丹後の地名 越前版

越前

道口(みちのくち)
福井県敦賀市道口


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福井県敦賀市道口

福井県敦賀郡中郷村道口

道口の概要




《道口の概要》
市街地の南東部。東部をJR北陸本線が南北に通る。国道8号が北北東から南南東に縦断する。藩政期以前の旧北陸道、若狭道は地内で分岐していた。古くは三口とも書いた(源平盛衰記)。地名の由来については「敦賀志」に「此処を三ノ口と有ハ、若狭・敦賀・木ノ芽の三方へ別るゝ処故しかいへる成べし」とあり、若狭・敦賀・越前三方への分岐点であることから「三ノ口」と呼ばれるようになり、さらに「道口」となったという。また同書に「道口と云事ハ、前中後と有国ハいづれも某の道の口、某の道の中、某の道のしりとよへり、此里ハ三越路へ下る入口なれハ、おのつから道口の名はおひけらし」とも記す。

かつての江州街道であろうか↑。当地で西近江路(七里半街道)と若狭街道が分岐したそうだが、どの道がそれなのか。

北陸新幹線の車両基地が建設中、この道が木ノ芽道か↑

中世の道口は、南北朝期から見える地名で、「義経記」に「愛発の山の北の腰に若狭へ通ふ道あり。能美山に行く道もあり。そこを三の口とぞ申しける」とある。「源平盛衰記」にも三口とある。貞和2年(1346)3月日の行豊田地売券(京大古文書集)に「津守郷道口」と見え、当地内の1町が行豊から新御所又三郎・余呉又次郎に売却されている。その後「宋雅道すがら之記」応永34年(応永1427)2月条に「みちの口」と見え、永享12年(1440)4月8日甲斐郷衡が西福寺に「道口之下」を寄進している(西福寺文書)。永禄元年(1558)6月5日の善妙寺領目録で「道之口村之下」と村名として見える、「道口中川原」「道之口石藏之下」などともあり、戦国期を通して「道口」が一般的であった。慶長3年(1598)の道口村検地帳写(石井左近家文書)に、田2町2反余・畠1町5反余・屋敷2反余、村高303石余で、吉河・古田刈・敦賀・中・鳩原・小河・坂尻(坂ノ下か)など近隣村からの入作がみられる。慶長国絵図には道之口村と見えて鳩原分を含め高416石7斗2升。
近世の道ノ口村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)からは小浜藩領。享保12年(1727)の家数32(高持23・無高8・寺1)・人数141 (男67 ・ 女70 ・ 出家4)。「雲浜鑑」に、家数35・人数174。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に、戸数38・人口181、馬2(貨物運搬用)、荷車30(運送用)、産物は莚1,500束・菜種8石。同22年中郷村の大字となった。
近代の道口は、明治22年~現在の大字名。はじめ中郷村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西2町余・南北3町、戸数34、人口は男107 ・ 女98、学校1。昭和32年、一部が石ケ町、同49年観音町・羽織町・樋ノ水町となった。


《道口の人口・世帯数》 131・50


《道口の主な社寺など》

式内・志比前神社

北陸本線の盛土による高架線のコンクリート側面が当社参道石段下のギリギリにあって、人一人が通れるほどしかスキマがない。石段までの参道は高架のトンネルになっている。
『敦賀郡神社誌』
村社 志比前神社  敦賀郡中號村道ノ口字榊林
位置と概況 本區長澤區より十一町餘の南に在りて、江州道(柳ヶ瀨街道)木ノ芽道・若狭道の三道が分岐する所謂三ツ要の地黠である。古記にも三ノ口と書けるものあるは、三道の門口に當るが故に名づけたのを、後轉化して道の口と書いたといはれて、其の名は古くより聞えてゐた。治承年間源義經北國落の際に、頼朝は此の地に關を設け、井上左衞・敦賀兵衛等そして其の通過を拒ましめたが、義經山伏の扮装をなし、無事此の難関を通過することを得たとある。
「義經記」文治二年二月四日義經奥州下向の文に、「あらち山の北のこしにわかさへ通ふ道あり、きのうみ(キノメ)山に行みちもありそこを三ッの口とぞ申しける。越前國住人するが(ツルガ)の兵衛加賀國の住人井上左衙門兩人承で、あらち山の關屋を拵へて云々」とあり、飛鳥井中納言雅縁卿紀行に「道ノ口と申所にて武生のほふはいづくならむとおぼゑて、幾千代もなほしきしまの道の口、たえず次ぎこせこゝろあひの風」尚小濱藩の荷物改めの番所を明治維新まで設けられたなど、史實に富める地にて、人家は多く江州道に沿ひて建てられ、本村の中央に位し、村役場・中郷尋常高等小學校・巡査派出所等皆この地にある。氏神志比前神社は、區の東端北部の稍々突出せる山麓に座し、社域は西北南の三面を展望しうる景勝の地で、木ノ芽道に沿ひ社標が建てられ、石階十七階を上れば、平坦なる境内廣場となり、更に石階七段を上ればこゝに中門に似たる床割式の拝殿がある。更に四尺の石垣を築き石階五級を上れば上段となりて、本殿は西面して此處に鎭座し給ふ。域内には老樹多く、特に三十尺にあまる古椎を始め二十四・五尺のもの相次ぎ、十尺以上を出たもの三十餘株を算し、鬱蒼として千古の昔を語り、石といふ石は苔むして青黒く、神気磅一郷に漂ひ、眞に延喜の往時が偲ばれ、志比前の御社號も所以ありと點頭かゝる古社である。
祭神 經津主命
由緒 按ずるに、當社は延喜の御代よりの古社にて延喜式神名帳に越前國敦賀郡志比前神社とあるは即ち當社である。往昔より香取大明神とも齊主神とも尊稱し奉った。敦賀志稿に「當郡四方鎭護南方の御社也」とある。氣比宮社記に「南方鎭守の社」とあって當郡の式内名社の一である。御社名は古来、椎樹多き社地なるが故にこの名ありとさもあるべきである。明治十一年三月村社に列せられ、大正十三年四月一日神饌幣帛料供進の神社に指定された。
 〔附記〕 敦賀志犒に「清和天皇貞観元年正月二十七日甲申奉授越前國從四位上勲六等椎前神正四位下」(三代實録)と神階陞叙のことがある。尚光仁天皇寶亀七年十二月八日神封三戸を賜ひしは當社なるが、明確なる證左はない。神階神封の亊は式内社足羽郡椎前神社なるべしとの説もある。今吉田郡に屬する志比境村にて、往昔は椎前と云へる由である。當區に椎前の名稱ありしと云ふ一證は、西福寺文書康暦二年六月沽却状に「しゐさき田」とあり。尚外に當社領椎前田五段と見えてゐる。但其の地籍は未だ詳かでない。朝野群載に白河天皇承暦四年六月及び堀河天皇康和五年六月に、神祗官御體卜の奏に志比前神の社司等神事を過穢に依て、使を遣し中祓を科すべき亊が見へてある。これは當社の事であらう。
祭日 例祭 五月十日(元舊四月十五日) 祈年祭 三月中旬 新嘗祭 十一月二十三日
豊穣祈祷祭 毎年正月十日奉仕し、區民は當番の家で直會をなす。神饌及び祭式は一般と同じである。
放生會祭 毎年八月十七日當社境内に、夕刻より神燈を點じ、區民の老若相集ひて盆踊をなすも、現今では漸次寂れて舊時の如くでない。
本殿 …
舊神殿趾 本殿の直後に方三尺、高さ一尺計り石にて作られた所がある。これ舊神殿の遺趾なりと往昔より傳へられ敢て踏むものがないと。


曹洞宗禅源寺

志比前神社の裏側にある。元は真言宗という。

『敦賀郡誌』
道口  長澤の南に在り、源平盛嚢記には三ノ口〔義経記にも三の口〕とあり。京より北國に下るに、道口にて西若狭路、東木芽路、北敦賀路と三方に分るゝ故にかく書けるなるべし、西福寺文書貞和二年三月の沽却状に津守郷道口、同文書永享十二年の寄進状に道口、又永祿元年善妙寺々領目録に道之口村と見ゆ。宗雅道すがらの記〔應永卅四年二月〕にもみちの口とあり。
 〔宗雅道すがら之記〕

中郷尋常高等小學校あり。 氏神、志比前神社、村社。 禪源寺、曹洞宗、敦賀永嚴寺末、三保屋十郎開基なりと稱す。〔村に十郎の墓と稱する者あれども、後世の者なり〕 眞言宗なりしが、慶長五年曹洞宗に改宗す。 廢濤に至るまで、駄別札番所を置かれたり。


宿駅・駄別札場(番所)・女留番所
当地は古くから交通の要所で、福井藩時代の慶長-元和(1596-1624)頃には宿駅が置かれ、一里塚も村の北、岡山との中間に明治中頃まであったという。
当村より近江境に位置する山中村へ至る西近江路、また途中より分れて疋田村より近江境の新道野に至る塩津道の両道を馬足道ともいい、郡内から馬足役を徴発し、雪割・修繕などの人夫役や、架橋の材木・鉄物など諸入用を負担させた。
また寛永元年、同2年頃には女留番所が置かれ、同時にも置かれたため、通行に支障が生じ、女留番所は疋田村に移された。道ノ口の番所には、小浜から常番1人と加番1人、それに敦賀町奉行所の足軽が詰めて駄別札の改めを行った。常番は50石取の武士で道ノ口役宅に常住し、加番は30~40石取の武士で毎月交代、足軽は敦賀足軽中から2人ずつ毎月交代であった。番所は西向3軒長屋で中央は役所、南は加番役宅、北は足軽役宅、裏手にそれらとは別に常番役宅があった。「雲浜鑑」には「道ノ口番所、二十三坪余、同常番部屋二十坪半余」とある。駄別銀は上り荷に課せられた通行税で、小浜藩では銀高の最大の小物成であった。中世には駒ノ口銭と称し荷馬1駄・1人持の荷物に銭10文を当座に徴収、大谷吉継が領主の時代にこれを駄別と改め荷馬1駄に米1升が課徴され、江戸期の福井藩領の時代2升に改められたという。その後駄別札が発行され、駄別札1枚を米2升にあてて、荷主は問屋・旅籠屋から札を受けた。京極氏の時代に乗掛は札1枚半、軽尻は札半枚と定まり、半枚以下の小荷物は駄別銀が免じられた。駄別札1枚についての荷物量は荷物の種類ごとに詳細に定められており、道ノ口番所でこの札を改めたことから「道ノ口御札」ともいわれた。駄別銀は明治4年の廃藩置県まで徴収された、という。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


道口の主な歴史記録



道口の伝説




道口の小字一覧

道ノ口  草?道 万道越 関ノ谷 殿山腰 岸ノ上 五田 瀬戸川 上砂場 西狐塚 衣掛 広平 元橋 下砂場 河原 西街道 東街道 禅源 榊林 腰根 塚狭間 古河 永荒 石蔵 尾桂 水掛 江川 宋地 柳原 土山 河原 河向 団子田 丸山 六反田 四反田 岸ノ下 野畑 三処田 元村下 明神 狐塚 タモノ本上 三反長 タモノキ からから 高畑 イヤ尻 壱丁田 岡ノ腰 厚街道 畑ケ田 大土居 上川原 上出 東出 北出 村下 村東 蛇田 岡山北 岡山下 ザル 八反田 二俣 辻堂 乞喰作 岸ノ上 五反田 南石ケ町 六町田東 藪ノ下 銀田 高尾 水谷 衣掛山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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