丹後の地名 越前版

越前

松島(まつしま)
福井県敦賀市松島


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福井県敦賀市松島

福井県敦賀郡松原村松島

松島の概要




《松島の概要》
広大な「気比の松原」(松原公園)や松原小学校があるあたり。

近代の松島村は、明治11~22年の村。鋳物師村・松中村・今浜村が合併して成立。はじめ滋賀県、明治14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」によれば、幅員は東西12町50間・南北16町10間、戸数173うち農35・工5・商4・雑63、人口820。明治14年の船数38・漁師数150。同22年松原村の大字となる。
近代の松島は、明治22年~現在の大字名。はじめ松原村、昭和12年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北7町余、戸数173、人口は男450・女484、小舟45。昭和31年一部が松原町・松島町・松葉町になったと思われるが不詳。一部が、同41年松栄町・結城町、同44年平和町、同45年三島町1~2丁目、同46年松原町、同48年呉羽町・昭和町1~2丁目、同52年松島町、同59年松葉町となる。
近代の松島町は、①昭和31年~現在の敦賀市の町名。もとは松島の一部と思われるが詳細は不詳。昭和45年頃から道路が整備され、住宅などの建設が急速に進んで、当町や呉竹町では降雨時と満潮時が重なると、海水が二夜ノ川を逆流して、床下・床上浸水などの被害が統出した。このため同51年末から二夜ノ川都市下水路事業を行っている。同52年松島の一部を編入、一部が松島町2丁目となる。②昭和52年~現在の敦賀市の町名。2丁目がある。もとは松島町・三島の各一部。


《松島の人口・世帯数》 1131・450(2丁目含)


《松島の主な社寺など》

国名勝 気比(けひ)の松原(松原公園)
こんな案内板がある→。

松原国有林は当地内の3分の2を占め、昭和3年に指定された国名勝気比の松原(松原公園)。県木のクロマツとアカマツ1万2,000本があり、三保の松原(静岡県清水市)・虹の松原(佐賀県唐津市)とともに日本三大松原といわれる。
地名の由来は、古くは気比宮の社領であったことによるという。一夜(いちや)松原ともいい、「気比宮社記」天平20年、外敵の来襲に際して突然大地がうなり、一夜のうちに数千本の松が出現、樹上には気比の神鳥白鷺が群集した。敵は大軍が浜で待ち構えていると勘違いして逃げ帰ったという伝説を記している。
第2次大戦後周辺部が宅地・学校用地となったため面積は約40ヘクタールに縮小している(現在の松原の南側300メートルばかりは松原であったようである)。現在は松原公園となり、市民の憩いの場であり、夏には海水浴場として京阪神からの客でにぎわう。

古代官道の松原駅、迎賓館の松原客館はこの付近にあったと推定されるが、遺跡は未発見で位置は確定できていない。
「延喜式」(兵部省)に越前国駅馬の一として「松原八疋」とみえる松原駅(「和名抄」高山寺本にも載る)、同書雑式に「凡越前国松原客館、令気比神宮司検挍校」とみえる松原客館は当地辺りにあったとされる。駅・客館は併設されていたらしく、「扶桑略記」延喜19年(919)12月24日の記事に「右大臣令邦基朝臣奏中若狭国申遷送越前国松原駅館客徒一百五人并随身雑物等解文、客状中云、遷送松原駅館、而閉封門戸、行事官人等無人、況敷設薪炭更無儲備者、仰宜下令切責越前国、急令中安置供給上者」とある。若狭に来着した渤海からの使者を松原駅館に迎えたというのであるが、この頃には満足に機能していなかったようである。所在地は確認されていないが、「気比宮社記」は相伝として松原東縁の松原神明社(今浜村神明社)を「上古高麗・渤海国人令饗応之客舎旧地也」とするが、確証はない。字宮森の松原遺跡(櫛川村)ではないかとする説もある。


近世は藩有林となり、小浜藩支配時代は西御山(にしおやま)御林(おはやし)、また櫛川村に属したため櫛川松原とも称した。当時の広さは南北6町9間、東西8町29間(約62ヘクタール)であった。御林は鋳物師・松中・今浜の3ヵ村が守り、林内の松葉拾得代として「松葉代」の小物成を納めた。樹木の伐採は禁止あるいは制限されていたが気比宮祭礼の山車の用材8、90本は容認された。林中の松茸は、山方・郷方および会所の役所に誓紙を提出した引人が採った。無疵は御用次第に藩用に小浜に遣わし、虫入・疵付は10本2分5厘で払下げられた。享保3年(1718)730本、同4年519本、同5年133本を藩に納めている。嘉永4年(1851)6月、小浜藩は異国船防御のため砲台場を設けたが、その一つが松原浜に置かれた。松原の海は今浜村の網場であった。
明治に至って松原の55町(≒ヘクタール)余は国有林に編入され、同41年東北部の26町ほどを敦賀町と松原村が共同で借受け公園を開き、明治天皇駐輦記念碑(勝海舟詩文)や弔魂塔などが立てられている。


神明神社

松原公園東口の近く、民家の建ち並ぶ中に鎮座。
『敦賀郡誌』
神明社  松原村松島に鎭座す。村社。社地は島大明神の地なり、俗に山王宮と稱せり〔近年稲荷社なりと稱するは、訛傳なり。〕もとは島郷の惣氏神なりしを、後には村々にて氏神を勧請したりと云ふ。寛文年間〔不審、天和の頃なるべし。〕今濱村を東西に分ちてより、西今濱村には松原に神明社を創立し、島明神は東今濱の氏神たり。明治七年八月、西今濱神明宮を島明神祠に移し、九年五月計殿再建、合祀して今濱村の氏神とす。四十三年十二月二十六日、同區村社常宮神社〔舊鋳物師村氏神〕無格社八幡社〔舊松中村氏神〕の両社を合祀す。四十四年五月六日、神饌幣帛料を供進し得べき神社に指定せらる。境内神社、蛭子社・稲荷社二社なり。
『敦賀郡神社誌』
…舊時は今濱と稱したが藩政時代に東今濱・西今濱に岐れた。明治五年に松中・来迎寺の両區同十二年は鋳物師區を今濱に併合して、松島區と改稱したので、戸数二百五十餘戸を有する本郡第一の大區である。當區の招寳寺は當社の舊社僧にて往昔の松原客館(霽景樓)の遺品なりと傳ふる古障子四本を保存してゐる。その招寳寺は昭和三年まで當社と共に當區の東端宮森地籍にあつたが、笙ノ川の河口を尻無川に通ずる改修工事の爲め新堤防が社前に築かれて甚しく神域の風致を損し、且つ神橋を架せざれば参拝の便を缺くなど移轉の已むなき事惜に迫まつたので、招寳寺は區の中央に移轉し、鎮守神明社は元西今濱區の舊社地であつた松原官林の一區の拂下げを受け、昭和六年十二月地鎭祭を施行して造營に着手し、昭和七年十月二十三日、竣成を告げ正遷宮祭を奉行した。當社地は氏子區域より見て河北端に當り、松原神社道に沿ひ敦賀營林署と敦賀商業學校との中間に位する松原官林の東入口に在り、白砂青松風光住絶の境域を占めてゐる。參道両側に社標及び制札があり石造の華表が數株の老松の間に建てられて、御遷座日尚淺き神社とも拜せられぬばかりに神然びて神々しい、更に鳥居を潛つて樹間を進めば左に溝列なる掘拔水の手水屋があり、右に社務所があり、そここゝに石燈籠の配置宜しく建設され、又幕末に於ける小濱藩が臺場に用ひた、大砲を史的記念物としで据附けなどして、遺憾なく社頭を飾り、更に參進すれば高さ三尺計りの石垣を以て方十二間を圍んで浄域となし、西・北・南の三方は各々其の上に透塀を繞らし、東方は中央に石階二級を設けて其の上に唐破風造の壮麗なる中門を造り、中門の左右に廻廊を設け中門より石疂の參道數間を經て檜材・流造・銅葺の本殿が東面し、末社四社が其の四隅に鎮座し給ふ。當社は松原公園を背景として神社諸般の設備を完成したので、賓客亦自ら繁く神威日に赫々たるを感ぜしめる。
祭神 火照皇大神、豊受大神。合祀天八百萬比咩神、神功皇后、仲哀天皇、應神天皇、大山祗神、   大物主神、水葉咩神、倉稲魂神
由緒 按ずるに、當社は島大明神又は島明神、或は山王宮、日吉社など稱へた。而して近世は稲荷社とも稱へたが、こは俗間の稱へでありて、往昔より島郷即ち今の松島區の総氏神であつたので、敦賀志稿には、此の社はもと島郷十一箇村の惣神であつたことが記されてゐる。氣比宮社記には「相傳云上古高麗渤海國人令二饗應一之客舘地也是爲二夷賊襲来防護一崇二祭之一云々」など見え。又一説には聖武天皇御宇に蒙古襲来した。その時靈異神瑞あつたが故に、此のこ時の鎮座なる事を記してゐる。而して寛文年間西今濱に創立された神明社を明治七年八月東今濱の島明神即ち當社に合祀して神明社と改稱し奉つた。同九年五月社殿を新に改築し同年十二月村社に列せられ。同四十三年十二月二十六日奮松中村字エボシ形地籍に鎮座の無格社、八幡神社祭神應神天皇及び舊鋳物師村字中向地籍に鎮座の村社、常宮神社祭神天八百萬比咩神神功皇后・仲哀天皇を合祀し、同四十四年五月六日神饌幣帛料供進の神社に指定せられ、昭和七年現在の西松原地籍に遷座された。
祭日 例祭 五月十一日(元舊四月八日)祈年祭 三月十一日 新嘗祭 十一月二十三日
舊特殊神事 風除祭とサシ踊 八月二十三日風除祭と稱して、二百十日の風除を祈願した。舊時は境内で仮装などして青年男女が圓陣を描いて、素朴な踊をしたが今は之も行はれてゐない。但し毎年八月頃の月夜に短き期間、海岸の砂濱で涼みがでらに踊るのが其の遺風である。この踊り方歌詞・歌譜は敦賀地方獨特のものであつて、近郷の盆踊に行はれてゐる川崎・松坂・江州・伊勢・ステナ・ヤンシキ音頭などとは、全く異つて郷土色のある踊である。
境内神社
稲荷神社 祭神 倉稲魂命
山神社 祭神 大山祗命
蛭子社 祭神 大国主神 事代主神
厳島社(辨天社)祭神 市杵島姫神
松島サシ踊の由来 サシ踊の起源及び名稱・歌詞の創作時代並に作者に就ては、村民の聞き傳へにも異説が多く詳かでない。就中信ずべきは元禄時代に起源し、歌詞の作者は本村原區西福寺の僧の物せしものなりとの説もあれども尚後考に俟つ。歌詞は現在十四・五種あり、其中でも現今は御蔭・目出度・櫻づくし等が最も盛んに行はれてゐる。殊に最近では同區青年團の事業として保存奨励に力を注いでゐる。サシ踊の名秘は踊りの動作から起ったのではあるまいか。…


恵比須神社


浄土宗専安寺

松原小学校の東側。
『敦賀郡誌』
専安寺、淨土宗鎭西派、原西福寺末、寺は初丁持町小谷に在りき。昔湯山に墓地ありし時の西福寺の掛所なり。其地は領主より給せられ、寛永八年堂宇を建つ。寛文某年、及寶暦三年火災に罹り、其後假堂宇を建つ。湯山墓地の来迎寺野に移りしかば、文化十三年八月、松原に替地を請ひ、文政元年許可せられ、今の地に堂宇を移す。慶応二年十月廿五日、又自火に燒け、翌年再建す。

曹洞宗曹紹山永建寺

神明社の向かい側、ここは 旧今浜村の南端だそうで大きな寺院である。本尊釈迦如来。延宝3年(1675)の永建寺并末寺由緒書上写に「禅宗曹紹山永建寺者応永二年ニ開闢之縁起者乱世之時分失ひ其由来之記録無御座候」とり、天和3年(1683)11月の国印頂戴ニ付永建寺願書写よれば、文禄4年(1595)までは茶)町近くの鳧江(ふこ)にあったが、敦賀城本丸に近いので領主大谷古継より所替を命ぜられ、山村ともに与えられて慶長2年(1597)現在地に移ったという。末寺は延宝8年(1680)に若狭・越前に18、隠岐に二2寺内には塔頭11院・1寺があり、檀家数は文政13年(1830)約400を数えたという。
『敦賀郡誌』
永建寺 松原村松島に在り。曹洞宗。その草創は延元二年、金崎落城の後、常に風雨烈しき日は戰爭の音、叫喚の聲聞ゆるを以て、諸人恐怖して敢て登山する者なし。應永二年、加賀永安寺の小室真宗、此地に来り、其由を聞き、わが父兄一族戦死の跡なるが故に、悲歎に堪えず城址に至り亡魂を追弔す。數日ありて村民等、和尚を山上に訪ふに、顔色容貌少も衰へず、兀然石上に座す。村民に謂て曰く、自今亡魂出づべからず、怪異あるべからずと、郡司村民等、火に歸依して島明神の西南鳬江の地に、一宇を建立して之に居らしむ。因て眞宗其師寶山宗珍を請して開山とし、真宗は二世となる。真宗、應永二年三月二十二日寂す、當寺に開山忌を修するに二代忌と稱するは、眞宗の忌を修するが故なり。朝倉氏の時には、弾正左衛門〔敏景か貞景か〕の一行を以て寺領十五町三反五畝の田畠を有したらしが、〔其文書、今傳はらず〕天正年間、武藤氏の爲に沒收せられ、其頃又火災に罹り、山門一宇を殘して諸堂燒失す。其後甚頽廢に傾きたりしを、寛永の頃第七世春崗、諸堂を再建す。其頃堀切の内〔松原の一部なり〕は永建寺の領内にして、松平忠直・京極忠高の時は並に安堵し来りしを、寛文の頃沒收せらる。現今境内には本堂・開山堂・僧堂・衆寮・山門・方丈・庫院等あり。山門は天和元年、本殿は寛保元年、僧堂は安政元年の再建なり。當寺は元加賀河北郡永安寺末に屬したりしが、永安寺廢絶してより、同寺の本寺能登永光寺末に屬す。又當寺の末寺は延寳八年には若越に十八ヶ寺、〔三ヶ寺の外ハ皆平僧地〕隠岐に二ヶ寺ありしを、明治の後、或は廢絶して今は十六寺なり。維新以前には境内に塔頭十一院〔待月軒・瑞雲軒・続芳軒・長運軒・伸養軒・盛松軒・松陰軒・芳春軒・慶徳軒・少林軒・瑞東軒〕来寺一ヶ寺〔圓福寺〕ありしが、今は待月軒・盛松軒・瑞東軒の三院を存す。


曹洞宗鎮護山松室寺

永建寺の表正門前を笙ノ川に突き当たったところ。
『敦賀郡誌』
松室院、〔鎮護山〕曹洞宗、志比水平寺末、本尊如意輪観世音、創立は建長年間にあり。文化年間、頽廃したるを、永平寺玄透、永建寺へ固命ありて再建す。境内に天滿宮鎭座す、開山宗香の感得したる尊像を崇祀す、〔建長五年九月の勧請〕梅室の天神とて、人尊崇すと云ふ。


時宗岡見山来迎寺

本尊は阿弥陀如来。嘉慶元年(1387)正法寺国阿が気比神宮に参詣し、三日三夜六時の行法の満願の暁に夢告を得て草庵を建て紫雲院来迎寺と号したという)。「名蹟考」には玉清院など塔頭14院を記している。当寺の書院の障子は近世初期大谷氏時代の敦賀城の遺品とされ、うち6本は市文化財。表門も旧敦賀城中門の移築と伝える。

『敦賀郡誌』
來迎寺 松原村松島に在り。時宗國阿派、京霊山正法寺末に屬す。國見山紫雲院来迎寺と號す。開山は正法寺國阿にして、初住は其弟子其阿なり。國阿上人繪傳曰、嘉慶元年〔元中四年〕春、北國修行を思ひたち、越前敦賀郡有乳山をこえ、道の口ヘぞ至り給ひぬ。夫より笥飼太神宮へ参詣し給ふ。人皇十四代仲哀天皇の宗廟、本地は大日如来の垂迹也。此御寶殿において三日三夜、六時の行法を修せられける。滿散の曉に霊夢の告あり、當社より西のかたに十餘町、一夜に出生の松林あり、此森の東の方に、金色の光立岡あるべし、一の精舎を造てあらましかば、利益無量ならむと。不思議の告を蒙り、此地に行て見給ふに、示現にたがはず、まのあたり金色の光輝ければ、則草舍を造立して此寺を岡見山来迎寺と號し給ひける。此寺に嗣法の弟子其阿彌陀佛を住持に定給ひけり。追加、此其阿彌陀佛は本は越前國瓜生といふ所の人也。儒歌の二道人にすぐれて、高才利口の辯舌者也。然るに國呵上人に行逢、離三業の忿佛安心の勧化を了解して、時衆となり、剩出家して圓阿彌陀佛と名を付、上人に隨遂給仕し侍りけるが、来迎寺の住持に定め給ふ時に名を改で其阿彌陀佛と號し給へり。〔節略。寺の縁起に據れば、弘和二年、其阿北國化導の爲め下りて少時道口に留る、是今の禅源寺なり、又岡山に一庵室を構ふ、一日此にありて松原の東に當り、紫雲たなびき聖衆来迦の相を現はすを見て、其處に一宇を創す、由て岡見山紫雲院来迎寺と號すと。敦賀志稿曰、岡山の東北の隅に来迎寺と云字を残せり、始其處に寺を建居られしか、後今の處へ移されしよしなり云々〕應永二年二月十一日、足利義滿、正法寺境内寺領の諸役を除き、併せて諸末寺守護不入、諸役免除せらる。是より境内除地たり。境内南北二町、東西一町半は藩政時代には来迎寺村の名目ありて、無高なり。天正の頃は、民家三十餘戸ありしと云。享保郷帳には門前無高四軒とあり。其後民家絶え、寺院のみとなれり。故に藩政時代には寺は今濱付にも属せず、来迎寺村の来迎寺なりき。今の本堂は寛数年間、書院は文政八年八月の再建なり。書院に用ゆる所の障子の内十四本は、口碑に大谷氏の敦賀城に用ひし者なりと云。高五尺八寸、腰の高二尺四寸、腰板には中央に花籠の形を刳り、其餘に花卉を書く、又表門も舊敦賀城の裏門を移したる者と傳ふ。塔頭十七院〔〕ありしが、後十五院となり、明治以後次第に廢絶す。又末寺は一ヶ寺〔徳市村満福寺〕ありしが、明治七人年の頃廢す。


時宗藤沢山西方寺

来迎寺本堂のすぐ北側にある。昭和28年、敦賀町神楽から来迎寺境内に移転してきた(来迎寺兼帯)。当寺は、正安3年(1301)遊行2世他阿の廻国の時、真言宗より改宗。他阿の西方寺滞在時に気比宮の西門と寺との間が大沼で不便なので土砂を運び道を作った。これが以後歴代の遊行上人の廻国時の「お砂持の行事」となったといわれる。
『敦賀郡誌』
西方寺 敦賀町神楽に在り、藤澤山西方寺安養院と稱す。時宗遊行派、藤澤清淨光寺末に属す。初は眞言宗の寺院なりしが、正安三年、遊行二世他阿〔眞教〕廻國の時改宗す、他阿西方寺に在る時、氣比宮の西門と寺との間大沼にして、參詣の煩たり。故に祠官等道を作らんと欲したれども力及ばずとして其儘にありけるを聞き、他阿其徒と海邊より土砂を運びて道を作る。近隣歸依の貴賤亦加はり祠官社僧遊女も出でゝ之を助け、日ならずして成る。是後の三丁繩手なり。今の大鳥居前の往来なり。加之、更に宮中に砂をちらし、石を疊み、社内を清淨にす、〔繪縁起〕因て神勅にまかせ、社前護念の爲め、自彫像を刻して、大鳥居の正面に堂を建てゝ之を安置す。是後の本堂なり。〔本尊、阿彌陀如来〕因て本堂正面〔即大鳥居と相対す〕の表門に閫を設けず、亦寺にて凶事を執行する時は神前を憚かり、門を閉づ、表門の北手に不淨門あり、之より往來す。〔両門の間の川を隔てゝ路傍に高札場は設けられたり。〕明治八年、表門今の處に移してより、此亊廢せり。當寺を御影堂と稱するは、此影像を安置するが故なり。町の舊名、御影堂前町の名も此に因る。氣比宮守護の寺として代々國守より寺領を寄せらたりと云ふ。〔天文中朝倉義景寺領を寄進したけれども、其證文永禄年中の炎上に之を失へりと傳ふ。〕天正十九年六月、大谷吉継、地子八貫六百文〔今地子寺納帳を逸し、其戸数等詳にすべからず。〕を寄せらる。〔本書亦逸す、〕
 敦賀御影堂爲扶持、八貫六百文、毎年無相違可相渡者也。
  天正十九年六月廿八日   大谷刑部少輔
                   在判
               下河原宗右衛門殿
酒井氏の時、之に由て寺内の諸役を免除せらる。〔寛文十一年書上〕天正十一年四月五日、遊行三十代有三、本寺にて寂す。其墓、本寺にあるべし。今の本堂は、正徳三年十一月の再建なり。明治八年、境内の一部、小學校敷地として上地處分を受け、堂宇を南、今の處に移す。舊境内千九百五十三坪、現境内約九百五十坪なり。塔頭は正徳の頃は六軒〔延壽庵・修善庵・法聲庵・千秋庵・極楽院・浄頓庵〕ありが、其後漸次癈絶す。〔維新の頃迄に〕末寺も二ヶ寺ありしが、亦皆癈絶せり。 …

廃寺など
『敦賀郡誌』
廃寺、圓滿寺、眞言宗、高野山金剛峯寺末。招賓寺、古は眞言宗、酒井氏領國の初、禪宗に改宗、永建寺末となる。島大明上の社僧なりきと云。堂舍猶存す。堂内に四本の古障子あり、松原客館の遺物なりしを、敦賀城に用ひたるを、傳来したるなりと。小松内府の塚と稱する者あり。 來迎寺の西に郡中の三昧あり、又藩政時代の處刑場なり。水戸浪士の墳墓あり。 松原公園。敦賀町・松原村の共同經營する所にして、明治四十一年、松原國有林の東北部を借受け之を開く。〔第一期、明治四十一年四月より大正二年三月まで、借用面積二十六町八反八畝十七歩。第二期、大正二年より同十二年三月まで、借用面積十二町五反四畝十七歩〕地は海に濱し、松は翠に、砂は白く、風光明媚なり。


国史跡 武田耕雲斎等の墓

元治2年(1865)に武田耕雲斎ら水戸浪士353名が来迎寺で処刑され、その墓地があり、国史跡に指定されている。

来迎寺の裏手付近にはたくさんの墓がある。古くからの三昧所なのであろう。その一角に耕雲斎等の墓がある。



墓石は15基ある。おかしいなと思ってよく見てみると「討死」した者と「病死」したものの墓が、それぞれ脇に立てられている。後世につけ加えられたものか…

案内板がある。
武田耕雲斎等墓
元治元年十月水戸藩士武田耕雲斎の党は尊攘の大義を唱え西上の途次越前に入り十二月敦賀郡新保宿にて大雪に遭い慶喜の軍門に下れり翌年二月幕府は耕雲斎以下三百五十三名を斬首せり 今此の墓地は当時の刑場にして遺骸を埋めて土盛り、方十二間高さ八尺西面して十三基の墓が建てられている。
昭和九年十二月二十八日文部省より著名なる人物の墓として二百五十六坪の地域を史蹟に指定され現状の変更樹木の伐採は出来ない様保護されている。   敦賀水戸烈士遺徳顕彰会

松原神社(鋳物師町)
墓の東に松原神社があり、彼らの霊を祀っている。

案内板がある。
松原神仕
祭神 正四位武田伊賀守 以下四百十一柱
例祭 十月十日
由緒 徳川幕府末葉、勤王の大志を抱き尊攘論を唱えて京都に赴き、素志を貫徹せんと意を決した武田伊賀守他同士達は各地に轉戦しつゝ、元治元年十一月大雪の中、新保の地にて加賀藩の軍門に降り、敦賀の鰊倉に幽閉され元治二年二月斬罪により松原の露と消えた。
大政奉還後王政維新明治の聖世となり命等の勤王の大志が天日を見るに至り慶應三年敦賀の修験行壽院が神祇伯白川家の許可を得て院内に諸士の靈を祀り、明治七年十ー月水戸の人根本彌七郎が墓地附近に一小祀殿を創建して松原神社と稱し、大正四年十一月現在地に御造営竣功し、白砂青松の浄域に御靈代を奉遷、永く英靈の鎮り座すこととなった。

『敦賀郡誌』
松原神社  松原村松島に鎭座す。無格社。水戸藩士武田伊賀守正生等四百十一人の霊〔墓碑四百五人〕を祀る。祠後の土壇は其墳墓なり。慶応元年二月、伊賀守等を此處に斬するや、三間四方の土壙五を掘り、死屍を埋葬し、塚五を築く。塚は敦賀二十四日講法中の管理する所なりき。二十四日講は、郡中眞宗本願寺派(西)の寺院十四ヶ寺の聯合したる講中なり。最初、伊賀守等の斬罪に當り、死屍を引受くる者なきが故に、右の十四ヶ寺、之を引受けたれば、二十四日講にて其墓を所有したるなり、從で墓所の所有主は、西本願寺法主の名義たり。同年三月四日、十五日、永嚴寺を始め八宗の僧侶等官に請ふて塚前に回向供養したりと云。明治元年、北越総督仁和寺宮、敦賀に下向の時、香料千疋を賜はり、北陸鎭撫使高倉永祐・同副使四絛隆謌、亦香料二千疋を供す。此時鎭撫使、勅旨の御沙汰を西本願寺に傳へ、墳墓を修築せしめらる。金澤藩主前田慶寧、方金五百兩を助成す。因て二十四日講にて之を修築し、同年九月、竣成す。塚根石垣十二間四方、土壇の高さ一丈二尺、上の平地七間四方、其上に墓所を築く、四間四方、東面す、墓石は西南北の三側に列す、各側五基、総て十五基、中央を伊賀守等二十四人の墓とす、墓壇、石にて積む、高さ上の平地より五尺。〔明治二十年頃、西面に改め、大正三年二月、更に改修して墓石の位置を改め、二列とす、壇上従来の木柵を石に改め、又墓石の背後に土を盛り、壇上更に塚を築く、現今の墳墓是なり〕翌年二月九日、本願寺役僧阿耨寺来りて来迎寺に一大法會を修す。墓所の管理は、元の如く法中二十四日講にて支配し、毎年五ヶ日の忌日には、十四ヶ寺の住職、七條袈裟の盛装にて墓前に法會を営めり。神社を創立するに當り、墓地は本願寺より之に引継ぎ、是より十四ヶ寺の慕前忌日の追弔は廢絶す。七年十一月、水戸人根本彌七郎、一祠を創立して松原神社と稱し、其霊を祀らんことを請ふ。翌八年一月二十三日、允可あり。因て社域を定む、墓地貳百五十六坪を合せて二千三十三坪を其域とす。十一年十月、明治天皇北陸御巡幸の際、伊賀守等が憂國の志を懷きながら、時と遑ひ、空しく此地に刑死したるを憐愍あらせられ、祭祀料を下賜し給ふ。
御沙汰書に曰く、
                 滋賀縣
  其縣下敦賀表に有之候、舊水戸藩士武田伊賀守始め四百十一名墳墓祭典費、金五百圓下賜候亊
   明治十一年十月                     右  大  臣
其日は十月十日なり、因て翌十二年三月、此日を例祭日と定む。十三年、墓後に建碑を謀り、十六年建設を畢る。碑石は侯爵徳川慶篤の寄附に係る、常陸久慈郡眞弓村産する所の寒水石なり。碑文は時の縣令寵手田安定之を撰す。
松原神社碑
境内の土蔵は幽閉に使用したニシン蔵1棟が移築修復されており、幕末の尊攘運動にかかわる水戸浪士の資料を展示している。ニシン蔵は、どこだったかに移転するとか、ワタシが訪れた時はここにはもうなかった。

『敦賀郡誌』は刑死した全員の名を書き上げている。深く同情したものか。
時の流れには乗っているのだが、早く乗りすぎて焦ったか。水戸藩も人材枯渇していたのか、論理も計画性もなく、何を目的とするのかもよくわからないような未熟な天狗党だけれども、凄惨な最後となった。幕府もまた血迷っている、八つ当たりで、実行犯だけでなく、耕雲斎などは、その後、妻や妾から、子供(幼児を含む)や孫も水戸で斬首刑となったという。3つの幼児の首まではねたという、人間のすることではない。天下之を聞き幕府の暴政を憤ったという。この2年後に幕府は倒れた、あと2年先を見て行動していれば、また違ったことになっていたかも…
←『敦賀市史』より
同書などに詳しいので、さらに知りたい方は読んでみて下さい。





《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


松島の主な歴史記録




松島の伝説

『越前若狭の伝説』
永建寺 (松島町)
延元二年(一三三七)金崎城没落の後五十年たっても、風雨はげしい日には戦争の音や叫び声が聞こえるので、人々は恐れて、だれも登山しなかった。応永二年(一三九五)小室真宗が加賀永安寺からこの地に来たり、この話を聞いて、「わが父兄をはじめ一族が戦死した所であるから。」といって、城跡に至り、坐禅して死者の霊を慰めた。五六日して村民が山へ登って、和尚(おしょう)をたずねたが、和尚は顔色おとろえず、石の上にすわっていた。村民が様子を問うと、「今後は怪異はない。」と告げた。村民は大いに帰依し、一寺を建立して、彼をしてそこにおらせた。それが永建寺である。      (敦賀名所記)

来迎寺  (松島町)
国阿上人巡国のおり、古い松の上に紫の雲がたなびくのを見て、その地に一寺を建て、紫雲山来迎寺と号した。その松は今も門内の右側にあり、紫雲松という。   (敦賀名所記)

青屋  (松島町)
永建寺と、武田伊賀守らの墓地とに狭まれた、細長い田地が西より東にのびている。その田をアオヤと呼んでいる。昔はこの辺一帯は入江になっており、岸に松が影を落して、遊覧の地であった。そのころ敦賀の美妓(き)青屋が舟遊びにきて、誤って溺(でき)死した。土地に変遷があって、後に田地になったが、ここを青屋といっている。田主岸久右衛門は、青屋のために毎年七月十三日に御経をもらって供養をしていた。数年前(昭和十一年起算)田主が変ってから、お経をもらうのを忘れて田植をした。梅雨時になって、永建寺の若い僧が鐘をつきに行ったところ、雨がしとしとと降る中を、田の中から一つの火玉が浮かび山て、鐘つき堂の方へ向って来る。いかにも鐘の音を聞きたそうである。あくる日からは二三人で鐘をつきに上った。そのたびに火の玉が出た。その話が村にひろがると、だれいうとなく、昔のことをいい出したので、前のようにお経をもらったところ、それからは出なくなったという。      (福井県の伝説)

犬神人 (松島町)
松島の松中村の村民は犬神人と称し、気比神宮の社地の不浄を清める役をした。今も遷宮または大祭神幸などあるときは、すおう(素襖)をかけ、えぼしをつけ、長柄の竹ほうきを持ち、お先を清める。また毎年正月元日に神前の斎庭(ゆにわ)に敷く端(みみ)組まずのむしろ、おかざりの穂長(ほなん゛)、ゆずり葉を献ずる。この故に歳末に耳組まずのむしろ、穂長・ゆずり葉を市に持ち出して売ることはこの村に限り許されている。もとは六十余家あったが、今は一家のみ残っている。  (敦賀志稿)。




松島の小字一覧

松島  草田 棒田 道寄田 鶴首 伴条 三郎作 五反田 大坪 牛丸 三反田 西六反田 切戸 蛇原 流田 堂輪 屋敷元 八斗田 東射場田 大田 山神 水附 西焼柱 東焼柱 角田 下縄手 木+皆子田 南大力 ブタイ 東大力 南八ツ口 下八ツ口 下蓮賀 上乙湯 上椎ノ木橋 東登り橋 西椎ノ木橋 椎ノ木橋 東桑田 西登り橋 土白屋 北八ツ口 西大力 花フケ 上横枕 下横枕 西石橋 小深田 上免田 西桑田 砂田 上塩境 下塩境 茶屋田 厂田 西布ケ 北布ケ 西竹ケ花 飛羅無 南布ケ 下免田 二反田 道済 中竹ケ花 東竹ケ花 エボシ形 ハバキヤ 北柳田 三枚田 西柳田 油田 金剛丸 下石橋 上石橋 上金戸 下金戸 又四郎 下白屋 光田 東六反田 土器田 東柳田 苗代 野本 東松庵 寺ノ上 下厂縄手 上厂縄手 長茶ノ木 上茶ノ木 東茶ノ木 西砂田 東側 西側 下茶ノ木 西茶ノ木 熊作 赤添 四ツ矢 西杉ノ木 東杉ノ木 東葭原開 葭原開 西葭原開 宮ノ森 北蟹喰 南蟹喰 寺中 野畑 青屋 下三反田 村中舎 森ノ谷 大道通 中道通 杉原口 下道 浜辺 四ツ角 松原開 東中金 西中金 稲葉 中向 ?辻 四ツ辻 開キ 東畑 中畑 西畑 松原 西松原

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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