戦後、食料危機の応急措置として、また復員者・引揚者・戦災者を中心とした失業者への就業対策として政府は昭和20年に「緊急開拓実施要領」を、さらに同22年には「開拓実施要領」を制定し、これに基づいて当地でも入植が実施され公文名開拓農協が設立された。一部が昭和42年新和町1~2丁目となった。


《公文名の人口・世帯数》 3122・1095


《公文名の主な社寺など》
天満神社
字堂の上に鎮座する日吉神社と字宮ノ下にある天満神宮。日吉神社を下ノ宮といい、祭神は大山咋命。旧村社。天満神宮を上ノ宮といい、祭神は菅原道真で相殿に藤原利仁を祀る。旧村社。応永24年6月9日付田井行久田地寄進状(西福寺文書)にみえる「山王馬場」は天満神宮のことで、「敦賀志」は「氏神山王社天神社、利仁冊軍を崇祀すと云」と記す。




『敦賀郡神社誌』
村社  天満神社 敦賀鄒粟野村公文名字宮ノ下
位置と概況 本區の氏神鎮守は兩社あるが、里人當社を上ノ宮、日古神社を下ノ宮と稱する所以は、日吉神社の條に述べた如く、鎭座地の地理的位置より起つた稱呼である。公文名區の地名に就ては、延喜時代藤原利仁將軍の政令を出した、公文所(政所)を置かれた地なるが故に、その名が存するとのことである。こゝに博覧多識高徳の菅原道眞公を奉齋せる神社が鎭りますのは、其の所以あることで、即ち利仁將軍の子孫の居住せし所には、必ず菅公が祀られてあるが、特に當所の如きは最も深い關係が存するのでこれは當然のことである。本社は區の略々中央の南端に東面して鎭座し給ふ。社域は平坦にて、これを二區分してある。先づ道邊に立てられた社標の側より鳥居を入り、廣き境内を進むと、正面高さ四尺の石垣を築き、中央に五・六級の石階を設け、この上地に本殿が鎮りまし、その左側に末社金比羅神社が鎮り給ふ。それより左方更に十数歩の林中に、寳筐印塔の塚がある。これが利仁將軍の供養塚なりと古くより傳へられてゐる。社域の東南北の三方は人家にて、社地に連接した東方は社家菅井氏の住宅である。社域には常緑樹の椎の古木等多く、老杉又その間に介在して、蒼然森厳な空氣を漂はせ往昔よりの名祠たるを偲ばせてゐる。他の多くの神社に於ける場合と同じく、之に關する明確なる考證の據るべきものは乏しいが、何人の口にも如何に古社なるかを推想せしめ神威犇々迫り來て自から辱なさを覚ゆるのである。
 ゆふ日さすみやこへとほき山里は
    神代にちかきふりそ殘れる   靖國神社宮司 賀茂百樹
祭神 菅原道真公 相殿 藤原利仁公
由緒 當社の由来を按ずるに、氣比社記・敦賀志稿等に公文名村天神社とあるは、即ち當社であつて往昔より天神と尊稱し奉り、遠近の崇敬厚き郷土の名祠である。今當社の縁起に徴するに、越前國敦賀郡粟野村大字公文名は、舊野坂庄粟生野郷の一村にて、舊社あり天満神社と號す。祭神贈大政大臣正一位菅原朝臣道實公にて、寛和年中の創立てあつて、後越前守兼北陸道押領使從四位下藤原利仁公を配し奉る。抑々當粟生野郷は、殊に威福無雙の利仁公の恩恵を蒙りたる土地にて、今尚其の家臣の末裔で藤原姓を冒すもの三十戸あり、維新の際までは帶刀を兔ぜられ、普通郷黨の上に位した農村稀に見る村柄で、古来毎年正月十七日當社に參集して、利仁公の恒例祭を奉仕してゐる。斯の如く古来利仁將軍を尊崇せしのみならず、當村及び當社と利仁將軍とは、最も深き縁故を有し、現にその將軍の家臣末裔が存續して此の地に住する以上、古来の遺風を継承して、菅公を奉祭し、尚且つ利仁公を祀るは當然のことである。更に別項大日本人名辞書の解説並に宇治拾遺物語の利仁薯蕷粥の事を探録して、當村と利仁將軍の關係を明かにして置く。元祿十三年六月の水帳に依ると、社領に御祭田並に御供田・御修覆田を有し、粟生野郷中を宮百姓と呼ぶは、當社との深緑を物語るものである。明治九年七月十七日村社に列せられた。
祭日 例祭 九月二十五日 祈年祭 三月二十八日 新嘗祭 十一月二十六日
特殊行事 毎年一月十七日、配神藤原利仁公家臣の末裔なりと傳ふる、粟野村公文名・山・御名・砂流の四字に在住の藤原姓の者三十人は往昔より講中と稱へ、當社に参集して利仁公を祭る。此の日は拂曉より各自沐浴齋戒し、荘重に祭典を厳修する恒例で、往時は特に一軒の風呂屋さへ定められて、厳重な潔齋したもので、當時の風呂屋と呼ぶ屋號の家が存してゐた。(今は廢絶して屋敷趾のみが殘つてゐる)
本殿…
境内神社
 金刀比羅信心 祭神 大巳貴大神

境内地舊蹟 將軍塚 往昔より将軍塚と稱する、利仁將軍の供養塚と云ふが社域西南隅に在る。周圍八間餘は石垣を以って方形に、高さ約二尺位を繞らし、中央に高さ四尺餘の寳篋印塔が建てられてある。
古墳舊趾地 當社域の東南隅より、最近古墳の石槨を發見した。盛土の封土は元四尺程ありしかと云ふが、明治初年整地の際に排除されたものであって平坦地であったが、最近更に境内地修繕工事の作業中、地下に石槨の側石等を發見し、土砂を除きたるに、四尺に六尺長方形の石槨なる亊を確めた。内部細砂を以て敷詰め、土器一點刀剣の端片を發見した。此の地の古老の言によれば、當社には高貴の方の塚が何處にかあるとの口碑なれば、多分これを稱へ傳へてゐたのであらう。維新以前に社域の整地を行ひたることあれば、其の頃深く研究もせず、無心に掘りたるものにて、出土せる遺品等は皆散逸し、其際収り残したるものを發見したのであらう。此の舊趾は古代の祭趾とは、全然其の趣を異にしてゐるのみか、尚當社石垣の石材中にも、古墳に用ひられたるが如き巨石が使用されてゐるのも、それ等を物語るのであるまいか。
利仁將軍の鞍塚 當神社の東北方三町程を隔りたる所に鞍塚と稱する方六尺餘りの小塚があり、椿の古樹一本が繁茂してゐる。この塚は利仁將軍の乘馬具を埋めた所で、古来此の塚には茅草が生えぬと言ひ傳へてゐる。
砂流區特殊神事勸請弔の舊地 利仁將軍の乘馬具を埋めたと稱へられてゐる鞍塚は、公文名區の元特殊神事であった、勘請弔が行はれた舊地であったが、何時の頃にか、この古例は砂流區に移りて了ったのである。(砂流區高岡神社の章參照)


日吉神社


『敦賀郡神社誌』
村社   日吉神社 敦賀郡粟野村公文名字堂ノ上下
位置と概況 本區は南方二十餘町にて山區に、西南八町にて御名匠に、北方は十町にて和久野區に隣してゐる。黒河川は區の東方を流れ、和久野區の東方にて笙ノ川に合流する、區の西北方は砂流區を隔てゝ、第十九聯隊の演習地である。鎮守日吉神社を俗に下宮と稱してゐるのは、これ當區の上方に天満神社鎮座し給ふが故の對稱語にて、全く両社鎮座地の地理的位置より起りた稱呼に過ぎぬ。當社境内は平坦地にて社域を二分して、先づ鳥居を入り石橋を渡つた左側に稲荷神社が鎮座し、側に手水舎があり、右側には竹生島社の末社が鎮る。こゝより更に進むと、高さ四尺の石垣を廻らし、正面中央に五級の石階を設け、これを上ると本殿は東面して鎮座し給ふ。本社の左右両側には、魂宮・西宮の兩末社が鎮座し給ひ克く整備された社域は、區の中央よりも稍々南西に位し古椎多く、これに次で杉等の常緑樹の繁み深く敬虔の念を一層に深めさせてゐる。公文名の里道より人家及び田野を一町餘隔てた向ふの群青の森の間に、社殿と鳥居の一部が隠見して拜せられる。
祭神 大山咋命
由緒 按ずるに、當社は往昔より山王權現又は山應社と尊稱し、郷土の尊崇厚く西福寺文書、應永二十四年六月田非行久寄進状、同二十七年眞福寺々領目録に「公文名山王馬場」の文字の見ゆるは、即ち當社の事にて、その由緒の古きことを推想される、明治九年七月十七日村社に列せられた。
祭日 例祭 五月十一日 祈年祭 三月二十八日 新嘗祭 十一月二十八日
本殿 …
境内神社
稻荷神社 祭神 倉稻魂命
魂宮 祭神 大巳貴命
西宮 祭神 蛭子命


浄土宗無量山福智院


大蔵寺
福智院と同じ住所となっている。統合されたのであろうか。
寺院は浄土宗福智院・大蔵寺・慶音院・真福寺、修験仙養院。大蔵寺はもと地蔵堂であったが改称した。慶音院はのち昭和12年福智院に統合され、廃寺となる。真福寺・泉養院は、その後廃寺。

『敦賀郡誌』
公文名  御名の東に在り。西福寺文書應永二十三年四月の寄進状に公文名、同廿四年二月の借用状に新道公文名とあり。 氏神、日吉神社、村社、西福寺文書應永二十四年六月田井行久寄進状、同廿七年十七日眞福寺々領目録に山王馬場とあるは本宮の事なるべし。明治九年七月十七日、村社に列せらる。 天満神社、村社、或云、祭神利仁將軍なりと。宮守、仙養院相如寺、三寳院配下、今廃す。明治九年七月十七日、村社に列せらる。境内神社、稻荷神壮一社あり。境内に鞍塚と稱する古塚あり、小き賓篋印塔形の石塔を安す、(笠石を失へり)何人の墓なるか詳ならず。 福智院。 慶音院、共に淨土宗鎮西派、原西福寺末。 大蔵寺、同宗同末(明細帳福智院末とす)本尊地藏尊。地蔵堂。廃寺、眞福寺、宗旨等詳ならず。山王馬場の西南に在りき。應永廿一年以来公文名の人田井行久等、田地寄進の事あり、同廿七年三月斯波義持・義重の位牌安置するが爲め、燈明田として、片山掃部助田地を寄進す。同年十二月、斯波義諄、寺領を安堵せしむ。其後の亊詳ならず。或は西福寺に併合したる者か。(西福寺文書)


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


公文名の主な歴史記録



公文名の伝説

『越前若狭の伝説』
将軍塚  (公文名)
 天満神社境内の西南のすみに高さ四尺余りの石塔が建っており、その周囲は自然石をもって石がきが方形にめぐらされている。ここは藤原利仁将軍を祭った所であるという。
 なおこの神社の東北方三町ほど隔てたところに、鞍塚(くらつか)といって、つばきの古樹が一本繁茂している小さいつかがある。ここは利仁将軍の乘馬具をうずめた所で、このつかにはかやがはえない。
 公文名は、利仁将軍の公文(くもん)所(政所)があった地なので、この名がある。
           (敦賀郡神社誌)

将軍塚と称するつかがある。利仁将軍の供養づかであるという。    (福井県神社誌)



公文名の小字一覧

公文名  堀 中通り 大田 八反田 和久野上 水上 竹ノ下 観音 海道 下野 捨鷹 又木田 瓜屋 三反田 木戸ノ上 篠ノ腰 傘松 小久保 堂々久保 狐穴 越前田 松木海道 中斜 時繁 初ン場 上捨鷹 ?山 下田 登り足田 堂亀 堂海道 与門下 久保海道 向田 辻川 池田 上堂ケ久保 胡摩畑 良方 細廻り 大黒 林ノ腰 長塚 道ノ下 下町界道 大将軍 大水口 坂谷西 折戸 拾枚田 中西前 上良 堂ノ上下 堂ノ前 堂土井 井輪保 墓ノ久保 中野 野田 東良 稲場 宮ノ下 田尻 宮ノ森 天神林 譲俣 山崎 山道ノ下 山橋ノ土 林屋ノ上 林屋 川向 枚野 向原 平山 狼谷 ジャブ谷 ヲボ谷 平石 緑ケ丘


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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