丹後の地名 越前版

越前

三島町(みしまちょう)
福井県敦賀市三島町


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福井県敦賀市三島町

福井県敦賀郡敦賀町三島

三島町の概要




《三島町の概要》
市立敦賀病院がある南側の一帯。敦賀駅から言えば、駅の西側、笙の川と旧笙の川との間に位置する。
三島村は、明治14~22年の村名で、敦賀郡のうち。もとは敦賀町の稲荷町・八幡町。明治22年敦賀町の大字となる。
近代の三島は、明治22年~現在の大字名。はじめ敦賀町、昭和12年からは敦賀市の大字。


《三島町の人口・世帯数》 1854・795


《三島町の主な社寺など》
八幡神社

『敦賀郡誌』
八幡神社 敦賀町三島に鎮座す。郷社。舊は筑屋敷の八幡宮と稱す、筑屋敷とは現在の地の舊名なり。光仁天皇宝亀十一年二月十五日の鎮座なり。足利時代の末葉、疋田城主疋田安藝守景継、信仰ありて、毎年御供料米五十石を奉納す。元気元年、織田信長の天筒金崎城攻の時、兵燹に罹り、疋田氏亡びて御供米を失ひ、田も豊臣秀吉検地の際没収せられ、社司等〔五戸ありき〕離散し、纔に社家二戸、別當一戸を存したりき。別當は奧院別當金龍院なり。奧院は弘治三年五月二十八日に疋田景継の奉納彌陀仏なり。後ち二社家も金龍院に合して、元祿五年、金龍院、八幡宮別當となる。もと宮は吉田支配にて、金龍院は天台宗にて岩清水八幡別當光清法印配下なり。〔岩清水別當の支配は承応三年までなり〕 社中職名は粟田青蓮院支配下となりしは、其後の亊なるべし。社殿は慶長七年、一國一郡を勧化して造営、八月正遷宮あり。正保元年、又勧化して再造營し、九月二十六日正遷宮あり。時に酒井忠勝綿輿を寄進す。〔以上秘密長寶記〕社領除地〔社域及門前屋敷〕五反八畝十二歩を有したるは、何年よりなるか詳ならず。文化四年八月、酒井忠進入部の時、前例に由つて社參せらる。同九年六月、千百年祭を行ふ、忠進即ち弓箭と定紋幕とを奉献す。明治八年十二月十日、郷社に列せらる。十四年五月、千二百年祭を行ふ。〔大正二年又同年祭を行へり〕四十一年四月、神饌幣帛料を供進し得べき神社に指定せらる。四十三年二月四日、村社日吉神社〔舊田島村氏神〕村社八幡神社〔舊徳市村氏神、此境内、蟻生せず、因て蟻なしの宮と稱す〕。境内神社は氣比宮・常宮社・高津宮・住吉社・稻荷社・粟島社・少彦名神金幣社〔舊金比羅佛、廃佛の後、天照皇大宮岩清水八幡宮を奉祀す〕の七社なり。現今境内六百七十七坪。〔大正元年末〕
 敷賀志稿云、大谷氏の城内の鎮守なりと云はいかゝあるへくや、元より河原口に座しを城内の鎮守と仰かれしならん云云。

『敦賀志』
徳市村
氏神正八幡社〔宮守延寿山万福寺・時宗嶋之郷来迎寺末〕此境内蟻生ぜず、甚奇なり、よて蟻なしの宮と称し来れり、此村の北の端を西へ流るゝ小河有、是大谷氏の城の南濠にて、天和二年の書に徳市の堀と見えたる名残なり、
当社の少し南に「三丸跡」と、手元の地図にはあるが、探したがわからなかった。空地のような所がそうかも、霊山院の大通りを挟んだ向かい側か、公園があるが、小さい子が一杯遊んでいる、こんなところでウロウロすると不審者と見られるので、チラと見では何も碑のようなものは見当たらなかった。もちろん 大谷氏の敦賀城の三の丸のことであろう。
「敦賀志」は「三丸ハ大谷氏の城内なりしを廃城後田畠となし、且農民住事となりぬ」と記す。

稲荷神社

古い道沿いにある。このあたりは戦災に遭うことなかったのか、古い街道が残っている。この町は車が入れるのか、どの角度に道がついているのか、昔の 自然なままの道になっている。
『敦賀郡神社誌』
村社  稲荷神社 敦賀郡敦賀町三島字八幡
位置と概況 當社は三島區の舊稲荷町に鎮り、敦賀町の西端にて、三島區より云へば中央である。又氏子區域より見れば西北端に當つてゐる。舊稲荷町は舊来の新田村・今屋敷村・河原村の三村を明治七年合併した町名で、當時の戸数八十七戸であつたとのことである。而して明治十四年三月八幡町・稲荷町を合併して三島村と改稱し、更に明治二十二年四月町村制實施に當り、敦賀町に編入せられたのである。當社は敦賀町内より粟野村金山、及び三方郡を経て舞鶴方面に至る丹後道に沿い、高さ三尺の石垣の上に白玉垣を設けて社域を境し、拝殿より高さ二尺の石垣を積み、これに透塀を囲繞した淨域に本殿は東面して鎮座し給ふ。社域の南北西の三面は、數十坪の空地を隔てゝ人家軒を並べてゐる。往年は境域に老杉古松多くありて、赤鳥居や末社の赤き社殿と相映錯して、稲荷神社の特色豊なりしが、大正十二年六月近火の際この古蒼の森は防火の任を全ふして枯損したので、今は當時の公孫樹・欅がその名残をとどめてゐるのみで、爾来檜・松等を植栽して、専ら社域の整備に力を盡してゐる。本殿は瓦葺を銅葺くとして、千木勝男木を配し、又銅葺の幣殿を設け、拝殿の移轉模樣替をなして、総體を連續して所謂権現造と爲した。然して拜殿の前には銅葺唐破風造の拜所を新設し、又荒癈した多数末社の整善を期して、他の末社に夫々合祀し、社務所・神饌所・透塀を新設し、其他内外の装飾、調度品等を整備した爲め、最近の當社は面目一新し、遠近の帰敬を益々篤からしめてゐる。
祭神 倉稻魂命、猿田彦命、大宮賣命
由緒 按ずるに、當社は往古より敦賀町狐ヶ辻子町、今の大島區に鎭座し給ふを、長享三年の頃越前國司朝倉孫四郎、年久しく眼病にて癒へず。或夜霊夢あり、速に當社に参詣し、神前に祈願書を捧げて婦りしが、日ならずして病は全癒した。故に其霊徳を報賽の爲め現地を卜定して、新に神殿を造營し、狐ケ迂子より奉遷し、御供田若干を寄進し、尚祠官を存置すべき様命ぜられた、然れば此の亊を伏見本地稲荷社に急使を以て報じたるに、直に祠官一名を下向せしめ、則ち號して狐通寺と稱し管理せしめ、傳來の神書・記禄・賽物等をこゝに納めた。其後朝倉・織田の兵戦ありて、祠官等は朝倉氏に荷據せる爲め、本社及び狐通寺は兵焚の厄に遇ひ、ー切を焼失し、又御供田は没収さるゝに至つたと云はれてゐる。其後兵亂治まり、崇敬の人々は全郡に勸化して社殿を造営し、稻荷大明神と尊稱し奉りたので、崇敬最も厚かつた。當社祠官が福勝院と號し社僧たりしは、その頃よりのことなるべきか、明治八年十二月十日村社に列せられ、明治二十二年十二月更に本郡一般に勸化して本殿を改築し、大正十年二月十一日神饌幣帛料供進の神社に指定せられた。同十二年六月二十九日近火あり、折うしも巽の暴風にて、本殿と拝殿の間に建てる中門、及び北廻廊南廻廊を焼失したが、この焼失建物は當社の營造物中最も古く、且つ腐朽して、大修繕を要するもののみであつて、之れに近接せる本殿拝殿は奇蹟的に、炎上の難を遁れた。故に地方人は益々神威の發揚顯赫を仰いてゐる。
 〔附記〕 氣比宮社記に曰『此神祠昔在二于濱嶋寺町一慶長以來移一于此處一其舊地今謂二狐ヶ辻子一」とある。蓋し今明確なる徴証に乏しければ當稲荷社々傳に従ふ。
祭日 例祭 五月十五日 祈年祭 舊二月初午當日 新嘗祭 十二月七日
本殿  〔〕
幣殿  〔〕
拝殿  〔〕
拜所  〔〕
神饌所 〔〕

境内神社
金刀比羅神社 祭神 大物主命
  社殿 〔〕
八坂神社  祭神 素盞嗚命
  相殿     大己貴神 太田命
         伊弉册命 大宮姫命
  由緒
   昭和三年十月末社豊国荷社、祭神大巳貴命、四方稻荷社、祭神太田命、白山神社、祭神伊弉冊命、秀丸稲荷社、祭神 大宮姫命の四社祭神四柱を當末社へ合祀し奉った。
  社殿 〔〕
天満神社 祭神 菅原道真公
  相殿 保食大神、加茂別雷命、少彦名命、九頭龍大神、食稲魂命
  由緒
   明治四十三年四月二十九日末社 玉木稲荷社 祭神 保食命、加茂神社 祭神 加茂別雷命、
粟島神社 祭神 少彦名命、戸隠社 祭神 九頭龍神、玉繁稲荷社 祭神 倉稻魂命を當末社へ合祀し奉つた。殿 〔〕

境内坪数 百九十一坪
氏子戸数 五十四戸 崇敬者敦賀全町
役場距離 十一町餘
舊地の傳説(敦賀志稿) 今の寺地(淨蓮寺)稻荷明神の代地なり。其の時の御いみの井と云ふもの今猶清水湛然せり。稲荷社は慶長年間故ありて新田村へ移し奉れり。其の社に狐の住しより狐が辻子と云しとかや。此寺此處に移りて後、住寺の夢に狐人に化來て曰く、晨夕の太鼓の音に子供の驚き侍れば此の鳴物をやめさせたまへと云、住寺憐みて其より後は今に至り太鼓をならさずとなん』とある。淨蓮寺内開基は誓圓法師にて、本尊阿彌陀如来は佛工春日の名作であると。舊地は東郷村樫曲にあったが、其後洲崎に移り、寛文末に狐が辻子の舊趾に移ったと云ふ。其處には今尚稲荷社の小祠がありて昔時の名残を存してゐる。
境内参考舊趾 當社手水舎及び社務所前庭の境内地に数年植樹其他土工を爲したる際、上中二三尺の處に瓦石あるを發見し、今その一石を社務所沓石に使用してゐるが、此の土中には尚多数埋没してゐこれ朝倉孫四郎當社の靈顯を報謝して、狐が辻子より奉遷せし際の本殿、又は其他の建物の礎石ならんと云はれてゐる。後織田の兵火に社殿及び狐通寺焼失したので、後に再建したと云へば、規模締小のためこの瓦石等を使用せざりしか、或は朝倉・織田の合戰は朝倉の敗となりし爲め、故意に目立たぬ樣土中深く埋め込みしかと疑ふべき黠もあれど、河水の氾濫に依り土砂堆積して、自然に埋沒したものと見るを至当と思考する。
『敦賀志』
新田村
氏神稲荷社〔慶長年間濱嶋寺町より所奉遷也〕宮守 福勝院〔森御所下〕

浄土宗西蓮寺


曹洞宗霊山院



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》
幸若氏
『福井県の地名』
田島村(たじまむら) (現)敦賀市三島町
小浜藩敦賀役所(陣屋)の南に若狭街道に沿って位置。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では島(しま)郷に、正保郷帳では徳市(とくいち)村に属した。元禄郷帳に「幸若知行、徳市村枝郷 田島村」高五六石余と出、天保郷帳の村高は一〇〇石。享保一二年(一七二七)の敦賀郷方覚書に「高百石、内十八石六斗三升畑方、但四斗五升俵百四拾俵程年貢有幸若領 家数拾五軒」とみえる。
当村はかつて陰内(いんない)村と称し、「遠目鏡」に「舞々 柳太夫、いんない村中」とみえる。幸若五郎右衛門がこの地に移り住んでから田島村と改称した。幸若一党は越前丹生郡西田中(にしたなか)村(現朝日町)を本拠にし、所領計一千石ほどを有する舞の家である。敦賀幸若領はもと諸鶴太夫が領していたが嗣子なく、将軍家綱はこの地を幸若小八郎虚白に与え、虚白の次子が五郎右衛門である(指掌録)。

『敦賀志』
田嶋村
氏神山王社〔宮守一乗寺、元ハ天台宗成しが今ハ禅宗にて永建寺末なり〕昊山院〔禅宗若州佐柿徳正寺末なり〕此辺幸若氏の領則邸あり、当国福井幸若同流なりしが、故あって掌てこゝに土着す、福井幸若氏と輪番に江府へ参勤す、故に空山君御領地御書上の書ニハ、内百石諸靏太夫へ被下とあり、

『敦賀市史上』
敦賀の幸若舞
幸若舞は、猿楽などと同様、南北朝期には地方芸能として成立していたようであり、室町時代には都でももてはやされるようになり、戦国時代になると武将たちがとりわけ好んだ。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康いずれも幸若舞を好み、江戸時代には、幕府の音曲として、能楽より上位に位置付けられ保護された。舞・音曲としての幸若舞は、比較的単純な音曲舞踏であり、その詞も散文に近く、いわば平曲類の謡い物に多少振りをつけて舞ったという程度のものであり、舞振りによって詞の内容を表現せず、強弱や緩急は音曲によって表現したようであり、江戸時代中期以降は、舞が廃り音曲中心のものとなっていった。
 幸若舞の祖は、文明二年(一四七〇)五月二日一乗谷で没した桃井直詮といわれるが、すでに述べたようにそれ以前から幸若舞の原型はあり、おそらく直詮のころにのちの幸若舞の曲目・型がほぼ完成されたのであろう。直詮以降、その子孫たちは、越前国丹生郡西田中の地に所領を得、江戸時代には毎年交代で江戸へ行き、将軍の前で舞うことを家職とした。
 ところで、西田中の幸若舞については、これまでから多くの研究があり、明らかにされたことも多いが、敦賀の幸若舞についてはあまり知るところがない。敦賀の幸若舞が、史料のうえで最初に確認できるのは、天正六年(一五七八)である。当時三河岡崎城主であった徳川家康の老臣松平家忠の日記『家忠日記』の天正六年七月二十日の条に「越前鶴賀舞々幸鶴大夫越候て舞候」とあるのがそれである。幸鶴大夫は、その後もたびたび岡崎を訪れ舞っている。表120はその一覧である。
 近世初頭に敦賀に諸鶴大夫という舞々がいた『正保郷帳』。この諸鶴大夫が、幸鶴大夫の系譜をひくものであるという明証はないが、おそらく後裔とみていいだろう。この諸鶴大夫は、正保の郷帳によると、一〇〇石を敦賀郡内に幕府から与えられていた。元文三年(一七三八)三月、江戸幕府使番大岡忠征の敦賀の幸若についての諮問に対する返答書『指掌録』によれば、この諸鶴大夫(諸鶴越中)の子長次郎は家督を継ぐが、承応元年(一六五二)若くして死去し家は絶えた。しかし、この知行一〇〇石は、当時の小浜藩主酒井忠勝の預りとなり、忠勝から四代将軍家綱への進言によって、西田中の幸若小八郎虚白の子に継がせることが約束され、万治三一年(一六六〇)虚白の二男久次郎が諸鶴大夫の旧領一○○石を宛行われ、久次郎が二十六歳になった延宝五年(一六七七)に敦賀に来住した。一方、『丹生郡人物志』に載せる「幸若系譜」によれば、虚白の孫五郎右衛門常政を敦賀幸若の祖としている。
 敦賀幸若の所領一〇〇石の所在は、野神村・長沢村・古田刈村・津内郷・嶋郷に散在していた。散在の様子は、江戸中期と思われる「敦賀郡田島村絵図面」(岩谷末雄)に具体的に示されている。この図面でいう田島村は幸若領の通称であり、古くは印内村あるいは陰内村(丹生郡の西田中村もかっては印内村といった)と呼ばれていたが、郷帳や国絵図に出てくる正規の村名ではなかった「酒井忠勝書下」ほか。幸若領の支配の様子は、ほとんど知るところはないが、先の絵図に「庄屋岩谷治郎右衛門 長百姓絵馬七次郎 小前惣代杉本吉右衛門」とあり、ほかの村むらと大きな差異はないように思われる。
 幸若の尾敷は、宝暦九年(一七五九)まで三之丸にあり、ここには、屋敷のほか幸若の持庵霊山院があったが、この年八月、幸若三五右衛門より若狭三方郡佐柿にあった徳賞寺の晃厳和尚に隠居所として寄進され、宝暦十一年二月、もとの寺号霊山院をもって正式の寺院となり、徳賞寺の末寺となった。このとき、幸若の屋敷は、領地が比較的集中しており若狭街道に面した地に新しく造られた「霊山院文書」。その後、屋敷地の変更はなかったが、明治四年(一八七一)、廃藩置県と同時に所領が召し上げられ、幸若氏は東京へ移住した「岩谷末雄文書」。
 敦賀の幸若舞がどのようなものであったかは、江戸時代を通じて将軍の前で奏する以外はほかで行うことがなかったこと、さらに国元での稽古にあたっても外からは厳重に隔離された稽古場で行われたこと、さらに明治維新後、子孫が東京に移住するなどして、地元にはまったく残らなかさった。ただ、近世のごく早い時期に分かれた一派があり、現在も、福岡県山門郡瀬高町大江に無形民俗文化財に指定され残されている。


三島町の主な歴史記録

『敦賀郡誌』
三島  結城の南に在り。笙橋西詰より南御陣屋前に至る十餘軒は、舊橋詰町と稱して、庄町に属せり。築屋敷は新田村の内なりき、大谷氏の居城敦賀城の東壕を埋て人家を建てたるが故に築屋敷と稱すと云。三の丸は敦賀城内の地にして、廃城後農民住めるなり。築屋敷・三の丸共に無高なり。〔築屋敷には後年葭原を埋めし田あり〕今屋敷に城の南壕を埋めて民家を建てたるなりと。田島村は昔は陰内村と稱す、幸若氏此に移り住みて田島村と改めたり。〔一乗寺書上〕幸若氏の領地なりき。河原村は永緑元亀の頃にや、笙河の堤防洪水の爲に崩れ、此邊河原となれり、其地に居るより河原村と云へるなり。今の新田小津内の間の往来を俗に作り道と稱するは、其時の河原に作りし道の謂なり。昔の街道は其東に在りき。又新津内村の地は、敦賀縣にて小區々分の際、三島に併合したるなるべし。〔今記録なきが故に確にそれと定め難し〕此村は萬治寛文の頃。紙屋彌三次の開墾したる所なりと云ふ。高ありて人家なし。
 八幡神社、縣社。
 稻荷神社。村社、舊狐辻子に鎮座す、長享三年、朝倉孫四郎祈願して驗あり、因て今の地に移し、田若干を寄すと云ふ。〔敦賀志稿には慶長年間此の遷すとあり、是ならん〕明治八年十二月、村社に列せらる。境内神社、金刀比羅神社・八坂神社・天満神社・豊岡稻荷社〔祭神大己貴命〕四方稲荷〔祭神大田命〕・白山神社・秀丸稲荷社〔祭神大宮姫命〕の七社あり。八幡神社、村社、〔徳市〕日吉神社。村社。〔田島〕共に八幡神託〔築屋敷〕に合祀す。誓蓮院、淨土宗鎮西派、原西福寺末、もと西隆寺の塔頭たりしを、正徳の頃争論起り、西福寺直末となれり。西隆寺、〔今原山〕同派同末、永正十二年源眞開基、天正十四年西福寺道残中興す。蜂屋氏大谷氏より制禁の判物を給ふ。 霊山院、曹洞宗、佐柿徳賞寺末、元天台宗なりしが、一時廃寺となれるを、寳暦九年、幸若氏其舊宅を喜捨して再興し、禅宗に改む、本尊観世音は若州佛谷浦の海底に得たる所なり。〔黎山晃巌語録〕廃寺。金龍院、青蓮院下、築屋敷八幡宮々守。萬福院、修験、三寶院下。福勝院、森御所下、稲荷神社宮守。一乗寺、元天台宗なりしが、禪宗に改宗、永建寺末、田島村山王社宮守。満福寺、時宗来迎寺末、徳市八幡社宮守。敦賀城址。小濱侯の陣屋址、南代官所址、農兵頭役宅址あり。

三島町の伝説

『越前若狭の伝説』
三幅の前だれ     (三島町一丁目)
 敦賀の女は三幅の前だれを付ける。むかし一伯様(松平忠直)が今俗に御陣屋という所のかたわらの亭(ちん)にいて、来仰寺道を往来する婦人を矢で射た。しかし三幅前だれをつけたエタの婦人だけは射なかった。それで一般にも三幅の前だれをつけるようになった。  (敦賀名所記)
 一伯は豊後に流罪になって。福井を立ち、しばらく敦賀のご陣屋に滞在した。一伯はご陣屋に泊っていて、来迎寺道を往来するはらみ女を見つけると、捕えて腹をさいた。そこでさっそく町ぶれが出て、婦女子は三幅前だれを付けて通れとあった。三幅前だれは身分の低い者だけが付けるもので、あれを切ると刀の汚れになると家来が説いたので、忠直も捕えなかったという。それ以来一般の婦女も三幅前だれを付けるようになった。
 三幅前だれとは、冬はもめん、夏は麻で作り、長さ六尺、下の所を二寸ばかり縫い残してある。田へ出るときは、その半分の三尺で作った。  (伝説の敦賀)

 ご陣屋は、俗にお茶屋と称した。(気比のささ波)


三幅(みはば)は3尺のことで、幅1メートル、長さは膝くらいまで、エプロンよりも幅広い、腰に巻くと、ほぼ一周するくらいのものになる。



三島町の小字一覧

三島  川西 上結城 葭開 城屋敷 東葭原開 東杉ノ木 西杉ノ木 南蟹喰 野本 東松庵 赤添 四ツ矢 土居原 村西 八幡 稲荷前 稲荷田 東縄手 村中 村上 東側 西側 熊作 寺ノ上 東柳田 土器ケ田 下丁縄手 西茶ノ木 下茶ノ木 東茶ノ木 西砂田 東砂田 西縄手 上新田 下河原 塚田 東中道 上砂田 上茶ノ木 長茶ノ木 上丁縄手 東六反田 光田 下白屋 上金戸 下金戸 下石橋 金剛丸 東竹ケ花 ビラン 西布尾 鳫田 下免田 西久木田 上塩境 小深田 下横枕 西石橋 上石橋 北八ツ口 上白屋 椎ノ木橋 西椎ノ木橋 下椎ノ本橋 東椎ノ本橋 西中道 野畑 中河原 上河原 東牛明 西牛明 上椎ノ木橋 東登り橋 西登り橋 東大力 西大力 上横枕 蛇原 切戸 流田 大田 水付 フダイ 南大力 南八ツ戸 下八ツ戸 下蓮賀 下乙湯 下袖河原 上袖河原 上乙湯 上蓮賀 上八ツ口 階子田 下縄田 角田 東焼柱 西焼柱 東射場田 西射場田 堂田 五反田 八斗田 伴条 道寿田 棒田 桑ノ木 縄田 海道 笠屋 朝ノ下 袖河原 西河原 東中河原 東河原 五枚田 上古川 下東河原 新川 古川 内河原 西大田 上三反田 下フケ 今若 子ギ田 二町田 糠塚下 四町田西 五町田西 東三反長 一町田 石川 柳原 上河原東 下河原 庄堺 辻堂 岡山下 辻堂前 岡山北 四反田

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん

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