中(なか)
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福井県敦賀市中 福井県敦賀郡東郷村中 |
中の概要《中の概要》 市街地の東方で、金山バイパスが国道8号バイパスと交わる地点の何100メートルか北の地で、北陸自動車道の入口になる。向出山の西麓になる。「なかむら」と通称する。木ノ芽道(旧北陸道)沿いの南出・中出・奥出と呼ばれる3集落からなる。地名の由来は、中出が比較的早くから開け集落の中心になっていることから「なかむら」「なか」と称されたのであろう、という。 『敦賀志』 中村 高野の山外西に在
気比宮社家平松美作守の弟、中村兵庫の墾地であり、兵庫は元亀元年(1570)に織田信長の朝倉攻略に遭い、天筒山で戦死したと記される。氏神稲荷社〔一説ニ坐王権現と云〕 長福寺〔浄土宗 善妙寺末〕 此村元亀以前ハ平松美作守か弟中村兵庫〔初名 源四良〕か堡地也、兵庫ハ元亀元年天筒城に入て戦死せり、 中世の中村は、南北朝期~戦国期に見える村。康暦2年(1380)6月3日の尼道善田地売券(西福寺文書)に「中村の前」とある、この田は「しゐさき(椎崎)田」とされていて当村のことかは不明。宝徳3年(1451)3月2日には「中村前石塚殿之散田之内」の1反が林元光から西福寺に寄進されている(同前)。戦国期には金前寺領が2反(金前寺文書)、善妙寺領が「中村之尻か瀬」「中村」「中村下」などに7反余あった(善妙寺文書永禄元年6月5日付善妙寺領目録)。慶長3年(1598)の津内村検地帳写には中村の肩書きを持つ名請人が3名見える(布施美術館所蔵文書)。 近世の中村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、天和2年(1682)からは旗本酒井氏知行(酒井領)。享保12年(1727)の家数43(高持26・無高16 ・ 寺1)・人数231、馬24。木の芽街道筋で運搬に従事する者が多く、馬足も持馬も多い。当村は井川・谷口両村とともに木ノ芽川扇状地上に位置するため古くから用水が得にくく、唯一の朽古川は平素は水無川であるが大雨時は一刻水となって流水するため、これを防水すると下流の村と利害が対立した。そこで木ノ芽川上流の深山寺経ケ鼻に3か村共同で井堰を築いて取水した。しかしその後も洪水や渇水で田は河原化した。文化元年(1804)小浜藩の命で敦賀郡奉行は若狭天徳寺村の黒鍬組頭川原藤四郎を伴い当地を実地に見分している。中村河原は中・泉・高野・舞崎4か村に所属する荒廃田で、工事は小浜藩を中心に井川・鞠山・勝山の4領主の共同工事とした。はじめ藩は掘抜き井戸で灌漑用水の不足を解消しようとしたが、井戸は自噴せず失敗に終わった。そこで道ノ口村衣掛山麓の笙ノ川から用水路を引き、坂ノ下・吉河村を経て中村北中に達する全長4㎞余に及ぶ「北中村用水」計画をたて文化元年工事に着手。同用水は藤四郎組下の名田庄の伊三郎が米200俵で請け負い完成した。明治3年本保県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に戸数40(農業39・雑商1)・人口202、産物は莚450束・製茶62斤半・縄100丸。同22年東郷村の大字となる。 近代の中は、明治22年~現在の大字名。はじめ東郷村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西1町・南北2町余、戸数37・人口男117・女127。朽古川はたび重なる洪水時の砂礫の堆積で天井川を形成し奥出地区には往昔の堤防の一部が現存する。一部が昭和44年舞崎町2丁目、同49年羽織町・樋ノ水町・深川町、同55年泉ヶ丘町となった。 《中の人口・世帯数》 452・68 《中の主な社寺など》 集落西方の扇状地に弥生・古墳時代の集落跡があり弥生後期の土器、古墳後期に属する土師器・須恵器を出土した。 三宮神社 三宮神社の祭神は倉倉稲魂命、大山咋命、雷大神、旧称稲荷神社。 『敦賀郡神社誌』 村社 三宮神社 敦賀郡東郡村中村字宮ノ上
位置と概況 本區は、東南十一町にて高野區に、東北九町餘にて井川區に接し、南方六町餘にて中郷村古河區に、西北十一町にて北陸鐵道線路及び木ノ芽川を隔てゝ舞崎區に接し、木ノ芽街道は區の中央を貫通してゐる。氏神三宮神社は、區の東端中ノ谷山麓宮ノ上地籍に鎮座し給ひ、社域は木ノ芽街道に沿ふてゐる。域内に參入すれば、正面に高さ四尺の石垣を築き、十級の石階あり、これを上りて鳥居を入り、直に約五十段の石階を級すれば拝殿に至る、こゝには若干の平地がある。これより更に石階數級を上れば、本殿は西北面して鎭坐し給ふ。社後の山林は大木もなく、雜然たる矮林であり、社域は一見狭隘の感あれども、實際相當廣き面積を有して、社前には樹木甚だ多く、鳥居の奥なる高所より社殿の一部が樹間に隠見して、四隣寂寥、神気允溢して、自から莊重の感に逼る。 祭神 倉稲魂命、大山咋命、雷大神 由緒 按ずるに、當社は古くより稻荷社又は坐王權現(藏王)と尊稱し奉り、明治十一年八月二日村社に列せられた。明治十年十月二十九日、同區家越地籍鎮座の村社日吉神社、祭神大山咋命を、同年同月同日、同區宮の上地籍鎭座の村社地神社、祭神雷大神を合祀し、同三十一年六月六日、前記三社を合祀した由緒に據り、三宮神社と改稱したのである。 祭日 例祭 五月一日(舊十一月一日) 祈年祭 三月十九日 新嘗祭 十二月二日 特殊獻供 陰暦一月十四日、當社へ神饌神酒と、柳の木の皮を削りて徑一寸長一尺位に作りたるもの二本とを神前に供へるのである。この柳の木にて作りたる棒は、豆の豊作を祈願する意にて、田の畦に豆を植へる爲めに穴を穿つ棒なりといひ、又は大根の豊作も所願する意なりとも云ふが、元来は柳箸より轉化したるものであらう。何れにもせよ今猶古風のまゝ行はれてゐるのに床しい感がする。 風祭 二百十日の三四日前に、各戸主は宵から當社に參籠して、篝火を焚き一夜を明かして、風除の祈願をする。 本殿 … 境内神社 大神宮 祭神 天照皇大神 豊受大神 社殿 由緒 明治三十年十月二十九日までは、日吉神社の境内社として鎭座し給ひしを、日吉神社合祀と共に現地に奉遷した。 浄土宗長福寺 浄土宗長福寺は、慶長12年創建で、開山は正益土人と伝える(東郷村誌)。 『敦賀郡誌』 中村 舞崎の南に在り。西福寺文書康暦二年六月の沽却状及寶徳三年三月の寄進状に中村、永正四年二月金前寺々領目録に中村、永縁元年六月の善妙寺々領目録に中村とあり。氏神、三宮神社、村社。もと稲荷神社と稱す。〔又、座王権現とも〕明治三十年十月二十九日、同區村社地神社・村社日吉神社を合祀し、同三十一年六月六日、三宮神社と改稱す。境内神社太神宮一社、もと日吉神社境内社なり。 長福寺、浄土宗、敦賀善妙寺末、慶長十二年創立。
《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 中の主な歴史記録中の伝説中の小字一覧中 草原 笹尾 尻野 外前 野尻 茶屋ノ下 墓ノ前箱田 石ケ田 エゴダ 下石田 向河原下 東山花 東野本 東草木田 欠戸 上畑田 丁田 東厂田 中出 家腰 宮ノ上 南出 中海道 村下 絞り田 前田 下前田 尻前田 上犬田 犬田 アラ田 下畑田 六反田 新開 北中 北町田 南下河原東 北深川 東馬正面 西深郷 深郷 岸田 川尻 生水尻 五反田 東吉河沢 粟田 宮ノ下 上行司 西吉河沢 下行司 新御所 下八反田 モロケ 上八反田 鳥場 吹寄 田鍬 樋ノ水 折立 藪下 葉折 溝先 小泉 上関前 関前 亀田 深川 二丁田 子牛田 アサエモン 三町田西 三町田東 七反田西 西石ケ町 八反田 笹尾谷 中ノ谷谷 南谷 岩ケ鼻関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『敦賀郡誌』 『敦賀市史』各巻 その他たくさん |
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