元町(もとまち)
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福井県敦賀市元町 福井県敦賀郡敦賀町 |
元町の概要《元町の概要》 気比神宮の北になる、元町というくらいだから、町の元の中心地・繁華街地であったところになる。県道36号敦賀港線が国道8号元町交差点から北西に縦断している、これも戦災復興道路で、8車線分はある、その東側歩道が旧通りで、昭和8年陸軍特別大演習統覧で行幸された時整備されたいわゆる行幸道路になり、その昔は大辻子とも呼んだ。歩道といっても、両側に2車線分の歩道、歩道にセンターラインがひいてある、さらに街路樹帯と駐車スペース、そして4車線の車道がある。これがいまどきのミチであろう。戦災のオカゲと言うのもヘンかも知れないが、常識はずれなほどに未来の見える人がいたのであろうか、それともアメリカの普通サイズの路巾なのか。 戦前の旧大内・橘町通りは隣接地とともに商業の中心地として繁栄したという。今は住宅地の景観である。昭和32年からの町名で、もとは敦賀市蓬莱・桜・大島・神楽・曙・津内・泉の各一部と大内・橘・御手洗。 《元町の主な社寺など》 恵比須神社 当社のある辺りが大内。 『新撰姓氏録抄』左京諸蕃下任那に 元はこの辺りのひとかも… 『敦賀郡神社誌』 無格社 惠毘須神社 敦賀郡敦賀町大内字大辻子
位置と概況 當社は往昔より大内・櫻兩區の崇敬社にて、當町の中央に當り、崇敬出區より見れば、中央南端に當り、本殿は東面して鎮座し給ふ。此の附近の舊稱を御所辻子と呼び、大辻子・小辻子・幸濱の支町がある。この御所辻子の町名は古くよの名なるべけれど、何時の頃より起りしか確かでない。永祿年間の記録及び慶長年間の検地等にも、その名は既に見えてゐる。往古仲哀天皇氣比宮へ御幸の際に行宮の在つた所なるが故に此の名があり、又その海演を幸濱と呼ぶは、神功皇后が筑前穴門に向はせ給ふ時の、御船出し給へる濱なるが故に、この稱があると古き口碑に傳へられてゐる。この附近の人家の多くは元は漁業なりしも、慶長門四・五年の頃兒屋川の向ふに移往した當時は、児屋川や小谷川と書いてゐる。漁家の移住した後へは、慶長の末期頃宮内村より、出でて住居した者が多かった。其の頃より明治十年頃までは、児屋川の向ふに川向御所辻子町・川向唐仁橋町の名があつた。當社の崇敬者區域は大内・桜の兩區に跨るのは、明治七年二月御所辻子を二町に分つたからである。現社地は甚だ狹く四圍皆人家であるが、神社は其の要素を具備してあるので神厳を保ちてゐる。特殊神事等あつて一町の崇敬が厚い。 祭神 事代主大神 由緒 按ずるに、當社は永享三年八月の鎮座であると社傳に記すも、古く其以前より社祠ありしものゝ如く云はれてゐる。社域及び其の附近は往昔氣比神宮御祭神仲衰天皇の行宮のありし當時より、漁民等の信仰する、舟魂神を守護神として、祭祀したるによるもいと傳へてゐる。斯様に當社域と、気比神宮御祭神とは深い関係があるので、氣比神宮祭祀の挽山には、往昔より當社御祭神の御隨神像を奉戴した山車が他町の山車の如く抽籖によらず、先頭第一に挽出すのを恒例としてゐる。當社は元現町役場の地に鎭座し、修験瀧本院奉仕せしが、天保酉八年三月三日火災の爲め、當社及び瀧本院共に燒失し、社守清貫が漸く神體を奉持して難を避けたので、諸記録・賽物等悉皆烏有に歸し、古史に徴する確証を得るに甚だ難い。後再興したるも、明治四年神社制度の改新に當り、瀧本院は癈止され、明治八年十二月無格社に列せられ、明治十六年十一月社殿を改築し、同十八年九月現町役場の地より現社地に遷座し奉った。 〔附記〕 「敦賀志稿」御所辻子町(上古仲哀天皇氣比宮ヘ御参詣の時行宮の趾故しかいひ傳ふ中略)上通りの南大辻子の東なる家の裏に古井戸(とうめの井と云ふ)是行宮の趾也と云ふ。今川東に座す天滿宮は此處に在しと云ふ。 「氣比宮社記」上略又或説行宮の舊地は今日二本町の御所辻子町一是也中古有レ故奉二迂于河向之地一而後奉レ勍二請天滿宮於彼舊跡地主神之社地一雖レ然未レ考二正説一云々 祭日 例祭 四月二十日 秋季 十一月二十日 特殊神事 毎年節分の當日福授の神事と稱し、黄金餅といふ小判形の小餅を神前に供へ、諸人の爲めに商買緊昌家内安全の幸福授与の祈祷をなし、このこがね餅を參拜者に授く。 社殿 〔〕 拜所 〔〕 神社附近の舊跡(幸濱) 毎年六月二十二日気比神宮総參祭には、神功皇后當宮へ行幸ましまし、或るは筑前穴門に向けせ給ふ時、御船の出入の故事に因みて、幸濱より御座船が常宮に渡らせ給ふのである。 とうめの井 この古井は當社の附近の人家内に在り、仲哀天皇氣比宮へ行幸の際この井水を用ひ給ひしと傳へらる。井底の敷石は普通の井戸に用ひてゐるものとは全然異なる、清き美しき小石を敷き、井筒などなく、平地より三四尺低く。数級の石段を降りて水を汲みたるが如き、舊態を留めてゐる。今は井筒を設けて普通の井戸形の如くせしも、常には此の井水は汲まずと云ふ。敦賀志稿にもこの古井のことを載せてゐる。 口碑 往昔より氣比神宮祭禮の時は(今は陽暦九月三日往事は八月三日)既記の如く、當社寳物の惠昆須神像(木像)を挽山に奉戴し、抽籤なく第一番に挽出す慣例なるに、何れの頃か他町よりこの古例に異議を唱へ、抽籖に加へ抽籖順により挽き出したるに、何れの山車も動かぬので、古例の如く惠毘須神社の山車を第一番に挽き出したところ、他の山車も皆轢轆と動き出し、祭禮山車賑々しく取り行はれたと云ひ傳へ、今に至るも其の古例に則り大内惠比須神社の山車が、先頭第一番に挽き出されてゐる。… 浄土真宗本願寺派白雲山浄蓮寺 本尊は阿弥陀如来、開基は誓円。もと樫曲村にあり、その後洲崎に移り寛文の末頃当地に移転。寺地は慶長年間(1596~1615)に新田村に移転した稲荷明神の跡地という。 真宗大谷派村上山善行寺 真宗大谷派大榮山了福寺 日蓮宗最初具足山妙顕寺 案内板に、 氣比神宮寺霊亀二年(七一六)創建ゆかりの寺院
日蓮宗 最初具足山 妙顕寺 かつて気比神宮の学問所。信長が本陣を置いた古刹。天平2年(七三〇)、気比神宮寺として藤原武智麻呂の発願により創建(寺伝には創建天長2年)。「春鶯山気比神宮寺」と号し重要な学問所でした。永仁2年(一二九四)、当時の住職学頭覚圓が日蓮聖人の孫弟子日像菩薩に帰依し真言宗から日蓮宗に改宗、妙顕寺に改称。元亀元年・2年(一五七〇~一五七一)、織田信長が朝倉氏天筒山城・金ヶ崎城攻めの折、本陣を張ったと伝わります。 法華宗本門流日照山本勝寺 もと気比神宮寺中の一宇で、大同元年(806)空海が唐より帰朝し気比大神宮へ賽礼した時、同寺に宿り住僧故円が真言の奥旨を聞き空海の弟子となったという。その後数百年を経て日照山大正寺と号し、六〇代円海が応永年中(1394-1428)名を日従と改め法華宗に改宗、寺号を正法院と変え、また本勝寺と改めたという。 案内板に、 氣比神宮寺霊亀二年(七一六)創建ゆかりの寺院
法華宗 日照山 本勝寺 水戸天狗党、北陸俳諧の祖 日能上人ゆかりのお寺。創建は大同元年(八○六)。唐から帰朝した弘法大師空海が氣比神宮を参拝した折に、庵を貸した故圓法師が空海に帰依し、真言宗日照山大正寺と称したのが始まり。 応永三三年(一四二六)、住職の円海が大本山本能寺を開基した日隆聖人の弟子・正法印日従となり、法華宗本門流に改宗、本勝寺と改称。 京都大本山本能寺の末寺です。 戦災慰霊碑が立つ、碑文に 敦賀市は太平洋戦争末期の昭和二十年に三回にわたって米軍の空襲を受けました。即ち七月十二日午後十一時十二分から翌日午前二時までの約三時間B29爆撃機の焼夷弾によって四一一九戸が焼失、百数十人の犠牲者が出ました。續いて七月三十日午前十時十五分頃艦載機P47六機が来襲、機銃掃射や爆風により二十三人が犠牲となった。三回目は八月八日午前九時頃B29一機が飛来し、東洋紡績敦賀工場に爆弾を投下、動員生徒を含む三十三人の命を奪ったのであります。
今も毎年7月12日には法要が行われているそう。東洋紡の爆弾は原爆模擬弾の5トン爆弾だったという。この慰霊碑はこれら敦賀空襲を始めとし本市に縁故ある各地での戦災犠牲者の御霊を弔祭し、永遠の平和と郷土発展を祈願して建立したものであります。又この地は被災の中心地域であり、本勝寺の御厚意もあって御霊の安らかな眠りの場に選んだ次第です。尚建立に際し格別の御芳志を賜わった方々に甚深なる敬意と感謝の意を表する次第であります。 昭和五十六年七月十二日 敦賀戦災遺族会 会長・副会長・代表理事 ○○ 法華宗本門流瑞應山本妙寺 案内板 氣比神宮寺霊亀二年(七一六)創建ゆかりの寺院
法華宗 瑞應山 本妙寺 水戸烈士たちが最後の日々を過ごしたお寺。創建は永和2年(一三七六)開山は大覚大僧正直弟の信解院日敬上人。法華宗本門流 天正8年(一五八〇)領主武藤康秀から境内地を与えられ、法泉寺町(現在の津内町)から元町に移り現在に至ります。元治元年(一八六四)、水戸天狗党が降伏直後に当山と本勝寺、長遠寺に幽閉されました。武田耕雲斎の次男・魁助を含む三四六名が加賀藩により収容され手厚く優遇されました。 法華宗真門流妙泉山円隆寺 単立久成山 開基日示+帝。という。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 元町の主な歴史記録元町の伝説『越前若狭の伝説』地蔵石 (元町) むかし敦賀の神楽通り気比神宮前を人夫が何十人がかりで、大きな石を大八車に載せて引いていた。そのとき通り合せた田結村の柿谷平太夫とその弟の平六のふたりが、この石運びを見て、からかい半分にその石に右手をあてだ。ところがその車が動かなくなったので、人夫たちはかんかんになって怒った。けれども評判の大力のふたりは、こんな石に何十人の男がたかっているのが、おかしくてたまらない。人夫たちにたずねると、近くの橋にかける橋げたの石だという。ふたりは人夫たちにいった。「ではこの石を、その橋まで運んでやろう。それでわらを七丸持って来い。」人夫たちはけげんな顔付きで、このふたりを見つめていたが、中のひとりが、「ではふたりで運んでみよ。」と、わら七丸を用意した。すると弟の平六が、「兄貴、しばらく待っとってくれ。これを背負って運んで来るから。」と、造作なく背負って立ち上り、さっさと歩き出した。町の人たちは、その大力に見とれて感心していた。後にこの石に地蔵尊と平六の名を刻んで、橋のたもとに立てた。 今もその石を地蔵石といって、敦賀市元町の一隅に、ほこらを建てて祭ってある。今考えると、この地蔵石は、気比神宮の境内に沿うて流れるみたらい川の地蔵橋にかけてあった石にちがいない。此岸から彼岸に導く地蔵尊を刻んだ橋石だったのである。 (浅井善太郎) きつねが辻子 (元町) 浄蓮寺の地は、もと稲荷明神の社地であった。そのころからのおいみの井という井戸は、今もなお、清水をたたえている。稲荷社には、きつねが住んでいたので、きつねが辻子といった。後に浄蓮寺がここに移ったとき、住職の夢に、きつねが人に化けてきて、「朝晩寺の太皷がなるので、その音に子供が驚かされて困るから、この鳴物はやめてもらいたい。」と頼んだ。住持は哀れに思って、それよりこの寺では、太皷を鳴らさないようにしたという。 (敦賀志稿) 元町の小字一覧関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『敦賀郡誌』 『敦賀市史』各巻 その他たくさん |
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