丹後の地名 越前版

越前

縄間(のうま)
福井県敦賀市縄間


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福井県敦賀市縄間

福井県敦賀郡松原村縄間

縄間の概要




《縄間の概要》
常宮神社の手前、西は山地で馬背峠(今はトンネル)を経て三方郡美浜町に接する。馬背街道(33号線)と県道佐田立石敦賀線(141)が交わる所。古くは大縄間とある。地名の由来は、延暦年間(782~806)、名子浦に八幡大神の神霊が出現し当浦に御幸されたので、浦人は注連縄を引き廻して浄域を作り、そこへ殿を建て信仰したことによるというが、ムリにこじつけたようなことで、大縄間もまたクシフル系の地名でなかろうか。
中世の繩間浦は、鎌倉期から見える浦名。建暦2年(1212)9月日の気比宮政所作田所当米等注進状に「大縄間所当米十八石」とあり、このほか月別御菜を沓浦・手浦とともに「三ヶ浦」として貢進している。その後戦国前期とみられる年未詳11月6日の大中臣教親書状にも「太縄間」から人夫5人が徴発されている。天文10年(1541)7月28日の永建禅寺常住諸書物目録では「縄間浦刀禰山之寄進状」、元亀2年(1571)□(正力)月21日の名子浦百姓等連署請状にも「なわま之刀禰」とあり、戦国期に「縄間」の呼称が定着した。慶長国絵図には縄間浦とあり、高128石5斗8升7合。
近世の縄間浦は、江戸期~明治22年の浦名。はじめは福井藩領、寛永元年(1624)からは小浜藩領。西浦10か浦の1つ。享保12年の家16(うち高持11 ・ 無高4・寺1)・人数113、塩竃屋5・塩高79俵余、船6、本島手銀30匁・新島手銀70匁を負担。「雲浜鑑」に家数13 ・人数91。西浦最大の高をもつ半農半漁の浦。敦賀湾内で唯一冬に浮囲ができる。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。明治7年の戸数17。「滋賀県物産誌」によれば、戸数17(全戸農)・人口115。生業としては農業・漁業・炭焼き・採薪を行い、これらを敦賀港で販売していた。この頃でもまだ,天保年間の飢饉で受けた影響はいまだ回復していないとある。同22年松原村の大字となる。
近代の縄間は、明治22年~現在の大字名。はじめ松原村、昭和12年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員43間・南北2町余、戸数17、人口は男66・女56、小舟29。


《縄間の人口・世帯数》 57・24


《縄間の主な社寺など》

八幡神社

『敦賀郡神社誌』
…西方には三方郡山東村管濱區に通ずる坂路がありて、これを馬背越とも或は縄間越と稱してゐる。この郡界の峠までは十三町餘である。
本區を往古は大繩間と稱してゐたと云ふ。近年敦賀と朝鮮間に航路開け畜牛の輸入盛になったので、大正五年この地に檢疫所が設けられた。氏神鎭守社は、區の中央より西北方で、敦賀町より通ずる常宮道路に沿ふた丘陵の東南麓にて、路邊の烏居を潛り、拝殿の惻を過ぎて、社域を貫流する小川には、御手洗所の設けがある。…
祭神 應神天皇
由緒 按ずるに、當社は往昔より正八潘社と尊稱してゐる。桓武天皇の御宇に、名古浦に八幡大神の神靈炫燿と出現し給ひし時、此の地に御幸し給ふたので、浦人は直に注連縄を引き廻して淨域を作り、大神を奉拝し御酒を奉つた。而して此の注連繩を引き廻した地に、殿を建てて大神を奉祀したとのことである。而して當區名の繩間なる語も乙の由緒に因めりと云ふ。明治九年七月無格社に列せられた。
祭日 例祭 五月八日(元舊四月八日)
特殊神事 数珠繰り 陰暦二月一日・二日の兩日(舊来は七日まで)は、當區の主婦等は午後一時・二時頃より神社に參拜して、長き数珠を爪繰りながら讀經して、家内安全村内安全の祈禱をする。これを数珠繰と稱へて今も行つてゐる。これ民間に於ける神社信仰の一俗習慣で、神佛混淆時代の遺風を如實に物語るものである。
宮籠り 一月中の適當な日を選んで、戸主の男子で中老以上、又主婦にて中老以上のものは、男女各別日に、又青年會員は十六日に神社に参拝し、夜は燈明を點じて拝殿に參籠し、家内村内の安全を祈願するのが恒例となつてゐる。
境内神社
大黒神社 祭神 大名持命
夷 神社 祭神 事代主命
稲荷神社 祭神 保食大神
神社附近の舊蹟 當社より西方五六町にて白塚と云ふ地籍がある。こゝに一個の古墳がある。山麓にて人家の西南部に當り、長さ十尺四寸幅凡三尺、天井石四枚を有し、入口は東南面になってゐる。此の外に山ノ神と稱する地籍で、當社より西北方七町を隔った所にも、一個の古墳があって、既に石室は露出してゐる。
産屋と不浄屋 本郡松原村西浦七大字には、産屋・不浄屋なるものが現存し、古き神代の遺風が励行されてゐる。即ち産婦は産気づくと産屋に趣き、一定期間この産屋に寢食して我家に歸らない、期間過ぐれば身體を清めで歸宅すれども、猶一定期間家族と同居同炊せず、下屋(庇)に起臥し、別火の飲食をする。又月経中の女子は、其の期間不浄屋にて別火の自炊を爲し、業務は常の如く家に在りて勵むのである。これ其の淵源は遠く神代の昔に起りたる亊で知る由もないが、鵜草葺不合尊との御尊號は御産屋の屋根の未だ葺き了らざるに御誕生あそばされた御名であり。又諾冊二尊の夜見國に於ける古史の伊佐那美尊が隱れ給ひしは御女性の神の生理上の關係にあったといへる説の如き、或はこの産屋及び不淨屋の遠淵源に由来するにあらざるやとも考察せらるゝのである。我等祖先の大古民俗の風習が、既に清潔を尚び之が國民性となったものなれば。科學の進歩せる今日と雖も、古俗のまゝ敢て犯すものがないのは、冥々の裡に神罸あ心と怖るゝからである。又斯様に固き信念を以て、之を身に實行するので難産などは殆どないので、猶更信仰を深めて行く、特に海岸地方は佛教思想が熾烈で、宗教の信仰も影響せし亊は爭はれね、佛教では女子は男子よちも罪業が重いので、女子を佛とするためには、佛も變成男子の願を立てた程である。即ち女子を一旦男子に變成して、然る後佛にするといふのである。故に男にない出産や月経の如きは、其の罪障の一と數へ、之れを穢らはしきものと信ぜられたのである。神は不淨を忌み給へば敬神の念の厚き者は、心身共に清淨ならんことを期し、穢ある者は家族と雖も同居すら欲せざるに至りしは當然である。身を一小舟に托し、運命を神の力に委する漁業者・航海業者の如きにありては特に其の信念が強い。故に縦令舊思想と知りても、萬一を慮りて此の遺風を墨守するのは人情の常である。されば此の地に住める婦女子は、悉く進んで此の狙末な小屋で、不自由な傳統的苦行に甘んずるのである。これは直接神社誌に関係なきも、元は建國當初よりの神国民の古風俗であり、一は敬神の念よりも出發した我が祖先の遺風であるから、研究資料としで大字毎に共の概要を記して置く。
 富區は初産と然らざるとの區別なく、三十日間産屋に別居し、更に歸宅して二十日間、家族と別室に起臥するのである。建物は間口二間奥行九尺瓦葺の平屋である。又不淨屋は別に建てられてある。


曹洞宗宗清寺

八幡神社と背中合わせのような所。延宝三年永建寺并末寺由緒書上写(永建寺文書)は「永建寺十一世然庵渓天和尚、慶長三年ニ開闢之地ニ而」と記す。
『敦賀郡誌』
繩間  名子の北に在り。建暦二年、気比社領注進目録に、大縄間とあり、往古は大縄間と稱したるなり。 氏神、八幡神社、境内神社、大黒神社・夷神社・稲荷神社三社あり。 宗清寺、曹洞宗、松島永建寺末。 縄間越又馬背(マジョ)越とも稱す、三方郡山東村菅濱に出づ。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


縄間の主な歴史記録




縄間の伝説

『越前若狭の伝説』
縄間   (縄間)
桓武天皇のみ世に、名古浦に八幡大神の神霊が現われたので、浦人はただちにしめなわを引き回して浄域を作り、大神を奉拝して御酒を奉った。このしめなわを引き回した地に、社殿を建てたのが、縄間の八幡神社である。区名の縄間もこれがら生じた。   (福井県の伝説)




縄間の小字一覧

縄間  田幸 浜北 浜西 土山 山崎 小屋谷 口猿子越 猿子越 奥猪子越 山ノ上 割田 上ノ山神 北尾尻 上尾尻  尾谷 中尾尻 西尾尻 東尾尻 下尾尻 京田 登り道 西京田 寺田 瓦ノ谷 白塚 下柏 遅レ田 土田 的場 浜田 二反田 清水越 大田 栢 内栢 上白塚 西白塚 上サラサラ 上大良 西大良 南大良 大良尻 八幡田 北釜ノ口 釜ノ口 宿田 小坂 田山 後山 中谷 椀谷 高落 西清水越 大西平 藤尾 東清水越 ザラザラ谷 彦治良山 峠谷 右幸谷 フナ谷 真谷 掛林 蚊谷 清水谷 田幸谷


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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