鞠山(まるやま・まりやま)
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福井県敦賀市鞠山 福井県敦賀郡東浦村鞠山 |
鞠山の概要《鞠山の概要》 西部の田結崎西海面が埋め立てられ、敦賀新港や海浜公園や火電などが建設され、大きく変貌している。北海道行きのフェリー・ターミナルもある。 鞠山は、大正2年~現在の大字名。はじめ東浦村、昭和30年からは敦賀市の大字。もとは東浦村赤崎の枝村。江戸前期は赤崎浦の一部で 《鞠山の人口・世帯数》 75・46 《鞠山の主な社寺など》 鞠山遺跡・田結崎製塩遺跡 今は海面が埋め立てられ、海浜公園になっているが、このあたりを笠朝臣金村が舟で通りかかり、塩焼くケブリを見たのでなかろうか。手結が浦は写真でいえば、右手の湾の奥になる。そのあたりは遠浅で知られる海水浴場となるためか、あちこち駐車禁止立入禁止とかの規制があり、ロープが張ってあり、誰かの所有地なのかも知れず、勝手に入れる路らしきものを見つけられず海岸まで近づけなかった。 『万葉集』巻3に、 角鹿の津に船に乗りし時に、笠朝臣金村の作りし歌一首短歌を并せたり 366 越の海の 角鹿の浜ゆ 大船に 真梶貫き下ろし いさなとり 海路に出でて あへきつつ 我が漕ぎ行けば ますらをの 手結が浦に 海人娘子 塩焼く煙 草枕 旅にしあれば ひとりして 見るしるしなみ わたつみの 手に巻かしたる 玉だすき かけて偲ひつ 大和島根を 反歌 367 越の海の手結が浦を旅にして見ればともしみ大和偲ひつ 遺跡は鞠山の沿岸部に所在する製塩遺跡で 鞠山神社 鞠山という山は神社の背後の山なのかも知れない。このあたりに鞠山藩陣屋があった。その跡地に建てられた神社である。案内板がある。 鞠山神社
天和二年(一六八二)、小浜藩二代藩主酒井忠直から、次男忠稠(ただしげ)が一万石を分領され、赤崎浦塩込に陣屋を築き、この地を「鞠山」と改めて、「鞠山藩」を開いた。小藩ながら歴代藩主には寺社奉行・若年寄などの要職に就く者もいた。明治二年(一八六九)、人材育成のため藩校「日新館」を設立。その藩士の多くが新時代の先駆者となって、敦賀の教育・文の発展に貢献した。その功績と理念は、今も脈々と引き継がれている。 明治三年(一八七〇)、鞠山藩は宗藩小浜藩と合併。「…君臣ニシテ其ノ情父子ノ如ク、領民ヲ愛撫シ、廣ク徳政ヲ布カレ候」の鞠山藩は、領民に惜しまれつつ廃藩となった。 明治三八年(一九〇五)鞠山藩の消滅を憂う地区住民と元藩士らが初代藩主酒井忠稠の二百回忌に合わせて、既存の鞠山藩の稲荷神社に、藩祖忠稠を合祀し、社名を「鞠山神社」と改めて、この鞠山藩陣屋跡地に創建した。 神殿には、歴代藩主の略歴巻子本、斬馬剣と由緒書、陣屋絵図面、鞠山の鳥瞰図などが奉納されている。陣屋を中心にして、稲荷神社・砲台・民家・寺院・地蔵堂などが描かれた鳥瞰図は、鞠山藩と共に歩んできた鞠山区の貴重な歴史資料になっている。 由緒書には、慶応四年(一八六八)、若年の八代藩主忠經(ただつぐ)を蔑ろにし、藩政を思いのままにと企てる家老が、主家の存亡を危惧した青年藩士五名に斬殺された事件の経緯が記されている。宗藩に自首し、強く自裁を望んだ五名は、藩士としての一分を推重され、明治五年(一八七二)四月、松原村来迎寺門外にて切腹した。同寺には敦賀町民の募金によって、墓碑が建立されている。 当神社では、毎年七月十二日、鞠山藩の歴史を偲びながら、祭礼が執り行われています。そして、各家々の鎮守と五穀豊穣・商売繁盛・学業成就の祈願をしています。 謹白 『敦賀郡神社誌』 無格社 鞠山神社 敦賀郡東浦村鞠山字南端
位置と概況 右區は當村の西南端に位し、出方約一里にて敦賀町に近接し、東南十二町餘で赤崎區に隣りしてゐる。元此の區は赤崎區に屬し、汐込と稱したのを、天和二年九月酒井忠稠公、此の地に藩邸を置き、鞠山と改稱されたのであるが、大正二年七月一日、赤崎より分離して一區をなしたのである。人家の多くは北陸道に沿ひ、氏神鞠山神社は區の西南に座し、東北の一部は畑を隔てゝ人家に近接し、西南の大半は海に臨んでゐる。社殿は、國道から約半町を入つた半島上の境内約一尺の上段に、南面して鎭座し給ふ。其の繞らせる板玉垣は、鬱蒼たる松樹の間にありていと荘厳である。社域附近の海岸は奇石怪岩横はり、銀鱗??游泳して勝景の地であるが、近時産業の発展につれ、石灰製造業の繁盛を極め、彼の翠緑滴らんとする封岸福浦灣の汀連きの山林に、原石採掘の瘢痕を留め、常線の社有林に白徽を生ぜしめて、風致を損すること夥しきも、遠近の風光畫の様である。 祭神 保食神、酒井忠稠公 由緒 按ずるに、當社は寶暦元年酒井忠香公の創立にかゝり、明治二十一年十一月七日赤崎區地籍に奉遷したが、明治三十八年三月二十二日、今の地に再び奉遷し、同時に舊鞠山藩祖酒井忠稠公を合祀し、舊稱の稻荷神社の社號を鞠山神社と改稱し奉り、無格社に列せられた。現在の社殿等は其の時に改造、或は新設されたものである。 祭神 酒井忠稠公世系 酒井忠勝-忠直-忠稠(鞠山藩酒井忠直二男 寛永三年六月三日卒 五十四歳)-忠菊-忠武-忠香-忠言-忠?-忠毘-忠経(明治三年六月十七奉還封土) 祭日 例祭 七月十二日 祈年祭 三月二十三日 新甞祭 十一月二十六日 境内神社 … 真宗仏光寺派光照寺 『敦賀志』 光照寺 鞠山ニ在 仏光寺末
鞠山神社の周辺である。当時の建物などは何も残っていないとのこと、今の建物はあるが路が狭くて対向車があると困ると思い、入ってはいない。グーグルのストリートビューが入っているので、関心ある方はそちらを見て下さい。 江戸期の藩名。「まるやま」「まりやま」ともいう。譜代小藩。天和2年(1682)酒井忠稠が小浜藩から敦賀郡のうち5.000石と近江国高島郡のうち5,000石、計1万石を分知されて成立した。なおこのとき井川領(敦賀郡)も成立した。敦賀郡内の所領は、元比田・大比田・横浜・杉津・阿曽・挙野・五幡・江良・赤崎・田結・田尻・獺河内・池河内・大蔵・谷・高野・小河・奥野・曽々木・和久野・原・本崎(844石余中842石余、残りは小浜藩領)および南条郡菅谷村(正保郷帳では敦賀郡)の23か村で以後も変わらず、検地はしなかったので内高にもほとんど変化はない。戸口は、同3年799戸(高持637・無高162)・4,197人(男1,941・女2,163・出家など93)、享保14年(1729)5,573人(男2,684 ・ 女2,794 ・ 出家など95)。忠稠は貞享4年赤崎浦塩込に陣屋(鞠山役所)を設け鞠山と改めたので鞠山藩という。忠稠のあと忠菊一忠武一忠香一忠言一忠藎一忠毘一忠経と続いて廃藩に至る。貞享3年(1686)の年貢高は2,935石余(58. 7%)でかなり高額であった。藩主が定府であったこともあって、はじめ小浜藩の支配に委ねられていたが、忠香の宝暦8年(1758)から郡奉行を派遣して直接支配するようになり、下役の郷代官や手代には地元の有力者をもってあて、町会所も敦賀の御所辻子に置いた。忠香は同11年寺社奉行となったが、天明6年(1786)陣屋が焼失したため幕府から2,000両貸与されている。明治2年の版籍奉還によって敦賀藩と公称され、敦賀港とまぎらわしいため同3年3月鞠山藩と改称したが、同年9月には小浜藩と合併した。 陣屋が設けられた時期は敦賀郷方覚書では貞享元年(1684)、「酒井家編年史料稿本」では同2年のこととし、「中山正弥文書」によれば同4年に「御屋形」の普請が完成したと記している。陣屋は領主の屋敷として建てられたもので、東西37間・南北31間、本陣総坪数101坪、ほかに長屋(151坪)・土蔵・乗物小屋(75坪)・門番所などが設けられた。玄関から門まで16間、表門から海際までは28間あった。藩主は江戸定府が基本でほとんど領地に来ることはなく、陣屋に郡奉行2人・郷代官3人・手代2人を置いて支配にあたらせた。郷代官は大庄屋とも呼ばれた。鞠山役所の名で出される触書は重要なもので、年貢免定・皆済目録の交付、塩年貢初納時期の通知、寺社の勧化の許可、海難に関するもの、郡払・出奔人への処置などであった。嘉永4年(1851)外国船警備のため鞠山藩領では鞠山浦出崎・江良浦松ヶ崎・杉津浦岡崎に砲台場を置いたが、特に陣屋のある出崎には砲2門を設置した。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 鞠山の主な歴史記録『敦賀市史』角鹿の塩
近世の三方町食見でうたわれた里謡に、片食食わえども 片袖着でも 嫌ぞや 食見の塩垂れは」「どこへ行こうと 塩仕はいやよ 朝の星から晩の星いただき昼の最中の 日輪様の 焼きつく炎天の下に働く」とある。古代においても同様で、塩作りがいかに激しい労働であらたかをうかがい知ることができる。考古学的調査による古代の塩生産について述べてきたが、本市に関する日本書紀や万葉集のなかに「角鹿の塩」について興味深い記載が残っており、遺跡と文献による記録とが一致するという極めて珍しい例となっている。 『日本書紀』武烈天皇即位前紀の記事の中に、大臣平群真鳥が武烈天皇と大伴金村によって殺されるとき、囲まれて燃えさかる火のなかで塩を指してのろいつつ死んだが、そのときただ角鹿の海の塩だけのろいをかけるのを忘れてしまった。そこでその後も角鹿の塩は天皇の所食となった。ほかの地域の塩は天皇の忌むところとなったという。このことは、つとに先学が指摘しているように、角鹿の塩が天皇の食物となった時期、角鹿の塩が朝廷に運ばれており、この事実を説明するために作られた起源説話だろうといわれてきた。石部正志らは、角鹿の塩は、実は若狭製の塩ではなかったかという論を発表したことがある。「東部の三方方面の塩は、敦賀・塩津ルートをとったと思われる。したがって、敦賀を集散地とする若狭産の塩を角鹿の塩と呼んでいたとしても不思議はない」とした。この前提には、昭和三十年代には本市における製塩遺跡は皆無であったこともあり、注目されていた。ここでいう敦賀・塩津間の塩の道、いわば″ソルト・ロード″は古代からの日本海側と琵琶湖を結ぶ重要な運搬路であり、″塩津″という地名の起源も意味のあることと思われよう。前述したように、本市における製塩遺跡の存在も、六世紀前半までさかのぼって確認されるようになり、少なくとも古墳時代後期には、塩は角鹿の海で焼かれていた。 さて『万葉集』に、越前へ向かう笠朝臣金村が敦賀津から船出して、歌を作っている。その歌の中に「手結が浦に 海未通女 塩焼くけぶり」とあり、敦賀津を漕ぎ出して、田結の海辺に塩焼きの煙があがるのを見て旅情をかきたてられたのであろうか。鞠山区の田結で発見されている製塩遺跡は、まさしく笠朝臣金村が千二百年前に、その情景を見てうたっている田結の塩焼きで、全国の製塩遺跡のなかで、このようになまなましく歌に描かれているものはなく、きわめて珍しいことで、田結遺跡には万葉の塩作りが眠っている。田結遺跡は允分なる調査が実施されていないので、遺跡の内容などは不明であるが、本市を代表する古代の製塩遺跡であるといえよう。こういった意味からの″角鹿の塩″は大いに意味のある内容を有しているといえる。 鞠山の伝説鞠山の小字一覧鞠山 中伊吹谷 伊吹谷口 山本 五反田 浜田 南浜 塩入 サンボリ サンボリ谷 ハセダシ 谷口 坂ノ下 鞠山 北西端 南西端 小鞠山 大鞠山 南三堀谷 伊吹谷 南新谷 獅谷 タシ谷 蛭谷関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『敦賀郡誌』 『敦賀市史』各巻 その他たくさん |
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